フォンダンショコラは、見た目は作りたてと同じ状態だった。
 時間が置いてどんな風に焼け方が変わるか、それは解らない。解らないけれど、まずは焼かなくては始まらない。
 子供が取りに行っている間に老人が予熱を掛けてくれていたオーブンに、キットのレシピ通りの温度と時間を設定して、それからずっと、子供はオーブンの前で待っていた。
 段々焼けてきたのか、甘い香りが満ちてくる。ひくりと鼻を動かせば、お腹が空きそうないい匂いだ。
 あともうちょっと、10分程度待てば、焼ける。見た目は大丈夫だ、ちゃんと膨らんでくれていて、カリッとした食感が見ても解る気がする。
 それが嬉しくて、おかわりのお茶を差し出してくれた老人を見上げ、笑んだ。
 この人のおかげだ。どうしていいか解らなくて泣いていた自分に、出来る事から考えろと言ってくれた。甘やかすのではなく、進む為に努力する事を示してくれた。
 それは、どこかあの少年の仕草に似ていて、同時に似ているのはきっと、老人ではなく少年の方なのだと、面白そうに笑ってしまう。
 その笑みを見下ろし、やっと常の笑みが戻ってきたと、茶を啜りながら老人も安堵の息を胸中で吐き出した。
 まさに、その時だ。がちゃりと、鍵が開く音が玄関から響いたのは。
 思わずその音に二人は顔を見合わせた。次に時計を見遣る。いつもならまだ少年は帰ってこない、そろそろ子供が家に帰ろうとする時間だ。
 違うかと思いながらも、それならば鍵を開けた人物の説明がつかない。気のせいにしたい二人は沈黙していた。
 「ただいま〜」
 響いたのは、当然ながらこの家の住人の声だ。老人の孫である少年ののんびりした声に、子供の目が大きく見開かれる。
 「………え……」
 呆然と呟いて、子供はオーブンを見た。時間は、まだあと8分だ。
 みるみると子供の瞳に涙が溜まっていき、俯いてしまう。それを見つめ、老人は深く溜め息を吐いた。
 普段であれば学校の友人との寄り道や、部活の助っ人で5時近くに帰ってくるというのに、とんだ早帰りだ。
 どうせ今日、この子供にチョコを渡そうなどと思って急いで帰って来たのだろうが、あともう少し、30分も遅く帰ってくれば、なんとか体裁を整えて子供も笑顔で迎えられただろうに。
 「間の悪いやつだ、全く」
 とにかく、こうなってしまっては、二人台所にいても仕方がない。泣き出してしまった子供の手を引きながら、老人はせめてあたたかな居間へと誘導した。
 玄関で少し手間取っているのか、少年はすぐに入り込んではこなかった。老人が襖を開ける頃、ようやくトタトタと廊下を歩く間抜けな少年の足音が微かに聞こえてきた。
 …………涙を拭いながら歩く子供の手は冷たかった。居間で待てというのに、寒い台所でじっとケーキが焼ける様を見つめていたからだ。
 きっと、無理だと解ったらすぐに違う手段に移る為、そこにいたのだ。それすらもう、無駄な行為になってしまったけれど。
 座椅子に座らせ、一緒に持ってきていたあたたかい湯のみを子供の手に持たせる。せめてその凍えた手のひらくらいは、温めておきたい。
 …………滂沱というに相応しい泣きっぷりは、見ていて痛ましかった。
 そこにおそらくは子供の靴を発見したのだろう、機嫌よく鼻歌なんぞ唄いながら、少年が居間の襖に手を掛け、首を入り込ませた。
 「なんか随分甘い匂いするさ。ジジイ、何作って……」
 ニコニコと、いっそ眼差しもいつも以上に垂れていないかと思う笑顔で、少年は声を掛け……凍り付いた。
 老人に向かって声を掛けた癖に、その視線は老人の隣、湯のみを手に持ちながら、頬を拭えもしないで服に涙のシミをいくつも作る子供に向けられていた。
 少年の持っていた鞄がそのまま手から落ち、慌てたように呑気だった足音が駆け寄る音に変わった。
 「な、アレン?!なんでボロ泣きなんさっ?!」
 少しだけ険しい、顔と声。一年間傍で見ていたけれど、彼がいじめに遭う環境になかった事くらいは解る。今は違う学校とはいえ、一つ上の学年には少女もいるのだ。何か異変があれば必ず連絡がくる筈だ。
