何だってそつなくこなす
きっと、自分よりずっと器用なのだ

それは多分、仕事とか
あるいは機械的処理で済むものとか

情緒や感性を犠牲にすることで
知らぬうちに育てられた
そんな才能なのかもしれないけれど

それでも、それは
彼にとっての武器でもあるから
少しの切なさと寂寞を溶かして


悪いことではないのだと、微笑んだ



10.キーボード



 カチカチカチと淀みなく音が響く。
 自分が操ったなら、きっとそれは倍以上の時間がかかったのだろう。遅いとまではいわないまでも、不慣れなパソコンの操作はどうしても滞ってしまう。
 それでもどうしたって、現在ではパソコンによる書類作成やデーター交換が主流を占めていて、苦手だからやらない、というわけにはいかない。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、データーの書き込みを代わってくれた相手の様子を見つめた。
 画面だけをじっと見て、手元など見遣りもしない。横に置いた書類を正確に、僅かの時間差もなく視線とともに指が動いている。恐ろしいことに打ち間違いすらなかった。
 どうやったらそんな器用な真似が出来るのかと、感嘆の溜め息が漏れた頃、自分が終わらせるにはあと1時間はかかっただろう量の書類を束ねて揃える音が聞こえた。気づいてみればもうキーボードを叩く音もしない。きょとんと見遣った先では、苦笑を浮かべた相手がこちらを見ていた。
 「…………ひとまず、打ち込みだけは終わったが…」
 これで大丈夫なのか、と書類を差し出した彼に今度こそ目を丸めてしまう。
 「え、もう!?これ、全部!?!」
 驚きのままの声は若干大きく、そのことに相手は驚いたように微かに目を見開いた。次いで、自分が感心しているのが解ったのだろう、照れくさそうに顔を逸らしてしまう。
 そんな様子に笑んで、立ち上がりながら受け取った書類をファイルにしまい、棚に戻した。
 「凄いな、御剣。僕じゃ、当分終わらなかったよ」
 「いや……この程度であれば、慣れの問題だろう」
 慰めというよりは本気でそう思っているのだろう。あまりにも感心されてしまい、彼は少し居心地が悪そうに肩を揺らしている。吹き出しそうな思いでその様を眺め、とんと彼の肩を叩いた。
 少しの逡巡を経て、彼は恐る恐るこちらを振り返る。
 なにをそんなに警戒しているのかと苦笑して、まだ椅子に座ったままの、自分の腰辺りにある彼の頭を撫でた。
 「なんだよ、凄いことは凄いんだから、普段みたいに偉そうにすればいいのに」
 若干酷い言い様だな、と思いながら、からかう声音でそんなことを言うと、彼はじっとこちらを見つめ、ふわりと、柔らかく笑んだ。
 ……………珍しい、優しい笑みだ。二人の時は時折見せるものだけれど、それでも心臓に悪いことに変わりはない。相手の普段が普段なのだ。まるで露骨なアピールを受けているように、戸惑いが胸中を占める。
 それが嫌だと思っていればまだしも、歓喜を確かに感じているのだから、居たたまれないことこの上ない。
 戸惑うように視線を揺らして、それでもどうにか顔を逸らさず、問うように首を傾げる。
 「いや……君は変わらないな」
 「?」
 まだ彼の頭に乗せられたままの指先を、そっとまた、その髪を梳くように動かした。言葉の先を促すようなそれに、彼は少しだけ視線を彷徨わせ、観念したようにまたこちらを見つめる。
 少しだけ、その目が自嘲を孕んでいる気がした。苦笑に染まった唇が、微かな投げ遣りの感を滲ませている。………まるで、再会当初の彼のような、厭世的な、笑み。
 それに知らず、眉が寄る。痛みを自分が感じることは少しだけ間違っているかもしれない。
 それでも、彼が打ち拉がれれば自分も悲しみを覚える。それはもう、どうしようもないことだった。
 なにがあっても………きっと、裏切られても手酷い仕打ちを受けても。それでも、彼にだけは幸せであってほしいと願ってしまう。それは過去における彼への感謝だけではなく、再会し関わった彼の、寂しい笑みと心の空虚を知っているからこそ、だ。
