リビングの中、異様な熱気を発するように、宙太はぐったりとテーブルに凭れ掛かっていた。
「うー、訳わかんねぇ……」
その傍らには問題集とノート、それに文具が転がっている。呟く声に力はなく、ぐったりとしていて窶(やつ)れたように青ざめていた。
それもその筈だ。学校のない連休中、朝から晩までずっと、こうして監禁でもされているように、ずっと勉強をしているのだ。
しかもそれが試験勉強ならまだ解る。が、これはそんなレベルの問題ではなかった。
「何言ってるの。まだそのレベルじゃ、数学にもなってないわよ。高等科の分くらい出来るようになりなさい」
宙太の前に座って、同じように同じだけの時間を勉強に費やしていたミルキーは、叱りつけるようにその頭を叩いた。
それに抗議の悲鳴を上げながら頭を庇い、意外に痛かった攻撃に涙を浮かべながら宙太は姉を見上げた。
「午前中の英語はまだいいけど、物理なんてやった事ないじゃん!」
英語はまだ両親のおかげで成績がいいから問題はなかった。が、数学は得意とはいえない。解らない訳ではないし間違わずに答えを導け模するけれど、どうしても時間がかかるのだ。
必ずと言っていい程引っかけに足を取られてつまづくのは、もう小さな頃からの癖のようなものだ。………こんな事がバレたら、盛大に肩を竦めて呆れかえる顔が浮かび、宙太は拗ねたように唇を尖らせた。
「あのね、宙太。宇宙飛行士は、博士号が必須よ?しかも理数系の」
「………ねーちゃん、日本語しゃべって……」
「残念ながらこれは日本語よ!言っておくけど、あなたのヤツはあたしのよりずっと簡単なんだからね」
年齢的な差ではなく、専門書に手を出しているかいないか、そのレベルからの差だ。あまりにももっともなミルキーの言葉に、宙太は唇を尖らせながらも押し黙った。
それを同じテーブルを囲みながら眺めていたザッハは、ちらりとつまらなさそうにノートを見遣った。
彼らがやっている勉強は、所詮はまだおママゴト程度だ。学者が討論するに至ってはいない、基礎中の基礎。からかうには絶好の標的だが、そんな雰囲気でもないリビングでは、一人のけ者だ。
が、覗き込んだノートに、ザッハは目を瞬かせてしまう。
「………おい、これ間違ってるぞ」
宙太のノートに包帯に包まれた指先を乗せて式を辿る。問題は読んでいないから解らないが、宙太の書き込んだ図は放物線だった。
色々書き込んでは消したあとがあり読みづらいが、どうやら単純な放物線の割り出しで、物理学までは至っていない。現に描かれた図形も素直な程綺麗な円形だ。
これならばそう難しい計算もないだろうが、どうやらまだ基礎を飲み込めていないのか、はめ込むべき数式が間違っているから答えが出てきていない。滅茶苦茶に数字を当てはめては割り出されない答えにもんどりうっていたらしい。
「へ?」
不可解そうなザッハの声に、涙目の宙太は間抜けに声を出した。頭のいいミルキーに比べ、どうにも勉強自体が好きではない宙太は、なかなか思うように物事を飲み込めない。
いつもは素直で柔軟なその感性は、こと勉学という方面には今はまだ硬質化してしまうらしい。
「y = ax2 + bx + c じゃなくて、y2 = 4axだろ。二次関数でも放物線は出るが、こりゃ図形と違う」
仕方なさそうにザッハは宙太の手に持つペンを取り上げて、さらさらと今言った式に当てはめるべき数字を加え、ノートに書き記す。あとはこれを解いて証明すればいいだけだと宙太を見遣れば、あんぐりと口を開けて目を見開いている宙太とミルキーがそこにはいた。
「え、ザッハ、解るの?!」
「お前頭いい筈ないだろ!?」
失敬極まりないハモリを晒す兄弟に、呆れたようにザッハが肩を竦めた。
「人聞きの悪い。ピラミッド教えたっつただろうが」
こんな辺境に一人やって来ただけでも、相応の科学力を駆使出来る頭脳があるという事だ。どうも彼らは自分が役に立たないものだと決めつけているが、知識だけでいうのであれば、この地球上に匹敵するものがいる筈がない。
