あちらの丘にいるはずだから。

そういわれて、ここにいる自分以外の唯一の子供を探しにいった。
険しいわけでもない道。
澄んだ空気と清涼な水の気配。
木立の震える音が耳に心地よかった。
そうして、開けた道の先、木に寄りかかる子供を見つけた。

初めて見る綺麗な色彩。太陽のように輝く髪。
目を瞬かせて、その色を見つめた。
気配に気付いた子供の睫毛が震え
不機嫌そうな眼差しが開かれた後も、惚けたように。





水の底に棲まうモノ



 日差しを見上げながら軽く息をついた。肌を焼く陽光は心地よい暖かさだ。
 修行を始めてからの、初めての丸一日の休養だった。大人たちは何か会合があるらしくみんな出払ってしまった。
 一緒についていくことも出来たけれど、それを拒んで一人居残る子供が気掛かりで、自分もまた首を振った。どこに行くにも忠犬のように傍に控えていた自分の初めての拒否に、父は大体理由を察したのだろう、優しく笑んで頭を撫でてくれた。
 父にしては珍しい子供扱いを思い出し、少し赤らめた頬のまま思い出すように己の手を髪に埋める。小さな自分の手ではとても再現出来ないあの頼もしい手のひらの感触。
 「………なにやってんだ」
 ぼんやりと大人たちが駆けていった空の先を見ていた子供は、間近から聞こえた声にぎょっとして目を丸める。
 気配が薄いと自分もよくいわれるが、いま傍にいる子供はそれ以上だ。気配を消すことを日常にしているせいで、すっかりそれが当たり前になってしまっている。
 跳ね上がった鼓動を隠し、小さく飲んだ息を引き結んだ唇に隠して軽く首を動かす。想像どおりすぐ目の前に金色の髪が揺らめいた。
 その髪は濡れそぼり、いつも以上に太陽の光に燦々と輝いている。
 「………アラシ、泳いでいたのか?」
 「いい天気だからな。それに、ほら、見てみろよ」
 機嫌がいいらしい相手はニッと普段よりも幼い笑みで手を差し出した。自分の手と大差ない小さな手のひらを覗くと、何か淡く光る乳白色の丸い石があった。
 綺麗なその石に驚き、子供は目を丸めた。今度の表情の変化は隠すことも出来ない。目を瞬かせて、触れたい衝動をなんとか耐えて凝視するのが精一杯だ。
 危うく伸びそうになった指先をなんとか自制し、子供はその石と相手の目とを交互に見つめた後、躊躇いがちに問いかける。
 「この石……お前が見つけたのか?」
 感嘆の溜め息とも思える吐息と一緒に告げられた声は、幼い中に憧憬ともとれる響きがあった。気を良くした子供は軽く顎を巡らせ、背後の海を示した。
 視界に映るのは切り立った崖と、その先に続く海と空。もっとも、ここくらいの崖であれば修行中にもっと険しい箇所を乗り越えている子供たちにとっては遊び場にほど近い。
 まして海に浸かった子供は海人界の住人だ。海を泳ぐことは息をすることに等しいほど慣れ親しんでいる。ほんの少しの羨望を胸裏に秘め、子供は相手の手のひらをただ見つめていた。