 それなのに、こんな風に休みの日、隠す事も出来ない程涙を流すなんて。
 ……………強情なくらい我慢強い子供が、泣く事を耐えられない事なんて、そう多くはないのに。
 「う、うぇっ……」
 心配して問うその声に、なお涙が溢れたのか、子供は喉が塞がったようにしゃくり上げて身体を震わせた。なんとか声を出そうと努力しているらしいけれど、なかなか止まらない涙がその邪魔をするらしい。
 その頬を撫でて零れる涙をなんとか受け止めると、しゃくり上げる声が直に手のひらに響く。…………本当にまだ、子供なのだ、この子は。
 普段どれ程背伸びをしてしっかり者でいようとしていても、こんな風にあどけなく弱々しい、歳相応の脆さもいとけなさも隠している。
 それが、そうした趣味の人間を招き寄せる事がある事も、知っている。思い出した事実に、少年の眉根が険しく寄せられる。
 「また変な奴に声掛けられたん?!それともジジイになんかされたんか!?」
 それならもう、いっそ警察にでも届けようか。もっと通学路の安全を確保してもらわなくては、いずれ笑い事で済まない事態がくる。
 少女に頼んで一緒に空手教室に通うように誘導してもらったとはいえ、まだ習いたてだ。めきめきとその才能を開花させているようだが、まだ細く小さな身体では、大人相手にはその実力を発揮しようもない。
 そんな呻きだしそうな少年の様子に、呆れたように老人が息を吐く。
 ………いくらなんでも、唐突に話が発展しす過ぎだ。心配性も度を超せばただの過保護と、溜め息も出る。
 「冗談も大概にせんか。したのはお前だ、たわけ」
 窘めの声を軽やかに吐き出し、せめて冷静になれと示唆してみれば、むずがる子供のように顔を顰めた少年が睨んでくる。………本当に、この子供の事になると幼い顔をするものだと、胸中で大きく息を吐いた。
 「だってアレンが泣くなんてっ」
 いつだって真っ先に我慢してしまって、泣くのは最後の最後、耐え切れなくてどうする事も出来なくなってからの、子なのに。
 こんな風に泣きじゃくるなんて、滅多にない。それなのに。
 叫びそうな鋭い音に、涙を拭う為にハンカチを添えていた頬がびくりと震えた。それに気付いて、少年の指先も少し、跳ねた。
 「ごめんな、さい、ラビィ」
 「へっ?何がさ。別に俺、怒ってるわけじゃ」
 大声を出したせいで怯えたかと、慌てて取り繕うように言ってみると、子供は首を振った。
 違うのだと示しながら、それでも銀灰は水に溶けて揺らめいて、涙ごとその眼差しも消えてしまいそうなくらい、目が赤かった。
 戦慄きながら、それでも必死にしゃべろうと幼い唇が動く。伝えたいのだと、そういうような仕草は、けれど見ている方が泣きたくなるくらい、痛ましかった。
 「…ごめ、なさいっ……」
 「アレン〜??」
 ただ謝る言葉しか繰り返せない子供に、少年は途方に暮れたような情けない声を洩らした。
 危惧したような事態はなかったようだ。それは老人が冷静である事で解る。けれど、それならばなおの事、何故子供がこんなにも泣いているのか、それが解らない。
 自分が怒るとか、そんな事、有り得ない。でも、謝ってくるのだ。
 意外と矜持の高い子供は、自身に咎がない限り謝る事はない。勿論、そうする事で面倒な事が回避出来るならするだろうが、それはあくまでも一線を引いた相手……親しさをまだ交わしていない相手にだけだ。
 その中に自分が加わる筈がないと自負している少年は、子供が謝らなくてはいけないような事態が想像出来なかった。
 かといって、子供は泣くのを耐えようとしても耐え切れず、あやすように優しくすればなお涙が溢れてしまうのだから、困り果ててしまう。何をしてもきっと、今は逆効果だ。心の弱っている時の優しさは、満たされるが故になおの事涙を溢れさせるものだ。
 とにかくどうしたらいいかと、出会った頃のように腕の中、子供を抱き締めてみる。