未だピラミッドの謎さえ解けない文明の時代だ。ザッハの知る科学に到達するまで、まだまだ何百年とかかっても不思議はなかった。
「………え、あれマジだったの?」
「何その妄想話は」
………そう言っているというのに、やはり失礼な二人は失礼な憐れみの眼差しのまま、仲良く声をそろえてさえずっていた。
「事実だっての。ミルキー、お前も式の挿入違うぜ?」
覗き込んだミルキーの手元のノートは、宙太とは違って綺麗にまとまっている。が、そこで展開されている証明の中、運動量保存則の式が間違っている。作用反作用の法則ではなく、運動方程式を時間で積分しなくては正しい証明にならない。
「えっ?」
うまく解けていると思っていたミルキーは、慌てて手元のノートを覗き込んだ。
「ったく、見てらんねーな。ちょっと貸してみろ」
上から順に辿っていく細い指先を見つめながら、軽く息を吐き出したザッハはにゅっと腕を伸ばしてそのノートを取り上げた。どうも彼らは無駄が多く、まだ押さえるべき部分を活用出来ていない。
知識がないというよりは、活用の仕方に無駄があるのだ。
「あ、なにするの、もう!」
「ヒント書き込むだけだって。あとは自分で考えてみな」
彼女の年齢から考えれば随分と小難しい事を几帳面に書いているノートに、意外に繊細な文字が書き込まれていく。
たまに表記の仕方が謎な文字になっているのを書き直す以外、その手が止まる事がない。
それを眺め、呆気にとられていた宙太が感心したような溜め息を吐きながら、ザッハの手元を覗き込むように眺めていた。
1つだって解らない文字と数字と数式の羅列だ。これが何を証明する式かも、宙太にはまるで解らない。合っているか間違っているかも当然解らないけれど、ザッハは迷いもしないでどんどんとノートに書き込んでいっている。
「いいなー、ねーちゃん。ザッハ、俺のも!」
これがどんなヒントになっているかも解らないけれど、一人で頭を悩ませるよりはきっといい。宙太は自分のノートを手に取ってザッハに差し出すと、それが受け取られる事を疑いもしない眼差しで見上げた。
「仕方ねぇな」
全く警戒心もなければ敵愾心もない。相手が自分にマイナスを向けるなど思ってもいない真っすぐさに、ザッハは苦笑しながらノートを手に取った。
ミルキーのノートはそのままテーブルに返して渡した。彼女のレベルならば、あまり多くのヒントはいらない。むしろ与え過ぎは彼女にとっては粗悪な導き手になりそうだ。
「やった!へへっ、お前がいて助かったな」
その点、この不出来な生徒は、与えられれば与えられただけ吸収するタイプだ。
ノートに書き込む量も多そうだと、悩みに悩んでなんとか正答を弾き出しているノートを眺めた。
「この程度でへこたれてたらこの先続かねーぞ?」
ぱっと顔を輝かせて安堵する宙太に、呆れたようにザッハがその頭を軽く叩いた。まだまだ、これは入門どころか、そこに至る為の勉強だ。ここで躓いては、一生宇宙など目指す事は出来ないだろう。
そう告げるような声に、宙太は綺麗に澄んだ眼差しを惜しみもしないでザッハに向けた。………まっさらな、空と同じ透明な色。
それが、煌めくように囁いた。
「平気だっての。ちゃんと、約束は守るさ」
柔らかく豊かに、幼さをまだ内包したその声が綴る、ただ1つ残された言葉を思う色。
………会いに来る力を持つのは相手でも、会いに行く資格を持つのは己しかいないのだと、彼はきちんと解っている。
そうして、待っているだけなど、彼には合わないのだろう。不可能と大人達がいう難関に、それでも立ち向かう事を決めた彼の努力は尋常でない程だ。
「だって、待つってあの我が儘が言ったんだ。俺が頑張らないでどーすんだよ」
「お前は相変わらず甘いな、そーゆーとこ」
ニヤリと唇を歪め、ザッハは喉奥で笑った。まるで初めて会ったピラミッドの中でのようなその笑いに、宙太はからかいを思って不貞腐れたように眉を顰めさせた。
「あんだよ、スカイみたいな事言って」
