緑の広がる山には清らかなる川が流れる。
深く息を吸ったならどこまでも肺を満たす清涼なる空気。
肌に触れる風さえ心地よくそよぐ。

幼い頃から好んで駆けていた小さな山。
………感情を全てその山に託していた。

哀しみも憤りも遣る瀬無さも寂寞も。

山は全て優しく包んで飲み込んでくれる。
だから……そこにはいつだってたったひとり赴いていた。

何故彼を連れ立ったか……理由など解らないけれど…………………

 

 

果実の実る日

 

………風が耳の奥を過る。
頬を打つ空気は容赦なく髪を弄びしがみついている腕が僅かに弛んだならそれに連れ去られることがよくわかった。
けれど子供はそれに頓着した様子もなく満足げに眼下の草原を見遣った。
自分の腹に回された太く逞しい腕。………八魔将軍と恐れられる魔王は憮然とした面持ちを隠すことなく雄々しいその羽を羽撃かせた。
男を見上げても視線は返らない。不貞腐れたような眉は不機嫌に顰められて引き結ばれた唇が如実に男の感情の所作を示したいた。
………別に強制はしていないのだ。
子供はただ訊ねただけ。
一緒に遠乗りをするかと……………
もっとも、その遠乗りが男自身の羽を望んだものであることは言わなかったのは事実だけれど。
馬を厭う気はないけれど…どうしたってその背に乗った景色を見れば思い出す色が脳裏を占める。
それがこの男の胸裏を傷めることを聡い子供は知っている。どれほど男が気づかれることを厭って隠しても嗅ぎとってしまう。
寄せた心は厭が応にも相手の感情に機敏になる。望む望まざるに関係なく…………
湧いた感情を誤魔化すように海原のような草原を見つめ……次第に近付いてきた小柄な山を指差して子供は男に声をかけた。
…………その声にはもう、僅かな寂しさも切なさも滲ませてはいない。
「おい紅蓮、あれだ! あの山に降りろ!」
明るく弾んだ声と、位置関係上覗くことは出来ないけれど零されているだろう幼い笑みに呆れたように男は息を吐く。
一体どこの世界に合戦を控えた一国の主が魔王を伴って山に遊びに出かけるというのか…………
子供に常識的な行動を求めること自体間違っていることをその出会いの奇異さ加減から理解はするけれど、それでも吐き出す息に罪はないと思うのだ。
こんな小さな子供に一体なにを期待して自分は傍に居座っているのか。
………遠い過去を想起し、それに縋りたいなどという気はさらさらない。過去の人は過去の人。永遠に彼が戻ってこないことを男はきちんと知っている。
ただ疼くのだ。………この子供の言葉はひどくこの胸に染みる。
破壊を好み暴れることを生き甲斐として、意味も見出せずに落とし続けた砂時計の砂。
その先に子供がたたずんでいた。
不敵な笑みで……血に塗れることすら厭わない愚かしくも清き王の魂。
指し示される指の先になにが広がるのか見届けたくなった。
無謀で無鉄砲。打算も妥協も携えていないまっさら過ぎたそれは危うい筈なのに驚くほど力強い。
その気高さに……圧倒される。魂の質など見えるわけもないのに………………
抱えた小さな身体を包む腕に僅かに力を込め、男は背の羽をよりいっそう強く羽撃かせる。
…………風の奥底に胸裏に蟠るものを落としゆくように………………

