コポコポと茶の注がれる音がした。柔らかな湯気とともにカップの中に茶が満たされていく。同時に立ち上る香りに小さく笑みを落とし、少年は茶を出し切ったポットを横に置くと、カップを両手に持ってベッドに近付いた。
 室内は静かだ。ベッドの上とその足下に山のように積まれた本と、それにいずれ埋もれるのではないかと危惧したくなる程それらに没頭している老人だけがいる。
 青年二人は午後からの情報収集と、成果がないようならば次の町に向かう為に汽車の手配に出かけている。少女はそれに伴い不足する日用品の買い出しに言ってしまった。荷物持ちくらいはと申し出たが、どうも女性特有の買い物もしたいようで、残念がりながらも断られてしまった。
 ならば青年達についていこうかと、普段ならば老人に掛け合う少年は、けれど今日は何も文句も言わずに部屋に居残る事に従った。
 元々、通信の中継役という、たいした役目もない名称を付けられた居残り役は、要は休息をとれという仲間全員からの無言の気遣いだ。
 そしてそれに指名されたのは、もとより老体であり本職の記録がある老人と、ここ数日他のエクソシストの数倍は戦っている少年だったのは当然といえば当然だ。
 ベッドに近付く気配に、老人が視線だけを動かした。確認するまでもなく、少年の姿が映る。差し出されたのはカップで、そこに注がれた香り高い茶に、随分水分補給を忘れていた事に老人は気付いた。
 気遣いに礼を言い、受け取ったカップを持つ少年の指先が、微かに震えていた。………左の、それはイノセンスの指先だ。
 それを記録し、老人は少年を見上げた。上等とはいえない宿の照明も、当然ながらそれほど明るくはない。見遣った少年の白い肌が、青ざめているかどうかはその暗さから判別が難しかった。
 思い、老人は先程弟子達を見送った時の少年を思い出した。
 いつも通りに明るく笑いながら新しい仲間を引き連れ宿を出た青年達と、買い物をしたいからと別行動をしている少女。自分と少年は休息がてらの留守番役だ。それはおそらく正しかっただろうと、少年の無自覚の指先の震えを脳裏に浮かばせて老人は頷く。
 それでも通常であれば女性が優先的に休むべきだと頑固に主張する少年だが、今回はあまりに大人しく自分に従った。確かに妙だとは思ったが、これが原因だろうか。
 見上げた少年は首を傾げ、どこか困ったように笑っている。こちらの眼差しに戸惑うのではなく、見透かされたかというような、そんな苦笑だ。
 老人はそれに嘆息しかけ、手にしたカップを口に付ける事でそれを飲み込んだ。
 …………どうやら、その左腕の事ではなく、こちらに関わりのある事で、彼はここに居残る事を選んだようだ。となれば、それは確実に自分の弟子に由来する事だろう。
 ここ数日、どうも様子がおかしいとは思っていた。それは弟子だけでなく、この少年もだ。それがいつからかと遡れば、先日二人で情報収集に出かけた時からで、一つ前の町での話だ。
 日常の中では二人とも違和感などなく過ごしているが、ふとした瞬間に、何かちぐはぐに噛み合ないような眼差しを交わしている事は、気付いていた。
 初めは喧嘩かと思い、すぐに違うと否定出来た。………少年はまだしも、弟子の方の眼差しが、あまりにもあからさま過ぎたからだ。
 茶を啜り、老人は息を吐き出すとそれをサイドテーブルに乗せ、視線で少年に座る事を促した。
 何かを告げたくても、この少年はそれがこちらにとって不利益になり得ると判断すると、途端に言葉を忘れてしまう。誘導し話す場を設け、こちらが気付いている事を示さなければ、なかなかその堅い口を割らせる事は困難だった。
 それでも、出来る事なら時間が許す限りは、その唇からきちんと言葉を吐き出させたいと思う。それは甘やかす事とはまた別の、今後彼を記録する上で欠かせないと判断する利己的な意思で、だ。