 つい今さっきまでは空を見上げて恋しそうにしていたくせに、子供の関心は今は別のものに移った。
 興味を持ったらしい子供を見つめ、笑いそうになるのを押さえながら、アラシは手にのせた真珠を指先で弄んだ。これだけ予想どおりの反応をしてくれると、持ってきた甲斐があるというものだ。
 「まだいくつかあったけどな。これが一番質がよさそうだったから」
 わざわざ大量に持ってきても邪魔だからと自慢げに子供がいった。別段、物欲があるわけではない。この真珠の価値がどれくらいか位は知っているから、持ってきたのも役に立つだろうと思った程度の理由だ。
 それがなんであるかも知らないらしい相手は、ただ厳かなものを見つめるように目を輝かせている。
 歳は同じはずだが、神経を張りつめさせた子供は、すれた自分でなくても可愛げがないと思わせるタイプだ。が、そのベールが拭われると面白いほどのギャップが見れた。
 いまも、そうだ。きっと大人たちはこの子供のこんな顔は知らないだろう。好奇心をかられてうずうずしている、幼い表情。後はたった一言で、この子供は容易く自分の意のままだ。
 「行ってみるか?」
 にやりと笑って問いかける。修行が休みといっても、一応、大人たちに与えられた課題はあった。それをまだ自分もこの子供も終わらせてはいない。だからこそ、彼は自分を探しにきたのだろう。
 それでも一緒に海に行ってみるかと、問いかける。あくまでも己の意志で選ばせるように。もっとも、選択肢は二つに見せかけて、もうすでに一つしか残されていないけれど。
 躊躇いがちに顔を持ち上げ、一度俯くような仕草。でも、その程度のもの、差し出した手を見れば霧散する。
 「……う、ん」
 戸惑いを孕んだまま、手が重なる。それを掴み、金の髪を風になびかせながら、ほくそ笑んで駆け出した。
 育ちのいい子供は上質の絹のようだ。穢れも知らないし、悪も知らない。それらを正し、慈しむ腕だけを知っている。
 だからこんなにも容易いのだ。それが甘露であることすら知らないから、取り違える。
 握った手のひらに微かに強く力を込めて、離す。もう崖の終わりは目の前だ。
 崖の切っ先、お互いに飛び込む標準を計算して足を踏み込む。中空に放り出された瞬間の、無重力。ついで失墜。態勢を整えて、海中へ。
 景気のいい飛沫の音とともに同じほどに深く潜り込んだ影は、自分が手を伸ばすより先に、その指先を向けて笑んだ。………いつものように柔らかい、今まで自分が彼以外に見たこともない笑みで。
 きっと大人たちは誰も知らない。きっと、自分以外、彼自身すら知らない。
 その甘やかさ。慎ましやかに与えられるいとけなさ。
 誰もそれを自分に与えなかった。そんなこと気にもかけていなかったのに、この子供は知らず自分に与える。おそらくは誰も知らないその笑みを。
 少し足を踏みはずし方向を違えれば、こちらだと声をかけるために歩み寄るのだ。………善を善として遂行することだけを知っている、生粋の命。
 伸ばされた指先を掴み、引き寄せる。子供は目を瞬かせながら、それでもその行為が先導するためのものなのだと思い、身を託した。
 もしもそのまま自分がより海の底に彼を連れ去ったらどうするつもりか。彼は考えてもいないのだろうことが、脳裏を掠める。
 ………彼の息が続かなくなるまで捕らえていたら、その顔は歪むのだろうか。
 ちらりと背後を伺うように首を巡らせれば、平気だというように笑んで頷く子供。人の情を善以外にとらえることのない、偏ったその性質。
 その指先を握りしめ、仕方なさそうにまた前方を見つめる。
 もう少し、もう少し。今はまだ、思い知らせるには早いから。
 貶めるため、傷つけるため。善以外の存在を刻み込むため。………そのための準備をしているのだ。それだけだ。
 そう心の奥で呟いて、水に溶けるように泳ぎながら、微かに眉を顰める。
 別に彼を求めているわけではない、と。
 ………無辜の情に絆されたわけではないと。
 一歩近付く度に言い聞かせ、顔を背ける。

