花咲くように、微笑んでいた
その笑みはどんな状況でも枯れなかった

それを愛でる事が、好きだった

この世の虚無も穢れも昇華するように
柔らかく微笑みさえずる声が好きだった

だからどうか、笑って

傷つく事などないままに、喜びの中、花開いて………




2:あなたの笑顔



 襲撃は、唐突と言えばよかっただろうか。考えながら、青年は地面を蹴った。
 イノセンスがないというのは不便だ。普段であれば伸でいくらでも自在に距離を得られるというのに、今は自分の足が駆けた分だけしか進めない。
 それは当然、普段の感覚とはかなり違うもので、状況分析をしながらもっとも被害程度の少ない場所へと己自身を誘導するだけで、精一杯だ。
 そう遠くない位置で、銃撃の音が響く。……大丈夫、自分の方に流れ弾がくる事はない。音は、逆方向へと向かっていた。
 きっとそう誘導してくれたのだ。イノセンスがないというそれだけで、エクソシストとしての経歴があろうと、AKUMAを前にしたら無力だ。
 遊びを楽しむようなレベルまで到達していれば、まだ人体戦術で多少の時間稼ぎは出来るが、それもAKUMAの気が変われば一瞬で終わる危険な賭けである事は重々承知だ。以前本部の襲撃の際にイノセンスもなく立ち向かった事が師にバレた時は、こってりと叱られた。
 無意味な事を想起しながら、青年は崩れ落ちた塀の一部から背後を窺う。戦況は、どうなったか。邪魔な自分さえいなければ、そう遅れをとるような数ではない。思った瞬間、爆風が吹き荒んだ。
 …………その最後の爆音と共に、銃撃音が消えた。
 耳を澄ませば痛い程の静寂の中、からころと瓦礫が転がる音だけが拾えた。人の声も、AKUMAの起動音もない。
 ならば戦いは終わった筈だ。感覚を鋭くさせて、先程まで銃撃戦が繰り広げられていた方にゆっくりと青年は近づいた。
 広い、屋敷だった。けれどそれは人の住んでいない脆さを持ち合わせた廃墟だった。一歩進むごとに破壊された塀や壁の一部が悲鳴を上げそうな惨状だ。が、その中を足音さえ響かす事なく青年は気配を消して進んだ。
 まだ、誰の姿も確認していない。油断するわけにはいかないのが現状だ。
 更に進み、まだ家の一部として見て取れる大きさの壁を背に、その先を窺い見た。
 一瞬、目が眩む程鮮やかな青が視界を覆った。まだ昼前の、明るい空だ。その青へと立ち上っていく、僅かに濁った白煙。そこから眼差しを落としてみれば、辺り一面、瓦礫に覆われた光景だ。
 相変わらず、戦闘となるとどうしてもその地域の破壊も併せ持ってしまう。自分達の努力のなさではなく、AKUMAが機械であるが故に、破壊後の爆発をどうする事も出来ないからだ。
 きっと、これが市街地であったら、悲しむ事だろう。先程までこの青空の下で舞っていた美しい白を思い、青年は息を落とした。
 そうして、己の記録の目に映っていた残像ではない、そこに立つ真っ白な少年を見遣り、青年は歩を進めた。駆けていきたい、けれど。なんとかそれを自制し、ゆっくりと歩み寄った。
 調度少年は、周囲をスキャンしている最中だった。戦闘で昂った神経を刺激するのもいけない。そっと、吐き出す呼気も微かに、歩み寄った。
 あと数mという距離に来ると、不意に少年は微かに俯き左目を手で覆う。それを見て青年は目を丸めたあと、微かに歪めて苦笑した。
 ………自分の気配に気付いたのだ。どうも彼は、初めに自分が失敗したせいか、その左目を出来る限り隠そうとする節がある。
 今はもうあんな言葉、言いはしない、なんて。言った所で無意味だ。彼自身、それくらい解ってくれている。それでも疼く傷がある事もまた、知っている。
 ゆったりと息を落とし、少年の仕草に気付かなかった振りをして、隣に立った。彼の、左側を選んで。そうして微かに緊張を孕んだ隣の気配を宥めるように、空を見上げた。
