滴る血を浴びて、それは生まれた。
赤に塗れながらも輝く毛並みは美しく澄んでいる。
穢れなさを静かに漂わすその赤児をこの手にかける事は出来なかった。
……血に塗れてもなお神々しく。
親の死を悟っても毅然と……。
――――それは、自分がなるべき姿だったのだ………




 「コラ!暴れるな!!」
 「がうぅぅ……!」
 まだ幼い響きの残った子供の声と、どこか優しさを窺わせる獣のうなり声が混ざりながら響いている。
 そこは大きくはない泉だった。
 木々に覆われていて、まるで原始の世界に閉じ込められたように濃い青の水をたたえている。
 その中に水浴びが目的だろう子供と、……なぜか猛獣と恐れられるはずの虎が入っていた。
 しかもその様子は更におかしい。
 ……子供が虎を押さえ付けて水に濡れて張り付く毛並みを無理矢理洗っているのだ。
 それを嫌がっている虎は必死になって声を上げ、逃げようともがいている。
 けれど子供がそれを許さないらしい。
 その細く白い腕がどのようにして虎を押さえ付けているのか甚だ疑問だが、虎は次第に抵抗さえ出来なくなっていっていた。
 そして鳴き声さえなくなった頃、ようやく満足したらしい子供が虎の頭をぐしゃぐ しゃと撫でた。
 「よし!これくらいでいいだろう。もう動いていいぞ、虎王」
 「がう……」
 疲れ切った声で子供の声に答え、虎王は背中に子供を乗せたまま泉を泳ぎ始めた。
 『動いてもいい』は『動いて欲しい』に他ならない。
 子供はこの虎の背に乗って水中散策をしたかったのだ。
 いつもはふかふかで手触りのよい虎王の毛並みも、こうして水に濡れてしまうと肌に張り付くだけであまりいい感触は返してこない。
 それでも子供はこの虎に触れている事が好きだった。
 満足そうに虎王の頭の上に顎を乗せて横になると、どこかからかう声で子供が囁いた。
 「……まったく。お前は獣たちの王となるものだというのに、洗われる事だけには弱いな」
 「がぁううぅ!!」
 その言葉に異義があるらしく、虎王は声を上げた。
 それを面白げに子供は取り合う。
 「ん?なんだ。この天火様の洗い方が気に入らないのか?」
 「………………」
 無言は肯定、だろうか。
 もっとも、天火は虎王が洗われる事を嫌う理由はよく知っている。
 それは、自分と交わした約束が故なのだから………

 生まれたばかりの虎を、天火は手に入れた。
 ……否。この手に取らざるを得なかった。
 生まれた瞬間自分を認識したらしい虎は、刻印づけの定義の元、自分を親のように慕ってくる。
 その親たる虎を殺した事に、後悔はない。けれどこの小さな虎を見捨てる事など、天火には到底出来なかった。
  自分にすり寄る小さな温もり。
 この手から何もかも、全てが零れ落ちていった中、たったひとつ掴む事の出来たもの。
 ……それならば、これは天火とともに生きるべきものなのだ。
 強く強く虎を抱き寄せて、天火は蹲る。押さえ込んだ激情を、この虎の前でならば曝け出せた。
 きっとそれはこの虎もまた、自分と同じ境遇だからだ。
 同情するでもなく哀れむでもなく……ただ静かに天火を見つめ、傍にある。
 虎は確かに天火の心を受け止めていた。
 その顔を覗く事さえなく、小さな虎は静かに目を瞑った。
 未だ幼い互いの身体を歯がゆく思いながら………