 まだ体格差があるといってもお互い未成熟な子供の身体だ。…………大人のようにすっぽりと抱き締められない。だから、彼の養父程の安堵を与えられるとも思えないけれど。
 それでも、背中を、頭を撫でて。大丈夫と、全部涙を流させてしまえるくらいは、時間をかければ出来るのだ。
 途方に暮れながらも真っ先にそれを選び、腕の安堵を教える少年に、子供の扱いに慣れたものだと思いつつ、老人は嘆息した。
 「まったく、何故今日に限って早く帰ってきた」
 それが最早全てだ。この事態の元凶であり、原因。いつも通りに遅ければ、ようやく泣き止んだ子供が再び涙に沈むような事態、避けられたものを。
 折角、この子供が、自分に隠し事までして、特別にフォンダンショコラを作ろうとしたのに。
 ……………火が使えなくても、湯煎くらいは出来るのだ。子供の家には電気ケトルがある。彼の家で何度か茶を出されたのだから、それは確かだ。
 それを使えば熱湯は作れ、チョコを溶かすくらい、出来る。それ以外に火を使わないトリュフを、一人では作れない理由はない。
 あるとすれば、たったひとり、別のものを気持ちを籠めて贈りたい、という、それだけの心の問題だ。
 深い溜め息とともに告げられた言葉に、ムッとして少年が腕の中の子供を抱き締める力を強めてしまう。
 「はぁ?!寄り道しないの叱られる覚え、ないさ。さっさと帰らんと、女の子達が帰してくれんし、走ったさ」
 今日はバレンタインだ。虎視眈々と言ってしまっては申し訳ないが、女の子達は普段以上に気合いが入っていて、少し気を抜くとそのまま連れ去られそうだった。
 ちょっとみんなで遊ぶくらいは、確かに付き合う、けれど。…………あからさまにそれだけが目的ではない子がいては、加われない。
 用があるのだと、朝からさり気なく男同士の会話の中で告げ、残念がる振りをしながら、聞き耳を立てている女子から逃げる算段をつけていたのだ。
 それがどうにか功を奏し、上手く巻く事が出来ての帰還だ。努力を褒めてもらいたいくらいだ。
 「あと30分も遅ければ何事もなかったわ。空気の読めん奴だ」
 「たった今帰ってきた俺にどんな空気読んで寄り道に勤しめってんさっ」
 むしろあと30分では済まなくなる。それこそ、夕飯にすら戻れないくらい、あちらこちらに連れ回されてしまうに決っているのだ。
 しかも、悪ければ、そのまま夜景の見える場所でロマンチックに、断る事が鬼畜のようなセッティングで告白されるおまけ付きだ。本命のいる人間が避けなくてどうするというのだ。
 噛み付くように言い返してみれば、腕の中の子供が、慌てたように小さなその手のひらで唇を覆った。まるでそんな風に言わないでと懇願するような仕草に、目を瞬かせてしまう。
 「ラビ、違い、ます。ブックマン、は、手伝って、くれたっ、です」
 なんとか息を吸い込みながら、掠れ気味の声を子供が綴る。泣き出しそうな、歪んだ顔が寂しそうで、少年は首を傾げながらそっとその頬を撫でた。
 熱く感じるのは、きっとずっと泣いていたからだ。目元も真っ赤で、綺麗な銀灰の瞳も、赤く充血してしまっている。痛々しいその目元、いっそ舐めとってやりたいけれど、流石にそれは許されないと我慢した。
 「うん?………とりあえず、どうして泣いてるか、教えてさ?」
 ゆっくりと、意識的に声を緩やかに紡ぐ。慌てて問い詰めてはいけない。それはきっと、この子を追い詰める。
 のんびりした問いかけに、同じように呼気を緩やかに吸い込んで、子供は数度深呼吸をした。涙は止まったけれど、まだ濡れたように潤んでいて、少しの刺激でそれは溢れそうで苦笑する。
 数瞬の、間。…………辛抱強くそれを待ってくれる人。子供は覚悟を決めるような悲愴な顔で、間近な優しい垂れ目を見つめた。
 「チョコ、まだ出来て、ないんです。ちゃんと包んで、渡す筈だったのに」
 小さな唇が告げるのは、今日という日には相応しいようで、少しだけズレタ事に感じた。
 今日はバレンタイン。その起源は横に置いておいて、この国では専ら、女子が男子に好意を伝える日で、自分達男はその数を競ったり意中の相手の動向を気にしたりと、基本、受け身の日だ。
