柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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 使用した器具を流し台に置き、器具をそれぞれの場所に戻していると、耳慣れた音楽が微かに聞こえた。
 首を傾げるまでもなく、それは御剣の携帯電話の着信音だった。それに気づいた母親が嬉しそうな顔で息子に知らせ、後回しにしようとしているのを無理矢理キッチンから追い出して電話に出させた。
 調度母親は先ほど成歩堂にメールを送ったのだ。もしもすぐに気づいてくれているなら、きっと返事が来ると思っていた。
 自分に来ても息子に来ても、どちらでもいい。とりあえず、どこかしゅんとしたままの愛息子が元気づくならそれに越したことはない。
 明るい鼻歌でも謳い出しそうな雰囲気で、母親は御剣の残した洗い物を楽しげに片付け始めた。
 そんな母親を訝しく振り返りながらも、御剣は仕方なく未だ鳴り響く携帯電話に手を伸ばす。キッチンに居たのでリビングのテーブルに乗せられていた携帯電話は、未だ健気に音を響かせている。随分と、長い。
 首を傾げて着信の相手を確認すれば、それは同じ店で働く若者、響也だった。
 ますます不可解で眉を寄せつつ、御剣は電話を取った。
 「………御剣だが」
 『あ、よかった。御剣さん、響也ですが…お時間大丈夫ですか?』
 ホッとしたような声音でそう告げる響也に首を傾げつつ、御剣は了承の旨を告げる。
 背後の音は特に聞こえない。彼の自宅なのだろうか。そんなことを考えながら、御剣はソファーに腰をかけた。
 『実は、お聞きしたいことがあって………。御剣さん、今日は店の方に………?』
 「いや、自宅だが。なんだろうか?」
 少し言い淀むような歯切れの悪い響也の発言に片眉を上げて疑問を浮かべながら、質問には迅速に答える。
 電話での応対はボディーランゲージを使わないでいい分、スムーズだ。言葉という情報に集中し、それを解析して適切な回答を送る。業務的なものであれば、より御剣にはさばきやすかった。
 携帯に耳を傾けながら響也が言い出しそうな質問項目を脳裏に浮かべる。同時に、彼の声が響いた。
 『ああ、ならよかった。もしお時間があるなら、来ていただきたい場所があるんです』
 「場所?」
 意外な発言におうむ返しに問いかける。
 出掛けて欲しいといわれるような間柄に、自分たちがあるとは思えない。どこかに誘われるのであればもっと早くに彼なら言い出すだろう。かといって、突然の穴埋めを依頼するにはあまり自分が向いている人間ではないことは自覚がある。
 難しい顔をして質問の意図を探るような沈黙を返す。考えた所で彼のプライベートなど一つとして知らないのだから解るはずもない。
 だが、そうすることで勘の良い相手がその間の意味を理解することは計算内だった。電話を持ち直すような音の後、また響也の声が響いた。
 『実は、ぼく、バンド活動をしているんですが』
 「うム、それは聞いたことがある。ロック……だっただろうか」
 脳裏に浮かぶ、楽しげな成歩堂の笑みがそれを教えてくれた。確かそれは、自室のクラシックCDを見つけた時に彼が教えてくれたことだ。ロックというジャンルを嗜んだことはないが、響也が活動をしていることと、それを成歩堂が応援していることを初めて知った。  頷きながら理解を示してみれば、ホッとしたような響也の息遣いが耳に触れる。………そこから推察するならば、彼が電話をかけてきた理由はそのバンドに関係があるのだろうか。
 『はい。それで、今日はライブがあったんですが』
 「うム」
 『定休日なので、成歩堂さんを誘っていたんですが、てっきりお二人で来るとばかり思っていたら、御剣さんがみえなかったので』
 「…………………成歩堂が?」
 『はい。それで、出来れば御剣さんにも一度見ていただきたいと思って…お電話したんですが』
 ほぼ一息に告げたい内容をまとめた響也の声は、あくまでも穏やかだ。………心中がどれほど焦っていてもそれを声に出すことはない。それは接客のプロとしても、ボーカリストとしても最低限の技術だ。
 数拍の間、御剣から反応はなかった。
 御剣は決して愚鈍ではない。成歩堂と関わっている姿を多く見ていて、どれほど彼が幼子のように拙いコミュイケーションをさらそうと、それだけは誰もが共通認識している。
 言うなれば、機械的な判断であれば、的確なのだ。その上相手の考えが追いつくより前にその先を見越し、己の道筋に取り込む手腕は侮れない。