 …………そう告げたところで、感謝するように会釈をして隣に腰掛け、ほころぶように微笑む少年は、優しさなのだと疑う余地も知らずにさえずるのだろうけれど。
 それに嘆息しかけながら、手の中の本から顔を上げて老人は少年を見つめる。真っ正面からの視線に、一瞬少年は言葉を探し倦ねるように視線を揺らして唇を閉ざした。
 ベッドから伸びる、床に触れる少年の足先が困ったように揺れて、微かに長く吐息が落とされたのが聞こえた。
 ………暫しの、沈黙。静寂に、それでも少年は息苦しさを感じず、何も追い込もうとしない無辜とも言える老人の眼差しに、励まされるように躊躇いの唇を開いた。
 「なんというか、意外でした」
 綴った声は、思いの外平常の音として落ちた。それにホッとする。これならば飲み込まずに話す事が出来そうだった。
 そう出来るように雰囲気すら作り上げてくれる老獪な目の前の存在に、クスリと小さく笑って目を向けると、老人は片眉を上げるような仕草で疑問を示してきた。
 「なにがだ」
 解っているだろうに、と。思う事はきっと甘えだろう。そう苦笑を深め、少年はそっと落とした目蓋の裏に浮かぶ赤い闇よりも鮮やかな明るい赤毛を思い浮かべ、眉を垂らした。
 「ラビが、あんなあっさり認めるなんて、思わなかったんですよ」
 …………何を、とは、言えなかった。言うべきではないと思ったからだ。言わなくとも伝わるであろうし、それは形としてはいけないような、そんなあやふやで脆いものだとも思った。
 あるいは、自分が口にする事でそれが成立してしまうような、そんな恐怖感もあったのかもしれない。
 何故と問われればそれらしい事は言えそうだが、明確な理由も浮かばず、少年はただそれだけを老人に差し出した。
 それに微かに細めた眼差しを、あっさりと少年から手の中の本へと移し、老人は素っ気ない声で頷いて返した。
 「今更な話だな」
 「そうかもしれませんが、当人はようやく、です」
 そんな事に惑う必要はないと言いたげな老人の仕草に、少年は垂らした眉のまま微笑んで、そっとささやかな情報を付け足した。
 あの時の事を事細かに告げる必要も意味もないだろう。が、見過ごしなかった事に出来る話でもない。
 だからいずれは折りをみて、告げなくてはと思っていた。それは多分、青年に関わるという以上に、彼らにとっての自分という存在の意義を知っているからこその、報告義務だろうか。
 ………思い、胸中で少年は首を振った。
 それは、ただの言い訳だろう。自分はただ、知っていてほしかっただけだ。老人に、記録対象でもいいから、この事実を。
 自分の意志と、選んだものと、彼の尊さと脆さを、忘れずに刻んでほしかっただけの、ただの我が侭だ。
 それを見つめる事もないまま老人は、本に目を戻したまま、嘆息と共に呟きを与えた。
 「まったく、情けない」
 軽い老人の溜め息に嘆きはなかった。それにホッとしながらも複雑そうに少年は唇を歪めるように笑みを作った。
 きっと、老人が何かを思っても、自分には解らないだろう。あまりに老人の眼差しは深くて、探る事も出来ない深淵だ。駆け引きなど、到底自分が適う筈もない。
 「ははっ、でも、うん、困りましたね?」
 首を傾げ、戯ける青年を真似た少年の声に、不意に老人は本に落とした眼差しを僅かに少年に与えた。
 …………その眼差しの先に映る少年の唇は、ほんの一瞬、躊躇いに戦慄いて見えた。
 「僕は、あなた達にとって、鬼門、でしょう?」
 苦笑の形に唇を固め、少年はさも当たり前の話をするかのように呟いた。
 ………その顔は、覗かなかった。見なくとも解る。内なるざわめき全てを飲み込もうと笑う、滑稽なピエロの笑顔だ。
 生まれながらの寄生型と言うだけでも稀少だというのに、この身にはAKUMAの魂を見る呪いが掛かっている。その上、時の破壊者などという仰々しい予言付きだ。