 それなのに、『出来ていない』と言って、『渡す筈だった』という。
 その言葉の意味を考える。考えなくても解りそうなのに、あまりに予想外過ぎて、子供とその事実とが繋がらなかった。
 「チョコ?ああ、この匂い、それか」
 間抜けに繰り返した声は、無意識だ。ようやくこの家に満ちた甘い匂いの意味が解った。解ったけれど、何故この子供がこの家でチョコを作る意味があるのだろう。
 また疑問が生まれて、少年は首を傾げてしまった。
 「リナリー達は来月お返しで、マナとブックマンと施設のシスターや理事長には昨日、渡したんです」
 「………ジジイも?」
 ぴくりと、子供を包む少年の腕に力が籠る。出来るだけ平素と変わらない声を出したつもりだけれど、悋気が洩れなかったか不安だ。
 少女への返礼は解りきっていたからいい。施設の関係者だって同じくだ。誰かにあげるなら、まず真っ先にあげられるだろう。それはきっと、彼の養父がどんな時でも初めに呼ばれるのと同じくらい、当たり前の事だ。
 けれど、自分の祖父は違う、立場で言うなら、自分と同じ部外者で新参者だ。それなのに、名前が加わっていた事に、どうしても面白くないものを感じてしまう自分の心の狭さが、嫌だった。
 それには気付かないでくれたのか、伝える事に精一杯の子供は、必死に声を綴っている。どう言えば伝わるか、解ってもらえるか、こんな些事にすらも懸命な音色だ。
 「マナは一杯がいいって。だから、ラビには違うのをと、マナがいない間に作ろうとしたのに、駄目で」
 微かに戦慄きそうになる子供の唇から、唐突に出てきた自分の名前に、目を瞬かせる。
 …………何故養父が沢山になると、自分は違うものになるのか、いまいち解らない。解らないけれど、子供の声を遮ってまで必要かどうかも、解らない。
 説明の順もその手法もグチャグチャだ。あるいは最後まで聞けば、それも解るかも知れない。
 ゆっくりと、見守るように少年は子供の言葉に頷きながら情報を整理していく。今もまだ誰かに沢山の事を伝える事が下手な彼は、説明も苦手で、上手く文章を構築出来ない。
 ………それはきっと、ずっと抱え込んで飲み込む事に慣れてしまった悪癖だ。
 少しずつでもいいから、自分達が彼に関わり言葉を聞く事で、それが掻き消されればいいと、思う。告げる言葉を分断し間違っていると示すよりも、どんな言葉も心を込めて告げたならきちんと伝わるのだと、まずは知ってもらわなくてはいけない。
 全てはそこからだ。間違える事に怯え伝える事すら諦めてしまっては、全てが水の泡になってしまう。
 震えそうな幼い背中を優しく撫でながら、続きを待つように笑んでみれば、惑う唇は幾度か微かな呼吸を繰り返して、小さな音を紡ぎだした。
 「ブックマンが、オーブン使っていいって。でも、ラビが帰ってくるのに、間に合わなかった」
 手伝ってくれたのだ、老人は。ちゃんと頑張れるのだと教えてくれた。一回くらい間違えたって平気だと。そう示すようにまた、転んで蹲りそうだった自分に進む方角がある事を教えてくれた。
 それなのに。そんな優しい手に助けてもらったのに、自分は間に合わなかった。たった10分だ。もしも初めに悩んだりしないで、すぐに老人に頼んでオーブンを借りていれば、間に合った時間だ。
 自分が頑張れなかったからだ。諦めようとして、泣いて蹲ったからだ。
 …………誰かの手が背を押してくれるのを待つなんて、そんな贅沢な真似、していい筈がないのに。
 「ちゃんとありがとうって、大好きだよって渡す日なのに、ひとつも出来ないで、みんなに迷惑ばっかで」
 後押ししてくれた老人の皺の寄った手の努力さえ、自分が無駄にしてしまった。
 あなたに出会えた事が嬉しいのだと、そう教える筈だったのに、こんな風に少年にも心配をかけて、抱き締めてもらって、それに安堵するなんて。
 情けないし、あまりに自分がちっぽけで何も出来ない事が悲しい。この人達の優しさに報いる方法が自分にはないのが寂しい。