 それでも掴むその指先を解くことはなかった。



 海の中は涼やかだった。心地よい日差しの暖かさとは違うが、けれど心安く感じる安堵感は自然物というその一点によって同一だった。
 こぽこぽと時折唇の端から空気の玉が零れ落ちる。大分潜っていたが、まだもう少し先らしい。軽く見遣った前方、自分の手を引いている子供の唇には空気の漏れ落ちる様子はない。
 考えてみれば自分と彼は違う種族だ。当然、生活環境が違う。それ故に彼は水中での呼気も空中のそれと大差なく行えるのだろう。名前以外はよく知らない、この修行によって得た友人は軽やかな口調とは裏腹に、己のことには寡黙だった。
 初め彼を迎えにいった時、綺麗な色彩に驚いた。今までこんな色を携えた生き物を間近で見たことはなかったから。ほんの少し尻込みしながらも顔をよく見てみれば、切れ長の目や意志の強そうな眉が幼なじみの少女に少し似ていて、何となく、親しみが持てた。
 思い出した初めての出会いのときのことに、くすりと子供は唇を動かした。それにつられてこぽりと、また空気が唇から漏れた。
 帰りのことも考えるとそう長くは潜っていられそうにない。が、もうそろそろ海底につくようだ。眼前に広がるサンゴ礁に目を奪われながら、腕を引き寄せられて先に進む。
 「ほら、あれだ」
 水の中なのに彼の声は耳に聞こえた。不思議そうに目を瞬かせると、相手はそれに気付いたのか、得意そうに唇に笑みをのせる。
 「声じゃねぇよ。水の振動だ」
 空気の振動の代わりに水の振動を使って音を伝えているのだと、空気も洩れない唇で教えてくれた。同じ形をした生き物なのに、やはり世界は広く知らないことは多い。やんわりと目を細め、愛おしむように水の中で響く音を聞いていると、途端に相手は顔を逸らした。
 ………それはたまにある仕草だ。まるで、逃げるような。
 首を傾げて少し離れた背中を見遣る。逸らされた顔と同時に離された手のひらは、水を掻くようにして彼にまた伸ばされる。
 気配だけでそれに気付いたのだろう、また耳に響く音。
 「オラ、こういう貝探せ」
 真珠は貝の中にあるんだ、といって、背を向けたまま彼は貝を探しはじめる。……そのふりをしている。
 案外自分を子供扱いして馬鹿にする彼は、その分時折見逃しがちだ。いくら自分でも、そんな演技に騙されるほど単純ではないということを。
 口腔内でだけ溜め息を落とし、憂いに染まった眉を眇めた視界に留め、それを拒む背中を見つめるが………振り返らないそれに途方もない距離を感じる。
 仕方なしに自分もまた彼の示した貝を探しはじめる。それが真珠という名前の石だといま知ったが、とても綺麗なものだった。墓前に捧げたらきっと優しいあの輝きを空にまで届けてくれる。
 そう思い、沈みかけた思考をまた明るいものに切り替えた。ちらりと頬に当たる彼の視線。先ほど自分が見遣ったことを気にかけているのか、忍ぶようにして伺っている。
 だからこそ、憂いを消さなくてはいけない。そう自身に言い聞かせ、気付かない振りをしたまま貝に手を伸ばす。どれも同じような気がするが、口を開けて見れも先ほどの綺麗な石は入っていなかった。
 残念そうに3つ目の貝を元に戻すと、呆れたような溜め息が肌に触れた。
 振り返ると、バツの悪そうな顔。ついで無言のまま伸ばされた手が手首を掴み、水中を軽やかに移動させる。
 そのまま誘導された先には隆起した海底の棚に乗る、いくつかの貝。自分が見たものとは若干種類が異なるのか、貝の表面のなだらかさが違った。首を傾げながら手を伸ばし、貝を取り上げた。海水の手助けで重みはまるで感じない。その口を開くと、ほんのりと乳白色のひだの上、先ほど見た美しい石がころりと転がった。
 淡い光沢を讃え、水中を踊るような煌めきが石に降り注ぐ。
 その様に顔を輝かせ、貝から零れ落ちた石を指先で摘まみ上げた。キラキラと乳白色の輝きが淡い日差しの欠片のように見えた。
 嬉しそうに破顔した子供を見遣り、腕を引いた子供は呆れたようにその顔を見る。間の抜けた顔を無防備に晒すものだと、顔を顰めながら。
 そんなことは気付かない子供は短い黒髪を水中に漂わせながら背後に浮いている子供に振り返る。感謝をを示すように笑んで礼を言葉にしようとした。………瞬間、相手が驚いたように目を見開いた。
 「馬鹿かっ!」
