傷を負う事に躊躇いがないのは、どうして?
問えば君はきっと、笑うだろう
怖い筈がないとそう言って
ただ、その恐怖と秤に掛けたモノが
より以上だから、躊躇わないのだと
微笑んで、きっと言うのだ
………愛しいものを見出せる事への
その喜びに満ち溢れた、微笑みで……………
3:あなたの祈り
安宿の一角、無理矢理取れた部屋は、この宿の外見同様、上等とは言えなかった。
それでも野宿よりはマシだ。なんとか取れた二部屋は、シングルとツイン。通常であれば師弟がツインを使うが、今回は違った。
「…………………どういう意図なんかねぇ……」
軽い溜め息を吐きながら、濡れた髪を乱暴に拭い、青年が呟く。それが聞こえたのか、あるいはただシャワーから出てきた事に気付いてか、少年が顔を向けた。
そう、今回は、イノセンスを持たない青年の護衛という名目でついてきている少年が、青年と同じ部屋にあてがわれた。おそらくは一人部屋を占領している師の部屋は、今回の調査対象以外の書籍に埋もれている事だろう。そのせいで追い出されたのかと思いたいが、そんな筈がない。
それらは、いずれは自分も記録するべき事柄だ。それが多少前後しようと、記録対象である事に変わりはない書物の為に、弟子を排除する筈もない。
ならば……と考えれば、浮かぶのはこの少年だ。
「ラビ、コーヒーありますよ、飲みますか?」
既にカップにコーヒーが入っているのか、少年が歩み寄って問い掛けた。きっと断れば、それは彼の分となるのだろう。無駄にせず、さりとて押し付けない少年らしい気遣いだ。
「ん、サンキュー。アレンもシャワー、どうぞ?」
「まだ平気です。どのみちラビ、夜更かしするでしょう?なら、眠くなった頃に浴びますよ」
目を醒ますには調度いいからと、まるで当たり前のように少年は笑ってコーヒーを差し出した。安宿に相応しい、インスタントの水っぽい香りが鼻先に漂う。
それに苦笑して、青年は少年の鼻先をつま弾くように軽く弾いた。
驚きに、跳ねた肩が手に持つコーヒーを揺らす。少年の手のひらに掛からないように蓋をするように覆いながらカップを受け取ると、不可解そうな顔で鼻を押えた少年が睨んできた。
「今日一番多く動き回ったのは、誰さ?」
こくりとコーヒーを飲み込み、青年が窘めるように見上げた。濡れた赤い髪の奥、綺麗な新緑が叱るように煌めいた。
「はい?」
その意味が解らず、少年は怪訝そうに眉を顰めて問うように声を零す。間抜けだと思ったけれど、本当に意味が解らないのだから仕方がない。
返事とは違う、疑問を孕んだイントネーション。それに軽く息を吐き、青年は手にしたカップをベッドサイドに置いてベッドに残していたシャツに袖を通した。
その間も困ったように自分を見る視線を感じて、本当に解っていない少年に少し呆れてしまった。
「眠くなれば、寝る。その為にもサクッとシャワー浴びてくるさ」
一緒に旅をしていたその間とて、彼は自分よりも早く床についていた。当然だろう。自分や師は、短時間しか睡眠を必要としない。それに比べ、寄生型で大量の食料を必要とするように、彼は睡眠もしっかり摂らなくては体調に影響を及ぼす。
自己管理はエクソシストの勤めだ。特に任務中は、それが命取りにもなりかねない。解っていながらそれを疎かにしようとする行為を咎めていると、解るように教えた言葉に、少年はしゅんと俯いてしまった。
………何か、間違えたか。否、間違えては、いない筈だ。
ならばこれは、それ以前の問題だろうか。思い、俯いたまま躊躇いがちに開いた唇を見つめた。
「………だって、今回は僕、護衛、です」
だから何より優先すべきは、自分の身ではなく、護衛対象だ。ならばその相手より先に眠る事も、遅く起きる事も、避けなくてはいけない。
そう言いたいのだろう声に、青年は遣る瀬無く息を吐き出す。………あまりにこの子は、純粋に全てに対峙し過ぎだ。
だからこその、この部屋割りか、と。師の気付かせる事のない思慮に、少しだけ感嘆してしまう。きっと自分ならば、そんな真似は出来ないだろう。
………ちらりと見遣った視線の先、佇むのは寂しげな子供。何事にも一生懸命である事は、いい事だ。が、彼は肩の力を抜くとか、不要な部分の手を抜くという事が出来ない不器用ものだ。
困ったようなしたり顔で少年を見遣り、青年はトン、と少年の肩を指で押した。
「護衛、だからさ?」
その服の下、そこは確か打ち身があった。触れたくらいではもう既に痛みもしないのだろう。少年は眉一つ動かさずに指先を見つめていた。瞬く眼差しが、不思議なものを見つめるようで、少し切ない。
「……………?」
「俺は戦えない。から、お前を守れない」