 真っ青な、綺麗な空だ。この地上の瓦礫に比べ、空はあまりに広く鮮やか過ぎて、目眩さえ感じる。そっと落とした目蓋にも感じる、暖かな陽射し。
 そのまま落とした頤を、周囲に向ける。閉ざした眼差しの分、鋭敏に匂いを嗅ぎ分けようとするのか、鼻先を異臭が掠めた。…………白煙と共に漂う、AKUMAのオイルの匂い。
 小さく息を落として苦笑を深め、青年はそっと隣を窺った。まだ彼はこちらを見はしなかった。
 それを確認してからそっと視線を逸らし、今度は辺りに小柄な老人はいないか、探した。おそらく少年はその行き先を知っているだろうが、まだ言葉を落としてはくれない。
 思い、見事に半壊した屋敷を見上げた。ここを通りかかったのは、偶然に近い。別のルートもあり、行くその直前まで、決して定める事はしない。そうする事で無用な戦闘……主に、人間相手の戦闘を避ける為だ。
 廃墟に人影など怪しいと思った。初めは人海戦術で全てのルートに暗殺者を配置したのかと思っていたが、気配が違った。………案の定AKUMAが現れたのは、ほんの小一時間程前の話だ。
 もう一度すっかり静かになった周囲を見回し、戦う武器を持ち得なかった青年は、最後に隣にたたずむ少年を見つめた。そろそろ、こちらを見てくれるだろうかと、願いながら。
 ようやく落ち着いたのか、少年は左目を常の美しい銀灰に戻し、そっと手を下ろして振り返り、微笑んだ。
 それに青年は痛ましそうに隻眼を細める。
 やっと、彼がこちらを見ないでいた理由が解った。……見遣った先の少年の頬は、明らかに赤く腫れていたからだ。
 その程度で済んだのならば安いものだと、彼は言うかもしれない。けれど、もしも自分がイノセンスを持っていれば、負わずに済んだかも知れない傷だ。
 かもも、もしもも、無駄な真似だと解っている。既に過去になった事実は、どれ程考え思い悩もうと、覆る筈がない。それでもこんな風に埒も明かぬ考えを過らせてしまうのは、彼と出会い関わるようになってからだ。
 「………ジジイは?」
 敢えて傷には触れず、そっと問い掛ける。周囲に気配はなく、あの老人の姿は見当たらなかった。
 囁く青年の声が力無い事に気付き、困ったように少年は微笑みながら青年が来たのとは違う方向を指差した。
 そちらに何があったかと首を傾げて見遣る青年の耳に、柔らかく少年の声が響いた。
 「通信に行ってくれましたよ」
 あまり機材の取り扱いに慣れていない少年よりも、老人の方がずっと適任だ。
 今回はファインダーの同行はなかった。老人と青年の師弟と、少年の三人の一行だ。その内青年はイノセンスを携えていないのだから一人にするわけにはいかず、さりとて少年では通信に手間取ってしまう。
 当然のように自ら動いてくれた老人に言われたのは、周囲のAKUMAのスキャンと、まだこちらに戻ってこない馬鹿な後継者の護衛だった。
 ………それでも、それが彼なりの休息の申し出である事くらい、解っている。
 既に初めの襲撃の時点で、左目は作動していた。AKUMAの個体数もその時点で識別している。何らかの…それこそ方舟という厄介な代物による後続の投入がない限り、自分達が相手取った数体でそれはもう終わっている事は知れていた。
 あとやる事と言えば、辺りの被害と経過及び現状の報告。
 ここの損害の詳細を知る為に、いずれはファインダーが訪れるだろう。が、今自分達に出来る事は、あまりに限られている。瓦礫の撤去も再建も、それを職とする人に任せる以外に術はない。
 エクソシストは、破壊者だ。創造者にはなり得ない。小さく溜め息を落として瓦礫に変わった屋敷を少年は見遣った。
 ………唯一の救いは、市街地から離れた廃墟であった事、だろうか。思い、見上げた空の青さに、少年は唇を歪めた。
 この先の街に用があった師弟にはとんだ足止めだ。少年に倣うように視線だけで空を見上げながら、青年は溜め息を吐く。瓦礫の中の砂塵のせいで、自分も少年も埃塗れだ。この様子ではきっと師も同じ事だろう。街についたらまずは宿を見つけてシャワーを浴びなくてはいけない。
