夢を見るのだ。
それはあまりに他愛無い夢。
愚かしいと笑い飛ばせる、そんな夢。

……………それなのに、どうして?

ひたひたと忍び寄る足とともに、振り返る君。

笑うその幼ささえ同じまま、どうして?

ああ愛しい君のその笑顔。

備えられていた君の躯は

………どこに、いってしまったの………………?





面影の井戸



 ……ぴちゃり…………

 耳に水音。
 夕暮れも近付き、それはさして遠くない距離で聞こえた。先ほど水浴びをしてくると駆けていった幼い背中を思い出し、辺りの気配を探った。
 仲間の押し殺した気配だけしか感じることはなく、今のところ、人としての気配の交じった子供の匂いが感じ取れる。………まだ、完全に自分達の側に足を踏み入れたわけではないと微かな安堵を覚えた。
 愚かしいと思わなくもないその安堵を、忌ま忌まし気に噛み潰す。軽く振った頭で同じく水でも浴びて思考を冷やそうと茂みに足を向けた。
 風は少しぬるい。まだ夏にはならないが、水浴びを寒いと思う時期でもない。初夏のぬるま湯のような大気を縫って歩けば、すぐ近くから鈴を転がすような声が響いた。
 「あら、飛天様も水浴び?」
 「………オメェもか?」
 愛らしい顔を喜色に染めて腕に飛びついてきた静流を呆れたように見ながら問いかける。さすがにこう自分を慕う相手と一緒に水浴びは避けたいと思いながら。
 そう思ったことが伝わったわけではないだろうが、含むように小さく笑い、静流は頬を寄せて腕にすり寄り、ころころと笑う声のまま答えた。
 「ざ〜んねん。いま出たところなの。あ、でももちろん飛天様が是非というならもう一度くらい………v」
 「さっさと髪乾かしてこい!」
 すっと胸を撫でる静流の指先を払うように押しのけ、顰めた顔でいえばクスクスと笑われる。…………どこか、こういった態度をとることを解っていながら静流はわざと迫る癖がある。甘えるように縋るように、それは助けたあの夜から変わることなく捧げられる思慕によく似ていた。
 小首を傾げて口元に手をやり、艶やかに笑いながら静流は楽しそうに囁く。自分になびかない飛天を、どこか喜ぶように。
 「本当に飛天様はかったいわ〜。仕方ないからまーくんでもからかってこようかしら」
 真面目な凶門ならからかいがいがあると楽しそうに気配の方に目を向ける静流を見遣りながら、少し頭痛がする。また戻ってきたら凶門の小言を聞かなくてはいけなさそうだと思うと溜め息の一つも吐きたくなった。
 「…………結界の外に出んじゃねぇぞ」
 「それは天馬に言った方がいいんじゃないかしら。あの子、ずっと町の方見てたわよ」
 ふと、いま思い出したかのように静流が自分の歩いてきた方に目を向けながらいった。まるで、とっておきの情報を差し出すような仕草で。
 結局はそれを言うために自分の気配がある方へと歩いてきたのかと唇を引き締める。わざわざ静流がそんな真似をすると言うことは、相手の視線に何らかの重さを感じたのだろう。
 あるいは、問いかけても天馬が答えなかったのか。
 どちらにせよ、そういった場合の対応は自分か凶門かに回ってくる。偶然を装ったり、自然な流れでそう仕向けたり、どうも静流には行動パターンのみならず思考パターンさえ把握されているような気がしてしまう。
 「どうしてだかまでは知らないから、解ったら教えてほしいわ」
 静流の視線を追うように向けた面を眺めながら、少しだけ寂しい声音が囁く。それは教えられそうになければ言わないでいいという気遣いさえ込められた声。
 それに複雑な顔を向ければにこりと笑い、静流はもう一度頬をすり寄せると腕を解いて駆けていってしまう。華奢な背中はあっさりと茂みに隠れ、気配を追うことでしか確認できない動きを早々に遮断した。多分、悔しいのだろうその思いをこれ以上侮辱はしたくなかったから。
 「…………あいつも…」
 随分成長したと、誇らしく思う。自分のことしか考えられなかった一途さしか持ち合わせない幼い顔が守るもののそれになっていく姿は美しく、勇ましかった。
 そうして再び振り返り、その先にいる子供を思う。
 ………初めて会ったときから守る行為しか知らない、不器用な子供を。

