オーブンを前に、子供は途方に暮れていた。
予熱した筈なのに、オーブンがまったくあたたまっていないのだ。
いくら使った事のない機能とはいえ、流石にフライパンのように熱くなければケーキが焼けない事くらいは解る。
触ったオーブンは、レンジで使う時と同じで、触れないような熱さは微塵もない。
「ど、どうしよう………」
すでに焼くのを待っている生地が、天板には乗せられている。
クッキーだってそのままにしていたら生地が駄目になってしまう事くらいは、施設でもお手伝いをしたから知っている。………ならきっと、ケーキも同じだろう。
とりあえずと、ラップをして冷蔵庫に押し込んだけれど、それもいつまで許されるのか、子供には皆目検討もつかなかった。
そんな事態については、キットの作り方には載っていないのだから、当然だ。
「何で?だって、レンジは使えたのに、おかしいな」
解らなくて、とにかく一人呟きながら、色々と試してみた。コンセントも挿し込み直したし、線が外れてないかだって、苦労しながらオーブンレンジを動かして確認した。
レンジ機能は使えるけれど、オーブンボタンはもう、押してもうんともすんとも言わなくなってしまった。
それを見つめていたら、段々悲しくなって、視界が霞んできてしまう。
「ダメだ、解らない……生地もこのまま置いておいたら、やっぱダメになるかも」
呟いた声はすでに戦慄いていて、それを嫌って固く瞑った目蓋から、ポロリ、大粒の涙が落ちてしまう。
一度流れてしまえば堪えようもなく、子供はしゃくり上げながら目を擦り、オーブンを見遣った。 ただ、ありがとうを伝えたかったのに。笑顔が見たかったとか、そんな大それた事は思わなかったのに。
それでも自分は、それすら手渡せないのだ。お礼を言う価値も資格もないのかと思えば、涙が溢れて止まらなくなってしまう。
たった一人の家の中、子供は首を振って、そんな物思いから逃れようとした。
なんとかしないといけない。でも、自分ではどうする事も出来ない。
誰に言えばいいだろう。……………こんな時、手を伸ばしたい赤い髪の少年は、けれどバレてはいけない相手だ。
唇を噛み締めながら、子供は必死に、知恵を貸してくれる人を思い浮かべ、顔を拭う事も忘れて玄関へと走っていった。
「………!どうした、小僧」
呼び鈴に玄関までやって来てみれば、ドア越しでも解る子供のしゃくりあげる音。
驚きに普段よりも慌て気味の動作で開けたドアの先には、予想通りに泣き崩れるように目元まで赤く腫らした子供が立っていた。
かけた声に子供は小さく震え、必死に涙を飲み込もうとする。が、失敗して、また大きな目から雫が一粒零れ落ちた。
それでもなんとか伝えようと、子供は口を開いた。震える唇からは、震えた声しか紡がれはしなかったけれど。
「ブック、マッ……、どうしっよ、どうした、ら、いいです、かぁ?」
途方に暮れた寄る辺ない子供の声は、掠れて途切れ、聞き取りづらい。が、老人は辛抱強くそれを聞き分け、何かが起きて助けを求めに来た事だけは解った。
少なくとも危急の用事と言うほど重大な事柄ではないらしい事も、なんとか子供の表情から読み取り、老人はそっとドアから身を退ける。
「………とりあえず、中に入れ。茶でも飲んで話を聞いてからだ」
何か自分に出来る事ならば手助けもしよう。が、まだ何が起き、どうすれば解決するかすら解らない。
一先ず泣き止むように静かな声をかければ、子供はまたくしゃりと顔を歪めてしまう。
「ラ、ビ、……います、か?」
どうしたかと問うより早く、子供が小さく呟いた。
「いや、まだあやつなら帰ってきとらん」
少年に用があったのか。しかし、それならば何故泣いていて、しかも相談を持ち込むのか。
