「あの未熟者も、それくらいの事が言えればいいんじゃがな」
溜め息の意味をすり替えて告げる老人に、そんな事には気付かない少年が楽しげに笑んだ瞳で弧を描かせて、手の中の紅茶を一気に飲み干した。
既にぬるくなり始めた紅茶は、それでもまだ香りが残っていて、ただの色水よりはマシな味が口腔内に広がった。
「思っていても言いませんよ、ラビは。おちゃらけて誤摩化す方がスタイルでしょう」
「………………なかなかよく見抜いておるな」
「そこ、肯定しちゃ駄目なんじゃないですか?」
クスクスと困ったように笑う少年は、不愉快というよりは悪戯見抜かれた子供のようだ。
これでも一応二人の事を知りたくて見ているのだ、と。そう告げるような仕草を咎める事も無く、老人もまた、手の中の茶を飲みきり、テーブルへと戻した。
「否定も何も、バレておるものを覆い隠せるのは、当人だけじゃろう」
周囲がどれ程否定しても怪しいだけだと告げれば、困ったような少年の笑みはどこか深まり、愁いを帯びて睫毛が半ば伏せられる。
時折この少年は、ひどく老練な眼差しを世界に向ける。自分のように歳経たものと同じ、この世界の醜悪さと愛おしさを同じく溶かして見つめる、遠いどこかを眺める眼差し。
「………何でもいいんですよ、僕は」
小さく、呟く唇はあどけない。
真っ白な色味の中、同じように薄い唇の色が、ぬくもりの存在を教えなければ、この少年は時に人形めいた静謐に身を浸してしまう。
それを歯痒く思い腕を伸ばそうとしては躊躇う青年は、今は遠い距離に座っている。
こんな時まで愚かだと、傍にいるべき時を誤ってしまう未熟者に視線を送るが、彼はこちらを気にはしていても状況にまでは気付かない。
………むしろ、老人がいるのだから危険はないと思っているのかも知れない。
青年は自身同様、己の師がこの少年を憎からず思っている事を確信しているのだから。
それもまた、否定すべき事柄ではないけれど、それでも自分の脆弱な腕では守れるものは数少ないだろう。己の弟子一人をなんとか育てる以上の期待を向けられても、手に余る。実際、この少年の抱える全ては、おそらくは誰の手にも余る程巨大で深く世界に根付いてしまっている事が予測出来る。
その少年は、相変わらず何も見つめない視線で遠くを見つめ、漸くまとまったのか、告げるというよりは独白じみた響きで音を紡いだ。
「…………ブックマンもラビも、何でもいいんです。ただ二人が今のままの二人でいるなら、どこにいてもどんな立場でも、何でもいいんです」
それはきっと、どこまでも純化された、最後の最後の願いだ。
思い、老人は吐きかけた息を飲み込んだ。それは容易く吐き出し、その勢いのまま掬い取るべき言葉ではない。
………それまでの間にあるべき、我が侭とも欲張りとも時にいわれる数々の欲求の全てを削ぎ落とし、少年は初めから最後のひとつだけを願う事しか知らない。
知らないのは解らない事と同義ではないのだ。
おそらくは知識の活用方法を知っているこの少年は、教えれば教える以上の収穫を己の内に抱えて育つだろう。
その聡さが、決して鈍感さと共有される筈は無く、その前提で彼の言葉を考えたなら……………胃の軋みを覚える程の痛みの上で削ぎ落とされていく、願いの山が窺える。
………初めはきっと、もっと他愛無い願いを携えていたのだろうに。
それが叶わないと知る度に、鈍麻し、無欲となり、与えるだけで満足してしまうには……まだこの少年は幼過ぎる。
「名が変わってもか?いつか『ラビ』と呼んでも気付かれなくなっても、おぬしはそれでよいのか」
知らず、咎める響きが声に乗りそうで、老人は努めて平静さを装い音を紡いだ。記録を語るのと変わらぬ、無機質な音。
それに細められた眼差しは、………けれど悲しみを呼ぶのではなく、その全てを許し受け入れるようにゆっくりと瞬いた。
「………………寂しい、ですけど。生きて、そこにいて、変わらない心のまま、思い出してくれれば………いいです」
そうして綴られるのは、生身の人間が携えるにはあまりに清らかな音色。
求めるものも欲しかったものも、おそらくもう、疾うの昔に失って、その失った傷故に、少年は日毎純化されゆくのだろうか。
そんな筈も無い事を、けれど夢想しかけて、老人は己の思考を止めた。
これは、一時の関わりで掴み癒すべきものではないと、痛感する。そうして同時に、何故この少年に関わる者達が彼を愛おしみ気に掛け、そうして癒そうと心砕くか、解る気がした。
彼もまた、自分達と同じだ。