地球に来る宇宙人は、ルカを除いてみんなこうやって地球を少し小馬鹿にする。勿論それは卑下ではなく、愛しみを混ぜたからかいだけれど、腹の探り合いなどとは無縁の宙太には、彼らの愛情表現はどうにも複雑で難しい。
「悪くないっての。俺は地球人のそーゆーとこ、気に入ってここに来たんだからな」
「う〜、なんか納得出来ないっ」
スカイという前例があるだけに、口が悪いからと言って本気でそう思っているとは思わない。思わないけれど、だからといってからかいの言葉全部を裏まで読んで受け入れるなんて器用な真似、出来る筈がない。基本的に単純で素直な宙太には向かない芸当だ。
それを十分承知しているザッハは、むうっと頬を膨らませている宙太を笑いながら、手にしたペンでドアを示した。
「ならちょっと身体動かしてこい。それまでに終わらせてやるよ」
「へ?」
顎までしゃくって外を示すザッハに、宙太は目を瞬かせた。まだまだ姉に課題と押し付けられた問題は解き終わっていない。それなのに何故と、思わず首を傾げてしまう。
「集中するには適度な休憩も必要なんだよ」
「そうね、大分根を詰めたし、そろそろ休憩しましょう、宙太」
窘めるザッハの言葉に、ミルキーは時計を見遣りながら頷いた。もうおやつの時間だ。休憩には調度いいだろう。
「まあ、ねーちゃんがそういうなら」
休めるのは嬉しい。本ばかり睨んでいて目も痛いし身体も固まったようだ。
けれど、姉程頭が良くない自覚のある宙太は、ほっとしながらもザッハに目を向けて、自分のノートを覗き込む。意外に繊細な文字がさらさらと迷いもなく書き込まれていくのが、なんだか不思議だ。
覗き込む宙太にザッハが手を休めれば、むっと睨み上げて彼は唇を尖らせた。
「ザッハ、ちゃんとヒント入れといてくれよ?」
これだけでは全部は解らない。問題が解けるだけでは駄目なのだ。その意味を理解し、解き明かせなくては身に付いたとはいわない。
それこそが欲しいのだと告げるいとけない声は、勉強嫌いの癖に、学ぶ事の意味をよく知っていた。
それにニヤリと笑い、ザッハはまだ幼いその表情をからかうように、若干乱暴にその髪をかき混ぜながら頭を撫でた。
「へーへー。おやつ割り増しで手を打っといてやるよ」
だから少しは身体を動かして目を休ませて、凝り固まった意識をほぐしてまたこのノートに向き合うといい。
それくらいの余裕がなくては、すぐにパンクしてしまう。そう教える声に、ミルキーは苦笑するように宙太を見遣った。
………案の定、弟は目を輝かせてすでにおやつに心奪われている。もう時間的にも許される筈と、その幼いままの眼差しで姉を見遣った。
「ねーちゃん、買いに行っていい?」
もう家のお菓子は残り少ない。そろそろまた買って来てもいいだろうかと、一家の財布を握るミルキーに問いかければ、仕方がなさそうに姉は肩を竦めて息を吐くと、頷いた。
「余計なもの、買ったらダメよ?」
いくらお礼に割り増しと言っても、それはただの方便だ。無駄な買い物はしてはいけないと、母親のように注意する姉に、心得ている宇宙太は頷きながら財布を受け取った。
「やった!じゃあ行ってくんな!」
勢いよく立ち上がり、宙太は二人に声をかけると颯爽と走っていってしまう。
「やれやれ、まだまだガキだね〜」
元気に走り出した背中は、子供そのものだ。それを見送りながら、ザッハが含み笑うように呟いた。
それにミルキーは呆れたような顔で開けっ放しのドアを見遣りながら溜め息を吐く。
「当たり前じゃない」
あの子はどんなに真っすぐと未来を見据えていても、幼いままの子供だ。忙しくて滅多に家に帰ってこない両親の事だって、不満など言いもしないで慕っている。勿論、二人が自分達を厭っていない事も、心配している事も、愛してくれている事だって、解っているからだけれど。
そう小さく呟くミルキーに、ニヤリとザッハは笑いながら、手元のノートを指先で叩いた。
勉強など大嫌いな、遊びたい盛りの子供だ。それなのに、彼はもう高等部進学すら通り越し、その先の道筋までを見据えている。
「でも、十分男だろ」
「あたしの弟だもの」
