緊張がその首筋を染めていた。絹糸のように首を覆うその真っ白な髪が、風に仄かに揺れる合間すら、こちらを意識している。
そうして、微かに揺れた喉が、音を紡いだ。
「ブックマンはいつもちゃんと、僕に声を掛けてくれました」
響くその音は、揺るぎない。自分が告げた言葉になど左右されない、芯の通った音だ。
それを耳にして疼くものを見据えながら、青年は小さく問い掛けた。
「なんでそんなん、解るんさ」
………微かに責めるような色合いを帯びた事に舌打ちしたい。が、それもまた今更だろう。きっとこの少年は、そんな事、解っている。
解っていて、彼は晒しているのだ。こちらが噛み付きたくなる、そんな言葉を。
「解りますよ。だって、そうしてくれた人、まだ数えるくらいしか、僕は知りません」
そっと微笑むその仕草さえ、計算だろうか。それともそう思うのは、自分が今上手く笑えないが故の、穿った見方か。
………夕焼けに染まった白が、さらりと流れるその風を含む唇さえ、意識して見据えていなければ目蓋の裏に閉じ込めてしまいそうだ。
「マナと師匠と科学班の何人か。あとはリナリーとミランダ、それにブックマンとクロウリー」
指折り数え、初めから終わりまで。少年は本当に数える程の名前を挙げて、寂しく笑んだ。
振り返った彼のその笑みは、初めて見た。多分、誰も見た事などない筈の、笑み。………それは慕う相手の拒否を受け入れ認めた、微笑みだ。
それに、目を見開く。
…………微笑みは、より深く柔らかく、その銀灰を隠すように晒された。
「まだね、それくらいしか、知らないですから。僕を道具や物扱いする人なら、それこそ星の数、ですけどね」
微笑んだ瞳が泣きそうに歪んで見えた。そのまままだ名前が綴られるべきだというのに、綴られなかった。
たった今、目の前にいて、短いこの旅の中笑い合いふざけ合って一緒に過ごした筈の、自分の名。
仮初めのその名前、が。………その唇に綴られない。続く筈だったのに、綴られなかった自分の名前。
その代わりに与えられた微笑みは、確かに記録したかった、彼の中の初めての色。自分が与え染めた、初めて記録されただろう姿。
…………欲しかったものだ。望んだ筈だ。けれど、響く音色が耳を削ぎ落としそうな程、鋭かった。刻んだ記録が暴れ出しそうなくらい、脳に痛い。………痛い、のだ。ただの記録の癖に、そうではないと主張するように、それは暴れた。
「………アレ、ン」
認めれば、容易い答えは目の前に転がっている。乾ききった喉を潤わせる術もなく、青年は掠れ気味の音を小さく呟いた。
名を、呼んだ筈なのに。それに答える響きがないだけで、ただの繋がれた音に過ぎない現実が肌に裂くようだ。
その呟きに彼はそっと睫毛を落とした。微笑みは、消えないままだ。
…………それが泣き出しそう、なんて、どうして思ったのだろう。
「言い訳はいりませんし、弁解もしないでいいです。同じように、僕も謝りませんから」
「…………なん、で」
乾いて掠れた声が綴り、間抜けな声と言葉だと自分でも思った。…………解っていて晒した癖に、与えられるなんて考えもしなかったなんて。
それすら知って受け入れたように、少年は仕方がなさそうに眉を垂らした。
「でも僕は、あなたの事も好きですよ、ラビ」
困ったように見つめるその瞳は、悪戯を叱られた子供が泣いて許しを乞う姿を見つめるように、静かで慈悲深い。…………許す事を既に決めて、それでも叱る事を忘れない、瞳だ。
それが瞬くように一度揺れ、本当に柔らかくその唇をほころばせた。
「あなたは僕の左目の世界を見て、それに嫌悪を持ったのに、僕を排除はしなかった」
囁く言葉は、多分、痛みの音だ。………出来る事なら綴らずにいたいだろう、言葉。それでも彼はそれを綴り、こちらを見遣った。
翡翠に映るその姿は、鮮やかだった。夕焼けに彩られながら、街の中、浮き立つように白が透けて彼を包んでいる。たとえ柔らかな日の色に染められても、その本質は何一つ染まりはしない、無色透明を教えるようだ。
…………そっと呟いた彼のその声を、どう分類したなら、よかっただろうか。
そんな事を思う事自体、おかしい。張り付けるラベルが作成出来なかった脳内で、情報が錯乱を始める。
何かを告げようとして開閉した唇すら無意識で、落とした呼気が上唇に触れて、何か呟くつもりだった自身を知った。
何を、言うつもりだったのか。言い訳か、否定か、誤摩化しか。どれであってもなんの救いもない。
彼はもう、知っていて、それを受け入れてしまったあとで。その怒気すら向けられないこの状況の中、綴る音にどれ程の効果があるのだろうか。
…………思い、悔しくて噛み締めた唇だけは、己の意志だった。
本当にこの少年は、自分の予想を唐突に裏切って知らぬものを晒す。だからこそ全てを記録したいと思うのと同時に、沸々とわくものを必死に堪えた。
それは、多分、気付くと厄介な代物だ。解っていたから押さえ込みたかった。…………押さえ込むべきだと判断した時点で無駄な足掻きだなど、考える余裕がなかった自分にも、気付くようなゆとりはない。
ただ、少年の唇を見つめていた。その瞳に写る色を探っていた。
………………その、風にすら掻き消されそうな刹那的な美の集約を、惚けたように見つめた。魅入られるという言葉の意味を、身をもって実感する程に。
「その理由が何であれ、僕は嬉しかったし」
そっと落とされた睫毛。真っ白なそれが、夕日で赤く染まって輝いていた。ほんの僅か、その赤く染まった睫毛が震えて見えた。