解ってと、祈る声。絶対的なその事実の前に、どうする事も出来ない現状。けれど、それを享受するなんて、出来ない。そう叫ぶ心がある事を、まだ彼は理解していない。
「僕が、ラビを守るんですよ?」
思った通りの言葉に眉を寄せる。泣き笑いじみた苦笑は、きっと滑稽な事だろう。いっそ俯きたいけれど、真っ直ぐに彼を見つめて告げなくては、伝わったかどうか解らない。
「でも、俺も戦う術くらいは、あるさ。それなのに一方的に守られたいって、思う?」
「…………………?」
問う言葉に返されるのは、不思議そうな眼差しと傾げた首。それを見つめ、青年はそっと言葉を重ねた。
「………アレンは、左腕がなかったら、俺に全部任せてただ守られたい?」
「いいえっ!………っあ……」
言われた言葉に、考えるより先に否定の言葉が出てしまう。それに驚いて、思わず唇を塞いでしまった少年の瞳は、まん丸だった。
本当に気付いていなかったのかと、青年は苦笑する。あんな風に昼間、自分を支えようと言葉を捧げてくれた癖に。
同じ事を祈られている、なんて。きっと彼は思いもしなかったのだろう。
「そういう事。解ったらさ、お前のいつも通りくらいは、守らせて?」
昼間のように、AKUMAとの戦いにおいて、イノセンスを修理中の自分に戦う術はない。ただ隠れ、逃げる。それだけが出来る全てだ。
けれど、それ以外なら、出来る事はある。
この不器用な子供の、必死過ぎる心の負担を、ほんの少しだけ、軽くする事。笑い話や昔話、彼の知らない国の風景。張りつめてどうしようもなくなる少年の神経を、慰め抱き締める物語くらいは、綴れるだろう。
そうして、疲れきったその身体を横たえ眠りにつかせる。その役を担う為の、二人部屋だ。
きっとそうした事は、自分よりも師の方がうまい。それでも、今回の護衛対象が自分なのだから、それを任せざるを得なかったのだろう師の溜め息が聞こえそうだ。
ようやく気付いたかと、脳裏で叱られた気がして、青年は苦笑してしまう。
「でも、僕は……あなたを守る事を、自分で望んだんですよ?」
「知ってるさ。でもさ、アレンが今日、言ったん、忘れた?」
そっと、微かな躊躇いをもって伸ばした指先を、少年の指先に絡めた。……手袋越しでは体温は解らないけれど、きっと冷えている事だろう。
それを引き寄せ、一歩自分に近寄らせる。ベッドに座る自分と傍らに立つ少年との距離は、ほとんど無い。その距離だからこそ聞こえる、その微かさで小さく囁く青年に、少年は目を瞬かせた。
「…………え?」
「俺は、希望を見出せって。………俺はさ、お前がいつも通りに過ごして笑って一杯飯食ってんのが、いいん」
あの瓦礫の中、薄汚れて綺麗な筈がないその姿で、けれど何よりも美しく微笑み祈れる彼が、変わる事なく暮らせる日常。それを見つめ、傍にいられる至福。
この先、紡ぐ言葉の多くは暗く澱み闇の中陥る程に暗澹とした歴史の数々だろう。解っている、けれど。その合間、こんなにも鮮やかに生きた命があると綴れるのは、きっと幸せな事だ。
それが未来への希望に繋がると、祈る事は身勝手だろうか。
闇夜を照らす月明かりのように、裏歴史の最中、鮮やかな白い光を記録し、綴る事を願っている。
それが当たり前に晒される事こそが、誰もが持ち得る願いだと。………願いと意識もしないまま祈る未来だと、青年は笑んだ。
「?意味がよく………」
「当たり前、が一番希望なんさ。誰だってそれが欲しくて足掻いて、未来を掴もうとするん。だから、俺の希望、取り消さんで?」
「…………当たり前?」
「解らん?今日と同じ明日が続けばいい、そういう、祈り」
何も変わらぬ事など有り得ない、けれど。笑顔の咲いたその日が、出来る事なら永遠にと願うのは、人の性だ。幸せを知っていれば必ず祈る、一番初めの欲。
知らぬ筈がないと告げるようなその声に、そっと銀灰が伏せられ、白い髪が揺れて俯いた。
「……………………………、解り、ます」
ずっと昔、願った。失われるよりも前に、ずっと。この腕を支え守り、ぬくもりを失う事なく傍らにいられれば、と。
永遠に叶う事のなくなった祈りは、それでも事ある毎に心に浮かび、平常を願う祈りに変わる。それが灯るから、誰かの為に駆ける事とて出来ると、解っている。
「ん。なら、アレンもいつも通り。また明日だって、もしかしたら戦闘があるかも知れないし、ちゃんと食って寝て、体調万全でいないとな」
グシャグシャと少年の白い髪を乱暴に撫でて掻き混ぜ、青年はニッと笑いかける。声も柔らかく深い、安堵を教える響きだ。
それにホッと息を吐き、心地良い指先を受け入れながら、少年はふと、思い立った事を教えるように青年の手のひらを突ついた。
「あの、ね、ラビ。それでも一つ、いいですか?」
「ん?」
