少年について、師に詳細を乞うた。
 記録用ではなく、日常の中での所作、癖、履歴、好み。師の知る限りを全部、示して欲しいと乞うた。
 そうして得た知識を蓄積すれば、きっと少年の望む『ラビ』に近づく筈だ。
 彼が見破るか、自分が騙し通せるか。どちらであっても痛みもない、ちょっとした遊びだ。わくわくと新しいゲームを与えられる子供のような無邪気さで師の口が開かれるのを待つ青年に、老人は小さく嘆息してから、その情報を提示した。

 …………聞いた内容は、どこまでも奈落を覗くようで、げんなりとしてしまったけれど。



 いつものように、と言って差し支えがないかは謎だが、青年は少年の部屋に向かった。
 用事がない限り、青年はそこに居る事が増えた。それは『ディック』である事を少年が知っており、それを見破られる事なく過ごせるか試している青年の、フィールドワークにも合致した場所故だ。
 初めは戸惑っていた少年も、今は青年が勝手に入り込んでも窘める言葉を投げかけるだけで顔も顰めない。
 今も料理長から貰ったというクッキーを山の用に詰められた袋を前に、紅茶を煎れている所だったようだ。
 一応の礼儀として叩いたドアは、けれど返事を返されるより先に開けてしまう。行儀が悪いと必ず注意をされるけれど、そんな時の吊り上がった眉や尖らせた唇はどちらかというと幼くて、それが面白いと、つい解っていながらも繰り返してしまう仕草だ。
 「あれ、アレン、誰か来るんさ?」
 今日も同じように注意を受けてから入室した青年は、少年が2つのマグカップに並々と紅茶を注ぐ様を見て目を瞬かせる。
 用事がある割に慌てた様子もない。もしかしたら老人が来るのか。………しかしそんな事を言っていた記憶はないし、何よりも今、老人は科学班の分析を覗きに行っている真っ最中だ。
 「いいえ?これはディックの分ですよ。さっきブックマンがこっちに来るだろうって言っていたので」
 「ああ、ジジイに聞いたんさ?」
 先に部屋を出た老人は、もしかしたら少年を気に掛けて、こちらに足を受けてから科学班に行ったのだろうか。偶然出会ったのかもしれないけれど、どちらかというと前者の方が蓋然性が高く青年には感じられた。
 「科学班の方に用事があるって言ってました。読ませる本を持って来ていなかったら殴るように言われましたけど……残念です」
 「殴る気満々さ?!アレン結構強いんだから、殴られたら頭悪くなるさ!」
 「頭は避けますよ、流石に」
 クスクスと楽しげに返される返事は、多分からかいだ。
 鍛錬以外でこの少年がわざわざ人を殴る事はないだろう。精々追い出されてしまう程度か。………それはそれでつまらないのだから、きちんと本を抱えて来た自分の判断は正しかったと、胸中で褒めた。
 勝手知ったる…という程広い部屋なわけではないが、それでも部屋の主の意向を聞く事もなく、青年は歩を進めてベッドに腰掛け、ブーツを脱ぐとその上に転がった。
 持ってきた本は分厚く重く、ベッドに放り投げたらそれだけで少し軋んだ音がする程で、青年はげんなりとしてしまう。
 「はい、紅茶。また難しそうな本ですね」
 「サンキュー♪まあ簡単な本はもうガキの頃に読み尽くしちまったし、これは俺の本職だから仕方ないさ」
 「ラビもいつも本の重さに嫌な顔するけど、読む事は凄く楽しそうに熱中していましたよ」
 そういう所はやはり変わらないのだと、苦笑するように少年は答えて、青年が占領しているベッドの端に腰掛け、手に抱えていたクッキーの袋を開けた。
 それを眺めながら、幸せそうにクッキーを食べていく頬の動きをひとつずつ青年は記録する。
 ひどくそれはありふれている、幸せそうな姿だ。数日で現状に慣れ始めた少年は、こうして青年が前にいてもこんな笑みを零す事が多くなった。
 警戒をしなくなったのは、きっと自分が害意を持っていない事を知ったからだろう。どうもこの少年は自身に向けられる視線の質に敏感だ。
 それはある意味当然の事か、と。老人から提示された少年の詳細なデータを脳裏に浮かべながら納得してしまう。
 「アレンって、幸せそうに食うさ」
 ぼんやりとそんな事を考えながら、青年は止まる事を知らない少年の腕の動きに感心しながら呟いた。クッキーは相当大きな袋に入っていたのだ。けれどきっと、このままのスピードを維持していたら、数分後には綺麗に無くなってしまうだろう。