もっとも、その震えが彼のものか自分のものか、知覚出来ないままに歩く青年には区別する事は出来なかったけれど。
「………痛みは慣れていますから。そんな顔、しないで平気です」
「そんな、顔………?」
小さく首を傾げてこちらを見遣った瞳が、寂しげだった。それに不思議そうに眉を顰め、青年が問い掛ける。
ただ自分は見つめていただけだ。彼の言葉、その顔、仕草、全てを記録する為に。ただそれだけの、いつも通りの顔が、何か指摘するに値するなんて、思えない。
「僕の言葉で泣くなんて、ブックマンに叱られますよ、ジュニア?」
そっと頬を掠めるようにして触れた少年の指先が、冷たい。…………緊張して、呼気すら微かなのは、多分、自分だけではないのだ。
この少年はいつも笑っていて、当たり前みたいに受け入れる癖に。………こうして、あっさりとまるで突き放すようにその手の中、抱えていない名前を晒したりも、するのだ。
それはきっと、自分が仕向けた事で、それをほんの微か、望んでいた事だって、本当は解っているけれど。
それでも悔しいような感覚が、腹の奥底をクツクツと似るように溶かした。泥土のようなその気持ち悪さに顔を歪め、青年は噛み締めた唇で呻くように音を吐き出した。
「泣いてなんか………っ」
続ける言葉も考えず、ただ否定だけを綴る音に、少年は困ったように瞳を細め、そっと落とした眼差しは、………硝子のように透明だった。
それを何故苦しく思うか、考えるべきだろうか。気付くべきだろうか。どこまでを認め受け入れ、どこからを気付かず見ない振りをする事が、正しいか。
解っていた筈の境界線が、歪む。少年の微笑みと、柔らかなその声に、溶けるように歪んで………見えなくなった。
「はい。だからもう、これで話はおしまいです」
そういって、彼は笑った。柔らかく……何ものも寄せ付けない程、静かに。
思い、気付く。
…………少年は、自分に似ているのだ。姿形でも存在でもなく。
人と保つその距離の、取り方。彼は微笑みながら、輪の中に加わらず静かにその輪の美しさを愛でている。
自分は、その輪を眺め退屈に欠伸を噛み殺しているのに。同じ場所から同じものを見て、彼はひどく愛おしそうに見つめていた。
それが、多分、彼が気になった初めのきっかけだ。何を見ているのか解らなかった、それが好奇心を疼かせた。
解っている。何より初めに、自分はそれを刻んだだろう。この少年は思っていた以上に勘がよくて人の機微に鋭い。………自分を見る無機質な瞳を、とても鋭敏に選り分ける。
選り分けて、振るいに掛ける癖に、拒まないのだ。そういうものだと受け入れて、その眼差しすら、愛おしそうに。
きっと、ずっと、彼は………見ていたに違いない。観察して記録して、そうして分類しながら彼を解体するように細切れにしていた、自分の眼差しを。
欠片も残さず暴いてラベルを貼ろうと探って傍に居た、笑顔の裏の残忍さ。………そんなにも根深くいつもならば事細かに行なわない癖に、それに気付いてしまうこの少年だけを、自分は細胞単位にすら関心を抱き、刻みたがった。
それが、今なら何故携え得たのか、解るけれど。
…………滑稽だ。相手が逃げると解った途端、認めるなんて。逃す気がないと、まるで自身に牙を剥くように獰猛な意志が鎌首を擡げ腹の底から嗤った気がした。
「ほら、ラビ、みんなが待ってます。早く戻らないと」
きっとこの少年は、そんな事までは見抜けない。……否、見抜かない。始まりの一歩を間違えれば、彼はその分岐点で微笑み眺めるばかりだ。
そうして、微笑んで、少年は先を進む。彼が今までそこでこちらを眺めていたように、今度は自分が、進む彼の振り返る顔だけを見ながら、背中を記録した。
示された指先は、宿。その穏やかな声も細くしなやかな指も、まだ姿も見えないその建物を心待にしているようで、喉奥が干上がる感覚に寒気を覚えた。
「………待って」
無意識に、呟いた。先を進む少年が、夕日のように沈み、月に昇華してしまいそうだ。その腕を掴もうかと思う事も、忘れていた。戯けて笑う事も、考えられなかった。
ただ自分を置いてどこかに行こうとしてしまうその背中を、留めたかった。…………多分それは、なんて馬鹿なもの思いと、嘲るような猶予がない事が解っていたからだ。
そんな青年の躊躇いの音に、少年は不思議そうに振り返った。
「はい?また、間違えましたか?」
キョロキョロと道を見回すが、ここは十字路ではない。前と後ろだけの道を、間違えようもない筈だ。何か履き違えたかと目を瞬かせる少年の眼差しの先、青年が微かに俯いて見える。
けれど、その表情だけは赤い髪に邪魔をされて解らなかった。
「あってる、けど、待って」
もう彼の声は常と変わらなくなっている。それが取り繕いならば、自分以上の役者だ。そしてそれが本心だというならば。…………それは、どれ程の諦観によって、自分を見つめた証だろうか。
逃がしたくなどない。彼は、自分の傍らにいればいいのだ。今までのように。………否、今まで以上に、その心を晒して。
師に見せるようにその内面を、自分に示して隣にいればいい。そうしたら、彼の全て、痛みすら感じぬように自分で覆える。そんな顔で笑うくらいなら、きっとその方が彼にとってもいい筈だ。
思い、俯いたまま、赤いベールの内側で、青年は唇を歪めた。………これでは駄目だと、もう一度、呼気を吸い込み角度を調整する。いつもの笑みという当たり前の仮面が、ひどく作りづらい事に辟易とした。
