時計を見て、小さな溜め息
さすがに時間がない、なんて
さして珍しい事でもない

珍しいというならば、それはきっと
軽快な音楽を鳴り響かせない
手の中の携帯電話

それを思い、また小さな溜め息

机の上の書類
今度の法廷の準備
日常生活や事務所の運営

考える事もやる事も山のようだ
だから、時間がない
明日もまた、優秀な助手は少しだけむくれながら
まとめきれていない書類を片付ける手伝いをしてくれる

だから、時間がない
解っているけれど
そう、思いながら


……………また、小さな溜め息を、零した



26.アリバイ



 少しだけ躊躇いながらインターホンを鳴らす。事前に連絡をすれば良かったかな、と思ったのは鳴らす直前どころか、相手の応対があるその時までずっとだった。
 カチャリという音が響き、僅かな沈黙のあと、微かな音が響いた。
 『………成歩堂?』
 「………この場合、名乗るのは僕なんだけど………まあいいか。時間、ある?」
 誰何(すいか)するのではなく確認するのは、目の前の訪問者用インターホンの上部にあるカメラ機能のせいだろう。よく解らないセキュリティーは、けれどしっかりしているらしい。
 閉ざされた自動ドアを開ける番号も聞いてはいるけれど、やはりそこまで図々しく先に進むわけにはいかない。ここから彼の自室の前に行くまでの時間的猶予くらいは与えなくては、相手が動揺するばかりでどうしようもない事は目に見えていた。
 会えそうにないと告げたのは自分だ。不満そうではあっても仕事上どうしたって仕方がないと解っている彼も、それに否は唱えない。………唱えられないだけかもしれないけれど。
 そんなことを考えていると、ようやくパニックから帰ってきたのか、彼が返答を寄越した。
 『ああ、構わない。入りたまえ』
 なんとか虚勢を張って普段通りの声を出しているけれど、これだけの間が開いての返答では逆に滑稽だ。困ったように笑った顔がカメラに写らないように逸らして、了承を告げて開かれた自動ドアに向き合った。