 それからもう、半年ほどたった。
 小さかった虎は虎王と名付けられ、その名に恥じない大きな身体へと変貌していた。
 ……そして、虎王はいつからかそれに気付いた。
 どこか、自分から離れようとする天火。……なぜか毎日のように水浴びをさせてはその手が痺れるほど虎王を綺麗に洗う。
 それに抵抗をした事は、なかった。
 獣である虎王が洗われる事を好む事はないが、それでも心地よかったのだ。
 ……虎王は天火の手に触れられる事が好きだった。
 乱暴な扱いであったとしても、たとえ手酷い仕打ちを受けたとしても許せるほどに獣は子供を愛していた。
 この小さな手の平はどこか気遣うように虎王に触れる。
 それはいつも最小限で、どこか怯えるようだ。
 もう、虎王の身体に子供の匂いはほとんどついていない。
 その背に乗る事もなくなり、触れる事も少なく……毎日のようにこの身体は洗われているのだ。匂いなど、つく暇がない。
 昔は共に野原を駆け、戯れに遊び対で眠り、気が遠くなるほど共に触れあっていたのに。……虎の毛皮は子供の匂いに満たされていたのに。
 子供はいつの頃からか虎王に水浴びの時以外触れなくなった。
 心配してその顔を覗けば視線を逸らされる。
 繋がっているこの心は拒絶され、思いはいつまでも自分に跳ね返ってきてしまう。
 跳ね返ってきた自らの思いは蓄積されて、虎の心を蝕む。
 洗われる事など、どうってことはないのだ。
 確かにこの身体に毎日の濯ぎは負担だけれど、子供に触れる事のできる一時は愛しかった。
 ただこの思いの届かぬ事が、繋がらない心が、獣を傷付け弱らせている。
  「……がぁ…」
 寂しくて、獣は小さく鳴く。
 聞こえたのだろう子供は、どこか怯えるように身体を震わし、次いでそれを振り切るように歩き始めた。
 答える事を恐れているその背がわからない。
 獣は寂しさに打拉がれたように項垂れ、子供の小さな背に従って歩き始めた。
 ……子供の悲しい真意が、この道の先にある事さえ知らずに……

 そこは森だった。
 今まで通り抜けてきた小さな森とは訳が違う。樹海という方が相応しい。
 人の入り込まない、獣だけの世界。
 ……獣だけの、聖域。
 訝しげにそこに立ち止まった子供を虎は見上げた。
 人である子供に、この森は肌にあわないはずだ。
 毒素を孕んだように濃い、濃密な木々の香りに耐えうるのは人以外の生き物のみだ。
 いつまでも歩き出さない子供に業を煮やし、虎王はその袖を銜えて引っ張った。
 たった、それだけだった。
 けれど……
 ――――なにかを恐れて揺れる、美しく澄んだ瞳。
 水晶のように煌めくそれは揺らめき歪む。
 震えているのは子供の身体か。……それとも、自分なのか。
 それさえわからなくて、虎王は混乱したままの頭に降り注ぐ言葉を理解する事が出来なかった。
 ……否。理解する事を拒んだ。
 困惑した唸り声を情けなくあげれば、子供は同じ言葉を無慈悲に告げた。
 声は、震えてさえいなかった。
 「……行けと、言ったんだ」
 真直ぐに指差された先は人の入り込めない樹海の奥。
 天火がなにを望んでいるのか、虎王には理解出来なかった。
 もしも虎王がそこに入り込めば、天火は虎王を置いて去ってしまう。
 ……理解できる事実はそれだけだった。
 震える咽からは……噛み締めた牙の間からは低い唸りしか形成出来ない。
 虎王はただ首を振り、否と示した。
 この心は裂けそうで、声もでない。たとえ音を作れたとしても、それは普段のものではない。
 狂おしい唸りか…さもなくば、猫のようにか細くなるだけだ。
 その様は目の前の子供にもよくわかる。塞ぎ込んだ心の中に、いつだってこの獣の思いは届いていたのだから。
 天火は唇を噛み締め、強くその手の平を握りしめた。
 虎王の鼻先に血の香りが漂う。
 皮膚を喰い破った爪さえ意識に組み込まれないのか、天火はまっすぐに虎王を見ていた。心地よいほどに一途で、他の介入を許さない虎王の為の瞳。
 その瞳に、一瞬揺らめきが襲う。
 ……そして天火はやっと、唇を開いた。
 重く、澄んだ声音からは想像出来ないほど暗い思念を持って言葉は紡がれた。
 「オレは、お前の母親を殺した」
 なにかを手探りで抱き寄せるように、天火は噛みしめた唇の向こう側で囁いた。
 虎王はその言葉に頷く。
 小さかった自分の記憶の中、倒れた腹の裂けた虎の、その身体に突き刺さった刀を抜き取る天火の像がある。
 濃く漂っている同種の血の香りが物語っている。……この子供が殺したのだと。
 だから、知っている。天火が犯した事を。
 そしてその理由も。
 降り下ろされた刀の下、自分も果てるはずだった。
 ……けれど子供は、命を掛けた仇の望みを断ち切らなかった。
 その心を裂くような言葉が、今も耳に残っている。
 子供は余りにも優しかった。この世界で生きるのは困難だろうと、思った。
 それは生まれたばかりの虎王にもわかる事だった。―――否。野生の獣だからこそ、直感で自分の生まれた世界を知っていた。
 だから決めた。
 幼い自分に名を与えた子供とともに生きる事を。
 この優しさを秘めた幼い魂を守ろうと、決めたのだ。
 ……今さら、捨てるなど認めない。
 頷いた虎王を天火は目を丸くして見つめた。
 震えた声は、哀れなほど幼かった。
 「……知って、いたのか………」
 ため息のような声は静かに地に沈み込んでいった。
 見つめた先で子供は再び唇を開けた。
 そして、自分に言い聞かせるように囁いたのだ。
 瞳を伏せ、その顔すら俯いて見えない。
 「ならばわかるだろう?オレはお前の仇だ。……お前はお前の世界の王になれ」
 それは……決別の言葉。
 獣を捨て去る、言葉。