「?ラビ?」
奇妙な解答を返したまま動かない青年を、少年は怪訝そうに見つめる。赤い髪に覆われて隠されたその面の中、唯一覗ける彼の唇が、ひどく小さく蠢いた。
それに首を傾げ、少年はその名を呼んだ。何かを告げようとしているような、それを飲み込むような、そんな仕草。いつも快活な青年には珍しい仕草だ。
不思議そうなその響きに、青年は返す言葉を考えあぐねるような躊躇いの間を空け、長い溜め息を落としたあと、顔を上げた。
見えたその顔に、少年は微かに息を飲んだ。
「それとも俺と一緒は、嫌?」
…………………なんて顔で、笑うのだろう。
落ち度のない、完璧な笑顔だ。今この時、囁く声で晒すにはあまりに不釣り合いで似合わない、明るい笑顔。
その癖、響く声は震えているのだから、彼に自覚などないのかもしれないけれど。
「解らない俺と二人は、嫌?」
ニコニコと明るい笑みが首を傾げて問いかける。
苦しそうな音とのチグハグさが、彼の痛みの証しなど、自分が言うのもおかしいだろう。あるいはそれを哀れんで、今言った言葉全て嘘だと微笑むべきだったか。
………けれど、きっと、そんな慰めも、彼は求めていないのだ。
そうでなければ彼はもっとうまく、そうするように誘導した筈だ。だから、考える。求められている、その事を。
彼の中に横たわり続けたものを、知らなかったわけではない。………知っていて、それでも知らないふりはしたけれど。
その方がいいと、思っていた。けれどそれは違ったのだろうか。彼の眼差しはひどく冴えている。傷に怯え惑うものではなく、自分を見据えている。
ならば、欲しいのは、きっと真実の音。嘘で凝り固めた優しい音色なんて、響く意味もないと、笑わない翡翠が囁くようで少年は唇を笑みに染める事に決めた。
「……いいえ?言ったでしょう。痛いのは慣れてます。し、そういう扱いも慣れてます」
だから平気だと、言う事はきっと聞く彼にとって、痛みだ。彼が解っていながら自分に告げたのと同じ、痛み。
唯一違いがあるとすれば、自分のこれは、彼が望むが故に伝えた、それだけだ。
「……………」
もっとも、それも独り善がりの思い込みかもしれない。………告げた言葉に顔を顰めた青年を見つめ、少年は痛みを誤魔化すように前方に視線を逸らせた。
解って告げたとしても、傷付ける言葉は諸刃だ。痛んだ事が解れば、同じように痛い。
それすらきっとまだ知らない青年は、その痛みの不可解さに惑うのまま、ただ沈黙の底にいる。いっそ気付かなければ、彼にとってはよかったかも知れない。思い、少年はそっと睫毛を落とした。
頬を染める赤い夕日が、目に沁みて視界を歪ませそうだ。そんな真似、晒すわけにはいかないけれど。
「でも、そう告げても怒ったり言い訳しない人は、初めてですね」
くすりと、青年の戯け癖を真似るように少年は笑んだ。もっとも、そんな風に告げた相手、青年が初めてで、………きっと最後だ。こんな風に根底を晒すような言葉、与える相手はそうは出会わない。
それでも囁いた。その意味を、多分彼は気付かないだろう。だから、それが痛みならば、これで終わらせればいい。そう教える抑揚に、青年は片眉を上げてひたと少年を捕らえた。
「出来ないの、知ってるんさ?」
綴られるその音までもが、自分が離れる事を許さない響きだ。
それに、苦笑する。……バレているのか。自分の事が彼にとって傷となるくらいならば、近付かない事を選ぶと。
視線だけで見つめた先、青年は逸らす事も許さずに自分を見据えていた。厄介な相手だ。はぐらかしてなかった事には、してくれそうもない。
これ以上晒して与えて、彼に何が残るだろう。想定して、少しばかり薄ら寒くなる。出来る事ならこのまま、話を終えてくれればいい。あるいはいっそ、痛みに怯え切り取ってしまってくれたなら、いい。
思い、そっと告げてみた言葉は、どこかほんの少し、投げ遣りだっただろうか。
「……していいですよ。別に、それで恨んだりしませんし」
苦笑に微かな自嘲を籠めて呟いた言葉を、彼は見据えて分析している。彼の中、今告げた音は、意味や裏だけでなく、その抑揚から音の高低、告げた自分の姿まで全て、分析材料として吸収された事だろう。
それが彼の生業の一つだ。それを責めるのはお門違いと知っている。だからそっと伏せたくなる眼差しを、けれど彼の瞳が許さない。…………事実以外、聞く耳を持たない眼差しだ。
この眼差しの前では、少々こちらに分が悪いのは否めない。微かな溜め息でその眼差しを受け止めていると、ようやく処理が終わったのか、青年の眼差しが不可解げに歪んだ気がした。
「何それ、何でも許すんさ?」
響いた音は、多分、嫌悪に近い……憎悪、か。何に対してと問うには、今の青年の気配は少しばかり危険だ。
何か地雷を踏んだだろうか。悩み、少年は軽く首を振って明るい笑顔を浮かべてみせた。
地雷では、多分、ない。その怒気に似た響きは、向かうべき先が違う。もしもというその想定の先に向けられた、ものだ。
ならばその想定自体が有り得ない事を示せばいい。……………それにはどうしたって、痛みが伴う事だけは、もうどうしようもない話しの流れだ。
「まさか。初めから同じ場所にいない相手の言葉に、傷付く気はないだけです」
呟く声は鮮やかなほど透き通っている。せめてそれが彼にとって棘とならなければいい。が、それもきっと、難しい祈りだ。胸中で小さく吐息を落とし、少年は前方を見つめた。…………赤く彩られた夕焼けの町並みの中、まだ宿は見えなかった。