 だからこそ御剣を相手にした時に会話は注意すべき点もある。が、今回の件であればたった一点だけど押さえていれば陥落は容易いはずだ。………逆に、その一点の扱いを間違えれば逆転されてしまうことも否めないけれど。
 それら諸般の事情を鑑みながら、響也は畳み掛けるようにして御剣が考えているだろうことの回答を口にした。
 『成歩堂さん、御剣さんの趣味を知っていたみたいで、ロックは好きじゃないだろうからって、誘えなかったみたいなんです』
 「ム………?」
 何事もないかのように告げた言葉に御剣が反応する。洩れた音は、恐らくは無意識だ。
 『勿論、無理にとは言いませんけど…成歩堂さんも来てくれると嬉しいといっていたので』
 結局の所、この一点さえクリアーしていれば問題はないと響也は踏んでいる。………ようは、成歩堂に誘われなかったのに出向いても、彼に厭われることがないと解らせること。
 子供を相手にするような注意点だが、下手に相手が頭脳明晰なために質が悪い話になる。だからこそ、成歩堂に誘わせることが出来ないとも思う。
 彼が誘うとするならば、きっと響也のことを知って欲しいと、そう願ってだろう。御剣が他のスタッフと関わる時間が増えれば嬉しいと、思ってそう告げるだろう。………彼が願うのは己自身なのだと、そうは知らない無垢な祈りで。
 それは決して責められる謂れのない、優しい意志だ。ただ少しだけ、祈りの形が重ならないだけの、意志だ。
 だからその部分を包み隠し、成歩堂の祈りを昇華して告げるのは第三者の立場にある自分が相応しいのだと、響也は知っている。
 何故、成歩堂が誘わなかったか。その原因と理由。現在の意識。
 行くことによるデメリットがないことを示せば、あと残されたものは、メリットだけだ。この場所には、成歩堂が居るのだから。
 納得させられただろうかとハラハラとしながら御剣の返事を待つ響也の耳に、音が響く。
 「…………では、会場の所在地を教えてもらいたい」
 その言葉に、安堵の溜め息が漏れかけながら、響也は笑い、ライブ会場の住所を諳んじて、待っている旨を告げた後に電話を切った。
 通話の切れた携帯電話を見ながら、御剣は脳裏にいわれた住所を思い浮かべる。
 そんなに遠くもない。マドレーヌが焼けたなら、それを持っていけるだろう。手の中の携帯電話を無意識にいじりながら、今日は会えないだろうと思っていた友人の顔を思い浮かべた。
 自分のことを気遣ってくれたらしい、友人。音楽の話などしたことはないのに、何故知っていたのだろうか。教わった時にもロックを知らないということは口にはしなかったはずなのに。
 時折彼は、自分が話していないはずのことまで知っている。
 それは多分、家に招いた時にかけていた音楽だとか、自分が特撮を好きだとか、そんな点から察知しているのだろうけれど。
 ………自分のことを気にかけてくれるからこそのそうした仕草が、何より愛おしい。
 御剣は携帯を再びテーブルの上に乗せると、キッチンへと戻った。そこでは母親が片付けを終わらせてオーブンの中身を覗いていた。
 「レイジ?どうかしたの?」
 キッチンに入り込んだ息子に気づき、彼女が振り返り問いかける。
 「ム?」
 なにかあっただろうかと軽く眉を顰めた息子の様子に、彼女は楽しげに笑んだ。
 「凄く、嬉しそう。いい電話だったのかしら?」
 綻ぶように笑う母親の言葉に、そんなにもはっきりと顔に出ているのかと、少しだけ羞恥に染めた目元を擦る仕草で隠し、御剣はマドレーヌが焼けたら出掛ける旨を彼女に教えた。
 それはそれは嬉しそうに彼女は聞いて。
 それはそれは楽しそうにラッピング道具を探しにキッチンから離れてしまう。
 その後ろ姿を見ながら、先程の彼女と同じように、一度オーブンの中身を確認して、御剣もまた、後を追う。
 憂鬱にも思えた休日が、途端に明るいものに変わった気がする。
 明るい声で自分呼ぶ母に答えながら、御剣は自然と綻ぶ口元に気づかないまま、歩を進めた。


 携帯電話から響くのは通話音。それを聴覚が拾わない心地のまま、響也の口から長い長い溜め息が漏れた。久しぶりに思わずガッツポーズを取りそうな達成感だと、疲労とともに思う。
 本当であれば、現実味を帯びさせるためにも成歩堂が御剣を誘い出せれば一番いいことは解っている。その方が自分が誘うよりも余程御剣も乗り気になるだろう。解っているが、それはまず不可能であることも解っていた。
 おそらく、成歩堂に頼めば、響也のことも立てようとして何かしらの褒め言葉を貰うことになるだろう。そこに他意はない。ないが、御剣はきっと、自分よりも響也と居た方が楽しいのだと勘ぐってへそを曲げてしまう。