当然だと囁くミルキーの唇は、誇らしげに笑んでいる。それに一瞬見惚れかけながら、ザッハはそれを隠すように視線をノートに戻して問いかけた。
「……お前も宇宙飛行士になるわけか」
宙太のノートも、ミルキーが教える傍ら広げている本も、理工学系だ。ミルキーの傍に重ねられた本には、宇宙に関する論文もある。………高校2年生が読むには、少々難易度の高いものに思えなくもない。
この姉弟のレベルに悩みつつ盗み見るように視線だけで映した少女は、ほんの微か、その眉を憂愁に染めて呟いた。
「あたしは……許されないわね、多分」
「?」
「この超能力がどう影響するか解らない限り、乗組員が危険じゃない」
不可解げに眉を顰めたザッハに、仕方がなさそうにミルキーは苦笑した。そうして、ばたんと宙太が開け放したままのドアを、手も使わずに閉めてみせる。
……自分の超能力の自覚は、持った。否、持たざるを得なかった。
スカイが立ち去り、泣いて悄気た弟を抱きしめたその時期に、世界は残酷に自分達に迫ってきていたから。
宇宙人の来襲によりその存在を認知せざるを得なくなった大人達は、どこから何を知ったのか、すぐにこの家にやってきた。
隣の空き地に残されていた、高度文明の残骸。それに何よりも重宝された、スカイの乗ってきた宇宙船。そうして、生きてしゃべり、それらの文明の知識を持ち、分析が可能な、ザッハの存在。
…………彼を拘束し、奪われそうになったその時に、ぱちんと弾けた意識を、今もまだ忘れられない生々しさで覚えている。
身体が震えた。意識が目の前以外のものを認知し、それによって全てが揺り動かされる感覚。
それは地殻変動さえ誘発しかねない、超能力の暴走だった。驚いただけでも家1つを壊せる自分の力だ。集中した意識でその対象を定めたなら、破壊出来ないものなどある筈もない。
壊された、彼を戒める拘束具と牽制の為に所持されていた大人達の武器。そうして浮かび上がった大人達の身体と、阿鼻叫喚というに相応しい悲鳴と叫びの木霊。
きっと、本当ならばそのまま、自分は破壊し尽くしたのだろう。
………奪うなら、許さないと。この泣き濡れた弟をこれ以上傷つける事も、自分の家に住まうものを許可もなく痛めつける事も認めないと、何の躊躇いもなく。
それでも、それは収まった。腕の中にいた弟の泣き声と、自分達を包む大きな腕が、制御した。
二人を破壊してまで守りたいものも、実行したいものもある筈がない。この二人の為に発揮された力は、この二人にしか、止められなかった。
思い出し、ミルキーは細く長く息を吐き出した。
「あなたがこの家に残れたのは、まあ、ラッキーだったけどね」
ミルキーの超能力の制御は、未だ地球の科学では不可能だ。宙太だけでは心許なく、大人達は制御を可能としたザッハをその傍らに置く事で危険を押さえる事を目論んだ。
「確かに、お前さんがいなきゃ無理だったな」
ここにザッハがいる事も、宙太が宇宙飛行士になるべくその道を歩む事も。
当人に自覚がなくとも、周囲には知れ渡っていた能力だ。その上、彼女は両親の血をしっかり受け継ぎ、その頭脳は抜きん出て良い。大人達にしてみれば渡りに船の、優秀な人材の確保だろう。
…………この先ロケット工学はあり得ない早さで伸びる事だろう。スカイが残した宇宙船によって。
そして彼女は、それらをいち早く理解する事が出来るだけの能力がある。今はそれを開花させる為の基礎を詰め込んでいる真っ最中だ。
それが、ミルキーのノートや本を見たザッハにはよく解る。
「おかげで変な力の自覚は持てたわ。しっかり制御出来るようにならなきゃ、あの子の足を引っ張っちゃう」
そう呟いて、ミルキーはその年齢には合わない学術書を見下ろした。……ギュッと引き結ばれた唇が、強い意思を携えた瞳を支えるようだ。
ただ一人の弟が泣き濡れて帰ったあの日、何を聞くでもなく抱き締めていた姿を思い出す。
喚くと、思っていた。その超能力を暴走させると予期していたのに。
………彼女はそんなものに支配もされず、ただ弟の抱えた悲しみと寂しさを包もうと寄り添っていた。
