初めは憤りだった。
目の前が真っ赤になる感覚、初めて知った。
こんな激情が自分の中に眠っているなんて思いもしなかった。
痛々しかった。
泣いているなって、思ったから。
なにに悲しんでいるかなんて解らない。
ただ泣いている姿だけが、解った。
こっちにおいでよ。
一緒に笑おうよ。
悲しい事ばっかりなんて、嫌だろ?
楽しい事を覚えるのが罪なんて、そんなわけないんだから。
ひとり生き残った事を嘆かないで。
単独の命の果てる先
空はそろそろ茜色に染まり始める。
もうじきに終了の声がかかるだろう。監督の声が響けば今日の練習も終わり、同時に一日が終わる。
つまらないな、と一瞬過った考え。もっとずっとずっと野球をしたい。
別にそれだけが生きる糧ではなく、ゲームだって好きだしテレビだって見たい。でも、そういった欲求すら通り越して魔力的な魅惑でもって野球は自分をとらえて離さないのだ。
気怠くなっていく指先や重さを増す肩。それでも正確な直球を投げる事が自分には出来た。それが嬉しくて、更に積み重ねた数だけ球威は増し、正確さは比類なくなっていく。
楽しかった。それを追いかけている間は寂しさも空しさもなかった。
だから……少し前までは練習が終わってもひとり残っている事が多かった。そのせいで監督は殊更自分に目をかけてくれたけれど。
今更ながらに思い知る。心配をかけていたのだろうな、と。
監督の声が響き、選手がみんなその前に集まった。コーチである凶門は監督の隣に控え、明日のメニューを読み上げている。今週末には練習試合があるから、それに向かって紅白戦を行うと言うと沸き立つように歓声が上がった。地道な練習より、やはり試合の方が楽しい。
はしゃいで飛び跳ねる友人たちと一緒に絶対に勝とうと笑っているとようやく解散の声が響き、ざわめきの中帰路につきはじめる。
鞄の中に道具をしまい終えたユージたちが天馬を振り返る。未だ道具をしまわずに立ち尽くしている姿を見て少しだけ眉が寄った。
「テっちん?」
「ん? あ、えっと、先帰ってていいぞ。俺、凶門の事待ってっから」
軽く指差した先には先日からチームのコーチをなった天馬のいとこが監督となにか話している。それは解っているが……と少し眉根を険しくして二人は天馬を見た。
それに気づき、天馬は困ったように笑う。
少し前まではずっと………色々な言い訳をしては一人で居残って練習をしていた。他の友達はエースとしての責任感が強いんだとか、そんな風に納得してくれていたが、この二人はそうはいかない。ましてそんな事を繰り返していて夜気に当たり過ぎて熱を出した事もあったのだから、気心の知れた幼なじみは諌める意味も含めて少しだけ疑い深かった。
「大丈夫だって。ジジイにも凶門にも居残り練習止められてんだから」
その二人がいるのにそんな真似は出来ないと言って笑えばホッと息を吐く二人。そこまで心配をかけていたのだろうかと少し罪悪感が湧く。周りを見ているようで、その実、案外自分は見れていなかったのだろうと近頃思う事がよくあった。
「じゃあまた明日な、テっちん」
「肩冷やすなよ〜」
軽く手を振って歩き出した二人に手を振りかえし、小さく息を吐く。
いつもはこのままこっそり練習を再開するのだが、いまは本当にそれを禁じられてしまった。多分……飛天たちとの霊球の練習もある事を考慮し、凶門が監督を言いくるめて禁じるように持っていったのだろう事は天馬にも解っていた。
もっともそれに対しての不満はないのだ。どちらにせよ、いま自分は居残りをしたいという気持ちが昔ほど強くない。
その原因もまた、解っているのだけれど。
「……っくしっ!」
突然の身震いとともに口を出たくしゃみにまだパーカーを羽織っていない事を思い出した。ついさっき肩を冷やすなと注意されたばかりだと言うのにと苦笑いのまま鞄の中からパーカーを引きずり出して袖は通さずに肩にかけた。
茜色に染まった河原の先には薔薇色になった川がある。空と海の青が違うのと同じで、夕焼けとそれに染まった川の色もまた、違う。その不思議な不一致を眺めながら手にしたボールを所在な気に弄ぶ。
これを思いっきり投げるのが、いまの自分の仕事だ。野球でも、妖怪相手でも。