 自身を幸せにすることの出来ない彼だから、幸せでいてほしいのだ。自分に出来る手助けくらい、惜しむ気はないから。
 「御剣?」
 問うように柔らかく、その名を囁く。ゆっくりと、落ち着かせるように。
 頭を撫でていた指先を少しだけ下ろして、彼の頬をくすぐる。子供扱いしていると怒られるかと少しだけ心配したが、特に抵抗の意は示されなかった。
 ほっとして、微笑む。………彼は自分が触れると、少しだけ息を詰まらせて躊躇いを見せるから、どうしても緊張が割り増ししてしまう。触れることで痛みを与えそうで、怖かった。
 「君は、私がなにが出来ても、出来なくても」
 「………うん?」
 「対応に、変化がない。ずっと、同じでいてくれる」
 それがひどく心地いいと、彼は笑んだ。………こちらが泣き出したくなるような、そんな幸せそうな顔で。
 当たり前の、ことなのに。
 出来ることも出来ないことも全てを含めて、人は成り立っているのだ。勿論そこに表現の違いは表れるけれど、根源が変わるわけがない。愛しいものは愛しいと、誰もが当然に思うものだ。
 それを彼は、嬉しいのだと、言う。
 いままで与えられていなかったから、幸せなのだと。
 …………それはどれほどの暗闇で、生きてきたということなのだろうか。自覚のない彼の言葉が、胸を締め付ける。
 泣きたいわけではないのに。泣くわけには、いかないのに。喉を塞がれそうな痛みが、胸中を渦巻いた。
 彼は何も知らない。恐らく、自分が知っている当たり前のことを、何一つとして。
 ずっと与えられていたはずなのに、それを失った日から、全てを手放してしまった。その不具合が、いまも彼の歩みを阻み道を迷わせる。
 例えばそれは、優しさや慈しみの表し方だったり、喜びや嬉しさの示し方だったり。………自分から見れば、人としての根源…言い換えてしまえば、与えられ包まれて当然の、そんな情を彼はひどく物珍しそうに眺めてしまうことがある。
 「………僕は、どんな君でも、君だと思うよ」
 それが自分にとっての当たり前の、こと。
 だから、それが当然だと受け止めてくれればいい。そう祈りながら、不器用に笑んで、彼の頬を撫でた。
 彼は惚けたように自分を見上げ、微かに顔を顰めて………遣り切れなさそうな息を小さく吐き出すと、そっと頬を撫でる指先に自身の手のひらを重ねた。
 どうしたのかと首を傾げて見遣ってみれば、彼はその指先をそのまま唇に移動させ、中世の騎士のように口吻ける。………気障な真似に、頬が紅潮した。
 「な、なにするんだよ!」
 驚きについ荒げた声は、不機嫌そうな彼の眼差しに押さえ込められた。
 腕を引き離そうと力を込めるも、彼の指先は思いの外力強く、解放してくれる気配はない。顔を顰めて、彼を睨んでみれば、やはり同等以上の鋭さで返される。どこか理不尽さを感じたが、小さく息を吐き出すことで諦め、なにがしたいのかと彼を見つめた。困惑に、目を揺らしながら。
 その眼差しを受け取った相手は荒々しいともとれる溜め息を一つ吐きだし、睨み上げる視線をそのままに、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
 「何故君は、すぐに隠す」
 「……………?」
 「呆れているなら呆れていると言えばいい。苛立たしいならそういえ!」
 訳の解らない彼の言葉にただただ疑問符が舞う。先ほどまでは幸せそうだった眼差しが、何故かいまは傷ついていて、それを隠すように怒気で覆われている。
 なにが悪かったのかが解らない。時折彼は自分が予測もしていない方向に考えを馳せて、感情を爆発させる。戸惑うばかりで彼の考えに追いつけない状況は、困惑しか生まない上に不毛なことこの上ない。
 「呆れていないし、苛立ってもないよ!」