 ……ぴちゃり…………

 微かに響く水音。それは普段騒ぐ子供が醸し出すにはあまりにささやかだった。
 解るようにわざと気配を出し、茂みを掻き分ける音もつける。心の準備をさせるつもりで晒した音を聞いているのか、水音が止んだ。
 茂みを抜けて顔を出せば池には子供一人、使っている。腰まで水につけたままじっとこちらを見ている。
 ぼんやりと、まるでほうけたように。
 「あ………飛天かぁ」
 「他にこんな気配の奴がいるか」
 きちんと気配で気づくようにしろといってみれば苦笑する子供。いつものように言い訳するわけでもなく静かなその反応に眉を顰める。
 どうした、と、問いかけるにはあまりに原因が多すぎた。ひとつを引き出せば芋づる式にすべてが現れ、子供はパニックに陥るだろう。あまりに彼は純粋で、あまりに全てにまっすぐすぎて………それ故に、ひどく不器用だ。
 言葉に詰まったことが解ったのか、飛天を見上げた天馬は、そのまままた視線を逸らしのんびりと、木々の挟間に見える町を見下ろした。結界の中にあるこの場と、一般的な人間の住む町とは時空的には同じでも隔絶しているのでどれほどこちらからよく見えても相手側から気づかれることはない。ましてこれほど遠く離れていれば、まず見えることはない。
 それを見つめる視線は、どこか懐かしそうだ。まるで、桃源郷を見つめるような憧憬さえ、こめて。
 考えた瞬間、知らずその腕をとっていた。水に濡れた布がずっしりと重さを訴えるがそれさえ気にはならなかった。
 きょとんと。………まるで不思議なものを見るような子供の大きな瞳があまりに透明で、息を飲む。
 まさかと思い、同時に、きっとと思う。
 飲み込んだ息が喘いでいるようだった。
 …………言葉が思い付かない。まさかと思っていたい自分に呆れる。こういう時にこそ、自分がかける言葉があるはずだと言うのに。
 見上げる天馬の目はどこまでも深く澄んでいて、夕暮れ時の赤さを映したように、煌めいていた。
 その傷だらけの身体もまた、夕日を照り返すように、赤い。
 「大丈夫だぜ、飛天」
 にこっと笑い、天馬が自分を掴む腕とは逆の肩を叩く。…………ぽんぽんと、力を加減して、注意深く。
 少しずつ力の操り方を覚えてきたその仕草に唇を噛むことは、きっとこの子供を辱めるのだろうと思う。それでも、どうしてと思ってしまう自分の愚かさを呪いたくなった。
 そうあれと、囁き続けたのは自分だ。
 どれほどの妖怪たちを消し去ろうと生き残るために強くなれと、そのために人であることすら捨てなくてはいけないことを解っていながら、言い続けた。
 そうだというのに、その覚悟を、戦い以外の場で見たからといって誉れとなる言葉を与えず悲しむなど…………
 噛み締めた唇が熱い。もしかしたら噛み切ったかもしれない。生温い感覚が唇に広がり、固く目を閉ざす。まるで、逃げるようだと思いながら。
 「気にすんなよ。俺が自分で選んだんだからさ」
 困ったように天馬は言葉を重ねる。痛むのは自分一人でいいのだと、そう言うように。
 ぱしゃりと飛天を励ましていた腕が水に落とされ、波紋を作った。
 微かに開かれた視界の中、飛天は注意深くその様を見つめる。……揺れる水面には、夕日の影。あるいは、木陰。
 波紋が消え、光さえ鮮やかに返す水面に映るのは空と夕日と木々の影だけ。
 ………もう、子供の影は、映らない。
 「大丈夫、俺は俺のままだから」
 変わらない笑顔で、明るいその声で、天馬は繰り返す。悲しまないでと祈るように。
 湖面を破るように幼い腕が動く。ぱしゃんと水を弾く音が響き、水の波紋がまた広がる。
 「平気、だからさ……」
 幼い笑顔のまま繰り返すその声があまりにも痛々しくて。
 ………悲しみさえ、一人耐えようとするその仕草があまりにも潔すぎて。
 赤く染まった金糸の髪に指を絡め、抱き寄せる。
 「………餓鬼が一人で偉そうなこと抜かすな」
 噛み締めるように唸るように、低い声が響く。
 解っていて、自分はそれを推奨した。今更、悲しむことすら偽善だ。
 それでも悲しむ子供を見ていれば疼く心くらいあるのだ。愚かしいと自分でも思うというのに……………
 「いまだけ、許してやる。泣きたいだけ泣いておけ」
 抵抗と言うにはあまりに儚い腕の動きを制し、決して涙が見えないように腕の中に包んで、呟く。
 この先どれだけ傷つくかなど解らない。もっとずっと多くの悲しみが待っているかもしれない。
 それでも生きろと。ただ生きて欲しいのだと、自分は願ってしまうから。
 「………テメーはまだ、餓鬼なんだから………」
 免罪符のように普段はからかうその言葉に己が縋る。
 押し殺した泣き声さえ聞かぬ振りをして見上げた空は、赤。
 沈みかけた夕日はただ静かに赤くすべてを染めて落ちてゆく。

 縋る子供の腕を抱きとめ、一時でもこの赤から守れればと思う、愚かさ。

 

 








 いかがなものでしょう。久しぶりの飛天馬。
 なんだか飛天書くことが久しぶり?(笑)

 面影の井戸と言うのは井戸に映した姿が見えなければ命数が尽きることを意味することらしいです。
 今回の話の中では人としての存在として扱ってますけどね。

 あー、なんだかこういう天馬を甘やかす話書くと凶門が書きたくなってきてしまう(苦笑)

 04.10.20