 決して、生半な覚悟で関わっていい存在ではない。ましてや、それを手に入れたいと願う事自体、禁忌だろう。
 思い、少年は憂いを乗せた銀灰を揺らし、小さく唇を蠢かすように囁いた。
 「だから僕はきっと、ラビは知らないふりを貫くかと思いました」
 軽い吐息は、困惑と戸惑いに染まって落ちた。あまりにも、それは自分にとっては想定外の話だった。
 …………痛い言葉、認め難い事実、それらを突きつけられてなお、得る事を選ぶなど、少なくとも少年は考えなかったのだ。
 そんな不思議そうな響きを乗せた声を耳に触れさせながら、老人はちらりと隈取りの奥の瞳を眇て少年を見据えた。
 「…………当人より先に気付いておいてか」
 呟く声は、玲瓏だ。一切の情など伺わせない、記録者の音に近い、鋭さを内包した嗄(しわが)れた音。
 それに一瞬息を飲んだ少年を無色のままの眼差しで見つめ、老人は胸中で嘆息を落とす。
 ………自覚したてのあの弟子が、あまり上等な態度をとるとも思っていない老人は、いっそ相手の反応など待たずに切り捨てればよかっただろうにと、肚の内で凍え切った冷たい吐息を吐き出した。
 この少年は全ての選択権を相手に与えてしまい、自身はそれを受け入れ見つめるばかりだ。
 …………それはおそらくは求める事が許されなかった幼少期の、自己防衛の為の悪癖なのだろうけれど。
 思い、瞬かせた眼差しの先、少年は詰めていたその息を緩やかな呼気に変えて苦笑すると、そっと眼差しを床に落とした。
 「だって、あなた達の邪魔はしたくないですし」
 仕方がないと困ったような顔で苦笑し、少年はふわり柔らかく微笑んだ。………思った通り、受け入れ受け流す、そんな微笑み。
 痛みも傷も刻むよりは刻まれる事を選び、それが故に相手が負い目を持たぬよう、その傷すら知らぬ振りをしている、無垢な生け贄のようだ。
 その年齢でそんなものに染まるなど、どれほどの痛みを背負い生きてきたのかと、問う事は出来ない。問えば与える事しか選ばない少年だ。痛みを口にする事も、厭いはしないだろう。
 記録は確かに正確に緻密に構築されるべきものだ。が、そこには取捨選択がある。それを正しく見据え、好奇心という痛ましい凶器で少年を抉らぬよう、老人は眼差しの中に宿る疼く知識欲を押さえ込んだ。
 「何より、僕はあなたもラビも好きですから」
 たった今老人が行っていた内面での攻防も知らず、少年はあどけなく笑んで瞳をほころばせている。それに、老人は戸惑うように小さく息を吐き出した。
 「………酔狂な話だな」
 観察対象の一人という自覚がありながら、この少年は変わる事なくそう綴るのだ。
 いっそ呆れるほどに美しく、人という生き物の悲しみを見つめ抱き締めようとしてしまう、破壊者と予言された子供。
 ………少しばかりそれは、彼の特殊な生い立ちが関与しているのだろうと思えば、見出だすべきではない慈しみだ。背負ったその慈しみ故に、少年自身が切り刻まれ細分化され朽ち果てかねない危うさを持つものだ。
 きっとそれが今回抵抗なく宿に残る事を承諾した理由だろう。思い、同時に浮かんだ原因と想定出来る弟子の顔に、盛大な溜め息を送った。
 「ははっ、解っていて傍に置くあなたも、です」
 隣に座る老人に顔を向け、彼が見せる茶目っ気を真似るように、少年は楽しげに片目でウインクを送った。
 それに異論はないらしい老人は苦笑ひとつで受け入れて、また本に眼差しを落としてしまう。
 湿っぽくされる事は、好まないのだろう。自身が背負ったものへの同情など求めていない少年だ。不用意にいたわれば、それもまた、傷を抉る事になる。
 とても厄介で難しく見据え難い、命だ。………その清らかな透明さとともに、あまりに人が手にするには生き難い命だ。
 「僕は別にね、なんでもいいと思っていたので」
 少年はさりげなく意識を逸らしてくれた老人の横顔を眺めた。決して多くは語らず、さりとて言葉を拒む事もない老人に、小さく少年は呟き続ける。
