遥か昔から脈々と続く
そんなありふれた言葉で括る事の出来る血筋
決して伝統を重んじるなどは無く
むしろ時代の何にも捕われず
規則も掟もその代毎に切り替わり
飄々と、ただ記録に専念出来る環境と人格を育んだ
そうして次代の担い手は
その有って無きが如き掟にこそ囚われ足掻く
今だブックマンを悟り切れない、幼い心のままの未熟な魂
02.ともすれば零れそうな想いが
任務も終わり帰路に着く頃、ふと街中で青年が声をかけられ、そのまま少しだけ席を外した。
それはさしておかしな事でもなく、珍しい事であろうと、さすらった経験のある旅人には覚えのある光景だ。
たまたま以前顔見知りになった誰かと偶然の再会。
けれどその割にはおかしいと、少年は青年が困ったように連れ去られた先を見遣りつつ、隣に座る老人に視線を落とした。
老人はその視線の動きは勿論、含まれる疑問も知っているらしく、目を合わせもせず声も掛けないうちから、手にしていたカップをテーブルに戻して口を開いた。
「気になるか」
「………聞かない方がいいなら、問いません。困らせるつもりはありませんから」
彼らの本職に関わりのある事なら何も語らないでいいと、拒絶を示される前に先に逃げるのはこの少年の癖だ。
幾度かそうしたやりとりをした事のある老人は、誤摩化しもせずに連れ去られた愚かな弟子を遠目で見遣りながら小さく息を吐く。
「たいした話ではない。………あやつの名は全て仮の名だ。その場限りのな」
さらりと、その深刻さを気付かせない程淡々とした乾いた声音で老人は告げた。その内容に驚くかと思いきや、隣から見下ろす少年の眼差しは相変わらず静かに澄んでいて、逆に老人が不可解そうに眉を顰める。
その仕草に気付いたら少年は、クスリと小さな苦笑を落とすと、首を傾げて自身のカップを手に取った。
「いえ、なんとなく予想はしてました。違う名前に普通に答えてたし。あだ名っていう感じじゃ、無いし。サーカスにも時折いましたよ。サーカス毎に名前を変えちゃう人」
それはどちらかというと困った事情を持っている人が多かったと、決して名を変える理由など言及せずに少年は朧げに理解している事を示した。
少年のカップの中、琥珀の液体が揺れている。その中に浮かぶ少年の表情は、淡い笑みで、端から見ていれば老人と孫の茶会程度の穏やかな光景だろう。
けれど実際は、その内容は少しだけ重く、ほのぼのとしきれない鋭敏さを互いの内に秘めている。
そしてそれごと全てを飲み込むように、少年はカップに口をつけ、香り高い紅茶で喉を潤す。
「わしがジュニアだった頃はもっと多くの名を名乗ったものだがのう」
その様を見遣りながら、相変わらず表情を読み取らせない隈取りの奥の瞳は、どこか柔らかな光を讃えたまま小さく呟いた。
聞き流したとしても咎める事は無かっただろう声を、それでも少年はカップを持ったまま老人を覗き込む事で会話の先を求めた。
「もっとって………なんかブックマンなら三桁くらいいきそうですね。全部覚えているんですか?」
名前も、その土地も、関わった人間も。膨大過ぎる情報をその小柄な身体に仕舞い込んで今までを生きてきた、文字通り生き字引の存在。
知ってはいても普段の老人はそんな存在である事を気付かせない程静かで、どこかお茶目で、孫程に歳の離れた弟子をからいかいつつ育てている。
そんな彼が自身の事を語る姿は、滅多に無い。語る事で関わりを持ち、傍観者が当事者になる事を避けるのだと、そんな難しい理屈は解らない少年も、彼らが自身の事を語らず生きなくてはいけない性を背負っている事は知っている。
「わしらの記憶処理はおぬしらとは少々異なるからのう。消去せぬ限り、見たものは見たまま、全て記録される」
そうして告げられたささやかな情報に、けれど少年は目を見開き………どこか痛ましく顔を顰め、俯いてしまう。
それを少年よりも小柄な老人は見上げた視線だけで全てを見取り、知識の量ではなく必要なものを受け取り考え模索する、脳の活路をきちんと知っている少年の叡智を好ましく受け止める。
「それは……なんか、羨ましいって言えない気が、しますね」
囁かれる音は、今は視界からも遠い場所で過去に関わったログ地の人間と語らっている愚かな弟子に捧げられている。
「そういう存在なだけだ。おぬしが気に病む必要は無い」
「そう…なんですけど、でも、きっとラビは………」
掻き消すように喉奥に飲み込んだ少年の言葉の続きを、語られずとも予測出来た老人は微かに息を落とし、テーブルに追いやっていたカップをまた手に取り、喉に流した。
