「凄い、チョコだらけですね」
少女に連れていかれた先は、いつも買い物に来るスーパーだった。けれど見慣れた筈のスーパーの一角は、知らない内にチョコで埋め尽くされていた。
しかもそれは板チョコなどではない、普段は見る事もない綺麗でカラフルな装飾のチョコ達だ。
その様に圧倒されたように手に持つカゴを取り落としかけ、子供は慌ててしっかりと力を込めてそのチョコに彩られた空間に足を向けた。
辺りを見回すが、周囲にはまるで男性がいなかった。休日なら家族連れで賑わう筈なのに、この辺りだけは別の熱気に後押しされて男性達は二の足を踏んでしまうらしい。
………ここに果たして入り込む事が許されるのだろうか。そんな言葉が浮かびそうな子供の背中を、リラックスさせるように少女が軽やかに叩いて笑いかける。
緊張しても無理はない。ここにいるのは女の子ばかりだ。少し……否、かなり、男の子は近づきづらい雰囲気が醸されている。
「こっちはね。ほら、ここ。手作り用の材料とかキットのスペースだよ」
用があるのはこちらだと誘導してみれば、ホッとしたように子供がひょっこり後についてきた。なんだか雛を連れて歩く親鳥の気持ちが解る気がして、少女は気づかれないようこっそり笑ってしまう。
「………色々ありますね」
辿り着いた棚の中、溢れるように製菓用のチョコの袋が鎮座している。
ミルクにスイート、ビターにホワイト。ここまでは子供にも理解出来たが、そこから更に緑にピンク、果てにはオレンジ色のチョコまであり、何がなんだか解らなくなりそうだ。
そんな気持ちが顔に出ていたのか、隣で同じように腰を屈めてチョコを見ていた少女が、無造作に棚に手を伸ばした。
その動きに従って追いかけた子供の視線の先、まるで彼の頭の中が回ってきてしまった事に気づいたかのように、あっさりと一袋を選び、取り上げてくれた。
パチリと瞬きをしながらそれを見つめていると、少女は理由を教えるようにチョコを差し出しながら答えてくれた。
「折角だし、ビターにしとこうか。ラビも平気だしね」
ミルクは逆に甘すぎて、子供の養父しか食べられないかもしれない。そう配慮を示した少女に感謝して、子供は大きく頷き、そのチョコを受け取るとカゴに入れた。
「じゃあ、そうしますね。あとは……」
「生クリームとココアかな」
キョロキョロと辺りを見回しながら必要なものがあるか探している子供に、少女が材料を諳じた。
それに子供は不思議そうに首を傾げて問いかける。
「ココアなら家にありますよ?」
いくら必要な材料でも、家にあるものまでは買う必要はない。
養父と共に食費を管理している子供の経済観念は、主婦並だ。
それに少女は、寒い時期に子供の家にココアの粉が常備されている事を知っている。幾度か遊びに来た際にも淹れた事があるし、養父が眠る前に淹れてくれる話もした。
それなのに何故と瞬く瞳には、年齢相応の幼さと疑問が乗せられていた。
最近ようやく垣間見れるようになった彼の年相応の色に、少女は微笑みながら首を傾げて、理由を教えるように問いかけた。
「アレンくんの家にあるヤツ、色は黒っぽい?」
…………この子供の家にあるならば、甘さを加えた飲料用の粉だ。飲ませてもらった事があるから間違いようのない情報を確認してみれば、子供はコテンと首を傾げた。
ココアはココア色だ。黒くはない。それが当たり前だろう。不思議な質問をすると、子供の大きな目が瞬き、ふるふると赤茶の髪が振られた。
「いいえ?ココア色ですよ?」
不思議そうに響き幼い声。………この優しい幼い声がいとけなく答える様が、少女は好きだった。
否、彼が紡ぐ音全てが好きというべきだろうか。
それは柔らかくてあたたかな声だ。人を愛おしむ、声だ。
過酷な過去も寂しい環境も、この子供の魂までを汚さなかった。人が携えるべきもっとも尊きものを、彼は知らぬままに身に付け育み、他者に注ぐ事を知っていた。
きっと、もっとずっと大きくなれば手に入れる者も現れる、そんな深みある音色だ。
出来る事ならこの子が、その出自故に刻まれた遠慮や引っ込み思案を消して、その心のままに全てが指し示せればいいと思う。そうしたなら、なお彼の魅力は周囲に知られ、愛されるだろうに。
……………今はまだ、なかなか警戒心が強い彼は、見知ったものにしか本当の笑顔を示せない。
いつか、咲き誇るといい。きっと艶やかに美しく、誰もを魅了する大輪が花開くだろうから。