 そんな事を思いながらぼんやりした青年が何気なく視界に収めた少年は………微かに、安堵したように笑んで見えた気が、した。
 それに一瞬驚き、パチリと目蓋でシャッターを切った。が、すぐに胸中でそれは苦笑に変わる。
 微笑んでいる癖に、その眼差しは泣き出しそうだ。痛みの中の、安らかさ。ならばそれはきっと。
 ………きっと、自身が救うべき魂を救えた、笑みだ。
 遣る瀬無いその微笑みは、出来る事なら灯らぬ方が青年にとっては嬉しいものだ。けれどきっと、少年自身はそれを望んでいる。
 その魂を救済する為に存在するのだと、微笑み告げた少年は、どこか安らかですらあったのを思い出した。
 その左目に映された光景は地獄に程近いだろうに、彼は厭いもせず、愛しんでいる。考えた瞬間軋んだ胃を、詰めた呼気で青年はやり過ごした。
 「…………アレンは休めって?」
 噛み締めそうな唇はただのエゴだと解っている。だからいつものように、からかうような声で青年は返した。
 ………それを楽しげに細めた銀灰が、悪戯っ子のように笑んで見つめた。
 「いいえ、あなたの護衛、ですよ?」
 クスリと笑い、今は通信に向かってくれている老人のように、茶目っ気たっぷりに少年が片目を瞑ってみせた。真っ白な睫毛が上下する様を記録しながら、思わず溜め息が漏れてしまう。
 自分が凹んだ事を、気付いたのか。あっさりと看破されて、それを気遣うように戯けてみせるような真似、させるなんて。
 「………情けない話さー」
 思わず洩れた本音に、少年は笑みを深めるばかりで答えなかった。
 きっと、どんな言葉も慰めにならない事を知っているのだ。より以上に落ち込む事はあっても、救われようがない。
 可能ならば自分が守りたい、その人に守られなくてはいけない。その状況が改善されない限り、少年の慰めは諸刃となって青年を突き刺すだろう。
 少年はたとえ青年を守り戦う現状であっても、いつもと変わらず笑う。むしろ普段以上に穏やかなのかもしれない。
 ………けれど、戦えない人間を傍に置くエクソシストの不利を、青年とて熟知している。
 いつもならば負わなくてもいい傷も、負っただろう。その心とて、穏やかではなかった筈だ。団服を着ているからこそ一般人程懸念しなくていいかもしれないが、それとて楽観出来る程のものではない。
 人は、AKUMAに対して本当に弱く、今まで生き延びられている事が不可解な程なのだから。
 だから、自分達エクソシストが矢面に立って戦うのだ。傷一つでも致命傷となる、その危険の中で背中を守り合い突き進む。………そうして、守り切れず塵芥と化した命の重みを、背負っていくのだ。
 けれど今の青年は、守られる側の人間だ。共に戦い駆ける術がない、非戦闘要員だ。その痛みの欠片すら、請け負えず、分かち合う事が出来ない。
 その絶対的事実に、青年は腹の奥底で深く溜め息を吐き出した。つい先日までは当たり前だった事が、そうではなくなってしまう。
 まるでたった今少年が立たされる現実のように、青年は修理に出したイノセンスが手に戻らない期間の長さが忌々しかった。
 ………それでも現実は現実だ。受け入れるべき事柄と解っている。
 イノセンスがなくとも本職は減らない。当然最優先すべきは本職の師弟は、その為に教団から出掛けなくてはいけない時間も多い。
 けれど最近は進化したAKUMAが急増している。専ら出会うAKUMAはレベル2以上だ。そしてそれらのAKUMAはエクソシストを識別出来るし、自我も芽生え、知能もアップする。それが故に、狙われる危険は高かった。
 だからこそ、イノセンスを使用出来ない間、教団にいられない時の護衛は規約通りだ。
 初めに教団に受け入れられた時に交わした盟約だ。その時は冷めた意識で当たり前の事を仰々しくやりとりをする大人達を呆れて見ていたけれど。