 静かな少年の声音は、広くもない室内ですら響く事なく老人の肌に触れて消えていく。それに少し、安堵した。そんな自分に少年は眉を顰めて、笑みを落とした。
 「ラビがああだった事も、さして気にはしていないんです」
 元々知っていた仕草だった。それを形にされただけだ。
 傷付かなかったとは言わないが、それとて身勝手な話だろう。………彼らが何の為に自分の傍にいるか、初めから老人は明確に示していたのだから。
 示して、傷付かぬ為に距離をとれと、無言の中で告げてくれていたのに。
 ………痛かったなら、それは彼の気遣いを無下にした自分の咎だ。
 「だろうな」
 「ええ。むしろラビの方が抉られたかも?」
 遠慮も容赦もなく与えた言葉の数々は、彼自身が望んだだろうが、同時に忌避していた事だ。
 抑制効果を狙ったつもりはないけれど、結果としてはそういう事なのだろう。与えれば彼が逃げるだろうと解っていたのだから。
 それは正しい反射だ。彼の立場を考えるならばなおの事、自分に深く関わる事は望むべきではない。
 だから、驚いた。
 あれだけ痛めたにも関わらず、まさか青年が腕を伸ばすなんて考えてはいなかった。切り捨ててくれると思ったのに。そうしてほしいと、願った筈なのに。
  ほんの微か、彼が数に入れてほしいと言った時、自分は喜んでしまった。それがきっと、彼に選んだ事を確固たるものに変えさせただろう。
 …………どうにもうまく回らない。望みなど、持つべきではないのに。
 「気に掛けるな。あれの未熟さだ」
 そんな物思いが声に滲んでいたのか、不意にいたわるように老人が呟いた。
 その様に少年は驚いたように口元を覆ったあと、仕方がないと微かに力なく微笑んで、躊躇いを飲み込むようにゆったりと唇の弧を深めた。
 「言うと思いました。相変わらず、弟子には手厳しいですね」
 「当然の事だ」
 しれっとした老人の即答に忍び笑いながら、少年は僅かな間に沈黙を織り込ませた。
 ………ぎしり、ベッドが小さく音を立て、少年の片足が乗せられる。それに身体を預けるよう抱き抱え、少年は床を見つめた。
 俯いてばかりいた自分が、随分この景色を見ないで歩いてきたと思う。それは、紛れもなく今いるこの教団のおかげで、今旅をしている仲間達のおかげだ。
 解っているからこそと、少年はそっと膝に埋めるようにした瞳を閉ざし、明るい笑顔をくれた青年を思い出す。
 …………欲しいなんて、望まないのだと、そう囁きながら。
 「まあ確かに。でも最近ちょっと、ラビ、まずいかなぁって、思いますよ?」
 頷きながら、少年はベッドの上、ゆらり揺らす足先を見下ろして呟いた。
 それは寄る辺ない子供のような、あるいは待ち人を待ちわび沈む花のような、そんな憐憫を呼ぶ風情だった。
 それとともに、もしも彼を別の目で見たならと考えて、不意に老人は嘆息した。
 「なんだ、襲われたか」
 この風情を自分と同じ位置で眺めたなら、あるいはないとも言い切れない。考えながら、まずこの状況を彼自身が作らないだろうと、無意識の状況回避を行っている少年を見遣る。
 何も知らぬまま、それでもそんな真似だけは、してしまうのだ。踏み込まない為、踏み込ませない為。自分という重荷を、他者に分ける事なく終われるように、と。
 視線の先、さらりと老人が呟く意味を、一瞬聞き流しかけた少年はぱちりと瞬いた直後に、思いきり顔を顰めさせた。
 「…………ブックマン、怖いこと言わないで下さい」
 冗談になるのかならないのか、微妙すぎる話だ。
 青年がそれにも自覚を持ったら、あるいは笑い話ではないかもしれない。現状でないからといって、この先もないなどとは言えない事だ。
 …………ましてあの青年は、自覚すら無自覚という厄介さなのだから。
