煌々と月が照る
薄絹を纏わせるように淡く輝く
月が 照る

闇夜を縫って光が舞う
星屑を抱いて仄光る
月が 照る

零れ落ちた月明かり
拾うは人か
………化生か





月影の羽根



 真っ暗な室内で小さな寝息が響く。よく眠っているらしい子供に軽く息を吐き、男は音もなく窓辺を見上げた。
 カーテンに遮られたその先を求めるように腕を伸ばし、差し込む月光を浴びる。
 硝子を透かしたその不粋さに眉を顰め、指先一つで窓もまた、開けた。
 窓枠に切り取られて見える夜空には満月に一歩及ばぬ僅かに欠けた月。その盛大な月明かりに星たちの瞬きも霞んでいた。あるいは、この土地からそれほど多くの星を望むことが出来ないだけなのかもしれないが。
 思い、また眉が顰められる。あの山は、いつだって満天の星が見上げられた。今もなお粛々と自然を受け入れている、厳かな山。懐かしいと思うほどの時間が経っているわけではないが、こうして拘束され自由が利かない身としてはひどくそれは魅惑的に思えた。
 夜の闇に溶けて月明かりを浴び、空を自由にこの手に掴む。あのなんともいえない心地よさが肌を震わせる。窓枠から入り込む風の緩やかさが物足りない。
 魅入られたかのように空を見つめていた男は、それ故に袖を引く感触がするまで気付きはしなかった。
 少しだけ意外そうに大きくなった目が背後に向けられる。自分の膝を見遣るような低い位置、月明かりが凝り固まったかのようにそこに鎮座するものがある。
 太陽の下では輝くように明るいその色も、室内の闇に遮られ僅かな月明かりに照らされるだけの今は輝きも淡く、上等の絹のような光沢だけが浮かんでいた。その固まりから伸ばされた、やはり月明かりだけに照らされ普段よりも色を失って見える白い腕が、男の服の袖を摘んでいた。
 「…………起きたのか」
 熟睡しているものだと思っていたと喉奥でからかうように男が呟く。その声が響くと凍り付いたかのような子供の腕が小さく撥ね、摘むだけだった指先が昨日を思い出したかのようにしっかりと掴むように動かされる。
 それを視野に収めつつ、男は自分を見上げていたその顔の変化を見つめた。
 表情をどこかに置き忘れたかのような能面の顔に、ただ必死さだけをたたえた眼差し。袖を引く指先がなければ人形とでもいってやりたいそれが、一声かけただけで普段の子供の屈託のない鮮やかな笑みに変わった。
 「寝てたんだよ。でも風があったからさ」
 男を見上げる視線がゆるりと動き、男の背後、開け放たれた窓へと向けられる。
 鮮やかな、満月になりきれていない不完全な月の光沢が窓枠から見える。月を背にした男の影が、僅かに濃くなったように感じられた。
 「窓開けたまんま寝ちゃいけないし」
 だから眠かったけれど起きたのだと、苦笑するような仕草で笑った子供は縋るような指先を解かぬまま、男の傍らに胡座(あぐら)を組んで座した。
 その横顔を見遣りながら、そういえばと思い出す。両親が不在がちな子供の家は、それ故に戸締まりは几帳面だった。ずぼらに見える子供にしてはしっかりしているとからかったとき、これが出来なくては両親が安心して仕事ができないと、奇妙に大人びて笑った。
 子供をそのまま体現したような、そんな無邪気さをさらすくせに、ふとした時この子供はひどく凛とした表情を見せる。それは大人の顔ではなく、責を背負う男の顔だ。
 そしてそれは口先だけではなく実行力を伴っている。そうでなければこんな風に、真夜中に風が頬を撫でたくらいでは目を覚まさないだろう。
 呆れたように息を吐き、男は自分の袖を今もなお掴んだまま離さない子供の額を、逆の指先で弾いた。
 痛みに小さな悲鳴が上がり、ヒリヒリと痛む箇所を覆うように両手が持ち上げられた。ようやく解放された袖は皺が寄り、その箇所だけひどく無様に見えたが、あえて男は気付かぬ素振りで窓の外に視線を向ける。
 「餓鬼の癖してナマ言ってやがる」
 くつくつと笑うように呟けば、頬を膨らませるようにして睨む子供の視線が向けられた。
 しばらくの間それが続くが、やがて飽きたのか、それとも眠りの誘惑が訪れたのか、子供は視線を逸らして軽く息を吐いた。
 軽く見下ろした先の子供は、また手を伸ばしている。止めぬままそれを見つめていれば、またその指先は男の袖を掴んだ。
 いぶかしみ、男は顔を顰めて子供を見下ろす。空を見るわけでもなく、子供は窓に背を向けたままただその手を男の袖に絡ませるだけだ。
 何の意図があるのだと問うよりも数瞬早く、視線に含まれる疑問に気付いた聡い子供は困ったように笑って男を見上げた。
 「………なんかさぁ、起きた時、お前がいなくなるかと思ったんだ」
 「はぁ?」
 驚くというよりは多少戯けを込めて男が声を漏らす。自分が捕われていることを誰よりもよく知っているはずの子供が言う言葉ではないと、暗に揶揄する声。
 憑カワレとして符に縛られ子供の内に括られているのだ。日常では子供の内に存在している自分を知らぬはずはない。それはククリの呪者以上に実感を伴っているはずの事実。
