ガンガンと脳を揺すられるような感覚に吐き気を覚えた。それはどこか遥か上空から墜落したときのような不快感だった。
薄く目を開けて、意識がなかったことに気付く。ついで、上空にいるわけでもないことを認識した。体はどこか堅い場所……感触から言って岩に横たわっている状態だ。
鮮やかな青空が目に染みるように降り注いだ。
体がだるかった。瞼を持ち上げるのも面倒なほどだ。吐き気がまた込み上げて、顔を顰める。
「………起きたか?」
近くで声が聞こえた。よく知っているはずの声だ。
顔をそちらに向けて誰であるか確認しようとしたが、歪むように景色がねじ曲がり、その薄気味悪さに唇を引き締めて息を飲み込んだ。……その微かな動きにさえ喉が悲鳴を上げるように熱を覚えさせた。
さわりと風が動いた。声をかけた相手が動いたのだ。それは分かるが、まだ鈍った思考はそれに追い付かず、呼吸することすら痛みを伴うことにただ驚くばかりだ。
「………気のせいか」
また呟く声。どこか落胆したようなその音に、呼気を吐き出すのが精一杯の唇を動かした。
声は、出ない。呼吸のための空気の移動すら喉が焼けるように痛いのだ。無理に声を出せば悪化することは目に見えている。けれど、唇は動かせる。
相手が気付くかは分からないが、音を紡がないまま唇で言葉を紡いだ。
『だれ』
よく声が聞き取れないと示すように問いかければ、返ってきたのは無言だった。気付いてもらえなかったかと口を閉ざしかけた時、躊躇いを帯びながら目の上に何かがかぶさった。
小さい、それは手のひらだった。若干水滴が触れるが、それはほとんど乾いていた。それに触れて思い出す。自分は彼と一緒に海に潜ったのだ。そうしてドジを踏んで、溺れかけてしまった。
いま海の中に漂っていないということは彼が助けてくれたのだろう。迷惑をかけてしまったと項垂れることも出来ない姿勢のまま、心の内で溜め息を吐き出す。喉の痛みの理由も、まだ消えない頭痛の理由も合点がいき、知らず緊張していたらしい四肢が急速に力を手放していった。
まだもう少し回復に時間がかかるようだ。それでも日差しが明るいうちには立ち上がれるだろう。それならば今は少しでも早くに回復するよう、体を休めなくてはいけない。
…………それでも他者が傍にいるというその事実に若干の緊張を残していた体を意識的に宥めていると、小さな舌打ちが耳に届く。
ついで、重ねられた手のひらに少し力が込められる。瞼を押さえるというよりは、日差しの全てを隠すようだ。多分、それはもう一度眠れと、そういっているのだろう。決して言葉では優しさを示さない不器用な彼の、精一杯のいたわり。
どうしても無意識下にある警戒は解きがたい。特に、こんな風に自身の体を自由に動かせないときは。
けれど少なくと、いま傍にいる相手は敵意を向けてはおらず、拙いながらも気遣いを示してくれるから。それに応えるように沈む肉体に合わせて意識を眠らせた。
その瞬間に、ふと思い出して指先を蠢かせた。それは本当に小さな動きで、おそらく彼は気付かなかっただろう。そしてなんの手応えもない現実に、どこかで理解していたはずではあったが、落胆した。
綺麗な綺麗な石を探しにいったのだ。真珠という名前を持った、乳白色の淡く輝くそれ。彼が見つける手助けをしてくれて、やっと手にした真珠は、けれどやはりここに連れられてくる途中で落としてしまったらしい。
捧げることを約束したわけでもないのだから、墓石に眠る人はそれを責めるわけもない。それでも悲しくて、………寂しくて。微かに唇を開いて、無意識の言葉を綴る。
それは本当に緊張を解いたが故の無意識で、自分自身でも象ったことに驚いた。無音のままの音に彼が気付かないことを祈ってしまう。女々しい自分の未練など、誰にも知られたくはなかった。ましてこんな風に無様な姿を晒しているのだから、尚更だ。
いつものように顔を背けてくれているといい。瞼の上にある彼の体温を受け止めながら、意識を沈める直前にそんなことを思った。
水の底に棲まうモノ 2
手のひらにかかる瞼から意識の気配が失われた。また眠ったらしい相手の顔を視線だけで覗き込む。うっすらと開かれた唇はか細く呼気を繰り返すだけで、言葉を綴ろうとはしなかった。
軽く息を吐き出し、手を離そうと持ち上げた。瞬間、ひやりと皮膚が凍るような感覚に驚いて顔を向けてしまう。………逸らしたままでいたかっはずなのにと、顔を顰めて忌々しそうに舌打ちをした。
混じりあっていた皮膚が離れ、その隙間に空気が流れた。だから冷えたような、そんな感じがしただけだ。理屈では分かっていることだが、釈然としなくて顰められた顔は更に悪化した。
なんて人騒がせな子供なのかと、いっそこのままその髪を掴んでまた海にでも投げ入れてやりたい。人が眠ったと同時に目を覚ましたかと思えば、まだ回復もしていない状態で。珍しく素直に声をかけてやれば人のことに気付きもしない。
わかっては、いたのだ。まだ自分は彼にとって異質で、全幅の信頼など、おそらくは一生預けられることもない。まして預けられたいとも思わない。
それでもあの瞬間、苛立ちが体内を駆け巡った。誰だと、問われた。たったそれだけだというのに。
すぐに唇の動きには気付いたけれど、苛立った自身を否定する時間の分、反応が遅れてしまった。また声をかけるのも腹立たしくて、気付いたことだけを示すように目を覆った。あの目で自分を覗いて、また同じ言葉を綴られたくない、なんて。