 それも理解している老人は、憂いを込めて顔を顰めさせる甘い少年に軽い嘆息を吐き出した。
 「有り得んからな」
 いっそそれを厭って切り捨ててしまえばいいだろうに、恐らくはこの先もそれだけはしないのだろう。
 切り捨てさせようとしはしても、惑う指先が伸ばされたなら、どうしてもこの少年は無下には出来ないのだ。
 それがこの先、彼を痛めなければいい。………あまりにその願いは貧弱な響きしか持ち得ないだろう事が予測出来て、老人は自身の弟子の不甲斐なさに頭痛を感じる程だ。
 ………同時に、老人はそれに含まれる感傷を嫌い、微かに吸い込んだ吐息と共に全てを胃の奥に押し込めた。
 「有り得たらどうするんですかっ」
 老人の仕草が見えなかった少年は、つい大きな声を鋭く吐き出してしまう。
 すぐに強すぎた音に自身で驚き、少年は手で口を覆った。
 「まあ色々煮詰まってはいるが、そっちに走るとも限らん」
 慌てた少年の声に、ニヤリと老人は笑ってからかいの声を重ねた。それを拗ねたように睨み据えながらも、少し少年はホッとした。
 これなら、その言葉はそう実現する事はないと判断出来たからだ。
 「あー………、やっぱり煮詰まってますか」
 だからか、思いの外気安い声が漏れた事に安堵した。勘のいい老人相手では、青年の時のように笑みで躱す事は容易くないのだ。
 そんな物思いと共に困ったように呟き、少年は気まずそうに視線を泳がせた。
 それは踏み込む事を許しているサインだ。理解している老人は、ほんの微か意外そうに見開いた瞳で少年を見遣った。
 「やはりお主が原因か」
 告げたい事は告げればいい。こちらに聞くか聞かないかの選択権を与えるような仕草は、どうも彼の年齢には相応しくない。
 指摘して治るものでもないそれを、老人は根気強く聞き出し役に徹する事で知らしめていた。
 それに少年は嬉しげに瞳を細めて笑った。………本当に、人の機微に聡い子だ。
 「いや、原因ではないと思いますが。ただ…………」
 「ただ?」
 「出来るだけ、二人になる事は避けてますね」
 うーんと悩みながらの解答に、老人は呆れたように片目を顰めさせた。隈取りの奥の瞳が窘める色を宿している。
 その意味が解り、少年は苦笑した。それすら解っているのだろう老人は仕方がなさそうに軽く吐息を落とした。
 「原因だな」
 「だって、仕方ないでしょう、ブックマン」
 あっさり言い切った老人の、いっそ気軽なその声音に感謝するように少年は頷きながら呟いた。
 この老人は、弟子に関わる事に関して、決して自分を責めたり追い詰めたりする物言いはしないのだ。
 むしろそれは気安く軽く晒され、背負う事はないと無言で慰めてくれる。
 ………本当なら、未だ自覚をしきれていない青年を、正しく導くならば後押しするように態度を変えるべきではないだろう。
 解っていた。それでも、少年はそれを選んだ。それは相手が差し出すものを受け止められないと解っているからだ。
 思い、少年は遣る瀬無く睫毛を落とした。
 …………勘違いの感情に浸るような真似、出来ない自分の強欲さが恨めしかった。
 「あなたみたいに笑って躱す、そんな真似が出来ない人なんですよ?」
 呟き、開かれた睫毛の奥の銀灰は、老人には微かに濡れて感じられた。それを知らぬふりをするように、そっと眼差しをずらした。
 ………きっと、それは気付かれたくはない、感傷だろう。知られたと気付いたなら真っ先に自身を責めてしまう少年だからこそ、気付くわけにもいかなかった。
 揺れる眼差しを、少年は飲み込むようにまた睫毛で覆った。薄闇の影の中、浮かぶのは綺麗に夕日に染まった赤い髪。
 ずっと、彼は距離を保ち観察者のふりをしていた癖に。
 …………いつも不意にそれを覆したいかのように一歩近付いてきた。喜びに弾む感情に戸惑い、それを躱して笑んで見せていたのは、そう昔の話ではなかった。