脳裏に浮かぶその姿が、見つめた宙太のノートに映されるようだ。
それに顔を顰め、ザッハは軽く息を吐き出した。
………大切だからこそ慎重に距離を縮めなくてはいけない。あまりに差のある文明同士は、互いを慈しむ前に傷つけ破壊し合うだろう。
スカイの母の言葉は間違っていない。そして、だからこそ耳に痛い言葉だった。
もはや自分が帰る星に、自分のいる場所はないだろう。初代マスターの自分にはそれなりの地位を与えられるだろうが、ただそれだけだ。
そこは、この星ではない。
………そこでは、この人はいない。
思い、ヤキが回ったものだと胸中で嘆息しながら、宙太が解るだろうレベルまで落としたヒントの数々を、間違う事もなくノートに刻んだ。
これは、残されていくだろう。高度文明に身を置いた自分の片鱗。まだこの星が到達していない科学。
………あってはならないミッシングピースが、自分だろうに。
この家の人間は相も変わらず当たり前に自分を受け入れて、いる事を喜びさえするのだ。
何てヘンテコで間抜けな話だろう。……何て愛しく美しい話だろう。
宇宙の果てとすら今の地球のレベルではいえる場所にいる友に、会いに行くのだと本気で決めた子供。
そして、それと同じ道を、何故か選んだ少女。
ふと思い、ザッハは彼女の意図を聞いた事がないと気付いてしまった。元々頭のいいミルキーは、宙太が望む道に必要な事を調べ教える傍ら、自身はそれよりも更に難易度の高い勉強に勤しんでいる。
宙太は、解る。………追いかけるだろう。たった一人帰ってしまった友と再会する為に。
けれど、ならば、何故ミルキーは自らも同じ道を選ぶかのように、同じ分野を学ぶのだろうか。
「なら、なんでお前までロケット工学なんて勉強してるんだ?」
宙太の足を引っ張りたくないと思うならば、その超能力の制御を第一に、そちらの方面に進めばいいだろう。けれど実際彼女が目指しているのは、超能力などむしろ足枷になる世界だ。
気付いてしまえば疑問は膨らみ、ザッハはノートに書き込む片手間のふりを続けながら、何て事はない話の続きのように問いかけた。
それに、ミルキーはクスリと笑う。それはどこか宙太に向ける笑みに似た柔らかな笑顔だった。
「あら、解らないの?」
可憐な声が楽しげに響いた。まるで知らない事が意外というその音に、ザッハは目を瞬かせてしまう。
………思い返しても、泣き止んだ宙太の突然の宣言を受け入れて、その手助けをした事しか解らない。どこにもミルキーが宇宙を目指す理由が見えなかった。
「?」
困り果て、ノートなど放り出すように腕の中、閉じてしまう。それを見るでもなくミルキーはさらさらとノートに書かれたヒントをもとに解答を刻んでいった。
その唇が、不意に甘い砂糖菓子でも含んだように微笑むと、微かに小さく、いとけない言葉を紡いだ。
「………いつか、あたしだって追いかけなきゃいけないかもしれないじゃない」
宇宙に帰る場所を持つ人を手放したくないのならば、そけに辿り着ける術を持たなくてはいけない。
今の自分では基礎すらない。スカイの置いていった宇宙船の研究に携わるなど、夢のまた夢だ。
……それでも、必ず自分のこの手で作り上げて見せる。
宙太の乗る宇宙船。………そして、いつかどれ程遠くに帰る事があっても、必ず会いに行ける宇宙船を。
呟き、ミルキーはその眼差しを本からザッハに移した。そうして、思った通り呆気にとられた顔をしている彼に、鮮やかに笑んでみせた。
「出来る努力はしておく主義なのよ」
宙太が選んだように、自分も選んだ。方法は違うけれど、手放したくない絆の為に惜しむ努力などある筈がない。
そう告げる澄んだ眼差しに、ザッハは手にしたノートで顔を覆うようにして壁に凭れた。
「……………まいったな」
まさか、バレていたとは。………あるいは、返されていたとは、か。
自分の事など歯牙にもかけていなさそうだったのは、あるいはやはり、惑星という大きすぎる隔たり故か。
………宙太の純乎過ぎる意思に、ひた隠す事が出来なかった自分と、彼女が同じだなんて。
