真っ白だったそれは赤く染まった
どうしてと問う事も出来ないまま、ただ涙が流れた
自分の血ではなく
眠り続けていて、記憶もなく
起きたなら白は赤に変わっていた
それはただ、たまたま購入しただけのもので
別にお気に入りでもなんでもなくて
駄目になったなら買い替えればいいだけの、そんな物なのに
この腕はそれを手放せなかった
色を変えこの手に残し
そうして、まるでぬくもりを求めるように身に纏った
誰かに抱き締められるというよりは
………………その赤を、抱き締めたくて
あなたがあなたである為に捧げる祈り
そろそろ限界だろうかと、思っていた。
あの方舟の中で、自分はあらゆるものを見た。勿論、記録出来なかった部分も多々あれど、自分がそれを決めるには十分な量の情報を蓄積出来た。
それなら、選ばなくてはいけない。
どれ程それを拒もうと、結果は目に見えているのだ。だから、初めから解っていたものを、選ぶ事を決めた。
にっこりと笑いかけた先、少年は困惑げに眉を顰めている。当然だろう、自分の言葉はひどく解りづらい筈だ。
少年の傍らに佇む監視役も、怪訝そうな顔でこちらを見ている。それは黙殺して、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「だからさ、アレン。俺、もうお前の傍にいられないんさ」
「えっと………それは、教団を去るとかじゃなく、僕に、って事ですか?」
胡散臭そうな響きの声でそう問い掛けながら、少年は少しだけ青年との距離をとった。それは多分、無意識の仕草だ。
そうした事によって背後に佇む監査官に、青年から離れたのと同じだけ近づいて、内心面白くない物が頭を擡げる。けれど青年はそれすら押し殺し、微笑んだ。
「理由は、解るさ?俺はブックマンの後継者で、中立で傍観者じゃなきゃ駄目なんさ」
「つまり、中央から監視を命じられるような人物に関わるわけにはいかない、という事ですか?」
にこにこと胡散臭い笑顔を貼付けている青年を、同じように胡散臭い眼差しで睨む監査官が告げる。
話している中に割り込まれ、青年の眼差しが一瞬、冷ややかに彼を射抜いた。が、それも本当に一瞬の事で、監査官が身構えるより早くそれは消えて、笑んだ眼差しと同じ形の弧を唇に作り上げた。
「俺はアレンと話しているんさ?」
言外に関わるなと告げる音色に、軽く息を吐いた少年は背後の監査官に眼差しだけを向けて笑んだ。それにすら、青年の視線が冷える。
…………その反応を確認しながら、少年は今度こそ盛大な溜め息を胸中で吐いた。
自身の反応すら把握出来ない状態で話をしているも何もないだろうに、どうも今の青年は盲目的に何かを遂行しようとしているように見受けられた。
それでも、彼の言葉の意味くらいは、解る。彼の立場だって知っている。何を抱え隠し選んだのかは知らなくても、彼がそれを導いた過程は予測出来る程度に、今の少年の立場は良くなかった。
「構いません、リンク。言いたい事があれば言って下さい。僕だと、あなた達のように頭が回りませんから」
青年の出方を探るように答えた少年の言葉に、微かに青年の瞳が揺れる。痛み……に近い、それは揺らめきだった。
傍にいられないと言いながら、少年の傍に誰かがいる事で傷付くなど、おかしな話だ。
それ以前に、この会話の成り立ちからしておかしい。にもかかわらず、何故それがたった今展開されているのか、判断する材料は皆無だ。
せめてもう少し、情報が欲しい。いっそ彼がもっと無情に言って去ってくれれば、まだ納得出来るものをと、自分よりもそうした駆け引きに長けているだろう背後の監査官に視線を送った。
それは背後の監査官にも伝わったのだろう、顔を顰めるように歪めてそっぽを向かれてしまった。まるで痴話喧嘩に巻き込むなとでも言いそうな顔に、こちらも拗ねたかと少年は溜め息を吐いた。
この監査官も、大分自分と一緒に過ごす時間が増えたおかげか、初めのようなあからさまな疑惑と嘲笑を向ける事は無くなった。けれどそうだからといって友好的なわけでもない。立場的に言うなら、彼は青年以上に自分に対してストイックで一歩退く必要がある。
その癖、この監査官も青年も、突然こちらが呆れてしまう程幼い反応を示す事がある。それはなんとなく、彼ら自身が疎外されているような、そんな時が多く感じるのは、自惚れだろうか。
年上ばかりの筈のこの教団に連なる人間達は、何故か自分よりも子供じみた真似を晒す。もっと上手に隠したり躱したり出来ないものだろうかと、ついいらない世話を考えながら、少年は己の左手で左目を覆った。
