柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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優しく注がれる祈りの音

それは耳に心地よく
ゆったりと身を浸す

笑顔を咲かせて
喜びを感じて
幸せになって

他愛無く単純で
生きていれば誰もがそうありたいと願う
そんな当たり前の祈り

それでも思う

当たり前の祈りのために
どれだけの人が努力をするのだろう
与えられる事を当然と思わず
与えたいのだと、願うのだろう

その笑顔こそが、祈りの形





ひと匙の蜂蜜



 夏が近づき、キッチンの中も大分暑さを増してきた。
 大型のオーブンが常に加熱されているのだ。その熱量は想像を絶するだろう。さして広くもないキッチン内では、どこにいようと暑く感じる。
 もっとも、ショコラティエたる牙琉の近くだけは、常に冷気が流れるように空調は計算されている。が、それはあくまでもチョコレートのためであって人のためではない。
 まだ夏ではなく、だからこそ暑いと思う程度で済んでいるけれど、あと一ヶ月もしないで冷菓やチョコ関連のお菓子の製造に苦労する季節が来てしまう。
 いっそ季節限定にしてしまえばという意見がないわけではないけれど、出来る事ならずっと今まで続けてきた菓子類……食べたいと願われるものは、提供したいのだ。
 作るのが大変なのは自分ではないけれどと、滲んだ汗を感じながら成歩堂は小さく息を吐いた。
 「どうかしましたか?」
 同時に、まるで見張っていたのかと問いたくなる程のタイミングで、牙琉が成歩堂に声をかけた。
 目線を上げず、手元のテンパリングの具合を確認しているのだから、決して成歩堂の溜め息を見て理解したわけではない筈だ。
 それでも何故かバレてしまう事に、苦笑が浮かぶ。学生だった頃から、彼に隠せた事は何一つ無かったのだから、もう今更なのかも知れないけれど。
 「たいした事じゃないよ。もう夏になるな〜って思っただけ」
 困ったような眉の垂れ具合で笑い、そんな事を呟けば、ちらりと一瞬だけ牙琉の視線が成歩堂に向けられた。
 それに首を傾げれば、理想の状態になったチョコを手早くボールに移し替える、牙琉の滑らかな動きが視界に映る。
 ………牙琉の所作は、綺麗だった。無駄がなく、全てが繋がりあって安定感がある。慌てている様子も、さりとて気負った様子もなく、淡々と鮮やかに美しく行程が進んでいく。
 相も変わらず見事だと、昔と同じ感慨でもってその手先を成歩堂は見つめた。
 傷もなく、荒れてすらいない、綺麗な指先。無骨さよりは繊細さが顕著な、几帳面そうなその指先は、その印象を裏切る事なく、緻密で繊細なチョコ細工を仕上げられる技術を内包している。
 羨望ではなく純粋な賛辞を乗せたような眼差しを指先に感じ、眼鏡の奥の瞳を少しだけ動かして、牙琉は成歩堂を盗み見た。
 映ったのは、ひどく愛おしいものを愛でる慈母のような、眼差し。それに苦笑しそうになる。
 「………そうですね。また具合など悪くしないように、きちんと自分の管理をするんですよ」
 浮かびかけた苦笑を飲み込むように、牙琉はそんな言葉を成歩堂に投げかけた。
 彼はまだ拙くて、よたよたフラフラで目が離せない、危なっかしい存在だ。自分こそが父とも母とも言うべき導き手であろうに、妙な錯覚をするものだと、自身に向かって笑いが浮かぶ。
 そんな内情を誤摩化すつもりの言葉は、けれど彼と出会ってからはほぼ毎年繰り返される言葉だった。そうした意味では、この会話の繋がりとしては最適なものを選んだと、己の抜かりなさを少しだけ褒め讃えてしまう。
 「なんでそうなるんだよ。僕、今までもパティシエになってからも、凄い元気だよ」
 「元々頑丈だからこそ、あなたは気を抜いて年に数度、肺炎並に厄介な風邪を引くでしょう。何事も事前に予防するに越した事はありませんよ」