そんな少年をパチリと目を瞬かせながら記録し、青年はその意味を咀嚼した。
噛み砕き飲み込んだ言葉は、確かに言の刃、だ。
言ってもいいのだといい、恨まないと告げ、その実裏側に横たわる真実は、これか。思い、引き攣りかけた頬を押さえ込んだ。
………自分の言葉を許したのは、それによって傷など生まないから、か。その仮定に、ゾクリと何かが這い上がってくる。薄ら寒いその気配は、寒気によく似ていて、顔を顰めた。
自分が告げた言葉は少年の中、傷にすらならずつるりと滑り霧散する。歯痒いくらい苛立たしいけれど、それを否と言える場所に、確かに自分はいない。………いようとしなかった。
ならば、その言葉を師が告げたなら、どうなのだろう。あるいは、彼が先程挙げた人物達が。想定して、浮かんだのは虚無の中寂しく泣き笑う、少年。
掠り傷にもならない自分の言葉が、彼らによって成されれば、永遠の爪痕に変わるのか。その、左頬の呪いのように。
その身を永遠に束縛し切り離す事も出来ない程根深く植えられた、彼の中の傷。それはきっと、これ程までに捕われる事なくただ独り立つ少年の中に残される唯一の異物だ。
それがもしも自分によって成されたなら、と。思った瞬間、身に湧いた愉悦のような歓喜に、流石に驚いた。………刻みたい、のか。この少年の中。他の誰よりも深く自分の証を。
驚きに見開いた自分の眼差しを、恐らくは勘違いしたのだろう甘い少年は、いたわるように睫毛を伏せて囁く。
「異端が生きるにはね。ラビ、知識や情報以上に大変なんですよ」
だから誰のせいでもないのだと、少年は呟く。その声の静寂は、諦めだろうか。
普通を願い祈り求めても、過去は覆らないと思い知り受け入れた声。痛ましいというに値する、音だ。
………そっと、無意識だろう指先が、自身の呪いの傷跡を包むように触れた。
その仕草を見つめ、歯を噛み締めそうだった。なんて……愛しげに、触れるのだろうか。もうこの世にいない、少年に関わりようもない誰かが遺しただけの傷が、目の前にいる自分以上に意味がある事が、苛立たしい。
暗く光る翡翠が、赤く彩られた左腕を見つめる。手袋の下、その身を彩る束縛の印しと同じ、額から頬に走るその赤い傷痕。
その、腕、を。捕らえて引き寄せて。……考え、その無意味さに反吐が出そうだ。力で捩じ伏せる事は容易だけれど、そんな事でこの少年は手に入らない。
傷も痛みも、彼が認め受け入れなければ、残りもしないのだ。その厳然たる事実に、青年は瞳を眇めた。
「だから僕は、僕に向けられた言葉や感情以外は、歯牙にもかけません」
そんな青年を見つめる事もなく前方を見遣ったまま、少年が微笑む。
………今まで、それらによって穿たれた傷は、いかばかりなのだろう。増やした自分が思うのは浅ましいかもしれないけれど。
顰めた眉にそれが解ったのか、少年はくすりと笑い、首を傾げてみせた。そんな戯けた仕草は、彼には少し、似合わない。やはりそれはこちらが晒すべき仕草だろう。
思い、笑おうとして……失敗した。
騙せもしない笑みなど、晒したところで意義などありようもない。弧を描く筈だった唇は、微かな痙攣を落とすように震えていた。これでは、上手く言葉も綴れない。
仕方なく遣る瀬無く歪めた眼差しを向ければ、綺麗に少年は笑んだ。
「そういう意味では、神田は初めから何も含まない人ですから、珍しいタイプでしたね。まあ気は合いませんが!」
どこか面白がるような、そんな唇が綴るのは、楽しげな声だ。………会えばいつでもいがみ合う2人だけれど、嫌い合っていない事くらい、誰もが知っている。
脳裏で明滅する漆黒の髪。鋭く鋭利な切っ先じみた眼差しと感性。そうして、それらに隠され垣間見える事が滅多にない、彼の中根底に流れる和らぎ。
この真っ白な少年と対のような、黒だ。考え、瞳を眇めた。それはあまりにも面白くない、想像だ。
「…………ユウの事は、好き?」
思わず洩れた問う声は、存外気楽に響いた。先程までの鬱屈が消えたような声に、自分でも意外に思う程だ。
それは当然少年にも同じで、パチリと瞬く銀灰が白い睫毛の奥で揺れていた。
「まさか。………でも、神田に何かあれば、僕に出来る事ならなんだってやりますよ」
そうして、答えた少年のその言葉に、不意に気付く。この少年を彩るものの、根元。ひた走る源にある情の存在。
驚きに、目を丸めてしまった。それは決して彼の返答の内容に驚いたわけではない。それでも、驚いた。
「その程度しか、僕には返せるものもないですから」
……………微笑みさえ柔らかく晒す彼は、それでも独りぼっちだ。こんなにも情を与え捧げ尽くしているようで、彼は何もその腕に持ち得ていない。
輪から隔絶されたまま、彼はただ、その目の前の輪が美しく穢れずに巡る事を祈り、それを壊そうと伸びる全てをその身一つで阻んでいる。ただ守るため。そこに加わりたいなど、思いもしない愚鈍さで。
優しい腕が幾重にも差し出されているだろうに気付かない。………否、気付けない。優しい人達の腕以上に静かで柔らかな彼の存在が、それらの腕に躊躇わせている。
……………思い、くつりと胸中で笑った。
いとけない白いこの子は、何も知らない。知り得ない。手にする事を諦めて、捧げる事しか見出ださずに生きた道化だ。
それ、ならば。………手繰り寄せる術が、あるかもしれない。
彼の中、何も刻めない今の自分でも、何も持たずたたずむ彼に、刻み込めるかも知れない。それはきっと、痛みでも傷でも駄目だ。そんなモノには慣れてしまっている彼は、ただ微笑み受け流し、また愛でるだけだろう。