 「で。一体どうしたのだ?」
 リビングに招き入れられ、彼が入れてくれたミルクティーを口に含んでいると、ようやく問いかけられるというように彼が切り出した。その顔は怒ったように少しだけ凄んでいる。………おそらく、色々な事を考えて、ついでに耐えてもいるのだろう。奇妙な顔だと思いながら笑いかけた。
 「うん?なんで?」
 首を傾げて問い返してみれば、彼は更に眉を顰め、眉間の皺を増やした。
 きっと問いかける言葉が浮かばないのだろう。多すぎる疑問のせいで逆に問う言葉がまとまらない様子はよく見かけるものだった。ただその顔だけがそんな彼の状態を自分に克明に知らせる。
 これ以上悩ませるとややこしい事になるだろうと考えて、手の中のカップをテーブルに戻すと、彼の名を呼んだ。その目がこちらへと向けられたのを確認してから、言葉を紡ぐ。
 「………このところ忙しくてさ」
 「知っている」
 「家に帰るっていうより、睡眠とりにいくって感じだし」
 「せめて食事も摂りたまえ」
 「だからさ、考えてみれば同じかなって」
 憮然とした彼の返答はあまり気にせず、自分の言いたい事だけを続けていく。彼もそれは了承しているのだろう、特に怒気は見せずに小さな溜め息のように息を吐き出すだけだった。
 気づくか気づかないか。そんなことを考えながら彼の応対を眺める。じっと見つめる自分の視線に彼は戸惑うように片眉を上げる。
 思った通り、伝わらなかったらしい。そう思いながら、苦笑が唇に浮かんだ。
 「…………なにがいいたい」
 そんな自分の様子に気づいて憮然とした顔が不貞腐れたように呟いた。図体の大きないい歳をした男がするには少々滑稽な仕草だけれど、それを可愛いものだと受け止める時点で、自分も十分毒されているのだろう。彼には伝わりづらいけれど、あばたもえくぼやタデ食う虫も好きずきということわざが脳裏を掠めた。
 実際、そうでなければこんな風に足を向ける事もないだろう。胸中で苦笑を零しながら、相変わらず鈍い彼に笑いかける。
 「事務所からなら、大差ないしね、君の家」
 「………………?」
 「君が拗ねて不貞腐れる前に、会いにきたんだよ?」
 からかう声音でそんなことをいってみれば、目を瞬かせた彼が一気に顔を顰めて仏頂面をたたえた。解りやすい変化だと思わず吹き出しそうになるのをどうにか耐えて、彼の言葉を待った。
 「私は不貞腐れてなど……」
 「鏡、見なよ。目の下の隈、はっきりしてるね?」
 いつからかな、と意地悪く問いかければ彼は口を閉ざして黙秘した。自分の質問に答えないのは、意地悪ではなく嘘を吐けないからだろう。そういった部分はひどく誠実な彼は、嘘を吐くくらいなら発言自体を拒否してしまう。………不器用だ、とも言い換える事は出来るけれど。
 じっと見つめていれば居たたまれないのか、彼の顔が俯いていく。彼の前髪で隠された表情は、けれどきっとひどく不機嫌そうなものを浮かべているだろう。思い、小さく笑んで、彼の名を呼んだ。
 微かに肩が揺れ、反応が見える。糸鋸刑事がいっていたように、少々疲れが溜まっているのだろう。おかしいなとは思っていたのだ。彼の仕事が落ち着いたと聞いていたのに、彼からの連絡がまるでないのだから。
 きっと、彼の仕事の目処がついたときの会話が尾を引いているのだ。そうして独りで抱え込んだ彼は、結果的にいってしまえば自身だけで処理し切れずに、また不眠症状を引き起こしているらしい。
 たった一言を、彼は言えないのだ。もっとも、今回に関して言えば、彼がそれを告げる前に遮断してしまった自分も悪い。………だからこそ、こうして足を運んだのだけれど。
 返事を返せない彼は俯いたまま、次の言葉を与えられない事が不安なのか、膝の上に組んだ指先を微かに揺らして気を紛らわせていた。
 立ち上がり、一歩、彼に近づく。足音に彼の肩が揺れる。それを見つめながら、更に近づいた。ソファーに座る彼の前に立ち、項垂れたようなその姿を見下ろす。そうして、こちらを見上げもしない不器用な彼へと、腕を伸ばした。
 「馬鹿だな」
 小さく呟いて、俯く彼の前髪を梳く。
 見えた面は、深く刻まれた眉間の皺と、噛み締めるように引き結ばれた唇。
 そっと噛み切りそうな唇に指を添わせて綻ばせるように促す。呼気すら浅い相手の意識のあり方に、少しだけ胸が痛い。
 それを飲み込んで、まだ俯いたまま顔を上げない彼の眉間に、唇を押し付けた。
 「……君が考えていることくらい、お見通しだよ」
 だからちょっとくらいの我が侭、言えばいいのだ。叶えられない事なら駄目だと言える自分に、わざわざ遠慮などしても仕方がないと笑ってみれば、惚けた相手の瞠目した瞳が見える。
 少しだけ、罪悪感が湧く、この一瞬。…………どこまでも自分という存在が彼を縛る事を知ってしまう、一瞬。
 誰か他にも、我が侭を言えればいいのに。
 そうしたらきっとこんな風に独り踞る事など、ないのに。
 微かな遣る瀬無さを瞬きの中に隠して、目の前の揺れる瞳を抱える幼子のような人を見つめた。
 「触れても……いいか?」
 そっと、衣擦れのような小ささで囁く彼の唇はほとんど動いていない。告げるつもりだったのかどうかも解らない音は、それでも確かに聞こえた。
 笑んだままの唇で彼の頬を撫でるように指先を蠢かし、そっとその頭を抱き寄せる。
 「いいよ」
 彼の声と同じように小さな音で答えるより早く、彼の腕はしっかりと自分の背に回されている。息を飲みかけて、ゆったりと吐き出す。間近な距離では隠しようのない緊張を少しでも緩和するように。
 そうして、腕の中の彼に悪戯小僧のような声で、囁きかける。
 「その代わり、さ」
 「…………ム?」
 「僕がちゃんと休んでいるんだって、真宵ちゃんに証明してくれよ?」
 最近事務所に泊まり込んでいるのがバレて雷をくらったのだと困ったようにいってみれば、自分を抱き締める腕が戦慄くように力が込められて、見上げる彼の視線が微かな怒気を孕んだ。
 やっぱり彼も怒るかと思いながら、それでも少なくとも寂寞は霧散された事に笑んで、彼からの勘気を享受するように肩を竦めた。
 「真宵くんが怒るのは当然だろう。仕事の手を抜けない事は当然だが、自分の身体の事も考えたまえ!」
 君が倒れる事は耐えられないとでも言うように、しがみつく強さで抱き縋る彼の上に、危うく倒れ込みそうになる。なんとか耐えて踏みとどまり、子供のように相手の存在を確かめたがるその力の込め方に微苦笑を浮かべながら、子供とは比べ物にならない立派な広さを誇る彼の背中を撫でた。
 「うん、解っているよ」
 だからここに来たのだと、きっと告げれば彼は喜ぶのだろう。そんなことを思いながら、けれど言葉にする事は出来なかった。
 それをそっと差し出すように、ただ彼が願うままに、腕を伸ばす。
 きっと彼は気づかないで、この腕をとり抱き締めるだけだろうと解っていて、それでもずっと、こんなやり取りが続くのだろう。
 彼の髪を梳き、背中をあやすように撫でて、眠りにつくまでの少しの時間を、共有する。
 それは時間にすれば短いものだろう。それでもそれが欲しいと願う相手を知っているから、こうして傍にいるのに。
 きっと我が侭をいったのだと彼は後日落ち込んで、誰かしらに八つ当たりでもしてしまうのだろう。自分がそれを喜ばないと解っているくせに、妙なところで彼は子供のようだ。
 「…………だから、君もちゃんと解るといいな」
 いつか、と。謎かけのように告げれば不思議そうに見上げる彼の顔。それ以上の言葉は与えない事を教えるように笑んで、彼の肩に顔を埋めた。
 そろそろ眠気も限界かも知れない。そんなことを思いながら、ソファーにでも転がしておいてくれという自分に、彼が叱りつけるように寝室を提供するのも、いつもの事だった。