 美味しいチョコも出来なくて。ありがとうって笑う事も出来なくて。こんな風に泣きじゃくって守ってもらって、心配をかけて。1つも、彼らの為に出来る事がない日なんて、意味がないのに。
 思い、また溢れた涙に、少年が慌ててその頬を包み、目元を擦った。
 「アーレーンー!考えすぎさ、そんなん。ほら泣かない!あーあ、目、真っ赤さ」
 それが痛くて痙攣するように震えるのを見て、慌てて少年はハンカチを優しく添えて涙を吸い取った。
 「ご、ごめんなさい」
 「謝らないの。悪い事してないんだからさ」
 また溢れてしまう謝罪の言葉に、少年は苦笑する。
 きっと、この子供は沢山考えて考えて、そうして、いつも自分を助けてくれる人達にそれを伝える為、努力しようとしたのだろう。
 何もない日に贈るものは、遠慮されてしまうと解っている子だ。押し付けるものが人によっては迷惑なる事さえ、解ってしまっている子だ。
 捧げたい喜びを、ずっと抱えて、それを示せる機会をずっと待っていた。そんな日だったのだろう。きっと意味も世間一般の流行も関係なく、ただ感謝を示していい日だと、思ったのだ。
 おそらくはその知識の源は少女だろうけれど、彼が受け取る事を躊躇わないように、きっと広義の方で拡大解釈させたに違いない。
 ………そんなささやかな言葉を、こんなにも心籠めて織り成す子供の純朴さの方が、凄いのかも知れないけれど。
 「でも………」
 それでも言い募ろうとする子供に、少年は苦笑する。
 髪を撫でて窘めようかと思った時、不意に思い出す。自分も用意した、この子供宛のチョコ。
 「あ、そだ。……アレン、口開けて?」
 身体を反らせて、精一杯伸ばした腕の先、なんとか掴んだ先程取り落としたままの自分の鞄。
 それを引き寄せ、開けっ放しだったその中から、綺麗な包装をされたチョコを取り出す。
 ………一昨日買いに行った、子供と一緒に食べようと思った、チョコだ。帰ったらすぐに子供の家に行こうと思っていたから、朝の内に既に玄関に用意しておいた。
 子供の靴に気付いて、驚かせてやろうと忍ばせた鞄の中、すっかり忘れ去ってしまっていた。
 「チョコ?」
 ばりばりとラッピングを豪快に破った少年の手の中を眺めながら、子供は首を傾げる。
 一口サイズの、可愛らしい3匹の色違いのテディベアのチョコ。色の濃さが違うから、きっとビターとミルクと、それにホワイトチョコだ。
 それを彩るようにピンクや赤のキラキラした包装紙で包まれたハートのチョコが舞っている。
 「そ。俺からアレンに。ほら、口開けて?」
 甘そうなミルクチョコのテディーベアを手にとって、子供の口元にくっつける。
 食べていいのかを一瞬迷った子供に、にっこりと少年が笑って頷けば、おずおずと子供はそれを口に含んだ。
 ……甘い、チョコの味。いつも食べる板チョコと全然違って感じるのは、見た目の問題なのか、元々チョコレートが違うのか。解らないけれど、幸せな味だった。
 「うまい?」
 「はい♪あ、あの、でも、いいんですか?貰い物でしょう?」
 問い掛ける声に思わず弾んだ声で答えてしまった子供は、慌てて口を押さえてしまう。誘惑に負けて食べてしまったけれど、これはきっと少年宛のチョコレートだ。自分が食べていい筈がない。
 誰かからのありがとうと大好きを勝手に食べてしまった。それに申し訳なくて垂れた眉を、愛しそうに眺めながら、少年は首を振った。
 「違うさ。言っただろ、俺からアレンにって」
 鞄には入っていたけれど、貰い物ではない、ちゃんと自分で選んで買ったものだ。
 そう言い含めるように告げてみれば、きょとんと子供の目が大きく瞬いた。
 「僕に?」
 不思議そうな声。傾げた首はまだ幼く細く。その意味も正確に知るかどうか、解らない。
 それに苦笑しながら、少年が笑う。泣き止んだ子供が腕の中、まだ座ってちゃんといてくれる事が、なんだかひどく嬉しかった。
 「そ。うまそうだったからさ、一緒に食べようと思ったんさ。でも」