ならば、別の方法を。彼の中、未だその領域を誰にも与えずひっそりと守られ続けている、その場所に。
自分が加えられたなら、この近くて遠い少年を、自分の腕の中、捕らえる事が出来るだろうか。その予測に喜びの笑みを浮かべ、青年は前を行く少年に一歩、近付いた。
「………なら、俺も」
小さく、彼にしか聞こえない音で、告げる。
ふわりと舞うように少年の髪が風に揺れた。それを唇の先に感じながら、微笑む青年が問いかける。
「俺も、入れる?」
「?」
その言葉の意味が解らなかったのか、微笑みを瞬く瞳に変えた少年が首を傾げた。それにニコリと笑いかけ、ほんの微か寂しげに、青年はその顔を覗き込んだ。
「アレンの、中。数に、入れる?」
名前をあげていない事、彼の中、彼を見る人と認識されていない事。きちんと理解した上で、それを願っているのだと、小さく囁くように告げてみる。
真っ直ぐに向けた視線の先、ゆらりと彼の瞳が揺れる。戸惑いと、困惑。それからほんの少しの怯えと、歓喜。数々の色が混じり合い、そうしてそれは落とされた目蓋とともに、そっと隠され消えた。
次に銀灰が見えた時、少年はもう困ったような笑みを浮かべて、ほんの少し近過ぎる距離を避けるようにそっと歩幅を変えて肩を遠ざけた。………折角覗き込んだその顔は、あっさりと遠ざかりまたその眼差しの色が見えない距離に変わってしまう。
なかなか簡単には捕らえられない。解っていた結果ではあるが、少し寂しかった。
「………それは、解らないです」
一歩とちょっとの距離を保ち、告げた少年の瞳の色は解らなかった。それが見えれば、次の一手も打ち易いのに、きっとそんな駆け引きはポーカーで慣れてしまっている彼は、なかなか強かにそれを隠してしまうから厄介だ。
手強い相手に苦笑して、青年は戯けたように首を傾げてまた一歩、近付く。同時に揺れる気配に、ほんの微か笑った。
揺れた、のだ。自分の言葉で、態度で。歯牙にもかけないと告げたその後に、揺れた。
ならばそれは、可能性だ。自分を内側に入れる隙間がまだ、充分に残された証。思い、青年は嬉しそうに隻眼を細めて笑った。………それが少年の好む笑みだなど、知りもせずに。
「なら、俺次第って事さ?」
弾むその声も、屈託のない気配も。気のいい友人の仕草を少年は眺め、小さく息を吸い込んで、胃の奥の痛みを鎮火させる。
こんな風に笑って手を差し伸べるから、こちらが期待するなんて、きっと彼は解っていないだろうに。………否、解っているけれど、知らないというべきか。
「じゃあ、頑張ってみるさね」
1人納得したように頷いて、青年はちらりと見た少年の顔に苦笑を浮かべる。
彼が何を思ったのかなんて、残念ながら自分には解らない。解ったつもりでいた事全て、どうやら正しくはなかった事が、既に明るみに出ているのだから断言など出来る筈もない。
どうすればいいかなど、当然解る筈もなく。過去における正解も、彼に当て嵌るとは限らない事も、解っている。
難解な少年だ。それとも、自分が彼の彩りに眩んでしまい、彼をより複雑化させているのだろうか。
…………きっとどちらも正しいのだとろうと思い、青年は僅かに躊躇いを孕む手の甲で、そっと少年の左頬を撫でるように叩いた。
「だからアレンもそんな顔、せんで?」
これくらいは今までも許容範囲だった。触れた瞬間に拒絶が返らない事に僅かにホッと息を吐き、青年は困ったような声で告げた。
それは先程少年が青年に言った言葉の模倣だ。それに気付いた少年が、目を瞬かせて口元を覆った。
「え………」
何か失敗したかと探る指先に、思わず苦笑が深まった。………やはり彼は、今の会話の中、ずっと意識して表情を作っていたらしい。
たいした役者だ。これではなかなか彼のポーカーフェイスを見破るのには骨が折れると、青年は改めて気合いを入れた。
惚けたように俯いて悩む少年に、仕方なく青年は左頬に添えた手の甲を真っ白な髪に潜らせ、乱暴に掻き混ぜて子供を窘めるような声で彼の知りたい解答を教えた。
「俺と、同じ顔」
最後にまだ悲しげに歪む眉間を指先で弾き、青年は遣る瀬無い眼差しでそれを眺めた。
与えようかと思ったものとはまるで違うものばかり、どうやら押し付けてしまうようだ。もっとも、それが当然なのかもしれない。
そもそもそんなモノを与えて記録しようなど思った事自体、初めてだ。自分を刻む事は許されない立場で望む事も、本来ならば禁忌だというのに、とんだ酔狂だろう。
きっとすぐにバレてしまうだろう師への言い訳も考えなくてはいけない。なかなか考える事は沢山あるようだと、何もかもが後手の情けなさに胸中で溜め息を吐いた。
そんな青年には気付く余裕がないのか、驚きに見開かれた銀灰が赤く煌めき瞬いた。
「僕………?え、あれ、すみませんっ」
そうしてようやく自身の表情を知覚出来たらいい少年は、慌てたように顔を歪めて唐突に頭を下げてしまう。
…………どうも、彼はすぐに自身へと責めを向ける傾向がある。だからこそ優しさにもいたわりにも気付きづらいのだろうかと、困ったように青年は笑った。
「謝る必要ないさ。デリカシーなかったんは俺だし」
普通、この状況で謝るものではないだろう。むしろわざと彼を傷つけて傷を抉ったのは自分なのだから、詰られる事こそが正当だ。
それでも彼は、それを考えもしない。それは、この距離を許していながらも、今だ彼が遠い立ち位置である事を教えるようで、微かに翡翠が伏せられた。