 かとって御剣の意思だけを尊重してしまえば、今度は成歩堂がやり切れない顔をするのだろう。まだまだスタッフたちと打ち解けたとは言い難い御剣と、響也は成歩堂の次にはよく話す。そんな彼すら視野に入れない態度は、成歩堂にとっては寂しいばかりだ。
 一人が満足する方法を選べば、もう一人は寂しがる。そんな、何とも不思議な相関図が出来上がってしまう。
 何とも扱いの難しい人たちだ。どちらも別の意味で天然なのだから仕方がないのかもしれないが、片方を立てれば片方が萎むのだから如何ともし難い。
 そう思いながら、それでも響也の唇に浮かんだのは苦笑だった。
 どうしようもないと思いつつも、それでも彼らの在り方は嫌いではなかった。いうなれば、そのままであって欲しい、開花直前の蕾だ。
 あともう少しで誰もの目を惹く美しさを見せるだろう。けれどまだ青く、花弁は綻ばない。
 そんな青臭さの残る、珍しい人たちだ。それは自分の感性を刺激してやまない。
 「ま、時間の問題…なのかな?」
 そうでもないかも知れないと思いつつも、出来れば今のままがいい。そんなことを思う。
 今のままであれば、自分も兄も、大切な未来の店長の傍に居ることが当たり前だ。誰も欠ける事無く、誰も特出もせず。穏やかに静かに傍にいられる。それはほんの少しの棘があるのかもしれないけれど、傷を抱える人間たちには優しく包む真綿のように心地よい。
 いつかはその隣に誰かが寄り添うのかもしれないけれど、出来ることなら、今のまま。誰もが彼に手を伸ばしながら、なにも知らない彼がその腕を差し出して愛しむままに。
 あの店が包まれれば、いい。きっとそれが、少しだけ欠けながらも誰もが満たされる空間だから。
 単純なようでいて難しい問題だ。特にあの店はあまりに癖のあるスタッフの宝庫だから、余計に。
 きっと、成歩堂以外に彼らをまとめることなど出来ないのだろう。誰もが好意を寄せ支えたいと思う人が、彼だけなのだからそれはもう、仕方のない結果だ。
 通話の切れた携帯電話を片手で弄びながら、響也は讃えた笑みをそのままに、背後のドアに手を伸ばす。取り合えず、まずは成歩堂に報告をしなくてはいけない。
 それにいまは、店のことばかりではなく、今夜のライブのことも考えなくてはいけないのだ。仕事は仕事として手を抜く気はないけれど、趣味の活動といえどバンド活動とて手抜きをする気はさらさらないのだ。
 製菓もバンドも、己を表現する術の一つだ。手段は違えど、生み出すものは全て自己表現だ。それを愛しんでくれる人たちの笑顔を望むのは、なにも成歩堂一人の特権ではない。………彼ほど深く広くは無理でも、自分も同じように捧げたいものがある。
 それを少しでも現実にするために、歩んでいるのだ。ドアノブを回しながら、携帯電話の先で響いた、御剣のロックという耳慣れない音楽への不透明な音を思い出す。
 …………物のついでに、御剣のロックへの見解を僅かでも覆せれば楽しいのにと、そんな悪戯心を抱きながら、響也は成歩堂とメンバーの待つ室内に入り込んでいった。


 「あ、響也くん。どうだった?」
 ドアから響也の顔が覗くと、笑顔を向けて成歩堂が問いかける。隣に座っている大庵がギターを操っている所を見ると、今日の曲のどれかを弾いて聞かせていたのかも知れない。
 案外このメンバーたちも成歩堂に甘い所がある。とはいえ、バンド活動をしている身にしてみれば、ここまで真っ直ぐに自分たちの音楽性を支持してもらえれば嬉しいに決まっている。
 軽く手の中の携帯を振って見せながら、響也はにっこりと優しく笑う。それだけで結果が解り、成歩堂も更に破顔した。
 「来てくれるそうですよ。多分、ライブが始まるまでには間に合うと思います」
 「そっか。よかった」
 心底嬉しそうにいう成歩堂の様子に、大庵が首を傾げる。スタッフの説明くらいは軽くしているけれど、それだけでは成歩堂がこれからやって来る御剣の存在にそこまで喜ぶ事も、その母親からけったいなメールが届く事も理解は出来ない。
 もっとも、説明も難しい事柄ではあるのだ。
 いくらなんでも心情的な問題までは口出しは出来ない。多分と思う事はあるし、時にはそれを本人に指し示す事もあるけれど、本当の意味で焚き付ける事も流布する事もない。
 だから響也は疑問を浮かべて見遣る大庵の眼差しに軽く苦笑を浮かべるだけで応え、返答を返す事はなかった。
 大庵は仕方がなさそうに軽く肩を竦めてそれに同意を示す。気になる事は確かだけれど、プライベートのことを根掘り葉掘り聞くほど、無粋ではない。
 「さて、もう飯も終わりだよな」
 話を切り替えようというように大庵が立ち上がり、いった。それに他のメンバーも従い立ち上がる。響也はそれに頷き、メンバーを見渡しながら声を掛ける。