 そうして微笑めば、まるで自身の仕草すら気付かなかったように、いつも彼は戯けてからかうのだ。
 それでよかった。それ以上である必要はなかった。………多分、それは互いに共通した意識だった筈だ。
 だというのに、先日の、あの痛みの言葉だ。まるでそれを投げ掛けて反応を楽しむような、嗜虐の意思を見せる真似もする。
 ちぐはぐだ。が、それが何故かを理解してしまった少年からすれば、全てを溜め息の中で隠し込みたいのが実情だ。
 気付かなければよかったのか、気付いた事は天佑か。解らないけれど、結果はどちらにせよ変わらないだろうけれど。
 思い、微かな吐息を落とす少年に、老人は同じ色の溜め息を吐き出した。
 「………あれはまだ、なりきれておらんからな」
 傍観者である為に必要な事は、非情さでも無情さでもない。
 ただ自身の感情を見据え、その中の個を排除し記録する事が出来るのならば、感情は決して邪魔にはならない。
 人は、それを持ち得るからこそ、歴史を動かすのだ。
 記録者はそれを知らなくてはいけない。知らないものを正確に記すなど出来はしないのだから。
 だから、人も世界も愛しいものだ。愚かで汚泥にまみれていると知ってなお、慈しむその意思は涸れる事はない。
 それを、切り捨てる事でブックマンとなれると信じている青年は、いつも感情と使命の板挟みに苦しんでばかりだ。
 「………あなたは自覚があるんですよね」
 お茶目も戯けも自身の一部で、ポーズであったとしても切り離せない個の欠片であるという事に。
 そしてそれを抱えたまま、人々を見つめている。だからこそ、老人は人の心理に聡く敏感だ。
 …………自分が彼らに心寄せる事さえ、憂えて。その癖望みを断ち切り捧げる意思を断絶する真似は、しないのだ。
 「なくてこの年齢まで生きられんわい」
 その声の硬質さに、少年は楽しげに微笑んだ。
 老人はいつだって自分を気遣う全てを、記録の為と嘯(うそぶ)くのだ。
 慕うものに呪われた自分が、同じ傷を増やさぬように、距離をとれと無言で諭してくれる人。
 少年の柔らかな眼差しに老人は細い肩を竦め、読み終えた新聞を山となっている本の上に放った。絶妙なバランスを保つその山は、けれど健気に負荷を受け止め、聳えたままに鎮座した。
 「ふふ、少し、残念です」
 茶化して答え、気付かれた事さえ見逃してくれる老人に、少年はクスリと笑う。
 そのシワの寄った顔を覗き込むようにベッドに置いた手のひらが体重で沈み、小柄な老人と差異なく目があうほどの視線の高さになった。
 その仕草に視線を求められている事に気付き、老人はそっと頤を揺らし少年を見遣った。同時に映されたのは、柔らかく細められた瞳。
 それは、まるで愛らしく輝く三日月のように瞬いた。
 「………なにがだ?」
 「あなたがラビくらいなら、きっと僕はあなたを好きになりましたよ」
 不可解そうに問う老人に答えるのは、歌うような幼い声だった。
 嬉しそうに、そう思える自身をまるで誇らしく見つめる眼差しは、いっそ柔らかかった。
 恥じらいもなく差し出される、それはいとけない好意だ。あまりにも純粋に何も含まない思いの欠片に、老人は溜め息を落とした。
 ………無自覚だからこそ芳しく咲く、それは愛でられ慈しまれ育つべき蕾だ。自分達傍観者が手に触れる事で枯らしてしまいかねない、とても繊細で脆弱な花弁。
 同時に渇望せざるを得ない、世の綺羅やかさを内包したたえる、汚泥を啜る唇に甘露をくれる蜜。
 「………………それはゾッとせんな」
 そんな真似をされたなら、きっと無自覚の頃から弟子に悋気を向けられる。むしろ現状でさえ向けられた事を考えれば、かなり面倒な事態が待ち構えることだろう。
 溜め息を落としそうな心境で呟けば、少年は僅かに眇た眼差しに全てを飲み込ませ、小さく笑った。
 「ははっ!確かに!………でもね、ブックマン、だから僕は気付いてほしいですよ」