 ……………それなのに、今は当たり前と思っていたその事が、こんなにも歯痒い。
 イノセンスさえあれば、自分の身くらい、自分で守れる筈なのに。少年が怪我をしないようにサポートをするくらい、出来るのに。
 その術すら断たれれば、人相手の防御術しか知り得ぬ自分には、逃げて隠れる以上の対処も出来ないのだ。
 解っていても割りきれない。青年の抱えるそれを理解している少年は、微かに眉を垂らした。
 「AKUMA相手じゃ、イノセンスのないあなたには仕方がないですよ」
 困ったような顔をしてそう返す少年は、滑らかな仕草で歩いて青年に近付いた。………それはきっと、心配する必要はないと教える為の仕草だ。
 けれど、と。青年は眉を顰めるようにして眼差しを鋭くしてしまう。………大きな怪我こそしていないが、少年はあちらこちら擦り傷だらけだ。防御力が自慢の団服も、所々に傷が見える。それだけでなく、その服の下は、きっと打撲だらけだろう。
 その手足、あるいは全身に、痛みがない筈はない。が、決してそんなこと、彼は口にはしないだろう。
 少年は自分で飲み込んでしまう人間だ。頼る事を忘れた子供だ。甘えてと願っても、不思議そうに目を瞬かせ首を傾げてしまう人。
 それが彼の優しさや慈しみに繋がるものであっても、今はひどくそれが悲しくて、寂しい。
 青年はそっと、近付いた少年の白い頬に腕を伸ばした。ひどくゆっくりとした仕草は、避けようと思えば避けられただろうし、拒もうと思えば口を挟む事が出来た筈だ。
 ………それでも少年は微かに睫毛を震わせて困惑を見せはしたが、拒否は見せなかった。
 ならば許されたのだろうかと、青年は少年の赤く腫れさせた打撃の痕に指を這わせた。
 時間が経てばそれは赤黒く変化するだろう。寄生型の少年の傷は治りが早いから、あるいは知らぬ内にまた白い肌に戻るかもしれない。
 けれど、たとえそれが元に戻ろうと、負った痛みが消えたわけではないのだと、青年は少年を見つめる日々の中で知ってしまった。
 ………それは、身体に負った傷の痛みだけではないと、知ってしまったのだ。
 思い、遣る瀬無く歪みそうな眼差しを、呼気とともに押さえ込んだ。
 痛みを、少しでも感じさせないようにそっと頬を擦(さす)る青年の指先を、少年は困ったように見下ろしていた。
 「でも、アレン…怪我したさ?」
 惑うように自分の指先を追う眼差しを見つめながら、小さく青年が問い掛ける。
 見える傷は、これだけだ。それでもきっと、少年の身体にも、おそらくは心にも、のしかかるような痛みがあるだろう。
 ………これもまた、彼の中、痛みとして蓄積されていくのだろうか。
 背負う必要などないと言いたいけれど、それが出来ないからこそ、この少年はより強く鮮やかに花開いた。それは彼自身を守ると同時に、彼をいつだって危険な場所へと駆り出させる理由になってしまう。
 そんな彼を、守りたくても、自分では守れない。………自分の立場も状況も、いつだって自分の邪魔をして、嘆く事すら許してくれないのだ。
 震えかけた唇を、青年は引き結ぶ事で堪えた。見つめた先の少年は、あどけない程幼いのに、その身体全てで守る事を知っている、戦う宿命を受け入れた生き物だ。………受け入れざるを得なかった、というべきかもしれないけれど。
 そのまま思考を進めれば、埒も明かない願いに囚われそうで、そんな物思いを耐えるように歪な笑みを浮かべた。………もっとずっと上手く笑える筈なのにと、己のへたくそさ加減に嘆息しそうだ。
 そんな滑稽な泣き笑いを見つめ、少年は青年に気付かれないように小さく、息を落とす。
 時折、この青年は、そんな音を零す事を、少年は勘づいていた。いつからかは、解らない。けれど傷を負った時や、あるいは逆に、何か喜びを感じた時に。
 躊躇うような指先と、震えそうな唇。そうして、ひどく切なそうな眼差しで、何かを差し出そうとして諦めるような、仕草。