 「じゃあそろそろ、一回通しでいってみようか。……成歩堂さん、観客役、お願いしますね」
 「喜んで!」
 メンバーたちの動きに、リハーサルが始まるのかと成歩堂がそわそわとし始める。そんな彼に確認するように声を掛ければ、弾んだ明るい声が返される。
 お世辞ではなく自分たちの音楽を心から楽しみにしてくれるその音に、メンバーたちが笑った。


 オーブンレンジから軽快な音がした。マドレーヌの焼き上がりを知らせるその音に、御剣が反応して顔を向ける。
 その様子を一緒にリビングで紅茶を飲みながら待っていた母親は見つめ、そっと微笑んだ。
 ………昔から、手のかからない子供だったのだ。生きる事ならば、おそらくそつなく彼はこなせる。ただ生きる、という事だけならば。
 己の能力を活かすための方向性を彼は知っているし、それ以外の能力は使わずとも済むように上手く避ける事も出来る。それがいい事か悪い事か、今もまだ解らないけれど。
 そうだというのにこの息子は、いつの間にかもっとも不得手とするであろう分野にその身を飛び込ませたのだ。
 お世辞にも器用などとはいえないその指先で。
 決して愛想がいいはずのない意識のまま。
 それでも一生懸命、役に立ちたいとその心を傾けている。今も昔もそんなにも心を向けた他人など、見た事がない。潔癖ともいえる頑な性根は、初めからあまりにも険しく高い防壁を張り巡らせていて、誰一人としてその城壁の中に入り込むことは叶わなかった。だから、息子に親しい友人の話を聞いた事すらなかったのだ。
 それが唐突に、手に入った。しかも、きっとそれは、一生のうち一度でも手に入ることを誰もが願う、そんな最良の関係を共有出来る、相手。
 彼の事を告げられた時の自分たちの歓喜を、きっと息子は理解出来ないだろう。
 脳裏に浮かぶのは幼い頃の、傷を負ってもなお己であろうと懸命にその心を守り緩ませる事のなかった、小さな背中を伸ばして歩く、息子。
 その彼の背が広く大きくなり、立ち上がり、こちらを見遣った。
 「母さん?」
 不思議そうに首を傾げて、昔と変わらないイントネーションで自分を呼ぶ。それに笑いかけて、彼女もまた、立ち上がった。
 「じゃあ、マドレーヌを取り出しましょうか」
 彼の言いたい事を読み取って答えれば、ホッとしたように彼は笑い、母親を先導するようにキッチンに入り込む。オーブンレンジを開ければ、周囲に漂う甘い香りがより一層濃くなった。
 それに顔を綻ばせる母親を見遣りながら、慎重に御剣は天板を取り出す。火傷でもしないかとハラハラと自分を見遣る視線も、今は大分減った。………無くなったわけではないのだけれど。
 一度ガスコンロの上に型を置くと、綺麗に焼き上がった裏面がふわりと膨らんでいて美味しそうだった。自分ひとりでは到底こうはならない。………なにが良くてなにが悪いのか解らないが、どう足掻いても味はマドレーヌであっても食感がマドレーヌではない、そんな菓子が出来上がってしまう。
 まだまだ知るべき事が多くあった。それは知識を詰め込む事ではなく、体感的に覚えること。
 思い、不意に成歩堂の言葉が脳裏を掠めた。
 同じような事を彼に告げた時、彼は微笑んでいた。微笑みと称すべきなのか解らないけれど、ただそれは御剣が知る限りでは、春美や真宵など、彼が慈しんでいる存在に向けられる表情だった。
 そうしていっていた。………菓子作りは人付き合いに似ているのだと。
 ただ知識を得れば作れるものではない。一朝一夕でも無理だ。繰り返し繰り返し、努力をし、心を向け、失敗を重ね、そうして得ていくもの。
 目の前にあるその笑顔を望む、その意志さえも重なるのだ、と。
 楽しそうに嬉しそうに、彼はいっていた。自分も同じ思いをもってくれるなら嬉しいと、そういうかのように。
 今もまだ、自分にはその言葉の深みは解らない。彼ほど、自分は他者を思えないだろう。それでも解る部分がある。
 「美味しそうね、レイジ。成歩堂くん、喜んでくれるかしら」
 母親が笑う。嬉しそうに目を細めて、心からの喜びを添えて告げる声音は柔らかい。
 それを見つめ、御剣もまた、笑んだ。
 「………きっと笑ってくれる」
 彼は、美味しいといって、自分のことのように笑うだろう。寄せた情の分だけ、彼は情を返してくれる。さざ波のようにゆったりと、それでも満たしてくれるだろう。
 自分には、他者を思う深い慈悲などない。その自覚くらい、ある。それでも解る事はあるのだ。
 彼が教えてくれる。自分の行いで彼が笑んでくれるなら、どれほどの幸を思うか。彼が情を返してくれたなら、どれほど満たされるか。
 彼だけが、自分に教えてくれる。静かに、ゆっくりと、まるで脅かさないようにそっと差し込む朝日のように。