頂上付近にある小さな丘に男は降り立った。
腕を話せば尻餅でもつくかと思った子供は器用に着地して辺りを見回す。………普段は下から登ってくる為かいまいち場所が把握しづらい。
記憶の先に沈んでいる木の影を見い出し、子供は合点いったように頷くと運んでくれた男に振り返った。
「ほらいくぞ。………ってなにやってんだ…お前………」
「あ? 喰えるかと思ったが不味そうだな」
振り返った先にはいびつな角を携えた猪に似た生き物を片手で軽々と掴んだままなんて事はなさそうに答える男がたたずんでいる。
………一応それはこの山に棲む危険な野生動物に指定されている筈なのだが………………
まるで花でも摘み取ったような気軽さで放り捨てた男に刃向かうほど身の程知らずではない獣は慌てたように逃げて茂みを揺らした。
それを見送りとんだ人物を山に侵入させてしまったと子供は笑う。聖域ともいえるこの山はあまり人は踏み込まない。
獣たちの王国であり楽園だ。その為かなりの数の野生生物が生息し、中には人肉を喰らう化け物のような獣とて存在する。
…………もっとも闇雲さえ食べようとしたこの男から見ればどれも食料程度で恐ろしい生き物も毒性を孕んだ獣もいないのだろうけれど。
「…………貴様、城でもちゃんと飯を食っているだろうが」
呆れたような声は、けれどどこか軽く明るい。
ここにはいつも……一人で来ていた。たった一匹の従者とともに野を駆けながら剣の腕を磨く為に…………
遠い過去のようなその記憶を思い出さないでいられることが不思議だ。あまりに無頼な男の振る舞いが感傷に浸る隙さえ与えない。
歩き始めた背は誇らしいといえるほどにしなやかにのびている。
なにかを恐れるような足取りさえとることがない。弛むことなく示されるその道筋の先、なにが待ち構えているのか………
いまはまだ男にはそれが見えない。
子供が突き進んだ未来、それが男の望むものかどうかも…解らない。
ただ疼いた胸。逸らせなくなった視線。
ほんの小さなその原因故に離れることが出来なくなった。
………そんな些細な理由だけで自身の眼球を捧げるほど酔狂な筈はないけれど……………
等間隔を残したまま子供の後ろに男は控える。…………別に護衛として傍にいるわけではない。まして子供の実力は熟知していた。
自分ほどでなくとも、この山に生息するであろう獣が奪えるほどこの細い肢体は軟弱な筈がなかった。
小さな背はまるでなにもかも背負うように堂々と前を歩く。……人の後ろに従うことなどあり得ない誇りに包まれた高貴な背。
その背を見ることが……嫌いではなかった。
容易く腕に収まるほど華奢な腰肢は想像すら出来ない力を秘めている。
手折ることが出来ないほどそれはしなやかな羽根を携えていた。引き裂いたとて奪えない、それは生まれながらの気質。
………魂に宿る根源的なる意志。
不意に木の枝が子供の姿を掻き消した。獣道にもなっていない木々の間に身を滑り込ませたらしい子供に呆気にとられる。
子供ほど小さな肢体ならば潜ることは可能だろう。……それでも男ほど屈強な身体が割り込めるほどそこは広いとは言えなかった。
枝を折ったところで気にもとめないけれど……後々子供がうるさそうだと少し男は顔を顰める。
かといってこのままここで待ちぼうけを喰らわされるのはあまりに癪で、文句をいってきたなら怒鳴り返そうと決めた男は遠慮なく破壊音とともに前に進んでいった。
木の束縛から解放されれば……思った通り憮然とした子供の顔が眼前に用意されている。
「少し屈めばそこまで無差別に折らずに来れるだろ!?」
「うっせーなっ! そう思うなら俺でも通れる道を作れっっ」
ただでさえ体躯に恵まれた男は子供の身長で容易くいける場所の大部分に困難を伴う。
………勿論それは障害にもならない程度のものだったが…その度にこうして子供が怒鳴ってくるのだからいい加減うんざりもした。
苛立たしそうに返された言葉に少しムッとした子供はつい言葉を零してしまう。
言うつもりもなかった……言葉だった筈なのだけれど…………………
「まったく、虎王だってそれくらいは考えて………………」
苛立たしそうに呟かれた言葉は……途中で虚空に消えた。
それが消えた金色(こんじき)を思い出した故か、男に遠慮したが故か解る筈もないけれど…………
ただ逸らされた視線が気に入らなかった。
まるで見つめることを厭うようなその仕草が男の顔を険しくさせる。
小さく子供は息を吐き、自身の内に蟠るなにかを沈下させるとくるりと後ろを向いた。
………小さな声は先程とは比較にならないほどで、いっそう男の視線を熾烈にするのだけれど……………
