命ってなんだってきかれたら、なんて答えるだろう。
知らないよ。
難しいこと考えるの苦手だしさ。
でも1つだけはっきり言えるよ。
大切なんだよ、命って。
誰のどんなものでも。
………どんな生き物の命だって。
だから怖かったんだ。
この腕が抉ろうとした先に佇むものが生きているなんて考えなかったあの高揚が………………
狩人にあらず
空にポッカリとあいた穴が月だなんて思えなかった。
紺碧とはいえない闇夜。暗い暗い、月さえも黄金ではなく白銀に輝く夜、漆黒の翼は羽撃くことを忘れて地に落ちた。
奈落がどこかなんて知りはしないけれど、それでも感じた。………この身体を竦めるほどの空虚さがその雄々しい背から醸されることを。
躊躇るような足先。遠慮なく駆ける子供特有の傲慢でさえある向こう見ずな態度はなりを潜めていた。
鋭利な耳が微かな足音さえ聞き分ける。醸される気配に子供が近付いたことも知っていた。
それでも振り返らない。月を仰ぐわけでもなく、空を駆けるでもなく。
ただ地面を睨み付ける天の魔王の背は自分の倍もあるくせにひどく小さく感じて怖くなる。
………後悔なんて、するに決まってる。
切なく軋んだ胸裏を噛み締めた唇でやり過ごし子供は怯える自身の足を叱咤してまた一歩男に近付いた。
いつもみたいにその名を呼んで。遠慮なんか知らない腕で黒羽を引っ張って、その背をよじ登ろうか…………?
いまは出来るわけのないことを思い、子供は溜め息にもならない吐息を緩く空気に溶かした。
恐る恐る近付いた足先が男の影を踏む。掛けようとして開かれた唇が虚空を流れる沈黙に負けるように閉じられてもなお、男は振り返らない。
子供の膝が不意に折れる。………力をなくしたように唐突に。けれど音を嫌うように衣擦れさえ零すことなくゆっくりと。
まるで、蹲るように。
額が熱かった。ずっと頭の芯がぼやけていて記憶なんて断片的になっている。
なにを自分がしたか、わからない。体内で荒れ狂う凶暴な波に流されないように必死になってもがいていたことだけ苦しいくらい覚えているけれど……………
「なあ……飛天…………」
掠れた声が、響く。
…………夜空にさえ聞き取られることのない小さな小さな声は震えていた。
その気配に漆黒の髪が僅かに揺れる。
弱々しい声なんて、知らない。その体内に括られていた長くはない月日の間だって今日くらいの怪我を負うことも、痛みを知ることもあった筈なのに。
子供は一度だって蹲らなかった。
辛くても苦しくても馬鹿みたいにまっすぐ相手を見るために立ち上がっていたから。
なにを泣くと男は振り返ろうとした。
そうしたならそれを厭うように髪を掴まれ子供の影を覗くことさえ禁じられる。
………別にそれを振り切って声をかけることだって出来た。それでも子供の幼い潔癖さが振り向くなと願うから、受理されたささやかな我が侭。
声は蟠る。泣きたくもないのに震える声がみっともなくて子供はきつく唇を噛み締めた。
喘ぐような呼吸の先、感じる男の気配はあまりに穏やかで遣る瀬無かった。
独り、だった。
………ずっと初めて見(まみ)えた時から男はひとりだったけれど、それでもこんなにも孤独を纏ってはいなかった。
いつだって帰る場所を知っている瞳はいっそ幼いといってもいいほど陽気だった。括られることがたいしたことではないのだと、自分は本気で考えてしまうくらい男はどこかのんきだったから。
独りになった男。
……………………………そうさせてしまった因がなにか、知っている。
自分が、おかしいから。
ククリの術者の符が剥がれないような奴で。魔王を自分の身体に括ってしまうような奴で。
不動明王の力を宿してしまうような奴だったから、いけなかった。
ただの子供を庇ったのならあんな馬鹿げた裁判を起こされはしなかった。
大切なこの山から離れなくてはいけなくなんて………ならなかった。
自分がおかしかったから。
…………そして。
そしてあの時この腕が…………………
「俺………殺せばよかったのかな…………?」
吐き出すことさえ厭うその呪詛はか細過ぎて憐憫しかわかない。
