玄関が開く音に、子供は嬉しげにキッチンから飛び出した。今日は遅くなるかもしれないと言っていたけれど、思いの外早く帰ってこれたらしい。
マナがコートをしまうために向かう部屋を目指した子供は、ふとその部屋に置いておいたものを思い出し、慌てて走った。
「おかえりなさい、マナ!あの……」
「ただいま、アレン。……おや、チョコですか?」
嬉しげな弾んだその声に、子供は彼が見つけてしまった事を知る。
慌てて子供がそちらに駆け寄れば、思った通り、チョコの包みを手にとったマナがいた。
「あ、ダメですよ、それは!僕がもらったものです!」
叱るような口調でそう言った子供は、両手でチョコを庇うように抱き締めて取り返した。
その様子を見つめ、キョトンとマナは首を傾げる。
「もらったというと、バレンタインですか?」
………バレンタインは十日は先な筈だ。貰うにしても随分早い。が、この時期にチョコを貰い、それを大切にするというならば、それ以外に当てはまる理由がなかった。
そう思い問いかければ、子供は嬉しそうに笑って答えた。
「はい。リナリーが早いけどと今日……」
その明るい笑顔と声に、思わず暗澹とした未来を思い描き、マナは悲しい気持ちで眉を垂らしてしまう。
いつもはひとつしかなければ二人で半分ずつ食べるのに。そんな子供が、食べてはいけないと自分から取り上げたのだ。とても仲の良い友達だと知っているけれど、除外されれば大人だって寂しい。
その上、折角出来た新しい家族が、もう自分を置いてどこかに行ってしまうなんて。悲しくて、想像だけで泣きたくなった。
「そうですか、アレンもお婿に行ってしまうんですね………」
途端に肩を落として泣き出しそうな顔をするマナに、子供はギョッとしたように目を丸める。
………いくらなんでもチョコから一気に話が飛びすぎだ。何故そんな飛躍した話に結び付いたのか、子供には想像も出来ない。
「ちょっ、マナ?!違いますよ、これは友チョコですよ?!」
とにかくこの大きな子供が泣き出さないようにと、色々と省いて子供はチョコの弁解をした。
………慌てたような子供の言い募るその言葉が、マナの中で一瞬、宇宙語になってしまう。
おかしい、先程まで話せていたのに、何故突然会話が不可能になるのだろうか。
聞いた事のない単語に、マナは踞ったまま子供を見上げて問いかけてみた。
「はい?なんですか、それは」
通じるだろうかと不安げに傾げた首は、そのまま幼い子供のようで、子供は苦笑してしまう。
「そのまんま、友達に贈るチョコです。だから受け取ってって言われたんですよ」
そうでなければリナリーからなど貰えない。それくらい、彼女は唯一の肉親である兄に溺愛されているのだ。
………しかも、話を聞く限り、毎年バレンタインの時期は兄の仕事の都合と銘打って別の国に行くらしく、当日まともに渡せるのはその兄一人と言うのが例年の恒例らしい。
………………流石にそれを聞いた時は顔が引き攣ってしまったけれど。
苦笑しながら伝えた言葉は、なんとかマナにも解る言葉で、先程のような宇宙語ではない事にホッとする。
そうして、安心した大人の腕は、小さな子供の身体を包むようにして優しく抱き締めた。
「そうですか。よかった。………捨てられてしまうかと思いました」
心底安堵したように、長く深く息を吐き出す大人の顎が乗る肩が、少し痛い。けれど子供はそれに文句も言わず、小さな手のひらをその背中に寄り添わせて首を傾げた。
「僕が?マナを?」
「はい」
「あり得ないですよ、そんな事!」
自分こそがそうした不安を持つべきなのに、時折幼く子供のような行動をするマナは、本気でそんな事を言うのだ。
だから、子供はいつだって彼に、自分が言って欲しい言葉を差し出した。
その言葉に、彼が幸せそうに笑う。それならきっと、同じ言葉を貰えたのだと、子供も嬉しくて笑った。
「ちゃんとマナにもチョコあげますから、これは食べないで下さいね」
「アレンがくれるんですか?」
驚いたようなマナの声に、子供は自慢げに大きく頷き、覗き込むその顔にニッと笑って見せた。
「はい♪リナリーが作り方を教えてくれるって!楽しみにしていてくださいね」
料理も掃除も洗濯も、得意ではないけれど一通りこの子供は出来るのだ。
