不思議なのだと君は言う。

空の色が変わるのが不思議なのだと君は言う。

空気の匂いが変わるのが不思議だと君は言う。

風の音が変わるのが不思議だと君は言う。

空気という当たり前のものがあるだけなのに不思議だと君は言う。

当たり前のものこそが不思議だと、君は笑う。

そうだなと僕は答える。

当たり前になった君のそば。

隣に立ちながらその笑顔を見つめて。

当たり前のことこそが不思議だと、僕は言う。





触れた指先



 「さっみ〜〜っ!」
 両手で自分の体を抱えながら天馬は震えた声で叫ぶ。
 辺りに人影はなく、ただ遠くまで広がる海だけが静かに波音を響かせるだけだった。そんな様子を見ながら飽きれたように隣で溜め息が漏れた。
 「………あんだよミッチー」
 むうと唇を尖らせ、拗ねたような声が漏れた。僅かに肩が震えているのは海から吹きかけた風の冷たさ故だろうか。
 馬鹿だなと、思っていたのだ。寒いことくらい解りきっている冬の海だ。地元の人間さえ散歩をしようとは思わない海岸沿いは鋪装さえあやふやな獣道だった。
 そんな場所にわざわざ寒い思いをしてまで行く必要が解らない。まして天馬は体温が高いのだ。寒さは外気と体温の差が激しい分苦手であろうに赴いた理由を語りもしない。
 別段来た理由がなにかしらの傷を含むわけではないことは解る。何らかの傷に触れるものであればいくら普段通りに振る舞おうと解るのだ。仕草の端に言葉の底に、あるいは捧げられる視線のその先に。埋もれることなくそれらは零れ落ちる。痛みを乗り越えようと幼い魂が必死になって抵抗する健気さを隠しきれるわけもない。
 だから余計にわからないのだ。こんな場所に自分まで誘って来た理由が。
 ガタガタと寒さに身体を振るわせて、特に見るものがあるわけでもないのに強引とさえ言える仕草で自分を引っ張ってきた真意が。
 ………それともあるいはそんなことさえ考える必要がないほど単純な理由なのだろうか。ただなんとなく海が見たくなったとか、そういった幼い突飛な願いに過ぎないのか。
 解らなくて、言葉が紡げない。
 何か答えてそれがこの子供を引き裂くこともあると、いい加減自分だって学習はした。それを気になどしはしないが、それによってもたらされる不快な感情が嫌だった。………抉るような違和感が己の身を蝕む感覚が、嫌いだった。
 「………………………」
 「……馬鹿だって言いたいんだろ」
 「解るなら聞くな」
 「ちょっとは否定しろよ!」
 言い渋るわけでもなく問いかけた言葉に即返された返答に飽きれたように叫べば、まるでそれを諌めるように寒風が吹きかけた。僅かに潮を含んだ湿った潮風。
 やっぱり寒くてブルリと身体を振るわせると肩を竦めるようにして身体を丸めた。自分よりも薄着に見える帝月が平然としていることが不思議でならない。
 じっと見上げてみれば不可解そうに眉を軽く上げ、問いかけるでもなく見つめ返す闇色の目。深く深く沈んでいく不思議な色。見つめていると不意に青く感じる、深すぎる黒。
 なんとなく……海が見たくなったのだ。どうしても見たいと、そう思ってしまったのだ。
 その目が傍にあることが当たり前になって、振り返ればその目が答えてくれて。それに慣れてきたらなんだか……海が見たくなったのだ。
 綺麗な綺麗な海だった。人がいないせいかゴミも見当たらない。もっともここは入り込むことが難しいせいもあり元々近隣の海岸ほど汚れることはないのだけれど。うっすらと差し込む日差しに照り返された海はこんなにも寒い風に包まれながら荘厳とした姿で穏やかな波を浜へと捧げていた。
 別に彼に似ているわけではない。そんな殊勝な性格でないことくらい、十分承知している。友達だけど……それでもその中にある何もかもを切り捨てられる冷たさを知らないわけではない。少しずつ変化してきているけれど、彼がそれを良しとしていないこともまた、解っているのだ。
 「?〜……やっぱ寒いなー。ミッチーは平気か?」