きっと馬鹿な弟子は消去を選べずに全てを抱えていくのだろう。それを思い、少年の声が少し儚い響きになる事も、老人には解っていた。
………解っていて、それでも告げたのは意地が悪いだろうか。
理解しろなどと言える立場ではなく、より深く関わりゆく事を奨励出来る筈も無く。それでも、覆い隠し知らぬまま消え去るのではなく、自分達が抱え刻むように、この少年にも僅かばかり刻んでしまった。
それは多分、歴代のブックマンの誰もが、愛おしんだ命に与えずにはいられなかった愚かさだ。
「全てを覚えているって…凄いけど、悲しくも辛くも、ありますよね………」
告げる声は、実感とともに憂いが濃い。どうしても少年の中、決して消えない鮮やかに記銘された記憶は、愛おしく美しく優しく………何よりも深い絶望と悲嘆に彩られている。
思い出すその克明な映像に、少年は知らず拳を握りしめた。
全ての記憶が愛おしいなど、誰も言えないだろう。けれど、捨てたくなるその部分すら、いつかは愛おしさに繋がると知ってしまえば、捨てられないのだ。
それを青年に教えたのは、自惚れでないなら、きっと自分で。
…………この先の時間、彼が思い出せば痛む事もあるそれを、それでも消去出来ずに携えるだろう。それは、時に狂おしい程の寂寞を身に呼び起こす棘にもなり得るものだ。
決してそれは彼らの本職を思えば、好ましい事ではない筈だ。
「あれはただの未熟者じゃ、気に掛ける必要は無いわい」
それを解っている老人は、それでも殊更何気ない風を装ってそんな風に言って終えてしまう。
「でもブックマン。………本当は、ラビの事大事でしょう?」
彼の言に苦笑し、真っ直ぐな眼差しを惜しげもなく老人に注いで、少年が問い掛ける。
もしも彼に何かがあれば、その身の為に涙を流すくらい、大事でしょうと。微笑む仕草は幼い癖にひどく慈悲深い。
その眼差しはおそらくは何を読み取る事も出来ないであろうに、それでもこの少年は理屈も手腕も抜きに、知っているのだ。誰かが誰かを愛おしみ慈しむ、その感情の流れを。
「それでいいんだって、僕は思いますよ。ブックマンの仕事がどういうものか、僕はよく解らないけど、僕はブックマンの事、好きです」
にっこりと、幼い笑みを捧げていとけない告白を少年が捧げる。この場に青年がいたらどんなに騒がれるかと、苦笑してしまう。
まったくの無意識でこうした言葉を口に出来る少年は、どこかやはりずれていて、そのずれた部分は、おそらくは………愛情を求めて泣く幼子の心だ。
「ラビを育ててくれて、今こうして彼と一緒に仲間としてここにいられる。それが僕は凄く嬉しいから」
それを与えてくれた老人に、どれ程感謝しても足りないと幸せそうに少年は笑んだ。
まるで己の事を褒め愛してくれる親を目にしたような、柔らかく溶けた眼差しは、無条件で庇護欲をそそるだろう幼さだ。
未熟な弟子が見たら答える言葉も忘れてしまうだろうあどけなさに、老人はカップの中の茶を啜りながら笑んだ。
「あ、でも、それとは関係なしに、ブックマンの事は好きですからね!そこは勘違いしないで下さいよ?」
感謝したとしてもそれとこれとは別で、例え彼がいなくても、やはりきっと好きになったのだと、あどけない子供の好意のまま少年はその言葉を捧げた。
それに老人は小さく息を吐き、目元だけを綻ばせて少年を見上げる。
逸らす事も無い眼差し。無表情なままの老人の姿は、どこか威圧感があるだろうに、この少年はその中からいつも柔らかくあたたかい部分を見つけ出しては微笑むのだ。
「おぬしもまた、酔狂じゃな」
こんな老人に、しかもブックマンという立場から揺らがない自分に、そんな真っ直ぐな好意、いつかは踏みにじられる可能性があるというのに。
嘆息は彼への戒めを込めていて、けれどそれに少年はにっこりと強かな笑みを浮かべ、答えた。
「今までの人生、無駄に生きた事はありませんから♪」
全て己の糧にする為に生きてきた日々だと、それを自覚するより昔の経験すら、この少年は己を高め、揺らぐ事なく屹立する為の支えとしたのだろうか。
それは、この年齢の子供が考えるべき事かと老人は一瞬憂え、憂える己の思考に、今度こそ盛大に嘆息した。
それでも、この少年の言葉は、鎧う事も無く捧げられてしまい、しっくりと馴染みすぎる。
彼の何倍も生きた自分ですらそうなのだから、未だ悟り切れない未熟者にはさぞかし手に余る事だろう。
思い、老人は取り零す事なく思いを飲み込むように、小さく小さく吐息を喉奥へと転がした。