 それがどうしてか、なんて。…………きっと、考えるべきではない。告げられない事を強要させるのは望まない。彼には彼の、生きるべき道筋があり、それがどれ程過酷か、こうして同行すれば嫌になる程思い知る。
 思い、落としかけた眼差しを掬い取るように、少年の頬を辿る指先が蠢いた。
 傷を恐れるように、それでも恐々と、触れて辿り、癒したいと願うようにそっと包む。その微かな痛みにか、少年の眉が僅かに歪む。が、それもすぐに消えて笑みに彩られた。
 「戦いですから、ちょっとくらいは当たり前です」
 柔らかい笑みでそう囁く様に、青年は微かに眉を顰めてしまう。
 ………痛みなどたいした事はないと、この少年はいつも笑うのだ。今まで彼が痛みを厭い涙する姿を、青年は見た事がない。
 解っている。自身の怪我の有無など、自分達が気に掛けない事くらいは。痛みを口にする事も、戯ける以外で出来る筈がない。
 それでも、青年は解っているその事を飲み込み切れないように口の中、残った苦味に唇を引き締めた。その様に、少年は苦笑を落とす。
 怪我もなく終わる、そんな戦いは存在しないのだ。それはもう、どうしようもない事だろう。
 もしもそれを望むなら、まずは戦わない事から始めなくてはならない。が、AKUMA相手ではそんな理屈も成り立つ筈がない。
 思い、少年はそっと目蓋を落とした。
 先程見た、澄んだ青空を思い出す。どれ程この場が虚しい程破壊されようと、空は変わらず美しく、そこを昇る魂がほんの微かでもその輝きに安らかであればいいと、思った。
 それだけが、戦う意味だった。それ以上を求めたのは、抱えてしまった仲間という右腕を自覚し、喜びとともにその未来を祝したからだ。
 だから、怪我も戦いも、厭わない。救う為、守る為、それは避けようもなく、そして自分にはそれを敢行する為に備えられた武器がある。……あの哀しいAKUMAを救済する唯一の方法が破壊だけならば、戦う以外の手段、選びようもないのだ。
 そっと、少年は睫毛を震わし瞳を開ける。澄んだ銀灰に、惑うように揺れる翡翠が映った。
 それを見つめ、銀灰は困ったように笑んで揺れる。………構わない、のだ。彼が飲み下し切れないものも、出来る事なら避けたい現状も。
 こうして守るべきものを守れ、自分も存在する。それ以上、望むものもないし、望みようもない。
 思い、あまりに苦しげな青年の方が、余程傷を負っているようで苦笑が漏れた。
 「それよりも、ラビみたいに不安がったり悲しんだりした方が、心配ですね?」
 笑んだ唇の動きに、青年の指先がぴくりと反応した。それに気付き、ふと少年は目を瞬かせた。………見つめているから解る筈の動きを、けれど彼は認識しきれていないのだろうか。
 普段ならば気付かせる筈のない微かな瞳の揺れも、そのせいか。そう考えてみると、彼は自分が彼らに同行する事を教えられてから、どこかそぞろ歩くように意識を飛ばしている気がした。
 理由は、と。………考えて、あまりに明白な現状に、少年は頤を落とした。前髪で表情が隠される事を祈ったけれど、きっと無駄だろう。解っているから、少年は仕方なさそうな窘めの笑みを浮かべてみせた。
 そうして、頬の傷を治す事を願うようなその指先を、静かに手のひらで包み、そっと引き離して包む。
 ……あまりに彼は優しすぎて、時にその優しさ故に、他人の傷すら痛みと背負ってしまいそうだった。自分の傷など、背負う必要はないのだ。この身に刻まれる全ては、決して苦痛だけで成り立ちはしない。
 思いが通うからこそ、痛むのだ。その思いを愛しんでいるから、苦しいのだ。
 それはもう、一方的な傷でなどない、共有の痛みだ。青年が悲しみ気遣うような類いではない。それなのに、彼はまるでどんな痛みからさえも遠ざけたいというように、優しいのだ。
 もっとも、そんな事を言えば、それはお前の事だろうと窘められてしまう事はもう、過去に経験済みだから言いはしないけれど。