 仕方なく言い訳も窘めも諦めて彼の言葉に応えるだけに留める。相手の言い分が掴み切れないのであれば、情報を与えてもらうしかない。一歩退いたこちらの返答に、彼は気づくことなく更に言葉を募らせた。
 「嘘を言わないでもらいたい。君はいつも、私が答えると口を閉ざすだろう!」
 激情のまま、彼は、そんなことを言う。呆気にとられて、間の抜けた顔をさらしてしまった。
 どうして彼は、気づかないのだろう。自分が苦手なパソコンをあんなに器用に操れて、自分がうまく処理出来ない書類だって容易くこなしてしまうくせに。
 彼は、感情に起因するものだけは、いつだって空回りして…………自分の喉に、牙を剥くのだ。
 胸が痛い。喉が裂けそうだ。いっそ泣き叫んだら、彼の怒りも解けるのだろうか。出来るはずもないことを脳裏で思い浮かべて、ぎゅっと唇を噛み締めた。
 涙をたたえそうな眼差しに力を込めて、眼下の彼を睨む。声を発すことは出来なかった。………そのまま、嗚咽でも零しそうだ。
 彼は気づかない。泣きたいその思いが、何故わくのかを。自分が甘やかされて生きた人間だと思い知る、その瞬間を。
 彼は痛みを刻み、それでも惑いながら生き続けた。過ちに足を取られながらも必死に生きていたのに。自分は甘やかされて幸せに、ただ生きていた。…………それが、こんなにも遣る瀬無い。
 きっと自分には彼の痛みを知ることは出来ない、その事実が、こんなにも悲しい。
 「…………成歩堂?」
 いきり立っていた彼は口を閉ざした自分に、己が感情的になり過ぎたことに気づいたのだろう、躊躇いながら小さく名を呼んだ。
 それに答えず、顰めた顔のまま、顔を逸らす。捕らえられた指先が震えなかっただけでも幸いだったのかもしれない。彼を見れないまま、ただゆっくりと呼吸を繰り返した。
 その間が、彼には痛みだったのだろう。途方に暮れたような顔で、彼は戸惑いながら捕らえた指先を解放し………その腕を、眼前に立つ相手の腹部に回した。
 縋るようなその様が、涙を誘う。
 腹部に埋められた彼の面が、微かに揺れる。恐らく謝罪の言葉でも呟いたのだろう。それに応える言葉は発せなかったけれど、そっと、自分に縋るその人を抱き締めるように、身体を折った。
 もっと早く、彼と再会したかった。
 …………自分が与えられたものを、当たり前に彼も与えられるように、したかった。
 そうしたならきっと、彼はもっと身軽になるのに。
 「怒って……ないよ?」
 だから大丈夫と、彼の頭を撫でながら言い聞かせるように囁く。震えなかった声に、自分の演技力を褒めたかった。
 小さく彼は頷いて、それでもきっと、顔は顰めているのだろう。自分が、彼に晒さず飲み込むものがあることを、彼は知っているから。
 ………彼の言うように隠している訳では、ないけれど。きっといま彼に与えたなら、彼は自分からしかそれを与えられないと、思い込むだろう。

 もっと沢山の腕に祝福されるべき人なのだから、盲目的に求めないでほしい、なんて。

 いったならきっと傷つける言葉を飲み込んで



 そっとそっと、笑んだ。


 縋る彼の腕は、ただただ強く自分を捕らえたままだったけれど……………








 18.笑顔の前に当たりますかね、これは。
 たまには感情的な御剣を書いてみるか、と思ったけど、やっぱり苦手だ、怒鳴ったりするのを書くのは。想像するのも不得手。好きじゃないんだよ、怒気というものは(遠い目)
 不器用ものは不器用ものなんですよ。成歩堂はパソコン苦手ですが、御剣は感情が苦手。相手の得意分野に感嘆はするけど、同じようには絶対に手繰れない。
 それでも同じようにしたいと思って空回りする御剣と、そんな相手の空回りに大抵傷つけられても甘受している成歩堂。
 子供はね、表現の仕方が解らないから、知らないで相手を傷つけるんだよ。それは成長する上で必要な痛みだから、傷つけたことを知って同じことを繰り返さないように努力すればいいさ。
 与えられた痛みを受け止めてくれる相手がいるのなら、ね。

07.9.25