色んな事が目まぐるしく過ぎ去って、自分のいまの立場というものも、正直よく解ってはいない。それでもそれなりに実感する事もある。その中の一つである変化が、目下のところ一番くすぐったくて気に入っているのだけれど。
「肩は冷やすなといつも言っているだろう」
エースとしての自覚はないのかと言外に含めて言う声が思った以上に間近で響いた。いつの間にか監督との話を終えたらしい凶門が天馬のすぐ真後ろに立っていた。パーカーを出す為に足下の鞄に座り込んで近付いていた天馬にしてみれば、覆い被さる影が突然降って湧いたような感じだ。
その可笑しさに口元を弛め、べっと舌を出して拗ねた振りをしてみる。
「なんだよ、凶門がすぐ終わるって言っていたから待ってたんだろ」
「待っている間でも身体は冷やすな。水分もちゃんと取れ」
全く聞く耳を持たずに即答し、テキパキと天馬の鞄の中からあまり量の減っていないボトルを取り出して押し付けてくる凶門に呆れたような……それでいて安心したような笑みがこぼれる。初めこそこうしてコーチとなる事を厭いはしたが、実際になると決めた後の凶門はその全てにおいて完璧にこなせるように努力していた。それを一番間近で一番長く一緒にいる分、チームの誰よりも天馬は知っている。
本当は野球のルールどころか、野球というもの自体知りはしなかったのだ。それなのにコーチを引き受けた翌日にはルールブックを一言一句漏らす事なく覚えてきた。指導にあたってどのように言葉を選ぶべきなのか子供の心理分析のような本も読んでいるし、テレビでも野球の分析も怠らない。傍から見れば野球狂のようだ。
それでも、知っている。その全ては自分達の為。
あるいは持て余した生き長らえた時間を摩擦する為の手段なのかもしれない。けれどそんな風に思うにはあまりに彼は一生懸命だ。
「わーってるよ。本当に凶門って世話焼きだよな〜」
先生とかになってもいいんじゃないかとからかうように言ってみれば呆れたような溜め息が零された。
きょとんと、天馬が小首を傾げる。その間も伸ばされたストローからは滞りなくポカリスウェットが喉を潤している。
こくりと飲み込むのと、凶門の声が響いたのは同時くらいだった。
「教師になどなっていたら、貴様の面倒など見ていられないだろう」
一人だけでも手がかかるのだと、それはあるいは諌める言葉だったのかもしれない。
おそらくは、そうなのだ。わかっている。そうに、決まっているのに。
…………こぼれ落ちた涙は、不覚だった。
ぽたぽたと地面に跡が広がっていく。突然の事に凶門は驚いているのだろう。息を飲み込む気配が伝わった。早くこれを納めて、なんでもないと笑ってしまえばいい。そう、頭では解っていた。
試合中に苦戦した時みたいに。クラスでなにか問題があった時のように。いつもの笑顔で大丈夫と言えばいいのだ。それだけで、どんな事だって乗り越えてこれたのだから。
それなのに、止まらない。
言葉が突き刺した。突き破った。堰を築き決して漏れ出ることのないようにと頑強に整備したはずのダムを、いともあっさりとそれは穴を開け決壊させる。
面倒など、誰にも見てもらうつもりはなかった。ずっと、ずっと一番前で誰も倒れていないかと伺い見渡す者でいたから。迷惑をかけないように、一人でなんでも出来るように。…………手の焼ける子供だと、思われたくなかったから。
いい子でいれば父も母も心配しないでくれる。家に不在がちの二人を非難する人もいなくなる。自分がひとり我慢すれば、全てがうまくまとまると悟った事を、凶門が知るわけがない。
それでも与えられた音は、渇望しながら決して与えられてはいけない音だった。
噛み締めた歯を震わせるように、音が響く。
「ハハ………びっくりして、涙、出てきた」
飲み込む事に必死で、その音の無様さなど知りはしないのだろう子供。
精一杯の虚勢を出し惜しみもしないで総動員。それでも、覆う事など出来ない…それは寂寞。
一人が平気な生き物など、いるわけがない。そう思い込もうとするのは、人くらいだ。
番(つがい)がいるわけでもなく。まして寄り添うべき対象に恵まれたわけでもない存在は、そのまま朽ち果てていくのが世の理だ。