……………その二つに宿るものをもう一度、自分で考える。今まで以上の意味が、そこに連なるように見えてきたのは、方舟からの帰還以降の怒濤の日々での蓄積された情報故だ。
未だ少年はその全てを昇華しきれてはいない。ただ、それでも己の中にあるものは……己が携えたものは、決して揺らがないのだと、その二つがあるが故に奇異な道を歩む己の人生を鑑みる。
監査官が手助けをしてくれないのならば、手にある情報を元に自分で考えなくてはいけない。思索は特異ではないけれど、幼い頃から己を分析する事はいつもの事で、それ自体は苦でもなく敢行出来る。
脳裏に描かれていく数々の自分にまつわる情報。ノアに関する事、自分にだけ見える幻影。それら全てを想起し、苦笑する。……………青年の言い分が、解らない筈がない。
イノセンスが己の意志で心臓の代わりを果たし、ノアに破壊されながらも再生した。
シンクロ率が臨界点を突破し、今いるエクソシストの中で一番、元帥に近い位置に立ってしまった。
知らぬ内に方舟などというものの奏者となって、この世で唯一ノア以外で方舟を操れるものになった。
14番目という、見た事も聞いた事もないノアの記憶が移植され、いつかは自分がノアに代わる存在だと、されてしまった。
それらは全て記録対象となり得るもので、記録する事物に感情を交えて見てはいけないその立場も、知っている。それが故に苦しみのたうっている事だって、あの方舟の中で見た。
だから、もしも彼がそれらを理由に一緒にいられないというのなら、それを拒む理由が自分にはない。拒める程の間柄でもないのだ。ただの仲間で、友達で、それ以上など、何も無いのだから。
少年の唇から洩れた小さな溜め息を追うように、青年は視線を少年の顔に向ける。その目に映るのが微かな怯えなど、おかしな話だ。
もう一度息を吐き出して、そうして少年はゆっくりと呼気を吸い込んだ。
「解りました、ラビ。僕はあなたを縛る権利はありませんし。でも、ブックマンに会いに行くのまでは、禁止じゃないですよね?」
そんな権限はあなたにもない筈だと、釘を刺すように問い掛ける。
その声に顔を顰めて、青年はそっぽを向いた。現ブックマンである老人は、きっとこの少年がやって来たところで拒みはしないだろう。それは同室にいる確率の高い青年が、嫌が応にも顔を合わす可能性の高さを示唆していた。
それでは意味がないと、きっと言いたいのだろう。拗ねたような仕草に眉を垂らし、少年は笑む形に唇を動かして、告げた。
「大丈夫です、ラビが声を掛けない限り、僕も掛けません。あなたの邪魔はしません。あなたが望む通りに、従いますよ」
まるで従順な物腰でそんな事を言い、少年は微笑んだ。
その笑みを見たくないように顔を背けた青年は、ふと気付いたように首元を探る。シャツに隠れて垣間見えた見えたのは、細い鎖だった。
それを外した青年は、少年が首を傾げるまま背後の監査官に視線を向けるのを押し止めるように、なんの断りもなく右腕を掴んで引き寄せ、その手のひらに鎖を垂らした。
「……………?なんですか?」
銀の細身の鎖の先に、紅い石が垂れている。大きくも小さくもない、楕円のそれは直に石に穴があけられて銀のペンダントトップを取り付けられただけの、ひどく簡素なペンダントだった。
青年が身につけるにしては珍しいと、何を伝えたいのか計りかねた少年はその石を眺めるだけで、掴まれた腕をどうしようか悩んだ。
この状態で何を青年が言いたいかくらいは解るけれど、かといってそれを受け取らなくてはいけない理由はない。
そんな少年の心理が解ったのだろう、苦笑した青年が鎖から手を離し、ペンダントは完全に少年の手のひらに乗せられてしまう。………それに顔を顰めた少年の眼差しに、青年の笑みが映った。
相変わらず胡散臭い程にニコニコした、感情を隠す為の仮面の笑顔。
「最後の記念。アレンにやるさ」
「いえ、いらないです。どうぞ、ラビが持っていて下さい」
即答で拒んだ少年の声に、仮面は少しだけ傷付いた色を灯す。
それ以上の傷を相手に与えている事には、多分気付いていない。……否、気付いても見ない振りをしている。それくらい、彼には余裕がない。
……………何があったのかと、問う事は簡単だ。
けれど問うたところでこの青年は答えない。きっと勝手に考え勝手に決めて勝手に答えを出した。
そこに少年の意志が入り込んでいない事すら気付かないまま、結論を絶対だと思い込んでしまっている。
そこに踏み込む事を許されているのか、解らない。離れようとする意志は本物か偽物か、判断に困る。こうして眺めていて見て取れる全てのシグナルが、自分の望みを反映していないなんて、言い切れる筈もない。