 「?だって美味しいですから」
 「そうじゃなくて、今までさ、15年で結構な目に合って、でもクッキーひとつで幸せなん?」
 「????美味しいもの食べられるのは幸せじゃないですか?」
 何かおかしな話に思えたのか、少年は食べていたクッキーをスチールの上の紅茶の隣に置いた。
 それを横目で眺めながら、青年は先程老人から聞いたばかりの情報を脳裏に描きながら、少年の問いに答える。
 「んー?だってさ、アレン、結構不幸の見本市さ?それなのに、クッキーひとつでそんな嬉しいんさ?」
 いくら不幸続きで幸せに飢えていても、たかがクッキーひとつでそんなにも喜べるだろうか。考え、そんなケースもあるかも知れないと、小さく納得する。
 だから、もしも少年が頷くだけなら、きっとそれ以上の話は続かなかった。ただ青年の中に、ひとつの前例が出来上がった。それだけの話だった。
 「…………?あの、ディック、聞いてもいいですか?」
 けれど、不思議そうな少年の顔が、首を傾げて青年を見下ろしている。頷く解答しか想定していなかった青年は、その眼差しに目を瞬かせた。
 「なんさ?」
 「僕、不幸ですか?」
 「へっ?…………いや、まあ、解んねぇけど、でも、同じ目にあった奴なら不幸って言うと思うさ」
 現に、少年よりは恵まれている筈の人間が、己の不幸を嘆いて愚かな行為に走る姿を、青年は幾度も見ている。
 総合的に見て、少年は幸せではないだろう。与えられた愛がどれ程深かろうと、幼い内にそれを失い、再び天涯孤独の身だ。その上、愛を与えてくれた存在に呪われるなど、幸せであった記憶すら痛みに変わる。
 答えた青年の言葉に、少年はまだ残っていた口の中のクッキーを飲み込んで紅茶を含むと、悩むような仕草で数瞬、間を置いてから、喉を上下させた。
 「ディック、僕は自分が不運だとは思うけど、不幸とは思わないですよ」
 不思議そうな響きの声は、青年が不思議がる理由が解らないからだろうか。そんな少年の思う事こそが解らない青年は、首を傾げて少年を見上げた。
 「きっと僕は、凄く幸せな人間ですから」
 にっこりと、無理のない笑みを浮かべた少年の声は、決して嘘偽りに染まっていない。青年の判断が間違っていないのであれば、その声は事実をそのまま口にしているだけの音色だ。
 「幸せ……?そうなん?」
 「ええ、あ、でも僕がいう意味でなら、きっとディックも幸せです」
 しっかりと頷いて、少年は真っ直ぐに青年を見た。自分の言葉が正しいと、そう証明するかのようにゆったりとした滑らかな動きだった。
 けれどその言葉の意味が、青年には解らない。否、言葉の意味は解る。けれどそれに自分が加えられ、同じだと言われる意味が解らない。
 「へ?俺も?なんでさ??」
 呆気に捉えたような惚けた声に、少年はクスリと小さく笑う。最近見かけるようになった笑みは、こんな風な、子供を見つめるような諭す瞳と柔らかさが添えられている。
 それを見つめながら、自身の胸元で何故かじんわりと広がるものに、青年は目を瞬かせた。
 「ねえディック、僕は生まれてすぐに親に捨てられました。けど、死ぬ前にサーカスの団長が拾ってくれましたよ」
 「でもそれ、雑用係とか、そういう体のいい使い捨て用さ?」
 「それでも僕は生き延びました。その後は、養父が僕を拾って愛してくれました」
 「でも、親父さんって、アレンに呪い残したさ?」
 「それでも父のくれた愛が偽りでない事は確かです。その後は、独りになった僕を、すぐに師匠が見つけて、弟子にしてくれましたよ」
 「…………アレン、元帥の話すると凄い抜け殻みたいになる癖に」
 「まあ色々ありましたから。でも、師匠は絶対に僕を独りにする事は無かったんですよ。あんな胡散臭い人なのに。その後師匠と別れて、教団が僕のホームになりました」
 「エクソシストって、割合わねぇさ?」
 「お帰りって言って迎えてくれる人がいて、怪我の心配をしてもらえて。…………とても幸せな事だと思いますよ?」
 少年の言葉にはすぐに青年が割り込む。まるでその言葉全てを覆したいかのような仕草は、けれど意地の悪さではなく、言うならば知りたがりの質問攻撃だ。
 そのひとつひとつにきちんと答え、少年は自分の知る事を提示する。
 「うーん……??いまいち解らないさぁ」