 ………手のひらに包んだ青年の指先は、僅かに震えていた。それを胸に抱くように引き寄せれば、微かに緊張を教える。それに、チクリと胸が痛んだ。
 守られた人の抱える心痛を、知らないわけではない。それでも、彼には笑んでほしいと願う事は、きっと自分の身勝手な希望だろう。
 彼が笑う顔が、好きだと思う。戯けて軽い言動でみんなの笑顔を引き出す事が上手な、明るい陽射しのよく似合う人。
 その人が、こんな小難しい顔を晒して痛みに耐えるのは、自分のせいかと思えば………それは自惚れが過ぎるだろうか。
 「なんさ、アレンが怪我したらそう思うのだって、当たり前さ」
 だから、返されるむくれたその声に、少年は笑った。それは少しだけ泣き出しそうな、笑みだった。
 彼がどんな思いで自分の事まで気に掛けてくれるか、解らない。口さがない人達は自分の身に掛かる多くの情報を必要とするからだというけれど、それだけが理由ならば、彼も老人も、こんなにも優しくいたわりを教えてくれる筈がない。
 彼が彼として、自分を守ろうと心砕いてくれている事を、知っている。
 「ありがとうございます。でもね、あなたはブックマン後継者、でしょう?」
 解っていて、けれど笑みと共に少年はそう告げた。その言葉に彼が微かに息を飲んだ事も、揺れた指先で解った。
 それは間違えようもなく、永遠に彼の前に横たわりなくなる事のない、事実だ。……厳然とした覆しようのない事実だろう。
 けれどきっと今の彼にとっては、痛い言葉だ。思い、少年は青年を見つめた。解らずに告げたのではないと、知って欲しくて。
 「………………」
 それでも青年は、今それを突き付けられたくはないのだろう。その証拠のように、青年は反論こそしないが、その唇を引き結んで眼差しが微かに厳しくなった。
 それは決して少年を責めるものではない。敢えて言うならば、自身を責めている、と言うべきだろうか。
 ………だからあなたは優しいのだ、と、言ったなら彼はより一層顔を歪めるだろうか。
 思い、少年は手のひらの中の指先を優しく撫でながら、宥めるようにいたわるように、微笑んだ。
 「だから、あなたはいつも、希望を見つけて下さい」
 祈るようにそっと、落とされた少年の睫毛。組まれた手のひらの中、微かに青年の指先が蠢いた。
 息を、飲む。………まるで捧げるように響くのは、静謐の音。
 たゆたうぬくもりのようにそっと、その声は青年を包む。否、ぬくもりが、だろうか。自分が願うのは、痛みでも責め苦でもないのだないのだと、教えるようにその声はささやかな音色の中、青年を抱き締めた。
 干上がりかけた喉を、呼気とともに飲み下した唾液で潤わせた。あまり意味のない行為に笑うような余裕もない。
 真っ白な少年が、微笑むままに囁くその唇さえ、あまりに美しく澄んでいて、目が眩みそうだ。
 「あなたの目に映るものが、この先を生きる人達の希望になるように」
 そうして綴る音の至純さに、息も出来ない。微かな空気の振動ですら、この目の前の輝く存在を掻き消してしまいそうで、怖いくらいだ。
 そんな恐れに、彼が包む指先が震えた気がした。………それすら知覚が鈍って、自分ではよく解らなかった。
 そっと抱き締めた指先を、少年は額にいただくように引き寄せる。怯えたように突っ張りかけた指先は、それでも抵抗などせずに寄り添ってくれる。それに、小さく少年は微笑んだ。
 …………痛ましい現実を数多く見なくてはいけない人だ。それを忘れる事が許されない人だ。
 そうして、それらを抱え未来を歩むにも関わらず、優しさも慈しみも忘れなかった、人だ。
 だから、出来る事なら、彼の綴る記録は、鮮やかに咲き誇るものに埋め尽くされればいい。どれ程彼のいたわりに自分が支えられ守られたかなんて、彼は知る筈もないのだけれど。
 彼の語る多くの言葉も物語も、いつだって優しく包むものを選んでくれた。傷つける情報を避け、笑みを思い出させるささやかな事に心砕き差し出してくれた。