「まあまた間違えるかもだけど、もうちっと、多目に見ててな」
幾度でも、きっと間違い続けるだろう。自分は彼程優しくはないし、彼のように他者を愛おしいとも思えない。
………そんな風に多くを抱えては、息絶える方が先であろう自分の情の強(こわ)さも、解っている。
それはそのまま、定めてしまった今この時から、少年を絡める糸になるのだろうけれど。そんなこと、気付かないままこの腕に引き寄せられれば、一番だ。
もっとも、それが実現する可能性はまるで見当たらないのが現状だけれど。思い、せめて今は笑顔に染めておこうと、先の一手を画策しようとする意識を瞳の奥に仕舞い込んだ。
「そんな顔、しない方がいいっしょ、お互いにさ」
わざわざどちらも悲しみの淵に無意識に佇むなんて、しない方がいいに決っている。そう教えるように笑いかければ、また少年は泣きたそうに瞳を歪めて………、俯いた。
どうも、上手く出来ないらしい自分の言葉は、笑顔を咲かせようとして真逆を生むらしい。もっと師や少女とのやりとりをしっかり観察して彼の好むものを知らなくてはいけないようだ。
「そうかもしれませんが、無理、しないでいいですよ?」
俯いたまま、それでも声は常と変わらぬ柔らかさで綴り、少年はそっと顔を逸らすと先を歩み始めた。
きっとまだその顔は泣き出しそうなのだろう。噛み締めた唇が赤くなっているのではないかと思いながら、その背中を追った。
「僕は大丈夫、ですから」
呟きながら進む背中は、それでも随分と幼く見えた。
………多分それは、気付いたからだ。否、与えられたから、か。彼が今もまだその歳に見合わない程に清らかに残しているもの。彼の養父だけがそこに触れ、抱き締め守り続けている場所。
そこにはきっと、幼子が欲しがるいとけないものしかなくて。そこに触れようとすると、晒されるのは未だ幼気な、強がりだ。
その背を抱き締められればいいのに。凍えていそうな細い背中は、夕日に彩られた氷の像のようだ。
今はまだ、隣を歩くのも躊躇われている。もう少し時間を掛けなくては、それも捕らえられそうにない現状が歯痒かった。
それでも、乾きかけた喉を飲み込んだ唾液で潤して、青年は気のいい兄の顔を作り上げた。
「アレンの悪い癖さ」
「はい?」
「すぐ、大丈夫って飲み込むの」
告げればすぐに返る返事。いい子の模倣なのか、本質なのか、まだ見極められないその機微。
それを見据え、彼より僅かに後ろを歩き、その顔を暴かない事を教えて歩めば、ほんの微か軟化した気配に、胃の奥がチリリと疼くのを押さえ込む事にも慣れなくてはいけなさそうだ。
それなりに人の感情の推移は解るつもりだけれど、どうも上手くこの少年にはそれを発揮出来ない。思い、青年は溜め息を吐き出しながら、苦笑に染めた声で囁いた。
「不安なら、ちゃんと言うさ。俺は鈍いし、気付かんの。ちゃんと、教えて?」
情けない話しだけれどと、少し戯けてみせれば、クスリと彼が笑った気がした。
頭の後ろで組んだ指先を、意味もなく開閉しながら、微かな緊張を孕んでいた青年は、その反応に身体の力が抜けそうな自分に苦笑する。
少年のそんな小さな仕草一つにこんなにも左右されるなんて、想定外だ。
それでも、彼が振り返ったその顔を見た瞬間、やはり息を飲んだ。どうやらもう、どうしようもない反射らしいそれに、瞬かせる目もない。
………彼は、心底戸惑うような顔で、困っていたのだ。
それはふりでもなんでもない。見極められるか否かなど疑う余地もない、純然とした困り顔だ。
「だって、大丈夫です、よ?」
「うん?んー、あー、そうか」
この少年は、一人立つ事にあまりに慣れてしまい、自身が無理をしている事すら、解らないのか。
自分が痛みに鈍感なように、彼は自身の悲嘆に鈍感だ。驚きをなんとか包み隠して首を傾げた青年は、その物珍しい愚鈍さに頭を掻きむしりたくなる。
告げてもきっと、気のせいだと苦笑して彼は流してしまうだろう。そうして、そんな心配をかけぬようにと自身を奮い立たせ、進む事を課してしまう。
………自分よりも幼いにも関わらず、そんな寂しさを知らぬ間に身に付けたのか。
それはあるいは、自分が彼に与えたような、そんな痛みによって培われたのかもしれない。
ならばそれは、自分が与えた、傷だ。彼はきっと否定しかしないけれど、知らず与えた傷は、きっと多かった筈だ。
今回は、老人が関わるが故に、彼は告げたに過ぎない。彼一人に帰結するならば、何一つ告げぬまま飲み込み続けたに決っている。そうでなければ、今までの自分の仕草を気付いていたらしい彼が、何も言わずに傍にいた事を説明出来ない。
…………きっと、わざと傷付ける言葉を選んだ事だって、気付いていた筈だ。
それなのに、何も咎めず、ただ笑みの中に飲み込んだ。そんな風に、全てを一人終えてしまうのだ、この少年は。
顰められた眉は、多分、無意識だ。解らないまま、青年は少年に微笑んだ。
「なら、甘えて?」
思い、告げたのはあまりに自分に似合わない言葉だった。
誰かを背負う事など許されない身で、まるでそれを望むように。………否。きっと、願っていた。師に見せるようなあどけなさを、自分にも差し出してほしかった。
そう、自覚する。その意味を見ない事にするには、少しばかり遅すぎたらしいと溜め息も吐き出せない。
「甘えるってさ、信頼してるって事でもあるさ」
綴る願いは、今までとは裏腹の、柔らかさ。いっそ滑稽な程の差だと、自分自身笑えてしまう。解っていて、それでも差し出した。