「……今更いっても始まらんな。いくぞ」
弛まない声。けれどそれに潜む微かな寂寥。消えるはずのない喪失感が何故か解らないわけがない。
男の瞳の奥、僅かに切なさがしみる。
何故かと……問うことは出来ない
それは自分が犯した出来事。赤く引き裂き燃え上がらせたのは、自分。
本気でこの子供を屠ろうとしたが故に晒された魂の真価。
だから囁ける言葉なんて持ち合わせてはいない。
それでも……思うのだ。
選んだのであればその腕を曇らせるなと…………………
幼い背が先を進む。小さくなったそれに苛立たしそうに男は腕を伸ばした。
肩に触れたなら…そのまま首まで手折ることが出来そうに薄く小さな肉体。それでも屈強なる戦士の………
動きを遮られた子供は不思議そうに眉を寄せて男に振り返る。
疑惑も不審も抱かない。真直ぐなその瞳は男の魂の奥底まで深く射る。
小さく息を飲み、男は子供の頬に掌を這わせた。鋭くのびた爪が頬を彩る傷痕を辿る。
なにをしたいのかいまいち理解しかねている子供は訝しそうに男の顔を覗く。
………視界に入ったのは底知れない朱金。揺れる瞬きに痛む胸はあるけれど…どうすることも出来ない。
忘れることなど出来ないたった一匹の友。自分の為に生き………死んだ彼。
それをもたらした男を恨む気もないのだから…もうそれで忘れてしまえばいいのに………………
男は忘れない。決して……その腕を染めた赤を。引き裂いた金色を。
頬を辿る指先に飽いたのか、男の唇が降り注ぐ。熱く……なにかを忘れさせるように触れるぬくもり。
嬲るように舌先が傷痕を舐めとる。瞼を閉じて甘受すれば塞がれた唇。
どこか乱暴な……それでも壊さないように祈った口吻けは息苦しくとも拒むことは出来ない。
忘れさせたいのか。……忘れたいのか。
どちらも不可能なことを願う口吻けはどこか切ない。
子供の息がきれかかった頃、ようやく離れた唇に安堵の溜め息がこぼれる。正直……息継ぎが出来なくて酸欠に陥りかけていたのだ。
………肩で息をしていた子供の肌をまとわりつく男の指先を咎めるように小さな指は引き剥がそうとする。
それでも物理的な力関係にかなうわけもなく、子供は眉を顰めて男を見上げた。
「……俺は山桃を採りにきたんだ。貴様も腹は減っているんだろ?」
奇妙な獣を食べようとしていたくらいだ。腹を満たしたいのならばすぐ先にある山桃のところにいって実を採ればいい。
悪ふざけはもうよせと困ったような視線が囁けば……また降り注ぐ熱。
触れるだけで離れたそれに身を固めていれば噛み付くように頬に牙をたてられた。
微かな痛みに訝しげな視線を向ければ広がる……朱の悲哀。決して見せようとしない、それは隠されゆく男の心底。
痛ましくて……眉が寄る。
男の内にある痛みの原因は、どれほど拭おうとも子供が子供である限り消えることはない。
「………減ってるのは腹じゃねぇよ…………」
掠れた声が男の唇から漏れる。
囁きを溶かすように唇を舐めとる男の舌先に身体を震わせ、子供は止めるように逞しい肩を押した。
それを拒み……深くなる口吻け。
欲しいのは身を満たす食料ではない。
腹に落ちる獲物ではない。
喰わなければ命を途切れさす……身体を生かすものを願っているわけではないのだ。
欲しいのはこの魂を生かすもの。
腐れゆく道を浄め、在りし姿を思い出させるなにか。
………それは子供以外の何者にも不可能なこと。
極上の獲物に男は切なげに小さく笑った。
自身の魂を生かす為に不可欠な栄養素。
…………………子供の肉体も魂も……………
途切れたなら手折られる翼。手放せるわけがない。
これは命の糧。
色褪せぬ世界を見つめかける為には補給し続けなくてはいけない。

溺れた自覚が男の身を苛むとも心はもう、止めようもない。

苦しげな男の眉を見つめ、子供はゆっくりと瞼を落とした。
肌を触れる指先を認め、受け入れる。
それでも溶けない眉間の憤りと蟠りに細い指先が触れた。
許しを与えるように触れた唇の温かさに、男の瞳は切なく瞬く。

畏れる男の逞しい首を、子供のしなやかな腕は抱き締めた…………………








なんて懐かしいのでしょうか……タンバリンです。
すっかりリクこなくなって書かなかったからな(笑)←オイ。
でも久し振り過ぎてキャラクター忘れてた……。特に紅蓮(汗)
自分の記憶力のなさに笑いましたわv

本当は山桃でヒデローにジャム作ってもらおうということからヒデローに焼きもちやく紅蓮なはずだったのに……なにを間違えたかこんな話になりました。
本当に私思った通りに話書けないな(汗) もっと計画的にならなくては(悩)