 どうせあげると言っても遠慮するのだ。理由のない贈り物を子供は手にする事が出来ない。
 誰かの負担になる事が、怖い子だ。与えられる事に恐怖を感じる子だ。
 …………今はまだ、それが当たり前なのだと知ってもらう為の、準備期間。
 周囲にいる大人達と、彼を守りたい自分達子供が、少しずつ思いの籠ったものを贈りたい気持ちも受け取ってもらいたい気持ちも、理解してもらっていけばいい。
 だから、嬉しい事なら、一緒に。美味しいものも、分け合って。そうして積み重なっていけば、きっとこの子供も解っていく筈だ。捧げたものに返る笑顔こそが、何より一番の返礼なのだと。
 …………………躊躇い戸惑う、困ったような泣き出す子供の瞳では、なくて。
 「アレンがチョコくれるなら、交換こ。このチョコはアレンのさ」
 それなら等価交換。お互い様の贈り合い。だから躊躇う必要も申し訳なく思う理由もない。
 だから受け取って、と、戯けるように傾げた首の先、子供は驚いたように目を丸くした。
 「僕、の」
 だって、今日は、ありがとうと大好きを贈る日だ。それだって、女の子が主体だって、言っていた。別に男の子でもいいと思うよと言ってくれたから、頑張った、チョコレート。
 だから貰う事なんて、考えていなかった。ただ教えたかっただけだ。自分が大好きだって事を、ありがとうと、言葉に出来ないくらい沢山、感謝している事を。
 それなのに。……………少年が、それを自分にくれる、なんて。そんな事、ある筈がないのに。
 幻だろうかと、目を瞬かせてみる。幾度も目蓋でシャッターを切った筈の眼差しの先、差し出されたテディーベアは微笑むように笑ってそこにいる。
 口の中、甘くチョコは溶けていく。
 「……いや?」
 少し寂しい少年の声に、惚けていた子供は慌てて顔を上げ、顔を輝かせた。
 嫌な筈がない、こんなに、嬉しいのに。心が、浮き立つように喜んでいて、自分の手では抑えられないくらいだ。
 その気持ちをどう表現していいか解らず、子供はぎゅっと、目の前の大好きな人に抱きついた。
 大好きな養父にするように、精一杯幼い腕を回して、その首に顔を埋めた。
 「嬉しい、です。あの、あとちょっとなんです、ケーキ!待ってて下さい、すぐお皿借りて、持ってきます!」
 そのまま、明るく弾む声で感謝を告げる。捧げたい自分の思いも食べて欲しくて、泣いてばかりだった今日の最後の最後、最高のプレゼントに幸せに笑んだ子供の、チョコレートの香りに満ちた甘い声が告げた。
 先程はあと8分だった。色々話していてバタバタして、もしかしたら聞き逃したかも知れないけれど、もうそろそろ焼ける筈だ。
 にっこりと笑んだ子供の顔は愛らしかった。元々整っている幼い笑顔が、こんなにも間近で腕の中咲かれると、愛しさに負けて抱き竦めてしまいそうだ。
 それを耐えるように硬直してしまった少年の腕の中、パッと起き上がって子供は台所に向かおうと足を踏み出した。
 それに幾許(いくばく)かの惜しさとともに多大な安堵を感じ、少年はふと視界の中にいなくなっている老人に気付く。
 この大きくもない居間の中、視野に入らない、ならば。それは自分の死角、眼帯をした右手にいるという事だ。そしてそちらは子供が駆けようとした襖のある方で………
 「アレン、慌てないでっ」
 流石に通せんぼまではしないだろうが、あの小柄な者同士、ぶつかり合ってはどちらもが転ぶ。………否、老人はあれで意外に身体能力が異様なまでに優れいてる、怪我をするとすれば、子供だ。
 「あ、はい、大丈夫、です!平気でしたか、ブックマン」
 慌てたその声に、子供は少し上擦った声で答えた。
 どうやら危惧した通り、通り道に老人がいたらしい。手には湯のみを持っているのだから、それを台所に持っていこうとしたところ、という風だ。………それについ、心の中で舌打ちしてしまう。絶対に、それはふりだ。
 「わしにも分けるなら大目に見るぞ」
 慌てていた子供を窘めるように言うと、子供は破顔するように笑う。やっと咲く事を思い出した、子供の笑顔だ。
