月を見れば思い出す。
夜気に触れれば思い出す。
太陽を見れば思い出す。
風に吹かれれば思い出す。

……なにをしても思い出す。

それは片時も離れなかった人の事。

いまはどこに捕われているのか、解らない人。





言葉に括る



 土の香りの濃さに心が躍る。正直にこういった雰囲気の中が好きだと心が認めていた。
 こういった自然の中で生きる事とは案外無縁だ。いくら無邪気な子供であったとしても生きる場所を選ぶのは親なのだから。
 多くの気配が肌に触れる。これは自然の気配と言うべきか。間近にいる仲間たちの騒々しさとは違う、深々と降り注ぐ月明かりに似た静けさ。目を瞑れば胃の奥底、何かが蠢く気配。
 初めての旅と、いうべきなのか。案外多く色々なところに連れて行ってはもらっているし、宿をとるような事は少なく、大抵がテントとかの野宿に近い状態だった。そのおかげでいまも特に知識に不足はないのだから有り難いというべきかもしれないが。
 それでも初めて、と思うのだ。
 ……心躍る事だけを思い駆ける事のない足は。
 楽しい事がないわけではない。日中歩き回っている時、なにかと仲間たちは面白そうなものを発見しては自分の気持ちを和ませてくれているから。
 それでも迫る夜気には克明なほどに焼き付いた闇色の少年を彷佛させる。他のなにも入り込めないほどの切実さで。
 少しの憂い顔。傍にいる事を躊躇ったような微かな間。友達だからいいのだと笑えば、馬鹿だと顔を隠して呟く。………傍にいるそれ以上の理由なんて、自分はいらないのだと笑えば唇を噛み締める。
 難しい事ばかり考えて、初めて会ったあの時凍り付いたその性情を開花させた黒衣の彼は、それが故に苦しむ事が増えた気がする。
 木立の間から吹きかけた風に気づき、閉ざされていた瞼が開かれた。初めに映ったのは、月。煌煌としたその明かりが頬を流れる。
 「………こんなところにいたのか。そろそろ寝ろ」
 風を入り込ませた原因が声をかけた。長身の影。そよぐ風に躍る黒髪が闇夜の中で蠢いている。
 それを見遣り、軽く笑った。心配をかけないようにいつものように笑うつもりだったのが、少し力なかったかもしれない。
 「…………天馬?」
 返された問いかけるような声と少しだけ鋭くなった視線。
 一度月を見上げた天馬は、にっと凶門に笑い、頷くと足を踏み出した。
 少し離れた距離を埋めるように天馬が数歩駆ける。子供のような仕草で伸ばす腕を不可解そうに見遣る視線の中の、疑惑。
 ひんやりと僅かに冷たい指先の感触が肌に触れた瞬間、思わずその手を掴む。
 ………もともと、自分達とは違い普通の人間の天馬は体温がある。それは自分達よりは僅かに高く、操る事も出来ないのだから寒さに晒されれば自然、冷える。
 けれど今は寒気が訪れるにはまだ早い。それでも冷えている指先は、なにを示すのか。
 遣る瀬無くて、言葉を飲み込む。どれほどの言葉を与えても、結局は無意味だ。与えるべき音ではない音がさえずっても心は癒えない。
 「どうしたんだよ、凶門」
 きょとんと不思議そうな子供のあどけなさ。気づいているのかいないのか。……おそらくは無意識のままに。
 遣る瀬無くて、胃が痛む。………そんな機能、持ち合わせてもいないこの身で。
 顰められた眉はおそらくは厳つい自分の顔をより無愛想にしているだろう。天馬が顔を顰めて唇を尖らせる様が目に浮かぶ。
 それでも凍った指先を離せない。あたためるべき者がいないから、尚さらに。
 抱えられたままの指先をさして気に止める事もなく天馬は凶門を見遣る。どこか息苦しそうな顔を大きな目に映した。
 ………そうして、笑った。底抜けに明るい、いつもの顔で。
 一瞬の魅了。何もかもを……月明かりさえもを引き寄せて笑う子供は朗らかなその声で謳うように囁いた。
 「なあ凶門。今日の月は、なんていうか知ってるか?」
 掴まれていない指先で空を示す子供。その指先を追い空を見遣れば木々に隠される事なくその身を晒す月がある。
 細く削り取られその身を照らすのは三日月。
 なにを言いたいのかとさらに顰められた眉のまま、けれど求められるままに答えを口にした。
 「三日月だろう。下弦の月といえばいいのか?」
 どちらの答えを求めているのだろうかと呟いてみれば、吹き出すように大きな笑い声がその唇から溢れた。
 ぎょっとして、固まってしまう。いまもまだこの子供の突拍子のなさには考えが及ばない。大抵よく考えてみれば至極単純で明快な解答でしかないはずのそれは、それでもその場ではひどく複雑怪奇だ。
 いまも同じで、なにを笑ったのか解らない。ずっと……沈んでいた事くらい自分にだって解っていた。手がかりは少なく、そのくせ壁ばかりが高い。伸ばした手が届かない可能性だって低くはなく。まみえる前に潰える事を想定しないわけにはいかないのが現状だ。