それまでの短くはない時間を、出来る事なら自分の手で守りたい、大切な弟のような可愛い男の子。
今日のように、ひとつずつ自分の知る事を教え、共有し、もっと近づけるといい。
まだまだ子供の自分では、出来る事があまりに少なくて歯痒いけれど。
それでもこうして、彼が知りたいという事を教え、我が儘を言う事が人を傷つけ怒らせる事ではないと、教えらるといい。
そう祈りながら、少女は見上げる銀灰の瞳に微笑みながら、残念そうに首を振った。
「じゃあダメかな。ほら、この売ってるチョコの回り粉、こういう色のココアを使うの」
ほらと少女が指し示した指先を子供が辿れば、アマンドチョコの入ったハートの箱がショーケースの中で輝いている。
美味しそうなそのチョコに、つい喉が鳴りそうだ。
なんとかそれを堪えて、子供は感嘆の声を漏らす。………ほんの少しお腹が鳴ったのは、愛嬌と思ってほしい。
「ココアって、違う種類があるんですね。知らなかったな」
確かに普段飲んでいるココアよりずっと黒い粉がまぶされている。目を瞬かせながら、初めて聞く情報に子供は純粋に感心していた。
お菓子なんて作る事があるとは思わなかったけれど、養父が好きなせいか、意外に今は手を出す事も多い。少女の教えてくれる情報は新鮮でためになるし、楽しかった。
「あと、忘れちゃいけないのがラッピング!」
「?」
「箱とかリボンだよ。可愛いの一杯なんだ♪」
楽しげに弾んだ少女の言葉に、子供は驚いた。一体何回今日は驚く事になるのだろう。バレンタインなどずっと無縁でよく知らなかったから、余計にこの情報過多に目眩がしそうだ。
「売ってるんですか!」
そんなものまで売っているとは知らなかった子供は、目を瞬かせながら思わず大きな声を出してしまう。
スーパーはなんでも揃う場所だけれど、食べ物以外も本当に豊富らしいと認識を改めた。
そんな子供の反応に小さく笑いながら、少女はその手を取って迷うことなく棚を縫うように進む。
「ほら、このコーナー全部そうだよ」
その先の光景に、一瞬子供は呼吸を忘れてしまった。
「す、すごい……!」
少女に連れてこられた一角は、箱に袋にリボンにラッピング用の紙にと、所狭しと小さな可愛い小物達が並んでいた。
それに先程同様圧倒されていると、隣に立つ少女は楽しげに笑った。
「いくつか買って半分こしようか。そうしたら色々使えるし」
「あ、いいですね!じゃあ、マナは……この可愛い犬の袋なんてどうでしょう」
初めに目についた時から気になっていた袋を取り上げ、子供は確認をするように問いかけた。
少し子供っぽいイラストだけれど、今はペットブームだ。犬や猫のイラストならばそう大人でも気にならない。
大きくはない袋だが、箱よりはチョコが沢山詰められるのも利点だろう。
………きっと作ったチョコ全部食べたがるのだ。あまり一度にはあげられないけれど、いくつか袋に用意しておいて、小出しであげたら、きっとその度に幸せそうに笑ってくれるだろう。
「おじさん喜びそう!なら、ブックマンはもうちょっとシックな感じで、こっちの焦げ茶の箱が良いかも」
少女が指し示したのはチョコ色の箱に焦げ茶のリボンがついた、横長のシンプルなものだ。
量は入らないけれど、それもあの老人ならば調度いいだろう。
「あ、素敵ですね。シンプルだし、ブックマンにいいかも」
「意外と犬でも喜ぶかもだけどね♪」
「はは、確かに!困ったりしないで受け取ってくれそうです」
お茶目なあの老人はそんなジョークにも付き合ってくれるだろう。いつだったか、なんの催しかも忘れたが、パンダの着ぐるみ姿になっていた時は、流石に驚いたけれど。
「あとはラビか。うーん、逆に悩みますね、ラビは」
困ったようにいくつも並ぶカラフルな箱や袋を見比べる子供に、少女は首を傾げた。
あの少年ならば、きっとどの入れ物でも似合わない事はないだろう。ましてやこの子からのプレゼントだ。小躍りする勢いで喜ぶに決まっている。
「なんでもいいと思うよ。貰えれば喜ぶし」
そこまで気遣わなくても大丈夫と告げてみれば、子供の眉が幼い弟の我が儘に苦笑する兄のように垂れた。
「でも…量少ないと凹みそうだし、子供っぽいとカッコつけたがって不貞腐れますよ」
「……バレてる時点でダメね、ラビってば」
深い溜め息まで吐いて言う少女に、子供は苦笑してしまう。彼らは自分よりも長く付き合いがあるだけに、容赦がなかった。
「はは、でもそれがラビらしいですよ」
「…………」