 少しずつ光に慣れればいいのだと、閉ざしたままの目蓋を優しく撫でる、光。
 「そうね。じゃあ網に転がして冷ましましょうか。早く成歩堂くんに届けたいでしょ?」
 折角だから紅茶もポットに入れていくといいと、母親はまるで我が事のように楽しげに囁く。その音に耳を澄ませながら、素直に頷いて御剣はまだ熱いマドレーヌをなんとか型から外した。


 段々と忙しない音が増えて来た。それに伴いスタッフの数も格段に増える。先程まではメンバーしかいなかったように見えた館内には、いつの間にか運営スタッフが溢れていた。
 大体がいつも顔を合わせる馴染みのスタッフだ。追っかけの筆頭でもある彼らは、実によくこまめに働くし、心からガリューウエーブを大切に思っている。
 それがライブという形に関わる時により顕著に見えるようで、成歩堂はそんなスタッフたちを見ているのが案外好きだった。
 出来るだけ邪魔にならないように隅に寄って、それでも舞台が見えるようにこっそりと客席部分にいた。
 本番前のリハーサルが始まってしまえば、メンバーたちもそれに集中する。当然、成歩堂に構う人間はいなかった。
 それはいつもの事で、こっそりと会場にいた成歩堂は、やはりこっそりと一曲程度ライブ本番の音楽を聴いて、集まったファンたちの熱気を肌に感じてから帰るのが常だった。
 手近なパイプ椅子に腰をかけて、スタッフが動き回る中、舞台上の響也たちを眺める。
 時折噛み合うような鋭い音で意見を交わす響也と大庵は、音楽に関わる時くらいしか見る事は出来ない。
 喧嘩は好きではないし、争いごとだって嫌だと思う。それでも成歩堂は、時折こんな二人のやりとりを羨ましく思いもした。
 引く事もなく、自分の意見を真っ向からぶつけて、それでも途絶えない絆は、綺麗だ。
 それに何より、そんな時の彼らは真剣な顔をしているのに、ひどく子供のようで。
 「……楽しそう…だなー、すっごく」
 くすりと瞳を細めて微笑み、舞台の上でまた言い合っている大庵と響也を眺める。
 臆病者の自分には彼らのように真っ向からぶつかり合える相手はいない。いる……と言えなくもない気はするが、それはやはり少しだけ質が違う。
 我が侭をぶつけたり、感情のままに怒鳴ったり、手酷くあしらったり、素っ気なくしても気にせずにまた次に会える相手。
 そんな相手がいるだろうかと思って、脳裏に知り合いを浮かべていく。けれどなかなか該当者がいなくて、出来れば当て嵌めたくはなかった最後の男が呑気にへらへら笑って浮かんだ。
 その顔に、成歩堂は盛大に顔を顰めて深い溜め息を落とし、痛んだ頭を庇うように額に手をやった。
 「まあ矢張でも悪くはないんだけど、なんか納得いかないんだよな」
 あれがそうだとしたら、かなり自分の人間関係は問題がある気がしてしまう。最も、確かに矢張程なんの気兼ねもなく自由に振る舞える相手もいない事は事実だけれど。
 胸中で苦笑を飲み込んでみると、不意に脳裏の矢張を押しやるようにして、美麗な顔が現れた。それは、矢張と同じくらい古くもあり、そのくせ響也よりも新しい、友人だ。
 ………矢張と同じ小学生の頃に出会って、その後長い間遠く離れていた友人。どこか不満そうなその顔が拗ねているようで、成歩堂は吹き出してしまいそうになる。
 彼はいつも助けになりたいと、役に立ちたいのだと望んでくれる人で、本来なら、自分は彼のようなタイプには甘えて迷惑をかけるところだろう。
 けれど、彼はどこかあやふやでバランスが悪く、危なっかしい。それが自分の目には際立って見えて、そのせいかどうしても彼には、自分の我が侭を聞いて欲しいと思うよりは、彼の我が侭を聞いてあげたくなる人種に思えてしまう。
 もっとも、と。尊大な自分の思考に苦笑を浮かべると、鞄の中の携帯電話が震え出した。
 画面に映し出されたのは、たった今考えていた友人の名前。メールを開けば、会場の前に着いたという内容が映し出された。
 それに自然と笑みが浮かぶ。辿々しく、それでも精一杯必死になって腕を伸ばす、未だ自分以外の人との関わりに臆病なこの友人は、ひどく真っ直ぐにその情を見せてくれる。
 だから、出来る事ならその助けになりたい。
 「ま、僕に出来ることなんて、ほんのちょっとなんだけどね」
 そっと、メールを受け取る直前に思いかけていたことを小さく呟いて、成歩堂は携帯電話をしまうと舞台の方にそっと近づいた。
 まだ大庵と意見の食い違いを論争している響也は背後の成歩堂の動きに気づかなかったが、成歩堂の姿が見えた大庵は気づいた。
 音楽に関して引く事のない、よく言えば真面目で悪く言えば頑固な響也の応対を少し持て余した大庵が、一度頭を冷やさせようと話を打ち切る意味も込めて、片手を上げる。視線は響也から外して、彼の背後に。