 そのまま腰を下ろし、自分を見下ろす視線を顧みながら問いかける。長袖に半ズボンという格好では自分以上に寒さを感じるはずだと思うが、色素の薄い肌はもちろん、その顔にさえ寒さが届いているのかどうか伺うことができなかった。
 きょとんと見上げる天馬を見下ろしながら僅かに帝月の眉が寄る。
 …………問いかけが解らないわけではない。ただ、その問いかけに含まれる意味を掴みかねたから。
 寒い、というのは命のあるものが感じるものなのだ。幾年月を経ても変わることのない異形の化け物が、一体どうしたならそんな当たり前を獲得し得るのか、自分にだって解らない。
 知らないからこその無邪気な問いかけ。………もっとも、そんなものに反応を返す自分自身こそが不可解ではあるけれど。
 「………僕はそういうものは感じない」
 「へぇ? ふーん…ミッチーは寒くないのか、いいなー」
 膝を抱えて寒いと体を振るわせながら、羨ましそうな声がいった。なんてことはない、極普通の仕草で。
 それを見つめて這い上がったのは、なんだったのか。
 腹の底を喰らいながらザワザワと。
 足の先から侵しながらしずしずと。
 骨の奥底から湧き出ながら滾々と。
 身の裡の全てを占拠するように現れた、殺意のように強い情。
 どうしてなのだと、問いかけた。それは言葉でも気配でもなく、ただ心の奥底で。
 寒さを感じない。それがどういったことかも考えず、何故いいなどといえるのか。無神経なまでも無邪気さで断言する相手がひどく苛立たしかった。
 同じになどなり得ない自分。そうであるからこそ意味のある身でありながら、それをひどく歯がゆく感じた。
 ………何が悪いわけでもなく、何が正しいわけでもない。天馬の反応は彼の性格上からいえば妥当だと解っている。解っていて、それでも理不尽さを感じた自分こそが理不尽だ。
 それなのに問いかけは消えなかった。言葉にならず気配にも出せないそれは、けれど見下ろす視線には揺れていたらしい。きょとんと天馬は首を傾げ、不思議そうに間延びした声を発した。
 「ミッチー、変な顔してっぞ」
 怒ってるのか泣くのかどっちだと眉を顰めて問いかける。
 ………別に涙が浮かんでいるわけではなかった。ただ、揺れていたのだ、その瞳が。
 それに気付きはっと帝月が己の腕で天馬の視界に映る片目を覆った。不思議そうなあどけない瞳は未だ注がれていることが手の甲に触れる視線で知れる。噛み締めるようにそれをやり過ごしながら開きかけた唇が何事かを紡ごうと蠢いた。
 溢れた感情を排出する先が見当たらず、自由になりかけた視線にだけ干渉したに過ぎないと、そう言おうとして………やめた。
 結局はそれは泣きたいと言っているようにしか聞こえない。そうでは、ないから。ただ何かが湧き出て制御しきれずにいる。ただそれだけなのだから。
 そう言ったならきっと歪むであろうその顔を思い浮かべ、何者さえも切り裂ける自分の意志が、何故か凍結してしまった。
 言葉は返さず、帝月は視線を逸らすとそのまま遠く海の果てを見つめるように顔さえ背けた。微かに揺れた肩が背を向けるように蠢く。……ぼんやりとそれを眺めながら、やっぱり泣きそうだと思うのだ。
 なにがどう、というわけではなかった。揺れただけの視線は決して濡れていたわけではなかった。無表情な面に悲しみなどは浮かんではいなかったはずだ。それなのに、どうしてか泣くのではないかと、危惧した。
 そう思い、不意に気付く。
 青く青く彩られる彼の姿。それが、自分にその感情を知らしめるのだ、と。
 その不思議さを噛み締めるように自分に背を向けるように海を見つめる彼に囁きかけた。小さな小さな自分と変わりないその背中に。不器用で…言葉にする全てを凍てつかせなくて不安な人に。
 ぬくもりと変わらないまろやかさで、言祝(ことほ)いだ。
 「なあミッチー、知ってるか?」
 ふんわりと風が吹きかけた。先ほどの寒風と同じ冷たさでありながら、今はそれが仄かに優しく感じる。