 優しい腕が髪を梳き、叱るような声で注意をしながら、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
 吹き出したくなるような不器用さで、それでも相手のために何かしたいと思うその腕。

 それが、多くの人に知られればいいのに。



 そっと眠りを促すように落とされた額へのぬくもりに、はにかむように笑んで

 彼が知ったなら不貞腐れそうな事を、祈った。








 この話の後日談の方がアリバイ証明らしかっただろうかとちょっと悩む。でもきっとギャグだから書けない。
 まあ大まかな感じ、数日置きに御剣の家に行くけど、少しでも一緒にいたいな〜と尻尾振っている様子に眠いとも言い難くって暫く話すのに付き合ったりとしていたら、ちょっとばかり睡眠不足?となって、真宵ちゃんにまた怒られちゃった☆という。
 で、ちゃんと家に帰って寝ているという事を証明してもらうために御剣に連絡とって話してもらうけど、ぽろっと自宅に来る時間とそのあと暫く起きたまま話したり泊まったり過ごしている事も口にしちゃって、そこから睡眠時間を割り出した真宵ちゃんがちゃんと管理しなきゃお泊まり禁止!とプンスカしちゃうわけです。
 隣でそんな会話を見ている成歩堂は苦笑しながらまた次会う時に御剣のフォローしなきゃなーとか考えているわけだ。…………何気に甘やかされているよね、うちの御剣。
 ついでなので、この話の数日前の会話も補足でつけておきます。よろしければこちらからどうぞ。

07.10.14