 それだけで響也も頭に上っていた血が冷えていく。デッドヒートするのは気を許しているせいもあるし、この世界でだけは自分自身のための創造の世界でもあると思っているせいもある。誰かのためを思い作る菓子と、自分を表すために歌う歌は、どこか同じで、決定的に違う。
 ………もっとも、その表現の仕方も差し伸べるものも、その本質は同じなのだけれど。
 菓子は作らなくてもそれら重なる部分を知っている大庵とは、だからこそ数限りなくぶつかる。仲が悪いとか、感性が違うとかいう問題ではない。理解を示してくれる事を、知っているからだ。
 そしてそれは、互いが理解していなくても、見るものには解る。成歩堂はにっこりと笑って大庵に応えるように片手を上げる。
 彼らのような関係は、楽しそうだ。同じフィールドにいるのに、まるで違う立ち位置。ぶつかり合うくせに、信頼し合っている。互いが互いの感性を認めている。重ならない部分すらも、受け入れて。より高みを目指して響く音は、だからこそ、心に響く。
 彼らがその秀麗な顔を晒さなくとも、実力だけで人の心を掴むその理由は、ひどく単純で明快だ。
 大庵の仕草にバツの悪そうな表情で振り返った響也は、想像通りそこに成歩堂を見つけた。隅で座っている姿は知っていたけれど、いつの間にかこんな傍に来ていたらしい。
 微笑ましそうな成歩堂の笑みに少しだけ目元を赤くして、響也が顔を逸らす。それを喉奥で笑いながら、大庵が成歩堂に声をかけた。
 「よお、お迎えかい?」
 「うん。メールが来たからさ、行ってくるよ」
 「あ、御剣さん、ですか?」
 成歩堂の回答に響也が少しだけ慌てた声で問いかける。恥ずかしがっていたガキ大将のような仕草も忘れて、鞄を肩にかけている成歩堂に声を掛ける。
 軽く首を傾げて頷く成歩堂にとっては、響也の質問は当たり前すぎるものだっただろう。今成歩堂が迎えに出る相手は、御剣しかいないはずなのだから。
 「なら、裏口に回った方がいいですよ。絶対に、目立ちますから、御剣さん」
 「……………確定なのかよ」
 ひどく真面目な顔で言いきった響也の言葉に、大庵が苦笑するように呟く。心配が過ぎはしないかという揶揄も込めた音に、響也は振り向き、より一層表情を引き締めて頷いた。
 「ぼくらが素顔で出るくらい、目立つよ」
 きっぱりと断言した響也の言葉に大庵が顔を引き攣らせる。自分たちが素顔でファンの前に出るなど考えた事もないけれど、大騒ぎになる事だけは間違いない。
 「あー………そうだね、下手するとメンバーとか思われちゃうだろうしな」
 成歩堂も同じ意見らしく、軽く溜め息を吐き出していった。もう時間からいって、表にはファンが集まって来ているはずだ。ロックバンドのライブを聞きにくる人間の中では、御剣の姿は異彩を放つ事だろう。
 だからといって臆したりもせずに堂々といるのだろうから、関係者だと思われるのは必然に近い。もっとも、声を掛ける勇気ある人間はそうはいないだろうけれど。
 「傍迷惑だな」
 「いや、別に御剣がそうしたくてしているわけじゃないんだけどさ。どうしても目立っちゃうタイプっているだろ?そういう感じ、かな?」
 困ったように弁護する成歩堂の様子を眺めながら、大庵は楽しげに唇を歪めた。響也の態度といい、何とも癖のある人間らしい。
 成歩堂と響也はどちらかといえば似た属性の人間だが、これから来る人間はまったく掠りもしないほど違う属性だろう。ライブ前のいい刺激になってくれるなら、ラッキーだ。
 「じゃあ楽しみにしてるかな。さて、成歩堂さんが迎えにいっている間に、俺らは着替えだな」
 「あ、待てよ、大庵!まだ話は終わってないよ!」
 待ち人を待たせすぎるのも問題だろうと、話を切り上げた大庵が袖の方へと歩いて行ってしまう。その背中に慌てて響也が声をかけた。おそらく、成歩堂が近づくまで言い合っていた問題についてだろう。
 頑固な響也の事だから、きっと大庵が妥協するのだろう。そんな、店とは違う一面を忍び笑いで眺めながら、子犬のようにじゃれ合っている二人に背を向けた。
 鞄からもう一度携帯電話を取り出して、外で待っているであろう友人の名前を呼びだす。コールは、一度。それですぐに彼の声が響いた。
 それに忍び笑い、成歩堂はこれから迎えにいく旨と、場所の移動とを電話の先にいる御剣に伝えた。


 裏口は表ほどの人気はない。帰る頃には凄い事になっているらしいが、背格好の似た者で固まってしまえば、顔を隠している分騒がれる事はないらしい。それでも苦労しているのだろう事は、話してくれた時の苦笑から解った。