………つい先日、少年に釘を刺した事が頭を掠めたが、老人は気づかなかった事にした。
流石に、こんないとけない子供に無理強いをするような育て方をした覚えはないのだ。
「なら、お邪魔、します」
微かな安堵の息を吐き、子供は頷くと老人に従った。
……………そんな子供の態度に、不安が増してしまうのは仕方がない事だと思いたい。
まさかと思いつつも、孫と何かいさかいがあったのかと勘ぐってしまう。
もし危惧通りならどんな折檻をすればこの子供の気が晴れるだろうか。
思い、吐きそうになって飲み込んだ溜め息は、重かった………………
茶を淹れる間、顔くらいは洗っておけと言ったおかげか、老人が居間に戻ると、子供は大分落ち着いた様子で座っていた。
それでも痛々しいほど赤い目元が、長い時間泣いていた事を教える。
「………あれが何かやらかしたか?」
淡々と、聞きようによっては冷たい突き放した声で問う老人に、しゅんと子供が肩をすぼめて俯いてしまう。
危惧とは別にしても、やはり何かあったのか。大人が探りを入れるべき部類の話かを見極めるには足りない情報に、老人の片目が僅かに細められた。
俯いた子供はそれに気付きはしなかったが、差し出されたあたたかなお茶を両手で包みながらポツリと口を開いた。
「いいえ。チョコが……」
まだ掠れ気味の声に気付き、子供は手の中のお茶を口元に運び、一口飲み込んだ。
同時にひどく喉が乾いていた事に気付き、与えられたお茶を一気に飲み干してしまう。
柔らかな甘みのあるお茶だ。特別な茶葉でなどないだろうに、老人の淹れるお茶はいつもとびきり美味しかった。
「チョコ?バレンタインのか?」
子供が湯飲みの中身を全て飲み干すのを眺めながら、急かせる事のないよう、ゆっくりと問いかけた。
それに少し恥ずかしげに視線を逸らし、子供はもう空っぽの湯飲みを両手で弄びながら、事の経緯を告げようと頷きながら話し始めた。
「はい。ブックマンには昨日渡したけど、ラビの分がないから、あの、作ったんです」
昨日、老人にはたまたま出会い、買い物帰りに届けるつもりだったチョコは渡せた。
けれど彼の孫の少年の分はまだだった。だから、老人にも口止めして、今日、ケーキを焼くつもりだったのだ。
沢山は無理でも、美味しそうなとろけるチョコのケーキ。きっと自分がもらった嬉しさをちょっぴりでも伝えられると思った、甘くてあたたかな、芳しい香りのケーキ。
それなのに、と。子供のはきゅっと唇を噛み締める。
「そうしたら、オーブンが壊れてて、使えなくて、焼けなくて……失敗、しちゃっ……」
いつも当たり前のように手を差し出してくれる優しい人。伝えたい事は沢山あって、言葉だけでは全然足りない。
欠片でもそれを伝えたい、なんて。………自分には過ぎた願いなのだろうか。
またわき起こる嗚咽の予感に、鼻の奥がツンと痛かった。
「落ち着け。自分を責めてどうする。……オーブンが必要だったか、あのトリュフ」
涙を溜め始めた銀灰が湖面で踊るように揺れている。
それを拭うような穏やかな老人の声に、子供は鼻を啜って涙を耐えた。まだ、全然話しは終わってない。
せめて出来る事くらいはと、気を引き締めるように唇を引き結んでみせた。
「あ、違います。トリュフじゃ、なくて。フォンダンショコラ。ケーキ、です」
まだ言っていなかったと、すっかり失念していた事を慌てて子供は付け足した。
トリュフなら、オーブンなど使わない。でも、火を使うのだ。だからそれは一人では駄目だと言われてしまった。
………普段、食事の準備はするけれど、あくまで下準備までで、焼いたりするのは養父が帰ってきてからだ。煮込み料理でも同じで、少しでも時間が短縮出来るように、先にレンジで温めたり、圧力鍋を使ったりと、子供は子供なりに工夫はしている。