 けれどどうにも納得出来ない青年は、首を傾げて眉を顰め、拗ねたように唇を尖らせてそう呟いた。
 それに困ったように笑い、少年は寝転がったままの青年を見下ろして、謎かけをするように歌う仕草で問い掛けた。
 「ねえディック。僕の人生は確かに色々ありましたけど、気付きましたか?」
 「うん?」
 「僕、独りになった事は、ないんです。身寄りもなくて捨てられていて。父を喪った時はそのまま朽ち果てたくらい、ボロボロだったのに。それでも僕は必ず誰かの腕によって、生きる道を与えられました」
 泣いていた赤ん坊は醜い左腕を持っていたのに。
 擦れて斜に構えた子供は可愛げなど無かったのに。
 呪いを刻み色素を失い壊れた人形のように動かなかったのに。
 それでも、誰かがその手をとって立ち上がらせてくれた。何も出来ない頃から、必ずそれが生かしてくれた。
 それが与えられたから、自分は今こうして生きて、前を見つめる事が出来る。だから自分に与えられた不幸になど、その全てを凌駕する程の深みはないのだ。
 「隣に誰かが必ずいるっていうのは、ディック、物凄い幸せな事なんですよ」
 あなたの傍らに必ず老人がいる事も、それは掛け替えのない幸福なのだ、と。少年はまるで御伽話に感激する子供のような眼差しで言った。
 それに青年は目を瞬かせ、己の中の価値観と少年のそれを照らし合わせてみる。
 …………自分はそれを幸福だと、いう事はないだろう。人が集まるのは、その必要性があるから成り立つ事だ。独りであっても死にはしない。日々の糧さえ手に入れられるなら、人はたった独りでも生きていける。
 それでもこの少年は、そのどうでもいいような事を、ひどく愛おしそうに笑んで綴る。
 その笑みは、先日『ラビ』に向けられたものと同じで、青年は微かに眉を顰めて少年を見遣った。
 彼から渡されたマグカップをスチールに乗せ、青年はベッドの上に起き上がると、足元に腰掛けている少年の顔を覗きこんだ。
 よくこうした仕草を仕掛けたせいか、少年は目を丸めはしても首を傾げただけで咎めはしない。
 大きな銀灰の瞳は相変わらず自分を映している時は、少しだけ固い色を晒す。老人を映す時の柔和さはなく、『ラビ』に向けられたものの足元にも及ばない。
 長い睫毛が上下して、彼が瞬いた事が解る。凝視し過ぎて、流石に怪しみ始めたのかも知れない。
 どうもこの少年は、奇怪だ。老人から与えられた情報はどこまで手繰っても愉快な話はなく、辟易とする程不幸のオンパレードだった。
 幸せすら不幸に繋がっていくのだから、もっと鬱屈と歪んだ人格になりそうだというのに、この少年は自分が知る限り、ひどく鮮やかに笑う術を手に入れている。
 自分はそれを知らない。老人の語る言葉の中、そんなものは含まれてはいなかった。
 身じろいだ青年の足に当たる固い質感が、自分が持ち込んだ本の存在を思い出させた。きっとその本の中にも、この少年が見出した幸福論の記述はないだろう。
 「ディック?」
 微かに不安に揺れる声が、名を呼んだ。決して自分と『ラビ』を間違えない声。
 なんとなくそれがひどく苛立たしい事に思えて、自然と眉間に皺がよって険しい表情になってしまう。それに、少年の肩が少しだけ跳ねた。
 怖いのだろうか、自分が。『ラビ』と同じ顔と声と記憶を有しているのに、たった数年の違いで、この少年は差し出すものをまるで違うものにする。
 あんな風に、不幸の中の小さな幸いを喜ぶ癖に、こんなちっぽけな違いに首を振るのだ。
 この少年の中、眠るものを自分が得る事が出来れば、あるいはそれは覆るだろうか。考え、けれどその不可能さに顔を顰めた。
 ………もしも彼が女であれば、その身に命を宿らせ与える事も可能だろう。けれどこの少年はれっきとした男だ。命を産み落とす事は不可能だ。
 仮に女であっても、既に生まれ落ちた自分をもう一度生み直す事は不可能なのだから、無駄な足掻きではあるけれど。
 それではどうしたなら、この少年の孕む何かを得る事が出来るだろうか。あまり学の高くない少年は、自身の抱えるそれを正しく提示出来るとも思えない。そもそも、己がそんな希有な知識を有しているなど、きっと彼に自覚はない。
 けれど、それが欲しいと思った。多分これは純粋な知識欲だ。
