部屋に帰ると、青年は乱暴な所作で自分のベッドにダイブした。
ベッドに転がっていた本が身体のあちらこちらに当たって痛いけれど、そんなもの気にしていられる程余裕がない。
痛かった、身体中。………心も身体も全部だ。
自分の力は熟知している。だから昔から抱える事なくのらりくらりと過ごしてきたのに、よりにもよって人生の中でもっとも厄介そうなものを抱えた相手に、本気になるなんて。
有り得ないと、笑おうとした唇は、痙攣するように頬を引き攣らせただけで失敗した。
その不様さに苛立って、青年は枕に顔を押し付けて目を瞑る。全部忘れられればどれだけ楽だかしれないというのに、おそらくこの先もずっと、自分はあの少年を忘れる事が許されない。
選んだのは、己の宿命だ。ブックマンとなる事に否などなく、その為に生きている事を承知している。
それなのに、痛んでいる。近づく事を諦めて逃げているのは自分の癖に、あっさりとそれを受け入れてしまった少年に苛立っている。
それでも糾弾など出来る筈もなく、さりとて、彼を手に入れる為の画策など、夢のまた夢だ。そもそも、自分の思いと彼の思いがまったく同じというわけでない事くらいは、知っている。ただ、きっと自分がそれを望めば躊躇いながらも同じ情に育ててくれるだろう事も、知っていた。
それでも選べない。初めから選択肢はただひとつだった。自分にそれ以外を選べる筈がない。
…………これから更に過酷を増す戦況の中、どんどん傷付き背負うものに押し潰されかねない少年を記録し続ける事を、恐れているのだ。
ずっとずっと、怖くて、決して誰も抱えずに生きてきたのに。人間というものに諦める事で境界線を明確にして、自分は輪の外にいるようにしてきたというのに。
そんな手管、使う事も出来ないなんて、笑い種だ。
深く吐き出したかった息は、けれど枕に吸収されて鼻先を熱くしただけだった。まるで泣き出す前兆のような熱さに、青年は眉を顰めて滑稽に笑んでみた。
今度は上手くいった笑みは、けれど顰めた眉と揺れる瞳のせいで、到底笑顔にはなり得なかった。もっとも、それを見るものもいないのだから、所詮全ては一人劇だ。
「……………ラビ、今日中に記録する分は終わったのか」
起きようかと枕を抱き締める腕の力を緩めると同時に、降り掛かったのは冷静な老人の声。
どう見ても普段と態度の違う青年を、それでも驚きもせずにいつもと変わらない声でそんな事を言う辺り、相変わらず得体が知れない。
眉を顰めて、拗ねるというよりは反抗するように、起き上がった青年がそっぽを向いて吐き捨てるように答えた。
「無理。今、記録してもまともに記述出来ねぇさ」
尖った声音には如実に感情が滲んでいて、老人はそれに片目を細め、怪訝そうな仕草をしながらも、その眼差しは既に青年の言動をつぶさに観察して結論を導き出している。
そんな、鋭利な眼差しだ。これを優しい眼差しなのだと、そう笑んで囁く少年の気がしれないと、顰めた顔で脳裏に浮かぶ、綻ぶような少年の笑みに舌打ちしたくなる。
思い出せば余計に痛いのに。忘れるなど出来る筈もなく、記録を消去など、するわけにもいかない。公私ともに、この脳に刻まれた少年の全ては失うわけにいかないものだ。
……………本職故にと、言い切れない自分の優柔不断さには辟易とするけれど。
「未熟者がいらん事をするからだ」
顰めた青年の顔に、素っ気ない老人の声が降る。その言葉に青年が目を見開くが、そんな気配すらお見通しなのだろう、老人は読んでいた新聞を捲り、次の情報を記録している。
まるでたった今青年が起こした行動を、見知っているかのような言葉だ。けれど自分の行動全てを把握している筈がない。いくら現役ブックマンであろうと、肉体も精神も1つしかないのだ。把握出来る範囲は限られる。
だからこそこうして人が伝達手段として用いる書物でそれらを補い、次のログ地を定めているのだ。それなのに何故今、老人がそんな発言が出来たのかが青年には解らない。
「いらん事って、俺がしたのは、正しい選択ってヤツさっ」
妙な苛立ちに荒げた声が出てしまう。
………この老人は、いつだって正しいのだ。それは道徳的に正しいというものではなく、自分達の血族として存在するためには侵すべからず全てを、きちんと排除しただ一人屹立している。