その中に今更お菓子を作る事が加わっても、その作業にたいした差はないだろう。
喜んでくれるなら、それくらい頑張ってしまう、誰かの笑顔が嬉しい子供だから。
笑って欲しいのだ。自分の手を取り一緒に帰ってくれる人。眠る自分を置いてはいかないと約束してくれた人。
沢山の約束と愛しさを注いでくれた彼が笑ってくれるなら、どんなことだって自分は出来るだろう。
そう笑んだ子供の視線の先、幸せそうに笑うマナが映される。
「はい♪」
明るいその弾んだ声は、子供を同じ微笑みに染めた。
「そういえば………ブックマン達もチョコ、平気かな」
不意に子供は思い出したように呟いた。不安というよりは純粋な疑問の響きに、マナはコテンと首を傾げる。
「彼らにもあげるんですか?」
「はい。リナリーには来月クッキーをあげる約束をしました♪」
随分沢山作るようだと、マナは指折り数えて確かめてみる。
「私と、ブックマン?」
リナリーにあげるならば、きっとその兄にもあげる事だろう。そうしなくてはあげる前のチェックが大変すぎる。
子供はニコニコと笑い、マナの指をもうひとつ摘まみ、そっと折り曲げさせた。
「あと、ラビもです!」
明るく響くその声は純粋なまでの好意に染まっている。
忘れてはいけないと窘めるような子供の眼差しに、マナは目を瞬かせた。
「あの子もですか」
「もちろん。あげますよ?」
きょとんとした子供を見る限り、彼の中ではバレンタインは配る側の行事らしい。あるいはそんな事に託つけなくては、恩返しが出来ないとでも思っているのだろうか。
この子供は今もまだ、自分の価値を理解していないのだ。誰かのためにその手を伸ばし、いたわる事の出来る優しい子は、自分自身にだけはその優しさを注がない。
それが、少し悲しくて、寂しい。
この子が疑う事なく誰かを愛し、愛されればいいのに。
「………アレンは他に、貰う子とかはいないんですか?」
思い、寂しい声音で問いかけた声に、子供は目を瞬かせた。
「僕?いませんよ、そんな物好きな子!」
すぐに返された否定は、微かな自己否定を孕んでいて、ますますマナは寂しくて眉を垂らして泣き出しそうだった。
どうしてマナがそんな顔をするのか解らず、子供は困ったようにマナの手を握り締めた。
………大きな手のひらは、そっと優しく小さな手を撫でるようにして、同じように握り締め返してくれた。
「じゃあ、欲しい子は?」
「?」
誰か、彼が大切に思う人。そんな人がいればいい。
いつか離れ離れになるかもしれないけれど。それは考えるだけで悲しくて寂しくて泣きたいくらいだけれど。
この子が自分の笑顔に喜ぶように、自分とてこの子の笑顔が今は何より愛しいのだ。
………大切な大切な、一番小さな、最後の家族。
「そうですねぇ。一番好きな人は?誰かいますか?」
「マナです!」
問う言葉には溢れるような笑顔と、悩む間もない返答。
それに胸が苦しいくらい満たされて、マナは泣き笑うピエロのように滑稽に笑った。
「………ありがとうございます。なら、大人以外では?」
そっと子供の頬を撫で、マナはゆっくり問いかける。
この子供のなか、自分以上に長い時を共に過ごすだろう誰か。
その候補ほどでもいい。自分一人だけでなく、沢山の人に愛され、笑って生きて欲しいのだ。喪った悲しみから救い上げてくれた、小さなこの腕が、同じように愛され慈しまれて育ってくれるといい。
「一番、ですか?」
何故そんな事を聞くのか、何故大人を除かなくてはいけないのか、子供には解らない。
一番は、マナだ。マナがいるから、自分は嬉しい事に沢山出会えた。幸せだと、心から思えるのに。
「はい。誰か特別に大好きな人はいますか?」
「特別………」
マナではなくて。マナとは違う、特別な人。
………問われて浮かんだ、明るい赤い髪。
マナとは違う小さな手のひらは、それでもいつだって優しく自分を守ろうとしてくれた。
「なら、ラビ、です」
大好きで大切で、特別。歳上なのにいつも自分に真っ先に声を掛けてくれて、引っ込みがちな自分を輪の中に入れてくれた。
狭かった世界の中、初めにマナが外に出るためのドアをくれた。その次にラビが、そこから先に進むための道をくれたのだ。