 そんな声が耳に届く。同時に、喉に刺激物が取り込まれた。それに驚いて咳き込むように空気が吐き出される。ゴポゴポと今までの比ではない量の泡が子供の口から逃げ出していった。
 ………すっかり忘れていたが、自分は水中では声を出せないのだ。あんまりにも当たり前に響いていた相手の音に、すっかり失念していた。
 ドジを踏んでしまった。これではとてもではないが地上に戻るまでの空気が足りない。それどころか、下手をすれば肺にまで水が浸入しかねなかった。
 喉を押さえるように掴み、必死に逃れていく空気を減らそうと口を押さえるが無駄な足掻きだ。霞みかけた視界より早く、喉を押さえていた腕が強く引っ張られた。
 生理的な涙で歪んだ視界の先、金色が揺らめいた。空の先にある太陽と同じ色。まだ呼気は苦しいけれど、地上に戻ったのだろうか。
 霞んだ意識が途切れかけた頃、喉を通った空気に肺が安堵したように動いた。
 ………けれどまだ肌も、その短い黒髪も水中を漂い続けたまま。
 うっすらと開けた瞼の先には歪んだままの風景。それでも見えるのは漂う金色の髪。太陽に透かされて水中で輝いている。
 近付くそれを確認するよりも、子供の意識が失われる方が若干早かった。
 「ちっ」
 軽く舌打ちをし、もう一度息を吹き込む。ぐったりと力をなくした体を抱えて泳ぐのはいくら海人界の出生といえど、まだ幼い体には負担だ。意識の回復を見込んでの行為は呆気無く目論見を外した。が、少なくとも地上に戻るまでの間くらいの猶予は与えられたはずだ。
 ほどなくして空気の濃厚な海面に顔を出した子供は、抱え上げるようにして意識をなくした子供を海面から引きはがす。肩に乗せた面からはか細いとは言え呼気らしいものは聞こえ、間に合ったことは伺えた。
 面倒だとは思いながらもそのまま水中を蹴り、体を空気中に浮かべる。水素量は劣るが、なんとか子供を抱えたままでも宙に浮かぶことは可能だった。
 辿々しくよろめきながらも遠くはない岸辺へと向かう。高低の差は大きいが、距離としてはたいしたものではなかった。一度海面まで上がれば、後はさして労苦はない。
 露出した岩肌の上までなんとか辿り着き、子供は肩に担いだままの相手をそこに転がした。口元に手をかざして確認すれば、微かに吐息が振れる。少し休ませればすぐに意識も回復するだろうと、無駄な労力に辟易とした息を落とす。
 ………別にあのままこの子供を水中に残してきてもよかった。
 自分に非があるわけではないし、彼がいなくなったところで自分には関わりがない。寝転がる相手を見下ろしながら、玲瓏な光を帯びた子供の瞳が眇められる。
 それでもあの瞬間、考えもしないで腕を引いた。息が途切れそうだと思ったから、自分の空気を分けた。いまならば馬鹿らしいと、そう思えるのに。
 まだ酸素が行き届いていないのか青ざめた顔のまま横たわる子供。別にどこにだっている、ただの生き物。
 ただ、笑うだけだ。………他の大人たちが知らないそれを、自分に与えるだけ。
 それは特別だからじゃなくて、ここに他に子供がいないという、選択の余地のない結果だ。たったそれだけだというのに。
 舌打ちをして、子供は拳を握りしめる。その苛立たしさを紛らわすように、眠る子供を睨んだ。
 青ざめたままの顔。酸素を取り込む僅かに開かれた唇。閉ざされた瞳は………ついさっき綻んで自分を見上げた。
 「…………………」
 まだ青い顔は酸素が足りないからだ。そう思い、ふらりと体が動く。
 空から注がれる太陽が陰り、子供の顔に影を落とす。その形が自分のシルエットと同じであることには目を瞑り、水中と同じような滑らかさで近付く。
 …………触れたところで交わることなどないと、知っているのに。
 それでもそのぬくもりを甘く思う唇を噛み締めて、子供は顔を顰めて寝転がった。もう少しすればこの子供も目を覚ます。それまで自分が休んでいても文句をいう相手はいない。
 顰めた眉をそのままに、子供は瞼を落とした。耳に触れるのは浅い彼の呼気。それに安堵したわけではないと一人心の内で呟きながら。
 暫くすると、緩やかな呼気の輪唱が静かに響いた。

 …………水に濡れた互いの髪が溶け合う様は、どちらも気付きはしなかった。








 今年もアラパーフィスティバル開催おめでとうございます。
 そんなわけで毎年の如く一番乗りで好き勝手書かせていただいてみました。
 ちなみに微妙に続き物(苦笑)

06.7.19