…………本気で囁くことも出来ない魂が悲鳴をあげている。そんなことを考えるために存在しない子供は不条理なまでに自身を絡めとる見えない鎖に喘いでいる。
ぎくりと揺れた男の身体が膝に埋められた瞳には見えなくとも掴んだ髪先の揺れから知れた。
もしもあの時、この腕があの心臓を抉っていたなら。
誰も泣かなかった。…………男も独りにはならなかった。
噛み締めた唇は吐息もつげない。
命って大切なんだよ。
知っているよ。
………だから、どんな奴のそれも奪っちゃいけないんだ。
心の奥底で囁く小さな言い訳。
本気で、憤った。それは確かで。不可能を感じさせないあの空恐ろしいまでの高揚感と不遜さに捕われた。
おもちゃを弄(いじ)るように呆気無く妖怪が吹き飛んだ。
……………腹立たしかった元凶を消せと、身の裡でなにかが囁く。
指先は軽やかに抉りだす筈だった。
赤く赤く染まったその心臓を。
鼓動を止めて冷たい骸を晒させて、そうしてその血を啜って灰に帰したなら力は途切れる筈…だったのに。
躊躇ったのは自分。
あの奔流を防ぎ止めてまで、腕を押さえた。
殺したくなかった。………怖かったから。
命を命と思わないあの狐と同じになることが、たまらなく怖かった。
だから多分、これはただの弱音。
………出来もしないことをすればよかったなんて、馬鹿げていると自分でもわかっている。
「殺せれば、お前は……………」
独りにならなかった。鴉だって、泣かないで済んだ。白羽だってあんな苦しいことしなくても…………
自分の大切なもの全部、痛めた。全部自分が原因で……………
こぼれる涙に気づかないでくれればいいと嗚咽さえ噛み殺す子供は抱えた膝を寂しく濡らす。
途切れた言葉の意味を知っている男はその眉宇を曇らせ、羽を揺らした。
…………覚悟はとおにしていたのだ。捕われたと、自覚した瞬間から。
今更それでもこの山を思うことが女々しいなんて笑うことも出来ないけれど。
後悔は、しない。
この子供を守ると決めたのは自分。
………………その魂は心地よかった。清らかな視線は澄んだ世界を写す。
もうどこにもそんな奴はいないと思っていた。
この心を震わせる。全てを賭けてもいいと思わせる人間は。
不逞が蔓延り道徳は失われ、闇を畏怖する心さえ忘れた愚かさに……もう見切りをつけていたのに。
思い出させた。この子供が。
それだけでももう十分な理由だから。
子供がこんな風に泣く必要は、ないのだ。
心さえ切り刻むように囁きたくもない言葉を囁く必要は………………
蹲る姿を見せたくないと強がる指先を解き、男は後ずさろうと顔を背けた子供の腕をとる。
やわらかな拘束は子供の力でも呆気無く解かれるはずだった。それでもその指先の微かな震えが感じ取れて。
切なくて、また涙が溢れる。
雨露に濡れた頬を舐めとって、男が不器用に歪めた眉に微かな笑みを浮かべる。
「ンなこと考えるな、天馬」
力強く注がれた囁きが頬を滑る。
………それでも自分を抱き締める雄々しい身体は微かに震えていた。
戻れないと、知っている。
愛しい故郷を壊したくないなら離れなくてはいけない。………そんな状況に身を置いたこともない自分が憐れむことなんか出来ないけれど。
また溢れた涙を隠すように顔をうつむける。
辿々しい指先が金糸の髪を撫で、月に溶ける子供は引き止めるように腕の中………固く守る。
天秤になどかける気もない。それでも子供の魂は自分の心を揺さぶったから。
その自由を守ってやりたかった。
……………涙に濡れる姿なんて見知っている。
珍しくもないのに、この心を軋ませる。
自分の身に起きた変化さえ気にもとめず、人のことばかり。
馬鹿な子供は相手の痛みにばかり敏感だ。
抱き締めた腕が癒すことができるなんて思う気もないけれど、せめて自分が傷んでいないことを知らしめたい。
その優しさは希有だから。
どうかなくさないでと祈るように。
月さえ知らない囁きは、けれど月明かりに溶けた金糸をやわらかく揺らした…………………
久し振りの天馬〜v
…………実はここに帝月と火生もこっそりいたというのを入れる予定でした。
でもそれやると収集つかなくなるの目に見えていたのでまた今度。
ミッチーも書きたいのあるから早く書き上げねば!