けれど、火は、どうしても危ないからと、大人全員に絶対禁止を言い渡されている。それが自分を守る為だという事くらい、解っている。だから我が侭で反故など出来ない。
しどろもどろに、湯煎が出来ないのだと言ってみれば、コテンと老人の首が傾けられる。瞬く眼差しの奥、静かな眼差しは真っ赤になった子供の顔を見つめて、敢えて言及せずに小さく笑んだ。
「ラビに?わざわざ?」
不思議そうなその声に、子供は困ったように視線を泳がせる。
上手く、それを説明出来るかどうか、解らなかった。だから、養父にだって何も言わず、一人で頑張ろうとしたのだ。
けれど、それも上手くいかなくて、結局こうして、この老人の知恵を借りにきてしまったけれど。
「……マナは、沢山がいいって。でもラビはそんなに食べないし、だから違うのにしたいなって」
大好きで特別な、たった一人の自分の家族。甘いものが大好きで、あげてしまえば全部、食べてしまうくらいだ。
歪でへたくそなトリュフも、見ているこちらが嬉しくて泣けてきてしまうくらい、美味しそうに大事そうに食べてくれた。そうして、大好きだと、愛していると、幾度だって教えてくれる優しい大きな手のひらが、何度も何度も髪を梳いて頬を撫でてくれた。
そんな養父と少し違うけれど、同じくらい、大好きで大切な人。それなら、彼にもみんなとは違うものをあげたかった。
養父には沢山のチョコ。喜びに埋まって幸せに溶かされるくらいの、チョコを。
それなら彼には、沢山ではないけど、熱々の出来立てのとろけるチョコのケーキを。
特別な二人に、特別、大好きを伝える為の、チョコレート。ただ伝えるだけでいいと思ったそれを、渡す瞬間を思うだけで、幸せだった。
自分が誰かに。特別な誰か、に。…………感謝を捧げられる日が来るなんて、思っていなかったから。
「養父殿?ラビとどう関係が………」
ますます不可解そうな老人の言葉に、まだ足りなかったと、子供はその理由を付け加えた。
「マナがね、この間、聞いたんです。大人以外で特別は誰って」
「……………」
「それならラビだよって、言ったんです。マナとは違うけど、マナみたいに大事な人だから」
そう告げる、嬉しそうな、幸せな子供の笑みは、どこか大人びていて老人に困惑を思わせる。それは決して無理をした大人びたものでは、なくて。
満たされる事を知っている、愛しまれる事を疑わない、そんな微笑み。
ただ想うそれだけで、人はそんなにも幸福に浸されるものなのか。返された想いに包まれなくとも、それだけで、こんなにも。
呆気にとられた老人の眼差しの先、子供はふわりと笑んだ。大きな銀灰の瞳が、柔和な三日月に変わる様さえ、艶やかだ。
「だからね、マナが特別だから沢山なら、ラビにも何かしたかったんです」
たった二人の特別な人。それならもっと頑張って、自分に出来る事を捧げたかった。この世界に生まれて来て幸せなのだと、出会えた事、関われる事、言葉を交わせる事、そんな当たり前の事が、こんなにも自分は幸せなのだと。
ただ、教えたかった。大切に慈しんでくれる、大好きな二対の腕に。
「マナがいると食べたがるだろうし、だから、作る日も変えたんです。だってマナ、時折子供みたいに落ち込むんですよ」
苦笑して、つい先日も貰ったチョコに勘違いをして泣き出しそうだった養父を思い出す。
ふふ……っと、笑んだその唇はあどけない子供だけれど、仕草はどこか母親のようなしなやかさだ。チグハグながら、上手く合致しているらしい仮初めの親子の姿に、老人も忍び笑った。
そんな老人を見ながら、けれど、続く子供の声は影を落として暗く沈んでしまった。