どうしたのだろうと首を傾げ、青年が指先を引き戻せば、少年はその瞳を三日月のように柔らかく細め、微笑んだ。
………本当に綺麗に笑うようになった、と。初めて会った頃の固さが嘘のように開花した花に魅入られてしまう。
「同じがいい、に、プラスひとつ」
にっこりと、少年が笑んで人差し指を一つ、立てて告げる。
「?」
「いつもと同じに、もうひとつずつ、笑顔が増えるのが、いいです」
ゆったりと綴る歌声は、きっと彼の永遠の願いだ。そう思ってしまう程、その声はあまりに静謐で大気に溶ける程自然だ。
無理もなく、急拵えでもない。…………ずっと、昔から願い続け求め続け祈り続けた、そんな音色。
あまりにも鮮やかに咲くその声を、青年は眩そうに眇めた眼差しで見つめた。
「僕は、あなたが笑うの、好きです。だからね、明日が今日と同じでも、悲しまないで下さいね」
柔らかく咲く花は、困ったように首を傾げ、もしもの可能性を見出しながら、それでも祈りを捧げた。
怪我をして悲しませた。不安を与えた。………それを忘れたわけではない少年は、どうしたってこの道中が終わるまでは繰り返されるだろう事を、これ以上痛まないでと願った。
解っているから努力はしたい、けれど。
「…………怪我は、同じじゃないのがいいさねぇ」
せめてそれくらいの我が侭は言わせて欲しいと、天井を仰ぎ見ながら青年は溜め息のように呟いた。
それは重々承知と、少年は神妙に頷いて唇を引き締めた。
「努力します」
「ん。解ったさ。なら、アレンも笑顔、な?」
これ以上願うのは、横暴な祈りに変わってしまう。仕方なく頷いた青年は、先程の少年と同じようにピッと人差し指を立て、少年を指差した。
きょとんと瞬く銀灰を見つめ、楽しげに翡翠が煌めく。
「俺もアレンの笑顔、好きさ?」
「………なんだかラビが言うと、胡散臭いですねぇ」
あまりにさらりと言われた言葉に、少年は胡乱そうな眼差しでぼそりと呟いた。慣れた仕草だと思うのは失礼かもしれないが、つい青年の女性への振る舞いを思い出してしまう。
「ひどいさ?!こんなに真心籠めて言っているさっ」
あまりといえばあんまりな解答に、青年は子供のように声をあげた、それがわざとである事くらいは解る少年は、戯けて慰めてくれた青年に感謝するように笑顔を咲かせる。
「ははっ、冗談ですよ。女の子ならイチコロですよ、きっと」
明るい声で答える眼差しは、柔らかく透き通っている。
その言葉に僅かの嫉妬も躊躇いもないのだから、いっそ思い切り溜め息を吐きたいくらいだ。
「…………本命は落ちませんけどね」
タオルで口元を覆ってこっそりと呟く声は、誰にも聞こえない。解って呟いたのは、それくらいしなくては堪えようもなくなりそうだからだ。
「はい?」
微かなくぐもりに音を感じたのだろう、少年が首を傾げた。が、それにはいつもの笑みを贈り、親指でシャワールームを指差した。
「いんや。ほら、早くシャワー浴びてくるさ」
折角話がまとまったのに、このまま話し込んでは意味がない。そう教える青年に、パチリと瞬いた銀灰が綻ぶように柔和に細まった。
「はい。あの、ラビ」
「ん?」
「…………ありがとうございました」
嬉しそうに、微笑んで。ぺこりと下げられる真っ白な髪。
いとけないその微笑みが、純粋な好意しか孕んでいないのは、少しだけ寂しいけれど。青年は笑んで頷き、手を振った。
急ぐ事も、ないだろう。時間はないかも知れないけれど、焦って彼を傷つけるくらいなら、破綻した方がマシだ。
傷つく事に慣れている彼だから、痛みなど知らないままに抱き締められればいい。
思い、溜め息を吐く。
………どれ程取り繕っても、結局は欲を孕む感情だ。
高潔な彼がそれを受け止められるかどうか、解らない。
それでも、今はまだ、傍に。
彼の祈りのもと、笑顔を咲かせる為に……………
結局最後までラビ一方通行で終わりました。
いえ、くっつけようかな〜とも思ったのですが、どうもそれだとしっくりこなかったので。
そしてそれならくっつけるまで書けば、というのも。
……………長くなるだろうなぁ、とか。うん、思いまして。
でも珍しく今回は過去ラビ一切出ないでの長編(?)でしたね。三部作程度だと長編と思わない自分がいますが。
今のところアレンにとってラビは、兄弟がいればこんなお兄ちゃんなんだろうなぁという、安心して傍にいられる人、です。
ブックマンに対するのに近いかもしれない好意。
なのでここから傾けさせていくにはまあ、色々考えなきゃいけないんだろうな(遠い目)とか。
………書きたいものがあとから押し寄せている現状で煮詰める余裕がない。書けるだけ書ききってから悩もうと思います。そしてその頃には忘れていると思います(オイ)
11.3.28