見つめた先の少年は、驚いたような顔で目を丸めている。綺麗な銀灰が赤く染まって透き通る。
その顔がまた歪まなければいい。優しい願いなど上手く綴れる自信もない。青年は呟きかけたそれを微かに飲み込んだあと、その言葉を自分の願いから周囲の願いにすり替えて、綴った。
「だからアレンも、甘えてみるさ。みんなもきっと喜ぶし」
彼は、差し出すものを疎かになどしない。………出来ない。それが純然とした願いならなおの事。それを愛おしそうに見つめ守ろうとする。
だから、示した。遠い一歩を引き寄せる為に。
痛みも吐き気も全部、腹の奥底に仕舞い込んでしまう。そんなもの、晒す意味はない。辿る道を探りながら、彼が厭わないもので彩ったその声を、祈る思いで見つめた。
微かな、逡巡のような間。そうして、少年は戸惑うように瞳を揺らして首を傾げた。
こんな自分が綴る今更の願いを、愚かな事と切り捨てられない、甘い人。青年は笑顔の仮面の向こう側で微笑んだ。それは多分、少年の瞬きの中、丸い月に染まった赤を仕舞い込むように写し取った、微笑みだ。
…………………キレイに作られる笑顔とは裏腹の、不器用な泣き笑いを垣間見て、少年は遣る瀬無く揺れる瞳を隠すように睫毛を落とした。地面を見つめるように歩む先、進む爪先が、ほんの僅か急いでいる事を自分に教えた。
「甘える…って」
困惑色の、声。それをすくいとるように細めた柔らかい翡翠の気配に、銀灰はなお揺れて眉を垂らした。
言葉の意味は解っても意図が解らない、そんな仕草に青年は苦笑して、先を急ぐように歩む少年の真っ白な髪を、そっと後ろからからかうように撫でた。
その指先の下、ほんの微か跳ねた体温が、先程のように静かな拒否を教えるようで、青年はそっと目蓋を落とした。そんな真似をしなくても、前を進む少年にそれを見られる危険は低い。それでも、僅かな可能性でも、知られたくはなかった。
…………きっと今、自分の目に浮かぶのは、情けない痛みの色だ。そんなモノは知る必要はないし、知らせる必要もない。
「我が儘とか。自分がしたい事、言えばいいんさ」
ただ、この少年は零してくれればいい。そうしてそれを、自分が初めに与えられればいい。多分、それが自分が欲しいもの、だ。あまりにも単純だが、おそらくはこの上もなく難解なもの。
そう教えるように髪を梳いた手のひらで彼の頭の形を辿るように包み、指先だけで撫でた。ついさっき知ったばかりの柔らかな髪が、まるで指に擦り寄るようで心地良かった。
同じように擦り寄って、と、その声を願って待ってみれば、少年はクスリと小さく笑い、そっと首を傾げて、添えた手のひらを振り解くように離れてしまう。
「なら、もう、充分ですね」
そうして、にっこりと、柔らかく微笑んだ。その声すら、静かに優しく響く様に、青年は息を飲む。
「一杯貰ってばかりです。だから、大丈夫なんですよ」
まるで全ての言葉を受け入れ頷くような顔で、その実何一つ享受せず、さらりと躱してしまう音。
…………いっそ見事なくらい、次というものを求めない、声だ。今はまだこれ以上を言い募っても無駄だろう。むしろ逃げられる可能性の方が高そうだ。
仕方なく胸中で溜め息を吐きながら、青年は拒まれてしまった手のひらをまた頭の後ろで組んだ。
「アレン、頑固さぁ」
クスクスと困ったように言ってみれば、同じように眉を垂らして少年が笑った。
「本当の事、なんですけどね」
微笑みは、どこか遠かった。まだ、彼が認めていない事くらい、解った。
………当然だろう。彼は聡く、なかなか自分になど騙されない。笑みの奥底の意思すら看破されると見なさなければいけないだろう。手強い事この上ない、相手だ。
思い、青年は小さく吐息を落とした。後ろ髪に触れる指先を握り締める。意識を向けていなければ、そのまま振りほどいて彼の腕を掴んでしまいそうだ。
「………まあいいさ。ゆっくり、覚えていけば」
かなりこれは長期戦を覚悟しないといけないだろう。もっとも、それは彼の中にそんなものを刻んだ自分のせいなのだから、自業自得と言えばそれまでだ。
ならば最短で。………我慢が出来る時間など、そう長くはないだろうから、その抉った傷ごと全部、攫ってみよう。
思い、名案だと青年は笑んだ。………それはきっと、甘露のように響くに違いない。
自分が刻んだ痛みと傷。それが塞がらないものでも、それを覆い癒す包帯さえも、自分ならば。全て、が。この少年を彩るモノ全てが、自分で染まる。
「決めたら、俺、しつこいさ。覚悟、しといて?」
それはなんて素晴らしい事だろうと、無邪気に喜ぶ思いのまま、青年は少年の隣に歩を進め、その銀灰を覗き込んで宣戦布告をした。
パチリと目を瞬かせた少年は、青年を見つめたあと、不思議そうな眼差しのまま頷いた。
「うーん?はあ、とりあえず、解りました」
「ふわふわした答えさー」
曖昧なその言葉に不満そうに唇を尖らせてみせれば、ふわりと少年が笑う。それはどこか、悪戯をする子供を眺める、大人の笑みだ。
これはバレたかと見遣った少年は、それを肯定するように頷いて、こちらを見据えていた。
「ラビだってそうでしょう。それだってお互い様ですよ」
そっと嗜めるように響くその声は、戸惑いも躊躇いもなく、静かに響く。
………既にもう、普段通りだ。それに舌を巻くように驚きを感じたが、青年はそれを表に出す事なく、頭の後で組んだ腕を落とし、悄気たふりをして恨みがましく少年を見上げた。
「ありゃ、なんさーバレたんか」