 「ははっ、じゃあブックマン、僕と半分こしましょう。あ、タイマーの音だ!」
 少年から貰ったチョコレート。老人と二人食べるのも嬉しい。なんだか、自分が何かをあげようと思っていた筈なのに、沢山の嬉しさに包まれてしまって、逆に自分が貰ったばかりの日になった気がする。
 「ラビ、座って待っていて下さいね♪」
 パッと花が咲くように子供は笑んで、赤く腫れた目元など忘れたようだ。嬉しそうに綻ぶ銀灰が、先程まで水に塗れていたなんて嘘のようで、それについこちらの唇まで綻んでしまう。
 見ている者さえ明るく彩るように声を弾ませ、子供は老人の手から湯のみを受け取り、一緒に新しい茶を煎れてくると告げて、台所に駆けていってしまう。
 「ほ〜い」
 その後ろ姿を和むように微笑みで見送って、甘い香りに満ちた家の中、充足するように溢れる愛おしさに顔が溶けそうだった。
 あんな風に、大事に思ってくれるなんて。渡せない事が悲しいというくらい、大切な存在だ、なんて。
 それが世話を焼いてくれる兄貴分への敬意でも何でもいい。あの子供が自分を必要とし、笑顔を向けてくれるなら、何だって。
 …………あの子が悲しみ泣く姿が一番、堪えるのだ。
 初めて会った日の、この世の全てに拒まれたような瞳で絶望を思い泣く姿、なんて。出来る事ならこの先二度と見たくなどない。
 この腕は脆弱でたいした事も出来ないくらい、弱いけれど。あの子供一人守るため、培う知識も体術も、捧げられる日が来ればいい。
 たとえ、来なかったとしても。出来る事ならその傍ら、せめて彼が涙に暮れる事なく生き、誰かを愛し愛されるのを見届けて、朽ち果てたい。
 …………自分の想いの始まりも終わりも、あの子供だけに彩られたら、いいのに。
 言ったなら祖父に蹴り飛ばされそうな妄想だ。もっとずっと淡白だと思っていた自分の性情は、どうやら浅ましい程に深い執着を持っているらしかった。
 そう思いながら、ちらりと、したり顔で向かいに座る老人を見遣った。
 「………何、さり気に邪魔するさ、ジジイ」
 先程子供がぶつかりかけたその位置に、彼はわざわざ移動していた。その上で、子供が謝意を示すよう、誘導したのだ。
 そうして告げた、あの言葉だ。子供の為にだけ買った自分のチョコの意味を、ずっと軽やかで親しみ易いものにすり替えてしまう気だ。
 もしかしたらこの流れで、老人を追いやればまとまれるかもしれない、なんて。甘い考えがなかったとは言わない。むしろ可能ならそちらに持っていきたい気持ちの方が勝るのだ。
 それなのにと、恨めしげに見遣ってみれば、老人は素っ気なくそっぽを向いて、懐から取り出した煙管を口にした。
 「あと十年は待て、といったがな」
 長く細く煙を吐きながら、ニタリと老人が笑う。まるで魔法使いのような仕草に少年は苦々しげに唇を戦慄かせた。
 ただでさえ、あの子供は老人に懐いているのに。あの少女とだってとても仲が良くて、こちらが狼狽えるくらいなのに。
 やっと廻ったかもしれない、そんなチャンスさえ、二人きりにはなれないなんて、どんな厄日だというのだ。
 「監視付きさ!?アレンが嫌がる事、するわけないさっ」
 そもそも、告白出来るかどうかも解らない。そしてそれも出来ないなら、手だって出せない。
 どれ程大好きだと思っていても、自分の欲求だけでどうこうしたいなんて思わない。彼の泣き顔なんて、見たくないのだ。
 それくらい、老人も少女も解っている癖に、それでも予防線を張るのは少しばかり過保護が過ぎるのではないか。
 …………それだけ信用がないと言われれば、どんなイメージを持たれているのだと、本気で凹みそうだけれど。
 唸るように小さく喚く、台所にだけは聞こえないように注意したその声に、老人は天井を見上げながら銜えた煙管を離し、吐息とともに煙を舞い上がらせる。
 「………嫌がるかどうか、な」
 未だ無自覚の子供は、ただ慕っている意味を友愛と思っているらしいけれど。そして思いの外鈍感らしい少年は、その想いへの引け目故か、子供の感情が自分とは違うと頭から決めてかかっているらしいけれど。