 男の声にそんな答えが聞こえたのか、子供が笑った。
 太陽の下と変わらないはずの笑みは、月を背に夜を抱えているが故に、幾分寂しげにさらされた。
 「俺が起きても気付かないし。そのまま空に飛んでいきそうだったからさ」
 お前は自由に飛べる羽根があるからと、袖を掴むのとは逆の指を伸ばして男の背にたたずむ漆黒の羽根を撫でる。滑らかな、心地いいその手触りに子供の笑みが深まった。
 「まあ別に俺、家に一人でいるのに慣れてるし、みんなも気にかけてくれるから寂しいわけじゃないけどな」
 毎日のように野球で忙しいから疲れてすぐに寝てしまうしと、子供は笑う。
 笑いながら、それでも袖を掴む指先は解かれない。………否、なお強く、掴んでいる。
 震えるように強く掴む指先は、強がる言葉を裏切るように切実だ。
 ずっと一人に慣れていて、そう在ることがある種の誇りとさえ、なっていて。両親が自慢してくれる、そんな息子であることが誇らしくて、小さいながらに生きていた子供。
 哀れむつもりはない。けれどそれを誇ればいいといえるような関係ですら、なく。
 ただ縋るように伸ばされる幼い指先を振払えずに男は息を飲む。
 不意に肉親の情に弱く、それが故に潰えた生き物が脳裏を掠める。………人の世に関わることの儚さに流した涙を忘れてはいない。
 その悔やみも憤りも、何一つ褪せることなく自分は覚えている。忘れるには自分は悠久を生きることに長け、それらを刻み込む術に慣れ過ぎていた。
 鮮やかに笑うかつての子供。同じように笑う、この子供。
 情の深さは人の特権だろうか。それとも、これらは希有なる生き物で、情の深さは自分達妖怪の方が勝るのか。
 誰も知るはずのない問いを思いながら、男は一瞬、月を見上げた。
 不完全であっても煌々と照る、他の同種のいない、地球を回る唯一の衛星。そうして他の生き物たちに夜の闇の恐ろしさを軽減させるかのように、何を求めるわけでもなく灯火を与えている。
 それはどこか、と、そんなことを思うこと自体、愚かだ。
 滑稽な物思いに口元を歪ませ、男は腕を伸ばすと子供のパジャマの襟を掴み、持ち上げた。
 「おわっ?! び、飛天?」
 唐突な動きに羽根に魅入っていた子供は追い付けずに上擦った声で男の名を呼ぶ。警戒もない、ただ問うだけの声音。
 恐れもなく自分に対峙した子供。何も知らず、それでもその情一つで他を守ろうとする命。
 それはきっと希有だろう。尊ささえ、同種の生き物たちは忘れ果てた純正さ。
 「暇だからな、ちょっとつき合え」
 お前がいなければ外に出られないのだと、そう笑う口元が教えれば、子供は目を瞬かせて眼前の男を見つめた。
 ばさりと羽根が揺れて室内にその音が響く。その意味するところに気付いた子供が破顔して拙い腕を男に伸ばすと弾んだ声をこぼした。
 「ミッチーには内緒な!」
 伸ばした腕を男の首に回し、落ちないようにぎゅっとしがみつきながら楽しそうな声が部屋に響く。
 確実に今現在進行形でばれているだろうことを男は知っているが、あえてそれを正す必要もないと笑い、子供が己の背に居場所を見つけたことを確認すると羽根を広げた。
 窓枠に乗せられた素足が空中へと舞う。その瞬間の浮遊間に子供は目を輝かせた。
 一人家にいることは寂しいことではない。もうとうに慣れたことだから。
 それでもいま、どんなときだってこの男は自分と一緒にいるのだ。片時だって離れることが出来ない、それは呪縛というに相応しい拘束。
 けれどそれが故に、子供は思い出してしまった。誰かが傍にいつでもいるというそのことを。もっとずっと小さかった頃、伸ばした腕の先に必ず体温があったことを。
 そんなこと教えるつもりはない。からかわれるだろうし、バカにされてしまうから。それでも彼はほんの少し言葉に換えたそれだけでおおまかなことを悟って、こんな風に自分の望みを叶えてくれる。
 ぐんと高度が増し、少しだけ空気が薄れる。髪が跳ねるように舞い、頬を過る突風に息を飲む。
 羽根を持ち自由に空を駆けることの出来る、強靭な肉体で持って他を寄せつけることのない男。
 それでも彼が舞い上がる時、そこには自分がいなければ不可能なのだと。
 …………一人勝手に消えることはできないのだと。暗に示して教えてくれる。
 それが嬉しくて、子供はまだ眠気を引き摺った身体をなんとか男の背から落ちないようにしがみつかせた。

 月明かりの下、人には見えない影が舞う。
 ちぐはぐな二つの影は、楽しそうに空を駆ける。

 …………まるでそれは一対の鳥のように。

 

 








 久しぶりに飛天馬。この間帝月は書いたけど、飛天は久しぶりだ。
 時期的にはまだ天馬に額に符が張り付いているときの話です。帝月は所用で離れているので、その間の用心棒代わりに飛天は外に出ていました。
 その辺りを冒頭に書こうかなーと思ったのですが、別段必要でもなかったし説明的になるので止めたよ。

06.9.24