 たったそれだけの事だと、彼は言うだろう。けれど、たったそれだけの事を、出来る人はとても少ないのだ。だからこそ、彼が綴る歴史に意味があり価値があると、思う。
 そう祈る、少年の声の至純。………それが苦しくて、青年は喘ぎそうな喉に必死に酸素を注いだ。
 あまりに彼は、世の汚濁を顧みない。知らないわけではない癖に、その中のひと掴みの愛おしさに意味を見出し、抱き締めてしまう。
 ………だから本当は、悲しみに沈む世界ではなく、笑みに彩られ明るい声を見出だせる、そんな裏歴史はないと、一蹴する事は簡単なのだ。
 簡単なのに、それを選べない自分に驚く事も今更だろう。少年の見つめる世界の鮮やかさに、息を飲んだその時から、もう、手遅れだ。
 彼の見つめる世界をこそ、綴りたいと願ってしまった。その美しさを語り継ぎ人々が知りゆけばきっと、と。愚かな願いを抱えてしまった。
 昔の自分ならば一笑に伏す、そんな他愛無い夢見事だ。とっくに失望して諦めて生き物達への賛美など、無意味と嘲るだろう。
 …………それでも今、呆けたように少年を見つめた顔は、きっと情けないものに違いない。
 少年の祈りを与えられて、それに心動かぬ筈がない。いっそそれに殉じたい、なんて。願われてはいないと知っているけれど。
 彼は自身の言葉に捕われる事など、願ってはいない。ただ己自身で歩む道を突き進む、その事を願っている。そしてそれはきっと、道を過たず進むという、信頼だ。
 微かに視界が歪んで、真っ白な少年の面影が陽光に溶けるようだった。それにヘタクソな笑みで笑ってみれば、少年は困ったような笑みを落とし、寂しい銀灰を瞬かせて慈しみの音を綴った。
 「こういう時はね、楽しい事を考えるんだって、コムイさんが教えてくれましたよ」
 にっこりと笑う優しい微笑み。戦場の中、咲く事を忘れなかった慈しみ。それを見たくて瞬いた睫毛が塗れている事など、もうとっくに知っている。零れ落ちなかっただけ、きっとマシだ。
 思い、青年は不器用な笑みのまま、そっと指先を伸ばす。自分の指先を包む少年の手のひらを、真似るようにそっと、包んだ。
 ………その声が響くなら、いくらでも喜びを知らしめられる、のに。
 きっと彼はそんなこと、考える事もないだろう。遣る瀬無く歪みそうな眼差しを飲み込んで、青年は彼の真似をしてそっと手のひらを額にくっつけた。
 誰かの為にしか祈れない、寂しい少年。………彼の為に紡がれる祈りの声が、届けばいいのに。
 こうして捧げる祈り思いも、彼は優しく笑んで見つめて感謝を捧げるだろうけれど。それでもきっとそれは彼の中、刻まれてはいない。
 彼は痛む誰かの為に微笑むばかりで、自身の救済など、願わないのだ。願い方を、知らないのだ。
 それを、思い知る。優しいこの少年は、そうであるが故に、知らない事が多過ぎる。そして知らないまま、あまりに多くの事柄をその背に背負い、身に宿してしまった。
 その度に彼はどんどんと純化されていくように、無償の祈りを携えた。
 ………………それは、あるいは尊いこと、なのかもしれない。
 けれどそう断ぜるのは、ずっとあとの世の、彼を知らない世代になってからだ。思い、青年は少年を見つめた。間近過ぎる視野に、微かに歪んだ映像。それを微調整して、その白い肌も睫毛の揺れも、赤く彩られた左目の呪いも、刻み込む。
 欠片ほども逃さぬように、自分の手を包む温もりの持ち主を記録する。
 まるでそれを知っているかのように、少年は照れ隠しをするように眉を垂らし、ほんの少し、手のひらで額を押してきた。互いの手のひら越しの合わさる額が、どこか気恥ずかしいのかもしれない。
 それでも見つめる事を止めなければ、仕方なさそうに彼の肩が軽く竦められる。受け入れてくれた事が嬉しくてつい笑んだ唇を祝すように、少年の声が響いた。
 「だから一緒に、楽しい事、考えましょう?」