 …………気付けばおそらくは、誰も止められない。
 まだあまりにあやふやで無防備な二人が、傷つけあう可能性だって、ある。だからこその釘であり、妨害だ。そんな事、おそらくはこの先も少年は解らないだろうけれど。
 視界が煙で翳った最中、小さく呟いた言葉は、再び舞い戻った煙管によって掠れて消える。
 「?なんさ、なんつった?」
 怪訝そうに眉を顰めた少年の声と、襖が開かれる音が重なった。
 すぐに反応して目を向ければ、それより早く鼻先を甘いチョコの香りが漂った。自然垂れた眦が、嬉しそうに細められて笑みを彩る。
 それに気付き、子供も満面の笑みを浮かべていた。
 「お待たせしました!ちゃんと焼けてましたよ、ブックマン♪」
 きちんと手伝ってくれた老人に報告し、その出来を見せてから、子供は少年の目の前に手に持つ皿を置いた。
 普通のガトーショコラのようにも見える、丸いカップケーキのようなフォンダンショコラ。
 さくりとスプーンを刺してみれば、中からトロリとチョコレートが流れ出た。それをみて、パッと子供の顔に笑顔が咲いた。
 …………どうやらフォンダンショコラは成功したらしい。その笑みだけでそれが解り、老人の煙管を銜える唇にも笑みが灯った。
 「お、うまそうさ♪俺食べていいん?」
 嬉しそうに笑む子供に同じ色の笑みを乗せて少年が尋ねる。中のチョコからは湯気が出ていて、あたたかいうちに早く食べろとせがんでいるようだった。
 「はい!これはラビのためのチョコですから」
 甘い甘いチョコの香りに包まれた、甘く熟れた幼い笑顔。
 ………果たしてその笑みに溶けた思いが友愛か、否か。
 これ程までに解りやすいというのに、今だ不器用な子供達は無自覚のまま、互いの彩りが織り重なり紡がれている事にも気づかない。
 今はまだ知らぬまま、真綿のように柔らかく包まれるといい。

 気づけば惑う人の道だ。

 その惑いが過ちを見出ださぬほど、捧げあえばいい。

 

 そうしていつか重なる思いに手を伸ばすなら。

 

 

 ………その時こそ、祝せればいい、と。

 老人は微かに吐いた吐息とともに、思った。

 








当日(前)


 この話が最後の最後、ブログの投稿容量オーバーになったので、サイトアップになりましたー(涙)
 一応パロディーものは基本ピクシブに置いていたのですが……。
 ピクシブ掲載にはこれらの巻末におまけの会話文が載っていますv
 全部それぞれにリンクするように繋げてあるので、ひっそり覗いていただければより楽しめるかと………(笑)
 どうにもラビとマナが、なんというか、アレンの言動一つで拡大解釈して騒いでいる気がしなくもないと言うか。そんなものだよ、うん。
 そしてそれを理解しているから、アレンは段々『自分の事は自分でしっかりやらないといけない!』と成長していくんだよ。
 ……………そんなものなんですよ、うふふ………(溜め息)

 現代パロはラビアレが成立するのはアレン15歳のクリスマスですので、それまではただひたすらお互い一方通行ですよ。手も出さんよ、ラビ!(笑)
 そして面白いくらいマナがアレン大好きです。それでいいんだ。親に沢山愛されて育つといいよ、アレン!
 そして。ラビは中1にしては随分大人びた対応も出来ているように見えますが。
 たったね。5分でいいのです。子供の支離滅裂な話しを最後まで聞いてあげる、それだけでいいのですよ。
 その中でグチャグチャの言葉を繋ぎ合わせて、細かい事は解らなくても、伝えたいところだけ、気付いてあげられればいいんです。全部じゃなくて全然いいのですよ。
 そうすれば、伝える事に苦手意識を持たず、言葉を飲み込まないでいられるから。そんな風に育ってくれるといいな、現代パロのアレン。
 伝える事、伝えたいって思える事、忘れないで育ってくれれば、この先の悲しい事もきっと乗り越えていけるから。

11.2.12