 そんな場所に御剣を一人にするのも申し訳なくて、少しだけ早足になる。ドアから覗くようにして外を見てみれば、果たして御剣が少し険しい顔で前方を睨んで仁王立ちしている。
 「お待たせ」
 成歩堂がそっと声を掛けると、まるでバネ仕掛けの人形のように一瞬で御剣が顔を向ける.その目が途方に暮れていたように感じたのは、おそらく成歩堂一人だろう。どう見ても、他の人間には睨みつけられたようにしか見えない。
 ドアから半身出している成歩堂に近づくように御剣が歩を進める。と、周囲の視線が集まった。近くには片手程度の人間しかいないが、よく観察してみれば、若干遠くからこちらを窺っている人間もちらほらいる。
 ようやく御剣が何故険しい顔つきを晒していたかが解り、その袖を引くようにして成歩堂がドアの内側に招き入れた。
 「……………ごめんね、大変だっただろ?」
 若干硬直しているようにも感じる御剣の腕の感触に、成歩堂が申し訳なさそうに告げる。片腕に抱えている袋は、何か甘い香りがする事から、彼が焼いた菓子だろう事は予測が出来た。きっと母親が可愛らしくラッピングしてくれた事だろうそれを抱えた美丈夫が、ライブ会場の裏口に立ち尽くしているのだ。
 関係者であってもファンであっても悪目立ちするだろう。面と向かって何か言われれば即座に切り返せる敏腕弁護士も、好奇と興味と淡やかな期待の視線や囁きだけの集団には立ち打つ術も取っ掛かりもない。
 会場に着いたらではなく、駅に着いたら連絡をくれるように言えばよかったと、自分の配慮の至らなさを詫びる成歩堂に、慌てたように御剣が首を振った。
 「いや、なにを言われるでもされるでもなかったからな。戸惑いはしたが、大変ではなかった」
 「そう?それならいいんだけど………」
 まだ気にしているような成歩堂に、逆に困惑するように御剣の眉間の皺が増える。それに気づき、成歩堂は困ったように笑ってその背中を軽く叩いた。
 「ごめんの言い合いになっちゃうな、これじゃ。………ね、御剣、その袋、いい匂いがするけど、なに?」
 謝るのも気遣うのもこれでおしまいと区切りをつけるように言った後、成歩堂は興味津々という態で御剣の腕の中の袋を見遣った。
 相手の意図に気づき、苦笑するような小さな笑みを唇に乗せた御剣は、軽やかに指先を動かして袋を成歩堂の目の前に移動させた。
 手品のようにさっと移動したその袋の中身は、成歩堂の予想通り、菓子だった。透明のセロファンに包まれた、鮮やかな大きなリボンで封をされている、愛らしいマドレーヌ。
 パッと見ただけであれば、それなりの店できちんとラッピングをしてもらい贈答用に用意したように見える。出来としては、充分上等な部類だ。
 それに成歩堂は嬉しそうに顔を綻ばせた。御剣の説明を受ける前からその表情だけで成歩堂の心情は充分伝わる。
 だからこそ、プライベートでは言葉を操る事が不得手な御剣も、声の紡ぎ方を忘れずにいられた。構える事なく、本心を落とせる。それはとりもなおさず、相手がその心を開いてくれていると、どこかで知っているからだ。
 「母と一緒に作ったのだ。君にも味を見てもらいたいと思って、持ってきた」
 「凄く綺麗に焼けたね。見てたらお腹が空いてきたよ」
 早く控え室に行って食べようかと、今頃メンバー全員が着替え中であろう部屋へと足を進める。
 成歩堂に慣れているメンバーたちは、案外お菓子好きが多い。御剣の作ってきたマドレーヌも、きっと喜んで食べてくれるだろう。
 自分だけでなく多くの人に喜ばれたなら、きっと自信へと繋がっていくはずだ。それが嬉しくて、成歩堂の足取りも軽くなる。
 さして長くはない廊下を歩く間、ロックバンドなど知らないだろう御剣に、ざっと成歩堂がその説明をした。もっとも、ガリューウエーブに関して、というべきかも知れないけれど。
 ガリューウエーブは素顔を晒していない。その音楽の質の高さこそが売りだ。だからジャンルは違えども、音楽としてのレベルは高い。………勿論、肌に合う合わないはあるけれど。
 クラシックが音楽の基本の御剣には対極とも言える感性かもしれない。そこは少し、危ぶまれる点だ。なにより若干、知らない人間には入り込みづらい点もある。単純明快な、見た目の問題として。
 響也たちは仮面をつけているので厚化粧に覆われているという事はないが、レザージャケットに身を包んだ姿は、普段、御剣の周囲にいるタイプの人間ではない。
 見た目で偏見を持つ人間ではないけれど、やはり初めの障害にはなりやすいのも否めない。言葉でいって解るとも思わないが、まったく予備知識がないよりはマシだろうと、身振り手振りも加えて成歩堂はガリューウエーブの様子を教えた。
 自分の好きな音楽の事だ。つい饒舌になる成歩堂を、珍しいものを見るように御剣は視界に収めていた。