 昔からの知り合いはこうした時に厄介だと、成歩堂は心底思ってしまう。そんな心境が知らぬ内に如実に顔に浮かび、拗ねたような不貞腐れたような、叱られる事を知っている子供の顔になっていた。
 突っぱねる事なんて、簡単なのだ。それでも牙琉の言葉は、嫌味でも嘲りでもなく、確かに労りと窘めを含んだ優しいものだ。それを余計な世話と袖にする事が出来る筈もない。
 言い包めようのない事実を提示され、むうと成歩堂は言葉に詰まってしまう。
 ………元来丈夫に生まれついたせいか、成歩堂はそれなりに無茶がきいてしまうのだ。だからこそ、ふと気付いた時には厄介な程病状が悪化している事はしばしばで、そのせいで講義を休んだ事もあるのだから、牙琉の言葉は正しく、なおかつ毎年言われてしまう慣例みたいなものだ。
 それを鬱陶しいと思う筈もない。労られて、嬉しくない筈もない。
 それでももう、自分は疾うに社会に出て働いている身で、しかも将来はこの店を任される立場にあるのだ。今後もそんな子供じみた心配をされては困る事くらい、解っている。自分がと言うよりは、自分とともに働いてくれる彼らが、だ。
 だからこそ、パティシエとして働き始めた当初は希薄だった自覚も、この店を再開させてからしっかりと持つようにしている。おかげで今の所、ひどい風邪も引かずに過ごしているのだ。
 それは多分、牙琉も知っている。如何に自身を守るべきかという事を考えるようになった事を、理解している。
 ……………解っていて、それでも彼は言うのだ。
 念には念をというけれど、いい歳をした大の男が体調管理を心配されるなんて、流石に恥ずかしい。もっと自分はしっかりして、彼にだって、頼られたいのだ。ずっとずっと、自分を助けてくれた人だからこそ、自分だって彼を助けたい。
 もっとも、そんな事を告げてみれば、彼は軽やかな溜め息とともに、まずは自身のやるべき事をやってから言うべきだと窘めるのだろうけれど。
 「解っているって!もう、牙琉は心配性だよ。僕だって大人なんだからね」
 だから学生時代の事を引き合いに出さないでと、拗ねたように唇を尖らせた成歩堂の声は、表情だけでなく声も不貞腐れていた。
 そんな顔と声で言って、どんな説得力を求めているのか。
 牙琉の言葉が、来年も同じように繰り返される事を予期させるには、十分な証拠だろう。軽やかな溜め息は胸中だけで済ませ、牙琉はもう馴染みとなってしまった友人を見る事なく、手元のチョコに視線を注いだ。
 眼鏡で遮断されていても、この男は酷く鋭く人の心の機微を掬い取るのだ。
 それは決して無理強いや暴力じみた色合いはないけれど、彼に対して誇る矜持の高さ故に、どうしても易々と看破される事は避けたかった。
 どうせ彼は、自身の声が酷く幼く響く事も知らず、自分がその音色に耳を澄ませてしまう癖がある事も知らないのだ。
 まだまだ手がかかる、発展途上の未開のパティシエ。彼は善くも悪くも転じ易い。まっさらだからこそ、与えられたものに容易に染まる。
 それ故に上質のものを与え導けば、どこまで登り詰めるか解らない程だ。
 ………幼い声はその証のようで、ひどく甘くいとけない。
 それさえ解らない、未だどこか抜けている、自分の前では顕著に幼くなりやすい友人の声が、耳にくすぐったかった。
 「それは知りませんでした」
 「ちょっと、牙琉!!」
 ひどくあっさりとした言葉に、思わず慌てて彼の名を叫んでしまう。
 学生時代、まだあまりに幼稚で拙い自分を知っているだけに、彼がそう言い兼ねない事は予測出来ていたが、実際に言われるのと予想していたのとでは、やはりダメージが違う。
 同い年の人間にどこか優位なままの笑みで呟かれるには、少々痛い言葉だ。特に、いつかは彼らを雇うという立場になる筈の自分なのだから、余計に。