その老人がどこまでも未熟者扱いする自分は、彼のようには振る舞えない。そもそも持ち合わせたキャラクターが違う。真似も出来ないからこそ、それぞれのスタイルを貫いているけれど、だからといって、自分がその全てに置いて正しく選択して来たとは思っていない。
特に、この教団に来てからは。………否、あの少年に出会ってからは、と言うべきだろうか。
初めは上手く躱せていたのだ。
面倒を見なくてはいけないなんて、情が移るのも寄せられるのも面倒な事だから避けたかった。つかず離れず、戯けて懐には入り込んで、けれど少年の身を守らなければいけない程には近づかない。
お互いエクソシストだ。覚悟を持って戦わなければ共倒れだ。ブックマンを継ぐ者として、それだけはあってはいけない事だった。
だから、いつだって状況を分析して、必要な分しか手出しはしない。そうしてきたというのに、あの少年はそれらを端から全て粉砕していくのだ。
予測もさせない、奇抜さだった。自分には到底理解出来ない思考回路で、そうして誰かの為にだけ、命を捧げられる生き物だった。
それは自分にとって好都合であったにもかかわらず、無理に笑う顔も、遠くどこかに心を馳せてしまう瞬間も、自身の傷に鈍感で壊れるように戦う姿も、全てに顔を顰めて諌めたい衝動に駆られてばかりだった。
からかって笑わせてみても、それはすぐに掻き消えてしまう。その癖、あの少年は街で出会った子供に心からの笑みを向けもするのだ。何が自分と違うのか解らなくて、子供と同じようにその腕をとって菓子を分けてみようかともした。
…………瞬時に凍てついた気配に、どれ程己の身が凍ったか、今思い出してもぞっとしない。
竦ませた身体は一瞬だけだった。すぐに弛緩して笑みを向けてくれた少年の瞳は、けれど微かに揺れて怯えるようだった。
どうしてと、問うつもりの言葉が霧散した。…………彼が笑わない理由が、少しずつ、解ってきたから。
模倣では駄目なのだ。真似事では彼は看破してしまう。彼はただ、自身に向けられるものが本心か否かで、その反応を決めているのだ。おそらくは、無意識に。
上辺だけではきっと、この先もこの少年は同じように均一の笑みを浮かべるだけで、綻ぶ笑みを与えてなどくれないだろう。
そう、思って。………痛んだ胸に、驚いた。
同時に悟った。欲しかったのだ、結局は。その笑みを向けて欲しくて、その声を柔らかく響かせて欲しくて。じゃれつくように他愛無く、その腕を伸ばして欲しかった。
そう意識してしまえば染まるのも早く、知らぬ内に自分はあの少年の隣に、当たり前に立つ事を許されるようになった。
心地よかった。無償とも言える程、少年は欲しがるものをあっさりと差し出してくれる。そうして、彼は何一つ望む事もないまま、あらゆる苦難をその身に負っていった。
そう、負ってしまうのだ。自分はそれを一緒に背負う事など出来ず、彼の為に生きる事も出来ない、記録者であり傍観者だ。そうして彼は、どんどんと歴史の中核に踏み込み、記録しなくてはいけない対象物として確立していってしまう。
それなのに、その手を掴んで離さずにいるなんて、出来る筈がない。………守れる程、彼は容易く小さな存在ではないと、疾うに思い知っているのだから。
「正しい……か。ならばその情けない顔をどうにかしてみろ」
溜め息も出ないと言わんばかりの声で告げる老人は、眼差しだけを青年に向けた。
その鋭い切っ先のような瞳に竦みかけた青年は、自身の頬を擦るようにして撫で、無理矢理唇を笑みに変えた。
………滑稽だ。自身でも解り、青年は眉を顰めて老人を睨む。
「でも、間違って、ない。一緒にいたら、もっと悪いさ」
意固地に繰り返す言葉の意味を、老人はきちんと知っている。
この精神面の弱い弟子は、大切なものを作る事に怯えている。幼い頃から、喪失というカテゴリーへの恐怖が強かった。その遠因がどこにあるのか、知らなくともおおよその見当はついている老人は、それが故にその因を取り除く事が不可能である事も知っていた。
それは多分、この世界にはいない存在だ。それを探し出し突きつけ、生きているのだと教える事は、不可能以外の何ものでもない。
ましてや、青年自身、その記憶すら持ち合わせていないのだから、探す事とて不可能だ。