そんな馬鹿らしい理由ではないと、また否定しながら顔を顰めた。
「………………」
それでもその直後の忌まわしさに比べればそれは可愛いものだったと、細めた視界で眠る彼を見下ろした。指先はまだ、彼のすぐ傍に取り残されたままだ。
自分だと、彼はすぐに気付いた。重ねた皮膚がそれを明確に自分に伝えた。そして同時に、彼が体を回復させるために眠ろうとしたことだって、分かった。
だからこそ気付いてしまう。最後の最後、彼は自分が傍にいるということで緊張をなくすことが出来なかった現実。
この地には彼の友人は誰もいない。子供は自分達だけだ。大人たちは聞き分けの良さで自分達の価値を判断したがる。だから、彼はいつも周りの反応をよく見て動いているいけ好かない種の人間だった。
それが父の負担にならないための精一杯の努力なのだとしても、自分から見れば気持ちの悪いなれ合いだ。だからこんな子供、相手になどしていなかったのに。
選択の余地などなく自分を選ばなくてはならない彼が、大人たちに見せることの出来ない子供の顔をのぞかせたとしても、それは別にたいした意味はない。………そう、理解していたし、その方が鬱陶しくなくて良かった。
「………………………………っ」
苛立ちが募る。吐き出しきれない呼気が喉奥で溜まった。それを消失させるための術を知っている指先が、躊躇いも知らずに再び他者の肌を這う。
瞼ではなく、頸動脈の上。まだ脈打つ力の弱いそれに触れ、浮かんだのは愉悦の笑み。
この指に力を加えれば、あっさりとこの命は事切れる。児戯にも等しい行為の甘みに、ぺろりと唇を舐めあげる。
微かに増す力に、相手の目が見開かれることを思う。そうして自分を写し、恐怖と絶望と、その奥底の裏切りへの悲しみを覗きたい。衝動は欲求に則した単純なものだった。
まだ小さなこの手のひらでも十分致死に至らすことの出来る、鍛える余地を未だ残した幼く細い首。舌舐めずりするように舌が唇を湿らせた。
顔を寄せ、はっきりと己の姿が相手に写るようにその目を覗く。まだ幕開け前の瞼は睫毛を震わせることもなく、眠ったままだ。恭しい仕草でその幕を引くように口吻けて、指先に力を込める。
酸素が再び薄くなれば、彼は目を覚ますだろう。彼はきちんと知っているから。ここが地上であり、豊富な酸素を取り入れて体を回復させている最中だ。
首にかけた指先の力を更に強め、子供は愛おしむように笑う。少し、彼の眉が歪んだ。そろそろ呼吸が苦しいのだろう。そうして開かれたその視界に自分が写れば、その顔は歪むだろうか。
人の性根を善としかとらえず、純然たる悪の存在を知らず。無知ともとれる清純さで、ただ人のためだけに生きることを願う愚かな子供。
自分とは全てが正反対の、この世にあるはずのない、至純の魂の器。
だから大人たち以上に、彼以上に、自分は知っている。この命はそう長くは生きられない。こんな風に綺麗に育って、戦う術など覚えられるわけがない。
今ここで朽ち果てた方が、きっと彼にとっては安らかだ。存外寝坊助らしい瞼を急かすように、今度は舌先で舐めあげた。微かな塩味に、海の中の彼を思い出す。
刺激に気付いたのか、うっすらと彼の睫毛が持ち上げられた。膜を敷いたように涙をたたえた瞳が僅かに開かれた。
「………………ぁ…?」
自分の名を綴るつもりだったらしい彼は、けれど声が出ないことに気付いたのか疑問を残したまま言葉を消した。
間近な自分の顔に、何を思うだろう。………その身に未だ刻まれたことのない、毒にも勝る悪意に、彼は何を思い示すのだろうか。
睫毛が揺れる。瞬きをして、自分を見上げた瞳のあどけなさ。
…………そうして歪めばいい。この世の全ては優しさなどではできていない。穢らわしく薄汚い、反吐のようなものこそが、一番の量を占めているのだ。
罵詈雑言こそを求めて見下ろした視界の先、子供はぼんやりとただ自分を見上げている。
そうして、唇が、動く。
「………………」
音を紡げないことは理解しているのか、唇だけで言葉を綴った。先ほどと同じその仕草。
…………ただ、自分の名を告げるだけの、動き。
それを終えたなら、子供はまた、目を閉じる。笑みすら浮かべた唇は、自分を罵る音を紡がない。
子供はまるで何事もなかったかのようにまた眠った。息苦しい、はずなのに。それこそ溺れたあのときと同じように、酸素は枯渇しているはずだ。
抵抗の意志すら示さないで。ただ、自分の名を呼んで。…………微笑んで。
なんて愚かでくだらない生き物っだろう。命の危険さえ、気付かないのか。つい今さっき、自分がいるというだけで、警戒さえ解けなかった癖に。
「…………………っ」
唇を噛み締めて、手を離した。呼気を途絶えさせた唇は青ざめている。まだ暖かいそれに触れて、歪めた眉をそのままに、求めるように口吻けた。
海水中での呼吸のやり取りと同じ行為。…………そのはずなのに、今の自分にはそれはひどく甘い。そして、同等以上に、苦かった。
殺してしまえば簡単だと、分かっているのに。屠る意志と同じように、彼を生かそうとする。
その事実が何よりも疎ましいと子供は固く目を閉ざす。
首筋には、指先の痣を。
唇には、呼気を。
屠る快楽。
触れる愉悦。
どちらをも求め、揺らめく天秤。
06.7.20