「いいですよ。あなたの自由で。だから、そのままにしましょう」
クスリと笑ってみせれば、こちらの様子を窺うように青年は首を傾げる。
心得ているというような少年の笑みに、青年は仕方無さげに苦笑を浮かべた。どうも彼には、一歩を先取られているような気がしてならなかった。
「希望はね、蜃気楼でも希望、なんですよ」
だから、たとえそれが果たされないものでも、そのままで。………そう願うように、少年は小さく笑う。
その笑みの意味はあまりに難しく、青年には解き明かす事が出来ない。けれどその笑みが、決して喜びに繋がるものではないのだと、それだけは解った。
寂しいそれに同じ色に染まりかけ、青年は吐き出した吐息の中にそれを押し込む。
………まだ、あまりに遠い。
少年は望む事を忘れてしまっている。そうして自分は、その望みを叶えるには少しばかり、歪だ。彼の模倣をして、どこまでその祈りを知る事が出来るかさえ、解らない。
「……ちゃんと、あるさ」
それでも呟いた声は、どこか幼かった。せめてもの救いは、呻きとならなかった事だろうか。苦味が口に広がるその感覚に、青年は思わず唇を引き締めた。
それを見つめた少年は、ほんの微か痛ましげに瞳を眇めたあと、振り切るように前方を見つめ、トンと、駆ける足を踏み出した。
「そうだと、嬉しいですね。………ラビ、やっと宿見えましたよ」
話はそれで終わりと言うように、少年は微笑んで青年に振り返った。もう夕日も落ちかけて、残る陽射しは僅かだ。微かに暗さを持ち始めた空の下、それでもまだ明るく透き通る白い髪が揺れた。
「みんな待たせたから、謝らないとですね」
楽しげなその笑みは、もう先程の痛みなど知らぬかのようだ。切り替えの早さはきっと、そうしなくては生きられなかっただろう彼の、命綱にも似たスキルだろう。
それを見つめ、微かな痛みを飲み込んで、青年も笑んだ。
返された笑みに安堵したように駆ける足を早めた少年は、宿の窓からこちらに手を振る少女を見つけ、その名を呼んでいる。心配そうな顔をしていた少女が、途端破顔するのもいつもの事だ。
似合いの2人だろう。どちらにもその気がないのが惜しいくらいに。思い、先を行く背中を見つめ、青年は笑みの奥底、翡翠を暗く染め上げた。………大丈夫、今ならばきっと、少年も気付かない。この距離ならば、この目の色まで見える事はないのだから。
そうしてい小さく、彼に向かって呟く。聞こえる筈のない、確認の言葉を。
「………ちゃんと、俺は言ったさ、アレン」
今日あった事、おそらくは全部流してしまうつもりらしい少年は、すぐに部屋から降りて来たのだろう、宿の入口から顔を見せた少女に遅れた事を謝っている。
まだ未発達の背中を見据え、唇を歪ませるように青年は笑んだ。
「さて、どうやって捕まえてみるかねぇ」
自分を数にも入れていない相手を、欲しいなど。………笑える程に見込みがない。思い、クツリと青年は笑う。そんなこと、もう既にたった今、嫌になる程思い知ったばかりだ。
けれどもう、諦める気もないのだから、我ながら呆れ果てそうだ。
こんなにも執着していた事自体、想定外だ。つい何時間か前には笑って彼との距離を把握していると師に豪語したばかりだというのに。
たかだかこの午後の数時間で、よくぞここまで変わったものだ。同じ問いを師にされて、今の自分はなんと答えるのだろう。まずはそこから答えを用意し、師の事を欺けるか試さなくてはいけないだろうか。
もっとも、あの師にそれが通じるとも思えない。明らかに、老人はこの執着の深さを知っている風だった。
ならば自覚はおそらく、もっと以前からしていたのだろう。あるいは………少年に構うようになったその頃から、か。だとしたらとんだ間抜けさ加減だ。
それだけの時間をかけて押し殺し引き裂き潰すのではなく、ひっそりと誰の目にも映らぬように隠し持って己の目からすら守り通し、殺せなくなるまで育てているなんて。
今からそれを消去しようかと、ちらりと考え、青年はその笑みを深めた。
………もう、手遅れだ。どう足掻こうと、無くせる筈もない。そう己自身に確認させる為のような逡巡と思索を経て、青年はその笑みを常の陽気なものに変える。
振り返りこちらに声をかける少年に何も気付かせる事なく、青年は宿の入口で待つ二人のもとに駆け寄った。
寂しい悲しい独りぼっちの少年。
何も持たないこの腕で、捕らえられるか、否か。
解らない、など、言ってはあげない。
捕らえて、みせよう。その悲しみごと、全部。
………だからどうか、この腕の中、堕ちてきて。
前 次
久しぶりの長さに、ちょっとかなりキツかったですよ(汗)
………いや、キツさの大部分は兎のせいですけれど。無自覚と自覚の間をウロウロされると、こう、こっちでは怖いけどこっちでは優しげ?みたいに一貫性がない。
しかもどこまでが計算でどこからが本心なのかを表現するのメチャ難しい?!と、今更気付いて難航しましたよ。書ききれてよかったね、今回。まだ全然先が長いけど(吐血)
さて、自覚はしてもちょっとばっかし厄介度が増すだけじゃないかと思われる兎さん。
一応意地悪はしないつもり…ですよ、本人。自覚して意地悪したのは今回だけですから。
………うん、この性格からして、無自覚でざくっと何かやらかす可能性の方が高いですけどね。
でも次回で書くブックマンとアレンのお話部分で、そんな兎と対抗出来るアレンさんが出現する……といいな!いや、今も十分対抗(むしろ優勢)していますけどね。
11.4.23