………それでもこの恐怖はあまりにも強い。この先を思うなら、克服させるに越したことはないけれど、それに適材だと思った少年を、きっとこの馬鹿な弟子は手放してきたのだ。
あの幼かった日から8年も経って、漸く廻った心を揺らした存在を、切迫する焦燥と恐慌に挟まれて、その手から解放する事しか願えなくなっている。
それもひとつの方法ではあるだろう。全てを抱えるなど無意味な話だ。が、今回のこれは、明らかに選択を間違えている。
今この時に、離すべき手がどこにあるというのか。それすら解らぬ程乱れた脳は、きっと正常な記録にも支障が出る。
同じく澱む程に心を痛めただろう、巻き込まれた少年もいい迷惑だ。この馬鹿弟子は、時に自身を優先して他者を軽んずる。………それは悪意ではなく、己の痛みに耐え切れないが故に逃げてしまう、悪癖だ。
「何をもってそう言う。小僧ならば、自分の保身よりもお前の命を優先するだろう」
もしも正しいというのならば、何があろうとその身を朽ちさせない、その手段を選べばいい。
ブックマンの血脈を途絶えさせる事なく、綴られる裏歴史を消失させる事なく、生き抜いて次代へと繋げる為に、己の身を守る術は叩き込んだ。
その為のひとつの手段だと、掴んで離さないでいる事こそが、正しいと言えば正しいのだ。残酷であろうと自分達の身は己一人で処理出来る程軽くはない。
そうであるなら、あの少年は傍にいればいるだけ、その身をもって守ろうとするだろう。傷も痛みも知らぬ顔で、壊れかけてもきっと、戦い続ける。………守る為だけに。
あの本部襲撃の際ですら、AKUMAの能力に当てられ凍り付いていく老人を、あの少年は救おうと駆けた。幾体ものAKUMAがその身を狙い襲いかかったというその最中ですら、ただひたすらに老人に手を伸ばし救おうとしたのだ。
愚かだと、切って捨てるにはあまりに無垢な腕だった。
つい最後の一撃をあの少年の為に放った事を、悔やむ程だ。あれさえなければ、きっと少年は老人の状態になど気付く事なく戦えただろう。そうしたなら、あの身に刻まれた傷はもっと少なく済んだかも知れなかった。
………もっとも、そんなものはレベル4の出現で全てが無に帰した空言ではあったけれど。
思い出し、溜め息が出そうだ。あの時はイノセンスすらなくとも戦う気概を見せた筈の弟子は、今は逃げる事ばかり考えている。AKUMAに対峙する以上に恐れる事を、この弟子は知っている。
「それが、嫌なんさっ」
叫ぶように青年は答え、歯を噛み締める。それ以上を叫ばぬ為の、精一杯の努力がそれだとは、いささか情けない。
嘆息しかけて、老人は手にした読み終わった新聞紙を横の山に乗せると、次の本を取り上げた。
その仕草の最中、睨む青年の眼差しは力なく項垂れ、また枕の中に埋没した。倒れるように崩れた身体は、けれど別に意識を失ったわけでもなんでもなく、ただ力が抜けたというだけの様子だった。
それを視界の端におさめ、蹲るようにベッドで丸まる子供の頃と同じ仕草に、老人は今度こそ嘆息した。
「お前は8年もの間、同じ事を繰り返すな」
「………………なんでか理由が解らねぇもん、乗り越えられるわけねぇさ」
溜め息と同じ細さで告げる老人の言葉に、青年は掠れる音を返す。枕越しのせいではなく、確実に初めからその音は震えている。
8年は、決して短くはない。まして青年の年齢からすれば人生の1/3以上の時間だ。それでもその時間の間、青年の中ではずっと消えないしこりがある。
それが何故植えられたのか、それは青年も老人も知らない。ただ唐突に目覚めたその時から芽吹き、枯れる事なく根を張り続けるのだ。
それを刺激しないように、上手に生きてきたというのに。今更それがまた、頭を擡げた。
「でももう、亡くすのは嫌さ。………自分のせいで居なくなんの見たら、俺のが壊れるさ」
どうしてそう思うかなど、解りもしない。けれどそれでもこの心は悲鳴を上げる。喪うと思った瞬間の、喉すら裂ける絶望の慟哭。
その対象があの少年だったら、なんて。…………考えただけで心臓が止まりそうだ。
あの少年は自分が傍に居たなら、必ずその身を呈して庇うに決っている。身体中の骨が砕けたとしても、戦いがあり意識が残る限り、その身にイノセンスを纏って救う為に奮うのだ。