…………否、違う。くれたのでは、なくて。一緒に作って、くれたのだ。
あの真っ暗で怖くて、マナを見つけられなくて泣いた日、迷いもせずに声を掛け、家に招いてくれた人。
「ラビ?彼ですか?」
マナが目を瞬かせた。何か変な事を言ったのだろうか。
………特別な誰か、なら。きっとあの赤髪の少年だ。
しっかりと子供は頷き、間違いじゃないと教えるようにその理由を伝えようと、必死になって考えた。
「ラビは、僕が迷子になると必ず見つけてくれるし、困っていると見守ってくれますから」
きっと手伝った方が早い事も、怒りも苛立ちもしないで待ってくれる。失敗したら、ちゃんと理由を教えてくれて、一緒にもう一度挑戦させてくれる。
「助けるじゃなく?」
首を傾げたマナは、不思議そうだ。全面的な加護ではないそれを、嬉しいと言う子供の真意を探しているような、声。
「僕じゃどうしようもなければ助けてくれます。けど、ギリギリまで、僕に頑張らせてくれます。それがすごく嬉しいです」
「アレンは頑張り屋さんですね」
頭を撫でてそう誉めてみれば、子供は大きな瞳で柔らかく弧を描き、誇らしく笑った。
「ふふ、だって早くマナに追い付きたいですから」
「彼にも、ですね。一緒に張り合えるようになると、兄弟のようできっと楽しいですよ」
自分は楽しかった。器用な弟にいつも世話を焼かれていたけれど、彼が困れば何を置いてもその力になった。
世界にただ二人きりの、大切な片割れだったのだ。………今はもう、この子供とともに彼に出会う事は出来ないけれど。
「………でもね、マナ」
ふと、子供は呟いた。困ったような、戸惑ったような、そんな揺らめきで。
「ラビは多分、マナとは違うんです」
どういえばいいかと悩む声に、マナはパチリと目を瞬かせる。
違うのは当然だ。自分はこの子の親で、大人で、立場も身分も環境も違う。
「一応私は大人ですから」
「そういうのじゃ、ないんです。マナとかブックマンと違うし、リナリーとも違うんです」
マナの伝えたい事は解るのだと、身ぶり手振りを加えて子供は悩みながら言葉を探す。
う〜んと頭を抱えながら必死に選んだ言葉を、口の中で繰り返しているのか、小さな唇は微かに震えていた。
その中で、ようやく見つけたらしい言葉を、子供は自身を見守る大人を見上げて告げた。
「ラビが、一緒に行こうって、手を差し出してくれるとね、なんだか嬉しいんです」
やんわりと、子供が笑う。
嬉しそうな柔らかな声は、どこか大人びて響いて、マナは目を瞬かせた。
年齢よりもしっかりした子だけれど、最近は幼い顔も取り戻し、子供らしかったのに。
それは、けれど、決して悪化したのでは、なくて。
「ワクワクしてドキドキして、不思議です」
綻ぶ唇、柔らかく咲き誇る瞳、至福を知るものの甘く熟れた綺麗に染まった頬。
「えっと、それは……」
そのどれもが、話に聞くところの姿に重なり、マナはどう判断すべきかに迷い、言葉をさ迷わせた。
それに子供は気づいたのか、気づかなかったのか、マナには解らない。
「きっといつもラビは僕の知らない事、沢山教えてくれるからですね」
ただ、この子供が心から笑い、幸せを噛み締めている今という時間だけが、確かに解る事実だった。
そう、思い。マナはゆっくりと頷いた。
「そうですね、……そうだといいですね………」
子供の言葉に微かに溜め息のようにそうぼやき、マナは小さく笑う。
これは、芽吹く感情か、否か。解りはしないけれど。
可能ならばきっと、それは摘み取り枯らすべき種なのかもしれない、けれど。
それでも幸せそうに笑う子供のいとけなさを無下にも出来ず、曖昧のなか、その疑念を沈めた。
………想像に溢れた涙に、子供が慌てて抱き締めてくれた。
その小さな手のひらは、あたたかく優しくて、なお涙が溢れてしまったけれど…………。
この子はとても感受性に優れた子供だから。
きっと捧げられた思いを無意識に受けとめている。
その数々の祈りの音叉の中、手を伸ばし掴むのはただひとつだけだけれど。
それが誰であろうと、この子の笑みが輝くならば。
きっと、心から祝してあげようと、思った。
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