 「…………………」
 その声が、泣き濡れるように響いて聞こえるのは、ただの捨てきれない感傷だろうか。
 考え、老人は隈取りの奥の眼差しを微かな憂いに陰らせ、それを気付かせぬように目蓋を落とした。
 …………少年は老人の言葉を、自身が向ける感情に対してと見なした。老人が弟子の扱いに嘆息したなど思いもせずに。
 仮定の話ですらこれだ。現実となった場合の少年の受け止め方など、想像に難くない。
 それに憂いを向けてしまうのは、きっとまだ未熟な自分の、捨てきれない感情というものだ。
 いつだって人は愚かでありながら、類い希なる美しさを咲き誇らせる命を生み出すのだ。
 そうして、それを愛でずにはいられないのは、自分達の性の暗さ故の、どうしようもない生物的反射のようなものだ。
 …………鮮やかな命を見出だしてこそ、人の歴史は綴るに値する輝きと命を宿らせるのだから。
 それを未だ知り得ぬ愚かな弟子は、見つけた愛おしさを分類出来ず、無理矢理型にはめてもやはりどうする事も出来ずに、ただ戸惑っているばかりだけれど。
 同じように、自身の価値など知らぬ少年は、痛みすら愛おしく眺めるばかりで、差し出される腕を見出だせない。
 「ラビも、自分が抱えるものが、ただの興味や好奇心だって」
 ………それが、彼の発言にいつだって由来するのだろう。期待せず望まず、ただあるがままを受け入れ、前を見つめる透明の眼差し。
 それでも、唯一の救いは、その中で足掻こうとする意思がある事か。………老人の視野の端、微かに見える少年の手のひらは、ぎゅっと握り締められていた。
 ささやかなその変化は、けれど気付かれないように老人の視野から逸らされるように隠されたけれど。
 …………相変わらす幼く、そして難解で解き難い子供だ。
 「早くそう自覚してくれないと、こっちが期待しちゃうじゃないですか」
 困ったように微笑んで、少年はそれを誤魔化すようにお茶に手を伸ばし唇を湿らせた。
 それを視線だけで見つめ、老人は胸中で嘆息を落とした。
 「…………お主も自覚すべきだな」
 青年の思いも老人の気遣いも、全てを自身ではなくそこに付加された情報故と認識してしまう。
 それはきっと、寂しい事だろう。思う少年も、与えられる自分達も。
 ただひたすらに受動的な否定の眼差しだ。…………己に価値を見出ださないというよりは、見出だしたがらない頑迷さで。
 まだ自分はそれを理解し関われる。が、弟子はどうかと言われれば、あまりに心許なかった。
 それこそ茶化した有り得ない筈の事態さえ招きかねないのだから、こちらも気が抜けないと、老人は今度こそその唇を溜め息に染めた。
 「?自覚しているから、言っているんですよ?」
 不思議そうな少年の声に、老人は先程とはまた違う色の息を軽く落とす。
 …………少年の全ては自己否定から始まっている。
 始まって、そうして完結させてしまうのだ。
 彼が何を望み、相手が何を願うかさえ、その始まりと終わりの中に納められて、新たに作り上げられる事のない予定調和。
 ちらり、老人は少年を見遣り、瞬く銀灰に映る自身を覗いた。
 あの馬鹿な弟子が望むものなど明白だ。早々に釘を刺さなくては、確かに彼を壊しかねない。

 不器用に求め方も知らず伸ばす腕と
 求める事も忘れ目隠しした瞳



 どちらが織り上げた糸なのか、と
 老人は小さく嘆息して見つめる





 願うように祈るように幾重も重なる蜘蛛の糸。



 捕らわれたのは、果たして…………………






   後

 パソコン壊してこの連載が書き途中で放棄されていますよー。
 とりあえず、ちまちま他の物書きながらやる気が舞い戻ったら先に進めていきます…………
 うん、10作分くらい既に粗筋書いて書き込むだけにしていただけに、ショックで大きかったんだ(遠い目)

 11.5.23