それは幼さなどには無関係に与えられる絶対性。突き付けられる残酷さ。それでも、生きなくてはいけない事態はいつでも発生する。
それを………多分自分は一番よく知っているのだろうとも、思う。
「………………」
目の前で全てを失った。この世にもう、同種はいない単独種。決してこの空虚は埋まる事がない。
知っていて、それでも生きている。それは逃げる事を厭ったのではなく、ただの惰性だ。
そう、解っていて……それでも不意に愚かな夢想を湧かせようとする己をねじ伏せた。
…………この命を。幼いままに痛む事を忘れ生きる健気さを、寄り添う事であたためる為に生き残ったなど、傲慢もいいところだ。
そんなものは振り切らなくてはいけない。永遠に傍にいれるなど、約す事は出来ないのだから。復讐者が、静謐なる命の傍に鎮座している事自体、忌むべき事だというのに。
それでも……しぼんだ向日葵のようなその髪を梳いた指先に驚いたのは………自分。
俯いたまま顔をあげない天馬に感謝したい。今の自分の顔は、おそらくは滑稽な事この上ないだろうから。こうして捧げた指先とて、次の瞬間には冷たく凍えているかもしれないというのに、中途半端にかける情ほど、厄介なものはない。自分には子供ほど純然と他者に与える心は持ち得ない。
それら全てを自覚しているから、伸ばした指先すら有耶無耶にする為に、小さく呟く。
「………帰るぞ。ククリの呪者も…飛天も、待っているのだろう」
近頃居残り練習をしなくなった理由くらい、知っている。帰る家に灯る明かりは嬉しいのだろう。そこに飛び込む時間を少しでも早くしたくなる気持ちも、解らなくもない。
「帰るのだろ?」
帰りたいのだろうと、問いかける。………ここにひとり蹲る事を願ってなどいないから。
伸ばす腕など持ち合わせていないと否定しながら、それでも自分の指先は子供を起き上がらせる為に差し出されている矛盾。
乱暴な仕草で己の目を拭い、子供は差し出されたその腕を取る。小さな、その指先で。
「そうだな、早くしねぇとまたあいつらうるさいもんな」
早く帰ろうと、子供が笑う。先ほどの涙を忘れさせるほど眩く。
しっかりと掴んだ指先。まるで、消える事を厭うように。
この先の事など誰も解りはしない。誰一人欠ける事なく共にいる事も、きっとあり得ない。
それでも、と。この子供は望むのだろう。傍にいればきっと嬉しい事がある。楽しい事がある、と。自分とはまるで反対の意志の元、伸ばす腕を躊躇いもしない至純。
「凶門も、帰るだろ?」
もう用はないのだろうと確認する仕草に含まれる、微かな怯え。
「帰ると、言っただろ」
呆れたような溜め息とともに呟き、歩を進める。茜色の陽光が肌を射るように注がれた。
それを目一杯浴びた金の髪が、鮮やかに舞うように振り返る。
「じゃあ、帰ったらゲームしようぜ。飛天たちから奪い返す作戦、考えるぞ!」
チームワークなら自分達の方が上だからと笑い、繋いだ指先に力を込める。
それに再び息を吐き、子供の言葉に耳を貸しながらの家路は……ひどくあたたかな夕日とともに暮れていった。
キリリク10779HIT、天馬リクで凶門&天馬でした。
本当は左1桁は入れないで1と0と7を含む数ですが、暇持て余していたので受け付けちゃいました〜v
言った者勝ちとも言う(笑)
今回のはイロイロ入れたい要素があやふやに流された感じで。
あまりはっきりとした形で書きたいものではなかったもので。寂しさとか。二人ともそれぞれ過ぎて。
その上で、二人とも互いに違う覚悟を、それぞれ覆さないで生きていきそうな感じ。
影響しあっても根源の部分は互いに交わらない。
だから私、この二人は兄弟っぽいな〜と思うのですが。
ひとり生き残った事で笑えない凶門と、一人でいるからこそ笑う天馬。
どっちが正しいなんてことはないからそれぞれのままで。
それでもちゃんと帰る先には迎えてくれる人たちがいる、っていうのは心強い事です。
この小説はキリリクを下さったYUKAさんに捧げます。
凶門を好きと言っていただけて嬉しかったです〜v の割りに、今回あまり出ていなくてごめんなさい(さりげにユージたちが出刃ってしまった!)