その代わりになれる筈もなく、青年は自身の身を最優先で守らねばならない立場で、だからといって、愛しんだ命がその為に散る、なんて。
…………身体が生き残っても、心が死んでしまう。
「アレンが死ぬなんて、絶対に駄目さ。俺の傍に居たら、アレン、絶対に俺の代わりに怪我するさ」
傷ひとつですら、心が壊れそうに乱れるのに。失ったと思ったあの時の喪失感を、今度は間近で、しかも確実に蘇らぬままに途絶えるところを記録などしたら。
正気を保つ自信なんか、ない。後先考えずにその対象を破壊する方に徹してしまう。敵も味方も関係なく、ただ己の心を乱すものを排除する為に奮う己の腕の凶悪さを、あの方舟の中、どれ程痛感したかしれない。
よりにもよって、守りたかった存在に、刃を向けた。その存在が自分を乱し殺す可能性を知っていて、生存本能に基づいて、排除する事を選んだあの身勝手さ。
きっとこの先も、同じような事はある。
自分を庇って大怪我などされた日には、その傷を抉って息を止めたい衝動に駆られそうだ。
………失いたくない存在は、それが故に、生きる事に貪欲な本能がその存在を疎んじる。
何かに捕われてはいけないこの心は、そうだからこそ、情の全てを傾けかねない今の状況の中、牙を研いで獲物を待っているように思えてならない。
全ては推測だ。………けれど、否定する要素がない。激化する戦いの中、きっと少年は一緒に戦う存在を守る為に、敵の真っ直中だろうとノアの罠だろうと、果敢に挑み駆けるだろう。
その時、自分が再び心を失わない保証など、ないのだ。
だから離れる。傍になんかいない。守れなくても、この手で壊す事はない。………傷付き失われゆく様を、記録せずにいられる。
それをせねばならないのならば、まだ文面で。そうすればまだ、きっと、耐えられる。……………壊れたとしても、ブックマン後継者としての仮面だけは失わずにいられる。あの船上で激した程度で留める事の出来た自分で、きっといられる筈だ。
「アレンが生きてれば……それが一番さ」
何を差し置いても、それが唯一の願いだ。本来ならば記録の為、それだけにしか生きる事のない自分が、それでも揺れた心の存在は、全てあの少年の為のものだ。
ベッドの中、凍り付くような音色で呟く震えた言葉。感情しか存在しない、愚かしい嘆きの声。
「…………だからお前は未熟だと言うておるんだ」
ぼやくように、小さく老人が呟く。きっとその声すら、この弟子には伝わらない。
まだ失ってもいない癖に、未来を嘆いて現在を見れない。己が出した解答以外の答えが存在するなど知らない、盲目さ。
示す事は容易い。けれど、弟子の行く末を思えば、そう容易く全てを教えるわけにもいかない。
いずれは自分も歴史から消える。その時がいつかなど解るわけもないけれど、それまでの間には、その頑な思考を柔軟にしなやかに花開かせなくては、いつ壊れるか知れたものではない。
本当に手間のかかる、大変な弟子だ。………そんな弟子に見初められ振り回されなくてはいけない少年の顔を思い浮かべ、苦笑ひとつでその全てを受け止める度量を分けてやって欲しいと思ってしまう。
拗ねたように枕に突っ伏した赤毛は揺れない。きっと今日はもう、食事も食べずにこのまま眠る事だろう。体内の全てを空にして、そうしてまた明日から、虚ろな仮面を被って笑むつもりだ。
そんな事まで看破出来る程単純な弟子の背中を眺めながら、明日にでも少年が訪ねるだろう事を思い、老人は軽い頭痛を覚える。
譲れない事を知っていながら、その譲れない事をこそ遠ざけようとする、その矛盾。
…………失われた記憶さえ手繰る事が出来れば、まだ如何様にも対処が出来るものを、と。
幼い日のAKUMAの惨劇を思い、老人は嘆息した。
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一応話の中核がかなり先なので、ここで色々伏線張っていますが。
多分、消化出来る…かなぁ(遠い目)
駄目ならきっとまた番外編とかになるかもです。
そしてやっぱり身勝手ラビ。むしろ思い込んで告白もしていないのに別れ話切り出している時点でどうだろうな。
いや、本人は一杯一杯で未だにそれに気付いていないよ。いつ気付くかすら謎だよ。
10.10.24