 ―――――――――――――!!

 叫びが、谺(こだま)した。
  それは泣いているような唸りだった。
 子供はそれに触発されたように顔を上げた。
 広がったのは、赤。
 赤く赤い、虎の瞳。そして狂うほどに切ない思慕の情。
 「虎…王?」
 戸惑った天火の目の前で、虎王は駆ける。
 ………天火に向かって。
 それを見つめて、やはりこの手で殺さなくてはいけないのかと天火は腰に手を当てた。
 「…………………?」
 構えようとした刀は、なぜか落ちた。
 不思議に思って見てみれば、視界に入った手は震えている。
 その瞬間、虎王の牙に裂かれる自分の姿が浮かんだ。
 瞑った視界の先、ただ赤が広がる。
 それは鮮やかなる虎王の色。
 生まれた瞬間に与えられた色。
 その色に埋もれる事の無い魂を有した自分のただ一人の友。
 獣の世界に帰れるようにと自分の匂いが移ることを気にしていたが、これなら心配ない。
 人の血を浴びた獣ならば、この樹海に帰れるだろう。
 ……いや、最初からこうなることも知っていたのだ。
 自分に虎王は殺せない。
 それだけはなにがあったとしても変わる事の無い事実だ。
 赤に染まってもなお美しい虎。
 たった一匹でも気高く生きるその獣のように、天火は生きたかった。
 それをこの手で刈り取る事など、出来ないのだ。
 自分の意思も、父の思いも家臣の遺志さえも……
 その全てを飲み込み、……衝撃が走る。
 けれど想像していた痛みはなかった。
 強く突き飛ばされたため少しあばらは痛いが、外傷はない。
 瞑っていた瞳を開けば、眼前に自分の服を喰い破った虎王が刀を差し出していた。
 「……お前…………」
 殺せ、と。
 虎王の瞳が呟いた。
 その身に纏う布一枚を傷付けたとしても、自分を許せないのならば。
 ……捨てると言うのならば、その刀の下に屠れと……
 それは何の意味もない意地でも、過ぎ去る時を思ってでも、この樹海に帰れないからでもなかった。
 ただ純然たる、虎王の意思。
 獣の流れるはずの無い涙を、天火はその目で見た気がする。
 切ないほどの思いを乗せて、置いていくならば切って捨てろと。
 その命を獣はいとも容易く天火に預けた。
 ……虎王にとって意味あるものは天火だけなのだ。
 天火だけが虎王の世界の全て。
 天火によって生み出された自分が帰りつく先もまた、天火の元なのだ。
 それが許されないのならば生きている意味など、ないと…………
 澄んで光る虎の瞳は瞬く事もなく呟いていた。
 零れる獣の見えない涙を拭うように天火は虎王の頬を撫でる。
 「……すまん…」
 自分には選べない事を、虎王に課した罪悪感が天火を襲う。
 選ぶ事など出来ないに決まっていたのだ。……虎王は母を知らない。
 自分が育てたのだ。生みの親と育ての親のどちらかを選べなど、なんて残酷な選択だろうか。
 それでも確かめずにはいられなかったのは自分が弱いからだ。
 この獣があまりにも大切で、この心の中に居座るから、いずれ決別する事を恐れるよりも今この時、傷の浅いうちに捨て去りたかった。
 あまりにも傲慢な、幼い残酷さに天火は自分を許せぬほどだった。