「………フォンダンショコラは、キットがあったから作れると思ったし、それなのに」
「肝心のオーブンが駄目だったのか。運が悪いな」
続けられない言葉を乗っ取って、老人は溜め息を落とす。この子供の不運はよく見受けられるけれど、それにしてもタイミングが悪過ぎる。
老人の憐れむ音に、子供の肩が震えた。また溢れそうな涙をなんとか深く吸い込んだ呼気で我慢しているようだ。
「今からだと、トリュフ作っても渡すの、夜中になっちゃうし、マナが帰ってくるし、でもラビには今日、渡さなきゃ、渡せないのに」
思い、段々絶望的な現実に、声が震えてきた。
どうしてこうも自分はやる事成す事が上手くいかないのだろう。折角、ありがとうを言える日なのに。大好きと、誰憚る事なく伝えていい日なのに。
こんなに自分は醜くてちっぽけで何も出来ないから、少しでもそんな自分に優しくいてくれる人達に、お礼がしたかったのに。
大好きな大切な人に、それが出来ない、なんて。
「泣くな、あれはその程度気にはせん」
溢れかけた涙に、老人が新しい茶を勧めながら告げる。
あの少年ならば、今日でなくても、………あるいは失敗したものでも、既製品のチロルチョコでも。
ただこの子供が彼を思い差し出してくれたものなら、飛び上がらんばかりに喜ぶに決っている。
それを知らない子供は、それでもと首を振った。どこか引け目の強いこの子供は、何かに託つけてしか、自分の感謝を捧げられず、己の価値さえ見出せない。
「だってブックマン、僕は一杯ラビから貰っているのに、ラビに何もあげられないんです」
溢れそうな涙を精一杯留めた銀灰が、溺れるようにそんな言葉を綴る。
…………いとけなさの中の、切ない響き、だ。
それに老人は微かに眼差しを細めるが、胸中で嘆息するに留めた。無自覚のものを、わざわざ後押しして、こんなにも早く自覚させる必要はない。
「………ラビ、我が儘なんて、言ってくれない、から」
打ち沈む幼い声。そんな言葉、彼の年齢で知るには早過ぎる。
誰かの為にしか己の価値を見出せない。それは、あまりに悲しい自己否定と同じだ。
「とにかく、悔やんでも始まらん。まずは、そうだな、ケーキを持ってこい」
仕方ないと、小さく息を吐き、老人は手にしたティッシュで乱暴に子供の目元を拭って涙を消すと、玄関を指差して指示を出す。
「?ブックマン?」
その意味が解らず、拭われた目元を擦りながら子供が問うように名を呼んだ。
瞬く銀灰に映る老人は、したり顔で太々しい。笑う口元も、どこから愉快そうに見えた。
「オーブンならうちのものでもなんとかなるだろう」
「え?あの、でも、随分ほったらかしにしたから、ちゃんと焼けるかどうか……」
「まずは焼いて、それからだ」
告げられる言葉につい否定的になる子供の自己否定を、まずは打ち砕かなくてはいけない。もっとこの子供は、己の価値を知り伸びやかに育ち羽ばたくべきだ。
折角の才だ。その心の豊かなまま、花開かなくてはいけない。それに感化され、満ち足りて育てば、鮮やかな大樹が芽吹く事だろう。
幼い才能はいつだって、導き手の指先一つでいくらでも質を変えるのだ。この指先が彼に見合うかは解らないが、せめて関わるこの時間の間、最良の導き手であってみせたい。
「泣く暇があるなら出来る事を考えろ」
断言するように雄々しく響く低く掠れた老人の声。
惚けたようにそれを見つめた子供は、目を瞬かせたあと、一瞬だけ感謝に泣きそうに目を歪ませて、笑んだ。
「………はい、解りました。僕、とってきますね」
それは、先程の老人と同じ、太々しい程にしなやかな、蹲る事を厭い進む事を選んだ、歩むものの眼差しと笑みだった。
11.2.11