 成歩堂は案外自分の話をしない。人と話す事が苦手というわけではなく、どちらかというと聞き手に回る事が多い。そのせいか、成歩堂の好きなものや興味のある事柄に関して、御剣が聞く事は少なかった。
 実際、今日初めて成歩堂がロックが好きだという事も、時折響也のバンドを聞きに来ている事も知ったくらいだ。秘密主義というより、あまり頓着していないのだろう。案外、そうした面で成歩堂は淡白だ。
 聞かれれば話すが、聞かれなければ話さない。それはどこか、相手に話す範囲を決める自由を与える態度に共通する部分があるのかもしれない。………言いたくなければ言わなくてもいいのだと、苦笑の中で受け入れる、態度。いつか話してくれればそれでいいと、言外に教えてくれる、それ。
 けれど出来る事なら、全部を知りたいと思う事は……我が侭だろうか。彼の歩んだ時間の大部分に自分は欠如している。だからこそ、出来る事なら今から補えるものは全て補いたい。そう御剣は祈ってしまう。
 どれほどそれが傲岸とした祈りであっても、押し止める事は難しい。純然とした祈りだからこそ、尚更に。
 「君は……響也君が好きなのだな」
 ぽつりと洩れた言葉は、どこか拗ねた音に染まる。それに気づき、成歩堂は首を傾げた。
 好きかどうかと聞かれて、嫌いというはずがない。同じ店のスタッフで、友達で、好きなバンドのボーカルだ。嫌う理由だってない。
 だからこそ成歩堂は気負う事もなく朗らかに頷いた。製菓の質問に答えるような、あっさりとした態度で。
 「?そりゃ、友達だしね」
 「……………………そうか」
 屈託なく応える成歩堂の態度に、勿論他意はない。それは解る。きっとあの店に集うどの人間の事を聞いても、成歩堂は同じ答えを返すだろう。そもそも、成歩堂の嫌う人間自体、御剣は知らない。
 だから解っていた回答だった。解っていたけれど、何故か気持ちが沈むのを止められない。
 憂えるように眉を顰めた御剣の様子に、成歩堂はもう一度首を傾げる。どこか、その表情は見た事のある顔だった。
 なにか言葉の続きがあるのかと様子を窺うが、御剣の唇は閉ざされたままで、開く気配はない。けれど、何かを問いかけたくてたまらない、そんな気配だけが漂っている。
 これは、知っている。自分は感じた事のある、気配だ。
 数度、目を瞬かせてその気配に思いを馳せれば、浮かんだのは真っ黒な毛並みの愛犬の拗ねた後ろ姿。
 …………気付き、成歩堂の唇が綻んだ。
 自分が誰かと一緒にいると、いつだって間に入りたがる飼い犬は、全身で自分を見て欲しいのだと訴える。この手を伸ばし、視線を向け、声をかけて欲しいのだと。
 それは、同じように感情を向けて貰えていても、ことある毎に求められる、甘えを孕んだ小さな我が侭。
 「あのさ、御剣」
 あの、小さくも大きな飼い犬の背中が浮かぶ。真っ黒な、ビロードのような毛並み。一途に自分ばかりを追いかける真っ直ぐな瞳。声を掛けるよりも早く駆け寄って身をすり寄せる、この世に一匹だけの自分の犬。
 「御剣の事だって好きだよ」
 不安があってもなくても、それでも伸ばされる腕が欲しいと願うのは、多分犬だからとか人間だからとか、くくれない事なのだろう。
 あまりこうした言葉を口にする事は得意ではないけれど、飼い犬のように頭を撫でて伝えられないのでは仕方がないと、火照りそうな頬をなんとか押さえ込んで成歩堂が笑う。
 目を瞬かせて、御剣は惚けたようにその言葉を聞いていた。
 知らず力が入った腕の中、紙袋が小さな悲鳴を奏でた。中身は、マドレーヌ。幾度も幾度も幼い頃から母親の手伝いで焼いた事のある、焼き菓子だ。
 けれど今日は母親のためではなく、自分のために焼いた菓子。一緒にいられない事が寂しいと、そう知ったから、会いたいと思った原因の菓子。
 当たり前の感情を当たり前に認めて受け入れてくれるから、彼の傍は心地いい。自分では知り得ないものを知り、それを分けてくれる人だから、少しでも自分も何かを返したいと願わせてくれる人。
 だから、きっと、自分の回答も彼と同じなのだ。
 そう、思い。
 鮮やかに微笑んで、御剣は頷き、同じ言葉を成歩堂へと捧げた。


 彼にあげようと、母親と二人包んだマドレーヌを差し出しながら。





 結局ミツルギオン再登場ならず。
 きっと本当にじっと踞ってひたすら成歩堂が帰ってくる事だけ願っているんだよ。あの子はそれ以外の望みがない。
 そして御剣に自覚はない。とりあえず一緒にいられない事が寂しいんだと解っただけでも偉いと思ってあげて下さい。発展途上どころか、まだスタートラインすら探し中の子ですから!
 そんなんばっかだね、W御剣………。

08.06.30