 目の前に転がっている知らない何かを、手に入れる為の方を必死になって考える。不安に揺れる銀灰が微かに身体を引いて、ベッドの上、青年の眼差し逃れるように下がっていった。
 ブーツも履いたままで、随分と行儀が悪い。それだけ怖がっているという事かも知れないと思えば、尚の事疼く何かが身を焦がしそうだ。
 知りたい、この少年の内包するものを。手にすれば自分は、きっと『ラビ』に成り代われる。
 思い、ひらめいた。………成り変わりは、その対象を喰らう事から始まる。けれど全てを食べてしまっては、この命が消えてしまう。それでは意味がない。
 必要な部分だけで良いのだ。少年が携えるものの中、自分が欲しい情報を有している部分。何を喰らえば、この命の秘めた知を得られるだろうか。脳や心臓は、まず却下だ。手足は無意味だろう。それでは、どこがいいだろうか。
 考え見遣った先、銀灰が揺れるように眇められた。まるで泣き出しそうだ。
 「なあ、アレン……」
 それを見て、解った。彼が内包するものは、きっとそこだ。美しく揺らめきながら輝き続ける、月を映した銀灰色の瞳。
 その目が写し飲み込んだ全てが、鮮やかに煌めく知と変わる。うっとりとその様を思い浮かべ、青年は壁際まで後ずさる少年を追いかけた。
 「その目、何見えるさ?俺も見たい」
 「ディ、ディッ、ク………?目?………あ、………止めた方が、いいですよ?」
 震えを必死に抑えた少年の声が、要領を得ないかのように青年の言葉を繰り返し、少しの間を置いてから、漸くその意味を知ったのか、答えた。
 「なんでさ」
 戯けて言いながら、そう少年が返すのも無理はないと内心で笑う。当然だ。その目を抉って食べたい、なんて。実際にそれが可能だったとしても、彼の中の知が与えられるとは限らない、そんなまじないじみた手法だ。
 けれど、今はそれが一番手っ取り早くて簡単な方法だ。舌なめずりをするように、青年はどう陥落させようかと少年の反応を幾通りも想定した。
 「………ラビも、見て…………数日、ご飯が食べられなくなってました、から。………AKUMAを見るのは、止めた方がいいです」
 寂しそうに揺れた瞳に溢れる涙が、俯いた拍子に零れそうだ。けれどそれは、自身の左目を覆った少年の腕によって流れる前に掬い取られ、湖面に揺れた月は空に戻った。
 悲しみに浸る声に、ゾクリとする。悪寒に似たそれは、目の前の少年が消失しそうな恐怖に感化された反応だろうか。
 おかしな反応だ。有り得ない、誰かの感情に流されるなんて。
 けれどそれは確かに今、自分の身に流れた。唇を噛み締めそうな衝動を耐え、青年は努めて明るく笑った。
 「違うさ、アレン。左じゃなくて、右。………その目食べたらさ、俺にも同じもの、見えんかなぁって思ったんさ」
 そっと……とはとても言えない、若干乱暴な指先で左目を覆う少年の手首を掴んで引き離し、俯く顔を持ち上げる。
 数多くの不幸を経験した少年は、その全てにある幸福を先に見つける。それなのに、何故だろうか。…………自分の前で、この少年はいつだってこんな、泣き出しそうな顔ばかりするのだ。
 見上げた銀灰は歪められ、また涙が溢れそうだ。それを掬い取れば、少しは得られるだろうか。………やはり抉り出さなくては無意味だろうか。
 考え、無意識に青年は寄せた唇で少年の右目を舐めた。
 ………瞬間、少年の身体が凍り付き、喉が悲鳴にもならない呼気を短く押し出した。
 このままこの目を噛み砕いて喉を潤わせたら、欲しいものが手に入るだろうか。


 …………たった今、痛みに息も出来ない心臓の激痛を、無くせるだろうか。



 答えなど見えないまま、青年は閉ざした目蓋の裏で、幾度も記録した少年の拒絶の顔を思い描いた。







エピローグ

 この後ラビに戻って、さぞヤツは大慌てだっただろう。
 真っ赤と真っ青とを繰り返すだろうなぁ。
 ディックは知識欲が理性より上にある感じで。なので、一歩間違えるとマッドに進む危険性があるという。
 でも無意識に、ただひたすらに自分を見て欲しいと訴え続けているのです。
 ちょっとその方法が間違っていたりとか、自分で自覚ない分違う感覚に刷り込んじゃったりとか、色々不都合があるせいで伝わってないですけどね。

 しかし、目を抉られたら、普通はショック死するからそこも選んじゃ駄目なのだがね。まあそういう問題ですらないのですが。

10.10.17