 冷たすぎるものは、逆に微かな暖かさを際立たせるのだと、なんとはなしに思い至る。どこか声をかける彼に似た仕草。
 「富士山ってあるだろ? あれってさ、青い山に見えるけど、本当はちゃんと土の色してんだよな」
 「…………………?」
 楽しげな響きを滲ませてしゃべる天馬に訝し気な沈黙が返される。何を言いたいのか計りかねたのか、逸らしていたはずの顔を帝月は振り返らせ、近くに腰を下ろし見上げる子供を見遣った。
 深い深い子供の瞳。自分など見てはいないのではないかと思えるほど、遠く深く見えない何かを紡いでいる。決して闇の底に居座る自分では近付けないどこかに思い馳せ、囁いている。
 ………噛み締めかけた唇をほどき、せめてと、耳を澄ませる。
 その言葉くらいは汲み取れるだろうと祈るように思いながら。
 「あのな、前にテレビで見たんだ。富士山が青く見えるのは空気の屈折が原因なんだって。変だよな。ほら………」
 天馬はクスクスと笑いながら手を伸ばす。伸ばした手より僅かに先、佇む帝月に触れることは出来ないが、それを気にした風もなくその指先を伸ばして見てみろと視線と声音の調子だけで促した。
 それに従うわけでもなかったが、彼の指先が自分に捧げられているようで、自然視線がそれを追う。何一つ自分と同じにはならない子供の清らかな指先が、暗黒の服に触れることはないけれど。
 ………幽かな、夢を、見る。
 瞬き一つでそれを霧散させ、帝月は続きを促すように首を僅かに振った。
 「な、こんな風にしたって青くなんか見えないのにさ。でも、青く見える時もあるんだ」
 じっとその目を覗き込みながら笑う。動かない彼の視線が、まるで目を離した瞬間に自分が消えるとでも言っていそうでほんの少しおかしくて……切なかった。
 「不思議だよな。空気なんて見えないのに、色がつく時もあるんだ」
 小さく笑みを浮かべ、天馬は噛み締めるようにゆっくりと呟いた。自分に言い聞かせるのか、彼に言い聞かせているのか己でも解らない仕草の先、伸ばした掌を翻して乞うように指先を捧げた。
 ………ほんの少し、まだ寒いと思うのだ。見えないものは、それでも優しさを含んでいると知っているけれど。
 それでも確かなものもやっぱり欲しいと思ってしまう。…………確かなものも与えたいのだと、思ってしまう。
 寒いのだとそうは言わない人だから、寒いと自分は大きな声で言ってしまう。
 寂しいと、そうは言えない人だから。………自分は彼の分までつい、大げさなくらい真っ直ぐに言葉に換えてしまう。
 それに気付くかどうかはまた別の問題。それでもちゃんと知っているのだ。
 伸ばしたその指先から決して離れない彼の視線。求めれば否とは言わない、玲瓏な感情の奥底の不可視の優しさ。
 「だから……見えないものでも見えるときってあると思わねぇか?」
 その背を押すように囁いて、笑う。

 ………重なった指先の仄かな暖かさにほころぶように。








 

 キリリク21070HIT、帝天馬でした〜。
 ……………ごめんなさいごめんなさいごめんなさい(汗) ものすっごくお待たせしましたー!!!

 はーやれやれ。なんといいますか。
 …………今まで私は小説ではスランプというものと無縁に生きてきたのですが、今回初めてひっどいのにかかりましたよ。
 話考えようとすると言葉が霧散するんですよー!(怖) 一瞬自分の脳がおかしいのかと悩むくらいでしたね☆
 ちなみにまだ治っていません。この程度の長さを書くのに一週間以上かかった自分が本当に怖かったよ。
 まあそのうち治るさ。うん。

 今回の二人は無自覚で。まだ帝月もあやふやな感情しか理解しきれていない感じ。
 天馬は逆に本能的に解っていそうだけど、それが何なのかは知らない、みたいな雰囲気かな。
 でもやっぱどっか甘いと思うのですよ。帝月は。結構頑張って冷たさが強くなるように描写したつもりなんですけどね。玉砕。

 この小説はキリリクを下さった龍 小飛さんに捧げさせていただきます〜。
 …………本当にお待たせして申し訳ないです!