 囁きは、肌に沁みるように溶けた。額に触れる少年の手のひらは何の気負いもなく、穏やかだ。この廃墟の中で、彼はそれでも見失う事なく見つめ、思うものがある。
 柔らかくそう囁いて、瓦礫の中、薄汚れた黒衣で、真っ白な少年が微笑む。
 ………それはきっと、希望を教える姿だ。
 傷付き苦しみ重荷を背負いながらも、笑む事を忘れず、守る事を諦めず、その手を伸ばす。培われた痛みなど、全て笑みの中に沈めて。真っ白な未来を信じ諦めず、紡げる命だ。
 情報を全て蓄積して選り分け、試算し先を見据え、無駄と諦め、諦観と虚無に染まった自分とはまるで違う世界を見つめている。
 初めてそれを知った時の衝撃と、頭を垂れたくなるような、敬虔の祈りを思い出す。それは幾度その言葉を、見据える先を示されても、感嘆せずにはいられない、鮮やかさだ。
 思い、青年は苦笑した。
 「……なんか、俺、一生アレンに勝てなさそうさぁ」
 本来ならば自分こそが彼にそれを示し抱き締め、安堵を教えるべきだろう。その為の知識もあるし、スタイルも持ち合わせている。それなのに、いつだって最後は少年に包まれるようにして支えられてしまうのだ。
 戦う術を持たない自分は、戦いの最中にいる彼に比べ、あまりに無傷で居たたまれない。
 それでも。……身体に負うその傷の痛みを、同じ程に心に負うのだと、告げる傲慢だけは飲み込むんだ。そんな事を競う意味などない。互いに生きて、言葉を交わし未来を思う事が出来るのならば、その為にこそ、告げるべき言葉があり祈りがある。
 けれど、それでも………出来る事ならば、ただ彼の鮮やかさが、この瓦礫の下に埋もれない事を祈る、そんな愚かさくらいは許されたいけれど。
 滑稽に唇を笑みに染め、困ったような顔で首を傾げる青年を見上げ、少年は苦笑した。
 そうして互いを繋げていた手のひらを解き、彼を自由にすると、少年は子供のような仕草で笑んだ。
 「ならしっかりして下さいね、お兄ちゃん♪」
 クスリと笑い、少年は楽しげに歌う声を綴り、情けない顔をする青年の肩を叩いた。それにいっそう眉を垂らして唇を尖らせる青年に、少年は破顔する。………そうする事を望まれていると、解っている。
 彼が気に掛けている事くらい、解るのだ。自分が同じように安穏と守られなくてはいけなかった時、焦りと不安で押し潰されそうだった事を思い出す。
 この腕に舞い戻った武器は、戦いに自分を誘うけれど。それは決して不幸ではないのだと、彼に伝わればいい。
 相変わらず情けなく、それでもせめて笑顔を示したいと健気に笑う青年の顔は、優しくて愛しかった。
 それを覗き込み、少年は鮮やかに微笑む。

 たったそれだけで、あなたが嬉しそうに笑う。

 守る事でも庇う事でもなく。
 ただ共に笑む、それだけで。

 だからあなたはいつだって希望の中、笑んでいて。

 その笑みを涙に変えないために。
 共に笑む、その時間のために。

 

 いつだって、自分はこれからの時間に希望を見出だし、駆け抜けられるから。

 

 

 どうか鮮やかに、微笑みを咲かせて。

 








   


 以前ブログに載せていたもののリメイクです。震災後に書いた初の小説だったかしら。それより前にアップしたカフェ物語は、既に大部分書き終えていたからね。
 そうして改めて手を加え直しましたら。

 …………約3倍程の長さになりました、よ☆

 どれだけ頭が働かなかったかと、客観的に自分で眺めました。
 何故この文章でそのまま次に回した。むしろ接続詞何回同じ文字使う気だ!心象表現足りてないし、状況説明ごっそり抜けてる。どころか、キャラの動きすら書いてない…………!
 びっくりしましたよ、読み返して(遠い目)
 そしてそれの前後も書きながら、いっそシリーズにしてしまえばよかった……と思いつつ。
 今回は三部作で終わらせてみました。それでも長いけどね。

11.4.1