同じ場所にいながら、違う場所を思っている。…………ここで確かに生きながら、遥か遠く今はもう無い世界を夢見て腕を伸ばしている。
それは自分達のように消え去るものではなくとも、交わり繋ぐ絆が、微かに綻びを抱えて紡がれてしまう。
それこそが、この少年のイノセンスの脆さだろうか。
………今もまだ危ういままの左手は手袋に覆われ見えはしない。それでも、おそらくはその心の揺れこそが、寄生型でありながら不安定なままのイノセンスを作り上げている。
作り上げながら、それでもこの少年のイノセンスは強靭である事こそが、驚きだ。
「いなくならないでくれれば、どんな事だって我慢出来ますよ」
ぽつりと、涙の代わりのように落とされた音は、濡れた音色だった。
潤いではなく、堰を切って流れ出し留まる所を知らない、そんな悲嘆の音。
その音を己の心ひとつで包み隠し、少年はじっと前を見つめる。
………視線の先は、先程とは違い、確かな対象物を見つけ出した。赤い髪が揺れ、漸く解放されたらしい青年が手を降り駆けてくる。
その様を眺める眼差しの、なんと柔らかな事だろう。自分が幼かったあの青年を見つめたものよりも尚、慈悲深く優しい。
「だから、長生きして下さいね。出来れば、僕よりも長く生きて下さい」
うっとりと笑む唇がさえずるにはあまりに痛い音色は、それでも静かに老人の耳に触れた。
………それが有り得ない事実と言えない事を、もう既にこの少年は知ってるのだ。
生まれながらの寄生型の少年は、そう長い時間は残されていないだろう。元より希少な寄生型は、その数の少ない理由の中に、短命である事が加えられる。
あと10年か20年か…先天性的な寄生型は珍しく、データーが少なくて正確な平均余命は今もまだ解明されていない。
それでも、この戦争の最中、寿命を迎える事と戦死する事は、そう差のない時間だと、思う。
………それは勿論、老齢である自分もまた、言える事だけれど。
それでもこの少年は、きっとこの先自身と老人と、どちらにも危機が訪れたなら、迷わず老人を救う為に駆け出すのだろう。
その時、果たして自分は己の身を守るのか、この少年を守るのか……答えを見つけられない事にこそ、驚くべきかも知れないけれど。
「…………おぬしも同じ事を皆に願われている事を、忘れてはならんぞ、予言の子よ」
優しい音色は、けれど境界線を越えぬようにと、義務的な名称でその名を綴る。
それでも少年はその音色の優しさを知っていて、まるで幸福に浸される赤子のように柔らかく溶かした笑みを満面に浮かべて、小柄な老人に頭を垂らした。
「ありがとうございます、ブックマン」
綴る旋律は甘くいとけない赤子の泣き声。
それを耳にし、毒されたというべきか毒気を抜かれたというべきか、老人は悩む。
どれ程長く裏歴史を刻もうと、この身は機械になり得る筈は無く、愛おしむ情を完全に無くせる筈もない。解っているからこそ、それらを黙殺する覚悟を持ち、生きてきたというのに。
老人の耳には駆け寄ってくる弟子の足音が響き、少年もまた、立ち上がり彼を迎える為の笑顔を浮かべた。
この話はこれでおしまい、と。自分が終わらせるよりも早く、この少年はそれを受け入れ何も知らぬまま駆け寄る青年に手を振った。
こんな話をしていたと、この弟子が知ったなら仰天するより先に、悲嘆に染まるだろう。それは、心がまだ脆弱なままの、弟子の課題部分に鋭い切っ先を差し込みかねない。
言った事も無いそんな機微を、無意識にこの少年は読み取って、まるでなんて事はないように、こちらの望むがままを体現してしまう。
………師弟揃ってとんだ存在に出会ってしまったものだと、嘆息すべき思いを、それでも笑みに溶かし、老人は頷いた。
出来る事なら、その頭を撫で、愛しまれている事実の全てを教えてやりたい。
この狭く小さな組織の中
それでも与えられる優しさを忘れない子供だからこそ
彼の祈りのまま、全てが叶えばいい
そうして、彼もまた願われるまま、その祈りの中で花開け
美しくさえずる声音を、地に落とす事無く、咲き誇れ
長く長く、永久とも言うべきこの先の時間を、ずっと……………
前
そんな訳で後半でした。
別に前後編にする必要も無かったし、1つのストーリーで終わらせるつもりだったのですが、なんか書いていったらお題で使おうと思っていた話に流れていってしまったという………
小説書き始めてどれだけ経っても、そんな事はしょっちゅうなんですよ。いつも行き当たりばったりですからね。仕方ない。
10.9.23