「駄目。アレンが、持つさ。最後ぐらい、いいさ?」
「むしろそれを言うなら、最後くらい僕の意志を尊重して下さい」
「駄目。……嫌なら、捨てていいさ」
駄々を捏ねる子供が必死に言い募るような口調でそんな事を言って、青年は素早く少年から手を引いた。トン、と、軽い足音がした時には、既に青年は数歩離れた位置に佇み、にっこり笑んでいる。
…………まるでピエロの化粧をしたようだ。そんな事を思いながら、手の中に残されたペンダントに溜め息を吐いた。
その溜め息に答えを知ったのか、満足そうに弧を描いた唇がさよならと綴って、背を向けた。
遠ざかる背中を見ながら、もう一度少年は溜め息を吐き出した。背後の監査官も同じ溜め息を落としている。
「………一体なんの茶番ですか?」
「僕が聞きたいですよ」
手の中のペンダントをぞんざいにポケットに仕舞い、少年は漸く監査官に向き直って答える。
お互いの眼差しの中、共通項は今の狂言のような一人喜劇の行く末を掴めない事への困惑、だろうか。
それにまた溜め息を吐いて、少年は髪をかき乱すように乱暴に手で混ぜた。
「そもそものところ、なんですか、この愁嘆場。僕、別にラビと付き合ってるとか、そんな事実はないですからね?」
それは紛れもない事実だ。唐突にまるで別れようと切り出す彼氏のような顔で詰め寄られて、結果がまさにその通り過ぎて、少年自身ついていけないくらいだ。
時折じゃれるようにハグしてきたり、休みが重なれば一緒に出掛けたり、老人も加えて部屋で過ごしたり。それは確かに数限りなく重ねたけれど、それは極普通の友人であり仲間であるが故の好意に過ぎない筈だ。
そこに別の感情を突然重ねて示されても、戸惑うしかないのは当然だ。
…………けれどきっと、そんな事すら、あの青年は気付いていない。
どれだけ勝手な思慮で話を進めて結果を導いて、あの答えに辿り着いたのか、誰に聞けば解るのかさえ、想像がつかなくて途方に暮れてしまう。
あるいは、それすら自分のフィルター越しの思考で、現実は純粋に傍観者としての立場を選んだだけの、そんな結果なのかも知れないけれど。
「それは承知しています。が、この報告をどうすれば、その事実を伝えられるのか、悩みどころですね」
「…………………………報告、するんですか?」
「冗談ですよ。私の正気を疑われます」
呆れ果てたような顔で呟く監査官に、少年はやっと笑った。それでもそれは、どちらかといえば力ない。
先程の青年のわざとらしい仮面の笑みとはまた違う、それでも笑む事を望んで笑んでいない、形だけの微笑み。
「……………辛いんですか?」
ふと、その様子について出た言葉は、珍しく気遣うような響きを滲ませていて、監査官自身が目を見開いて驚いている。
それを見ながら、そんな仕草はどこかあの身勝手な青年に似ていると、少年は笑った。
…………そんな事を思う自分自身に、少し呆れてしまった。
「いやだな、リンク。辛いって言うのは、その資格がある人が感じるものですよ?」
こんな薄気味悪い、自分でも得体が知れない状態の人間が、そんな資格を有しているわけがない。
解っているから、拒否など出来る筈もないのだ。それは、この身に宿るものをエクソシスト達に公表したあの時から、覚悟していた。
拒まれる事なんて、慣れている。理由のない拒否だって、珍しくもない。この外見なのだ。それだけで忌避されるのが当たり前だ。
………我が侭なんて、願ってはいけないのだ。
「大体、あんな嘘八百って解りきった顔で言う言葉に、辛いも何もありませんよ」
笑い話にすり替えるように力なく少年が告げ、戯けたピエロを真似るように首を傾げて笑った。
感情が途絶えたのではなく、死に別れるわけでもなく。それでもその手が離れる事くらい、あるのだろう。
今までそれは経験した事が無かったけれど、随分と虚無感を感じるものだと、少年は顔を顰めた。
青年がくれた情は、いつも優しくてあたたかかった。出会った当初は肌に痛い言葉を投げかけるし、ヘラリとしながら鋭い切っ先を自分に向けていたけれど、旅の最中、段々とそうした部分が丸く柔らかくなった。
初めがサボテンなら、今はまるでビロードだ。それに包まれて笑んでいるのは、確かに心地よくて甘えていた事を思い知る。
…………だから、本当は、あの仮面の笑みが嘘を告げるが故だなんて。信じ切れない自分に辟易とする。
今までの情を後悔しての言葉だと、あれが仮面ではないと、そう言えるだけの価値を自分は自分に見出せない。見出す気もない。