「でも、そんな必要はないだろうよ」
ほころぶ口許を見せ難く、ノート越しに呟いてみれば、ミルキーはまた本へとその眼差しを落としてしまう。
それをつい惜しむように視線で追いかければ、知っていたようなタイミングのよさでその唇が開かれた。
「そうである事を祈りたいわ」
「………信用ないね〜」
あっさりとした彼女の言葉に、肩を落として戯けてみれば、瞬いたその眼差しが煌めきながら向けられた。
「してるわよ。だから、もっと知識をちょうだい」
ひたむきで貪欲な瞳で、ミルキーが告げる。追いかける力を、未だ足りない知識を、与えてほしいのだと、理知的な瞳は煌めいた。
「すぐにあなたに追い付いてみせるわ」
守られて助けられるだけなんて、あまりに足りなさすぎる。待ち続ける事を選べたスカイほど、自分は潔くなどなれない。
そう教える眼差しに、ザッハはノートの裏側で楽しげに唇を歪めた。
「ならまあ、宙太が追いかけられる程度にゃ、協力してやるか」
スカイの星まで行けるなら、十分だ。小さく聞こえるかどうか呟いて、柔らかく細めた眼差しを向ける。
「お前も宇宙に出られるようになれば、案内してやるよ」
「………あなたが知るよりも、プラス五千年後の、星を?」
クスリと笑い、未だ包帯を解く事など出来ないその姿を愛しそうに見つめた。
その時間が流れてくれたから、出会えた。あり得ない奇跡は、弟だけでなく、自分にも注がれていた。
クツクツと喉奥で笑いながら、ザッハもかつての故郷を思う。懐かしく愛しい、けれど帰ろうとはもう思わない星を。
「どんだけ変わってんのかね。お前らと行くなら、楽しいだろうさ」
一人でなど帰る気にもならない。この星が、もはや自分の帰る場所に変わってしまった。
お人好しな子供と愛しい少女。欠けてしまえばもう、寂しくて仕方ないに違いない。そう考えるまでもなく思う自分が、どこか滑稽で楽しかった。
「なら、それまではおあずけね」
柔らかなザッハの眼差しが思うものなど、まだミルキーには解りはしない。
解らない、けれど。………ここも居場所なのだと、示す事は出来るのだと、小さくミルキーは囁きかける。
「あたしと宙太で、あなたの星まで行ける時まで」
素直でない物言いに、ザッハは手にしたノートに隠す事もなく吹き出すように笑った。
………それはからかうというよりは慈しみ深い、笑みだ。微かに不貞腐れて睨みながらも、ミルキーは結局唇が笑みに変わる事を押さえられなかった。
「そりゃそうだ。道案内がいなけりゃな。宇宙で迷子は救いねぇよ」
だからそれまではこの星を去らない。そう約すように笑んでみせれば、ほころんだ筈の瞳は微かな寂しさに染まった眉毛の下で瞬いていた。
「………絶対よ」
「そうだな、なら」
疑い深い寂しがり屋にクスリと笑い、ザッハはちらり、室内を見渡した。………子供二人では広すぎる、寄り添いながら暮らさなくては寂しい家。
ここが、自分のいるべき場所と、ザッハは喜びに染まった笑みをミルキーに向けた。
「その時までの居候で、手を打つぜ」
だからその日が来るまで、ずっと一緒に、と。
音とはせずに、囁いた。
返されたのは、無音の応(いら)え。
鮮やかに咲き誇る一輪の花の、微笑み。
どうぞどうぞその日までこの傍らで咲き誇れ。
望むなら、この星以上の知識も技術も与えるから………………
絵茶にお邪魔した際にザハミルに同意を一杯いただけて調子に乗ってみました。
まさかのスクランブル2作目ですよ。前作だけで終わりだと思っていたのにね!
でも女の子書くのは楽しかったです。そして色々捏造設定ごめんなさい。
ミイラ化したザッハの身体は超能力を吸収していけるといいよ。そしてどんどん生身の人間に近付いていくといい。
二人の子供が産まれたら宙太はどれだけ赤ん坊を可愛がる事か!スカイはきっと持て余して宙太に押し付けます。絶対奴は泣かせるよ、赤ん坊。
そんな妄想の日々悪化してなんとも愉快(笑)
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