 そんな愚かささえ無くすように久方ぶりのやわらかな毛皮に身を包む。
 ……強く強く虎王を抱き締める。
 もう、自分の嗅覚ではその毛並みに自身の匂いは残っていない。
 それを無くすように…ただ天火は虎王を抱き締めた。
 強いその抱擁を酔うように虎王は受け止める。
 ずっと、この匂いに包まれていたいと望んだのは自分だ。
 この子供の手に触れられる事が好きだった。
 この子供の声で名を呼ばれる事が好きだった。
 この子供の瞳に見つめられる事が好きだった。
 だからともに生きたいと言うのは自分の我が儘。
 優しい子供は、自分で育てた虎を切り捨てる事など出来ない。
 それに付け込んでも、いるのだ。
 ………それでもいいのだと、天火は囁く。
 「……虎王…」
 澄んだ声音は涙に濡れていた。
 その旋律に虎王は耳を動す。
 「お前の命は、オレが預かった」
 強く抱き締めていたその腕の束縛は解かれ、射るほどに強い子供の瞳が虎王を見つめる。
 それに答えるように虎王はその頬を舐めた。
 獣らしいその承諾の証に笑いかけ、天火は虎王に再び抱き着いた。
 「共に…共に天地を制そう。オレは天と地を。お前は獣たちを。それまで……」
 抱き締めた手に、力が篭る。
 どう足掻いても守れないものがある事を天火はよく知っている。
 だから、この言葉は誓いだ。
 互いを縛る枷と言えるほどに、重い誓いなのだ……
 「けして、死なぬ。オレも、お前もだ」
 虎王はただ頷く。
 いつの日か、この背に乗る小さな天地王を描きながら。
 この命尽きるまで共にいる、優しさを誇りの中に隠す子供を見つめる。
 それは微かな不安。再び天火が自分のことを気に掛け、今日のことを繰り返しはしないかという……
 その頷きを見つめ、奥に隠された不安を読み取ると天火はいたずらっぽく笑い、獣の頬に顔を寄せながら囁きを付け加える。
 「安心しろ。もうお前を手放さない。……ずーとオレの牙になれ」
 鋭いその刃を、己がためではなく天火のために。
 それを望むのならばと天火は微笑む。
 もう二度と手放しはしない。それを約すように。
 ――――――………虎王だけが知っている、虎王の為だけのやわらかな笑みで……

 天火はよく知っているのだ。
 この虎がどれほど自分を思っているか。
 その命さえ顧みないほど、ただ天火だけの為に生きている。
 獣の毛皮に子供の匂いがなくなる事を嫌う。
 洗われる事は捨てられる事に直結していて、今も条件反射のように虎王は水浴びから逃げようとする。
 それを笑って天火は捕まえ、愛しい獣の背を拭うのだ。
 いつまでもいつまでも、その背にまたがり、天と地を統べる旅を続けるために……








あはははは〜。書いちゃったv
書きたかったんです〜!
しかもなんでしょうか、虎と人の癖になにこの甘ったるーい雰囲気は………
なんか虎王見ていたら、こいつほど天火を思うヤツも、天火に思われるヤツもいない気がして……
また二人(?)の話書きたいな〜。
って昨日タンバリン1巻手に入れただけのくせしてまたかい!
あー、本当にこのまま柴田先生の作品独立させようかしら。
自由人ヒーローも書きたいしな。明日当たり書いてたりして(笑)