 そんななかで極普通に生きた子供が笑い続けられるわけがないと、思う。
 願いさえ霧散するだろう事を考えないわけがないと思うのに。
 …………あまりにこの子供は当たり前を忘れないから、解らなくなる。
 「凶門は難しく考えるよな。本当に監督って感じになってきた」
 目を眇めて、嬉しそうに言う。まるでこの成長を喜ぶような言い方とその表情にむっとするが、敢えてなにも言わなかった。
 ぎゅっと、その小さな身体が自分を抱きしめたから。
 声を……顔を隠すように押し付けられた状態で、楽しそうな音を紡いだ唇が答えを差し出すように音を紡ぐ。
 「今日の月は「ミカヅキ」だろ? 帝月っていっても、今夜は誰もなにも言わないんだ」
 空気よりも些細な反応だけれど、自分がその名を口にすれば揺れるものがある。それを探し求め、こうして旅立ったからこそ、誰もが慎重になっている事が解らないほど子供でもない。
 それでも遣る瀬無くなる。探しているその人の名すら、囁く事に気をつけるなんて。
 縋る腕に力を込めて、………肚の底に力をためる。
 誰かを非難したいわけではないのだ。ただ、その名を囁く時が欲しい。忘れたくないし、摺り替えたくもない。
 美化して失望なんて愚かさ、子供だからって持ちたくはないから。
 離れ離れになるなんて思ってもいなかったのだ。自分の傍で監視するのだとかいいながら、帝月はいつも一緒にいたから。
 家族よりもずっと長い時間を、傍にいてくれたから。
 なんだか当たり前に思っていた。あの気配が傍らにいて、自分の言葉にため息をついたり馬鹿だって言ったり。………結局は最後の最後、手を差し伸べて一緒に駆けてくれたり。
 当たり前なんだって思っていたから、なにも言わないでいなくなった事に腹を立てた。帰って来たら開口一番文句を並べてやろうと思っていた。
 それなのに、あんな姿で泣くから。
 …………自分の符が守ってくれるなんて言うから。
 身体のどこかにポッカリと穴があいた。
 傍に帰れないと、宣言された気分だった。もうそこには戻れないと言われた気がした。
 弱音なんか吐きたくないし、エースはいつだって強気で不敵でいるものだって、解っているのに。
 泣きわめきたくなった。一緒が、よかったから。
 「帝月って呼んでも……月を見ていれば……いいんだ」
 だからほんの少しだけ一人でその名を呼んでいた。
 決して悲しんでいたわけではないのだと、顔を埋めた腹に直に響く幼い声が呟いた。
 ………微かに濡れた自身の肌と震えるその音に子供が涙している事くらい十二分に理解していた。
 なにを泣いているとか、厳しい事をいう事は簡単だった。それでも追いつめていたのはきっと自分達だから。
 その月を溶かした髪を撫で、幼い身を抱え上げる。
 「……暫くそうしていろ」
 肩に顔を埋められるように位置を定め、抱えた重みを苦もないように凶門が歩き始める。歩く方向からいって自分の眠るテントに向かっている事は解る。飛天たちは樹の上の方が落ち着くと言って少し離れた場所で眠っている。きっと、結界とか張ってくれているんだと思うけれど。
 このままテントに連れて行かれても、おそらくは誰もからかってはこないだろう。まるでなにも見なかったように気に止めずにいてくれる事も解っている。
 それでもほんの少しの悔しさと恥ずかしさが込み上げて、むっとした声をその肩に埋めた。
 「子供扱いすんなよな。俺は天リトルのエースなんだからな!」
 揺れる歩調。柔らかなそれは負担をかけないようにゆっくりと歩いてくれているからだと、解る。
 「俺たちにしてみれば胎児にも満たない」
 大きな肩。広い背中。………父親でも友達でもない。それでもひどく近しい。
 「……〜んだよ…、俺、赤ん坊以下かよ」
 言葉に詰まるように唸ってみれば無言が返される。
 泣きたければ泣けばいいと示すようにさし出された隠れ蓑。
 悔しいけれど、結局は甘えている自分。
 ………それがなにかなんて知らないけれど、それでももしかしたらなと、思う。
 妖怪で何百歳違いかなんて考えたら笑い事だけれど。

 兄がいたらこんな感じなのだろうかと、揺れる肩と包むぬくもりの中、ぼんやりと思う。

 空にかかった三日月。
 いまはまだ遠いその人に囁きかける。

 傍にいる為の理由なんていらないよ。
 だからみんな一緒にいよう。
 そんな遠くにたたずんでいないで…………

 

 








 旅している間、こういうやり取りは多かったかなーと思うのですよ。
 なんだかんだ言っても天馬はまだ子供だし、突然色んな事あり過ぎて脳内許容量オーバーじゃないかと。
 そういうときにさり気な〜く八つ当たりできる人(笑)は凶門の方向で。
 うちの二人は兄弟ですな、本当に。