あっさりと肯定されている少年を不憫に思う気はないけれど、いつかあっさりと子供にバレて一悶着が起きないといい。
少年がそれによってどんな被害を被ろうが自業自得だが、この場合、この子も必ず巻き込まれるのだ。
何があろうと自分はこの子の味方でいようと、不甲斐ない少年を他所に少女は思いを新たにした。
そんな少女に気付かないほど真剣に悩んでいるらしい子供の横顔は真剣だ。コートが男女兼用のシンプルなものなせいか、通常なら男の子がいれば確実に浮くこの売り場内、周囲にいる誰も違和感を持たずにいる。
たかがバレンタインのチョコ、しかも友チョコだ。適当に選ぶ事も、ましてや彼ならばあげないでも誰も気にしないだろうに、この子は一生懸命自分に出来る事を探して打ち込むのだ。
本当に、自慢出来る子だと思う。見た目の愛らしさなどその足元にも及ばない誠実な心こそが、何より愛しく誇らしかった。
「あ、この白地にクローバーのアクセント!これくらいなら大きさも悪くないし、子供っぽくもないですよね」
ようやく納得出来るものを発見したのか、子供の声が明るく弾んでいた。
見てみれば、子供の手に取られたのは、老人用の箱より若干大きめの、シンプルな白地の天辺で、緑と黄緑の大きなクローバの葉っぱで蓋の出来るものだった。
蓋を閉じたなら愛らしいクローバーが咲く事だろう。少年が、というよりはこの子こそが似合いそうなそれに、少女はつい顔をほころばせた。
「うん、いいと思うよ。私的にはもう、犬尽くしであげたい感じだけど」
いっそそんなラッピングもいいかもしれない。この子供からならばどんな見目のものでも受けとるだろう。忠告も兼ねた一石二鳥のラッピングだ。
そんな少女の物思いを知らない子供は、きょとんと首を傾げていた。
「犬、好きなんですか、ラビ?」
「さあ?でもなんか、ラビっぽいから、犬って」
適当に濁して誤魔化してみれば、子供はその言葉に破顔した。
どうしたのだろうと少女が目を瞬かせてみれば、彼は納得したように頷いている。
「大型犬ですね、きっと!スキンシップ激しいから、たまに転びそうになりますもんね」
クスクスと楽しげに子供は笑っているが、少女はその光景を思い浮かべ、彼より的確に相手の心情を理解してしまい、溜め息を吐きかけた。
飲み込んだのは、目の前の子供が気に掛けるだろうからだ。この場にはいない少年のためでは決してない。
「……駄犬」
それでも押し込めきれずに小さく呟いた声は、口の中、掠れて消えて子供には気づかれなかった事にホッとする。それでも一応様子を窺おうと、そっと隣を見てみれば、先程までいた子供の姿がなかった。
傾げた首を廻らせてみれば、隣にいた筈のその子は、パタパタと歩いて違う棚を眺めていた。
どうしたのかとその様子を見ていると、調度彼は棚に手を伸ばし、満足そうにその手に納めた商品を見つめた後、にっこり笑って再び少女に歩み寄ってくる。
「リナリー、ココアってこれですか?あとは生クリームかな?」
ちゃんと選べたのだと、嬉しそうに報告する様が幼くて、きっとこんな風に養父とも買い物をしているのだろうと思うと、なんだか嬉しくなった。
「うん、あってるよ。じゃあ生クリームも取ってレジに行こうか」
「はい♪楽しみですね」
弾む声は喜色に濡れていて、聞いているものまで同じ色に染めてしまう、柔らかさ。
「うん、頑張ろうね!」
それが嬉しくて、少女も歌うように答えた。
買い物も手慣れた子供は、彼の養父と共にこうして買い物に来ているのだろう。あるいは、彼こそがメインで、養父がその指示に従っているのかもしれないけれど。
どこに何があるかを把握している子供の隣、お互い迷いなく進み、生クリームのもとに足を運んだ。
………カゴをしっかり自分で持ってくれて、ぶつからないように逆サイドに寄せてくれて。
ピョコピョコと愛らしく後ろを歩く、赤茶の髪の小さな男の子。声を掛ければ明るく響くその声が、心から嬉しいと思った。
出来る事ならいつまでもこの子が笑顔でいられればいい。
………初めて会った日の、養父が来ない不安に震えていた姿なんて、もう見たくはないのだ。
嬉しそうに笑う姿に満ち溢れて、この先の記憶が埋まるといい。
その傍ら、一緒に笑い遊び共に生きられればいい。
彼の笑顔を祈る人達が、欠けることなく彼の傍、埋めればいいのに。
今までの寂しさ全てが消えるくらい。
笑顔に埋もれ、笑顔を咲かせて。
たったひとつのチョコに添えられた、それは永遠の祈り。
11.2.2