 いくら何でも酷いだろうと抗議を込めて睨んでみれば、クスリと、どこか柔らかい笑みの音が耳に触れる。
 「大人はそんな顔で不貞腐れませんよ」
 そうでしょう、と。それは楽しそうに目を細めて牙琉は成歩堂に顔を向けた。
 柔らかくて優しい、そんな笑みは滅多にしない癖に、する時は大抵こんな風に自分をからかう時なのだから、彼も大概意地が悪い。
 …………綺麗で優しいその笑みに、自分は弱いのだ。
 同じクラスだったあの頃から、彼に本当の笑顔を咲かせて欲しいと、何故か思った。理由など解らないし、どうしてそんな事を思ったのか、自分でも説明は出来ない。
 でも、思った。感じた。微笑むその瞳の氷が、ひどく脆いものに思えて、彼の邪魔になる事も疎んじられる事も承知の上で、手を伸ばしてしまった。
 結果は、優しい彼が自分を許し、育てるための時間すら割いて導いてくれたという、自分にとって最上のものだった。
 だから多分、自分は彼に頭が上がらない。大抵の事は許してしまえるのだ。端から見ていてなかなか彼は頑固で意地も悪く、時折ヒヤリと人の心を突き刺すような冷徹さを向けてもくるけれど。
 それらの先にある彼の意志は、決して詰られるものではない事を、知っている。
 不器用なのはお互い様だ。ただその分野が違うだけ。だからこそ、互いに補い合える事を、自分は知っていて、彼は未だ学び途中だ。
 「………その言い方は狡いと思うよ」
 どうせそんな笑顔を浮かべている自覚だってない癖に、彼はからかう最中に自分が許せるための布石を必ず落としていくのだ。
 だから怒りなんて継続しないし、反発だって忘れてしまう。優しく花開く彼の笑みは、初めて会ったあの頃から自分が見たかったものだ。
 「あなたも十分狡いんですから、お互い様でしょう」
 そうして彼は、むくれた自分にそんな事を言って、満足そうにまた作業を鮮やかな所作で進めていくのだ。パティシエを志すものならば誰もが見惚れる程に美しく。
 それは、見られる事を承知の上での、無言の指導だ。見て学び実践しろと、言葉にもせず態度にも出さず、それでもそうされる事を……技術を盗まれる事を承諾し、晒してくれる。
 そんな真似をされて、からかわれた程度の事、怒れる筈がない。
 「僕は狡くないよ。牙琉が狡いんだろ?」
 そんな風に甘やかす癖に、最後の最後、決してそれを誇示せず己の力で得たのだと錯覚させようとする。同級生の彼は、それでも自分にとって、指導者だった。
 「自覚がないのも困り者ですね」
 「そのまんま返すよ!?」
 楽しそうな声。響くのは喜び。包むのは慈しみ。
 他愛無い言い合いで、それでも認められるのは結局、相手の優しさと不器用さ。
 頬を膨らませても、決して顔は逸らさない成歩堂の態度に牙琉は笑みを深め、その笑みに成歩堂は破顔して。
 結局残るのは、吹き出すような笑みと、互いへの敬意。


 そんな風に続いていけばいいと、成歩堂は柔らかな笑みを浮かべたまま、ボンボンショコラを仕上げる牙琉の指先を見つめていた。




「俺らの存在、忘れちゃいねぇか、あの二人」
「まあ結局、お互い様って事ですよね」
「じゃれ合っている様はまんまコネコちゃん同士だな、あいつら」
「………お願いですから、それ、アニキには絶対に言わないで下さいね」
「言った所で鼻で笑ってスルーするだろ、あの王子様は」
「家での冷笑が格段アップします」
「でもまあ、王子様はお姫様にゃ弱いもんだぜ。まるほどうがいりゃ、なんとかなんだろーよ」
「……………家にはいないですから、成歩堂さん…………」





 オチとして存在忘れ去られた二人に最後に出てきてもらいましたよ。
 時系列的にはまだ王泥喜くんが来る前。本日は休日ですが、会議もするついでにみんな居残って明日の下準備中です。人手なんて言葉すら浮かばないくらいの忙しさですよ、この頃は。
 そして未だに神乃木さんの口調が上手くいきません。なんか違和感。

10.7.3