拒まれれば追いかけられないのだ。それくらい解っていると思っていた青年は、まるで追いかけてというかのようにあんな顔をする。
きっと、全部、無自覚に。追いかけたら絶対に、顔を顰めるのだ。あの人はそうしたところがひどく鈍感で、気付かないまま当たり前に傷を抉る。
「平気ですよ、別に。………今までだって、よくあった事ですから」
そっと睫毛を伏せて、全ての視覚情報を遮断する。目蓋の裏、想起する気もないのに、凸凹の師弟があっさりと浮かんで明滅する。
………少女も科学班のみんなも、随分自分の傍にいるけれど。多分、あの傍観者で中立の師弟二人が、自分にとってはかなり重く大切な位置にいると、実感してしまう。
「ジュニアが、やはり大切でしたか?」
珍しく少年のプライベートに踏み込むような発言をする監査官に、目を閉ざしたままの少年は苦笑した。
彼もまた、感情をきちんと理解していない人の一員なのだ。そしてきっと、自分も。
大切なものがあって、それが掛け替えがないと解っていて。それでもそれ以外にある大切なものを見つけてしまって………右往左往、戸惑っている。抱えられるのか、掬い取れるのか、この過酷な現実の中、腕の中に収めてもいいのか。
それぞれがそれぞれ抱えていて、関わり合う中、交差し響き合い、時に甲高く悲鳴を上げている。
………その音色から目を逸らす為に、手放すのもまた、ひとつの手段だ。非難するような事でもない。
「でも、ブックマンにまで会うなとは言われませんでしたから。大丈夫、あの人は絶対に近づくななんて、言いません」
老獪な達観者は、その癖お茶目で優しい老人だ。必要な距離はとっても、決してその為に拒む言葉は与えない。
自身にも他人にも厳しい人なのに、その眼差しの欠片、言葉の端々、零れるように慈しみの情を滲ませる小柄な老人。
青年にもあの老人にも近づくなと言われれば、流石に凹むし辛いと………あるいは泣くかもしれないけれど。
まだ耐えられる。一人を失う事は、受け入れられる。きっと、大丈夫だ。
そう頷くように頤を揺らし、きゅっと引き締めた唇を笑みに変えて、少年はそっと睫毛を持ち上げ月明かりを監査官に向ける。
………その揺らめきに一瞬息を飲んだ監査官は、その事実に顔を顰めながら少年の言葉を待った。
「辛くなったら、ブックマンに慰めてもらいますよ」
寂しい笑みで、それでもその満月は当たり前のようにそれが与えられる事を知って輝いている。
随分と極上の、信頼だ。考えてみると本部襲撃の際、彼らは驚く程のパートナーシップを発揮していた。彼らしか間に合うエクソシストがいなかったとはいえ、驚異的な連携プレーだった。
だからこその、これは信頼だろうか。おそらくはきっと、入り込むには少々難しい、相性としての問題も兼ね備えた絆だ。
「………………余計なお世話を承知で、言いますが」
ふと思い、監査官は顔を顰めて少年を見下ろす。自分がそれを言う必要はまったくない事を承知の上で、それでもこれ以上の厄介事を増やさない為と言い訳をしつつ、監査官は口を開いた。
「それをジュニアには言わない方がいいかと思います」
キョトンとした少年には、多分意味は届いていない。
この姿を見るだけでも、彼らが特異な関係性を維持していない事は推測出来る。………むしろその事実は、先程の青年を鑑みるに、逆に危険な兆候ではないかと頭痛がした。
「別にラビにわざわざ宣言してから甘えませんよ」
「……………ジュニアの前では止める事を薦めます」
伝わらない事が如実に解って、監査官は眼差しを鋭くする。本部は大打撃を受け、修復の見込みもなく引っ越しをした。その事後処理の為の作業に追われている現状況で、これ以上の厄介事を抱え込める程の機能は維持出来ていない。
そもそも、この少年は監視対象だ。そんな人物が何かを起こせば、より一層の重責をこの細い肩に背負う事になる。
それを不憫など、思う気はないけれど。微かに眉を顰め、監査官は見下ろした少年の不思議そうな眼差しに胸中で嘆息した。
「???別に今更からかわないと思いますよ?」
「ブックマンも困ると思いますが」
「え?!そ、そうなんですか?はぁ……じゃあ、ラビがいない時にします」
最後の手段に伝えた言葉には、少年はすぐに項垂れて同意を示した。
これでは先程自分に向けたお門違いな悋気を、それこそ己の師に向かって発揮しかねないだろうと、別段憂える必要もない事に監査官は小さく溜め息を落とした。
それが、おそらくは全ての始まり。
………否、より深く言うならば、それはきっかけ。始まりはより過去に、少年すら知らぬ時に始まっていた。
歩み始めたその道が交差するまでの暫し、惑いの時が始まる。