「………あれ?」
ふと漏れたような声が落ちた。
ようやく終えた課題の後、流石にお腹が空いたと意見が合い、お菓子をとりにいった。近くの村から炊事をまかなってくれている女性が作っておいてくれた今日のお菓子は、マドレーヌだった。昼食の際アラシが盗み食いしようと手を伸ばしたのをたしなめた時、シンタローにもそれが見て取れた。
機嫌良く食堂に足を運び、修行中はおやつの時間以外では口に出来ない甘いお菓子を手に取った。
そんな時、ちょうど窓ガラスに映った自身の姿を見て、シンタローが首を傾げて呟いたのだ。
なにをしているのかと、手にしたマドレーヌを一口齧りながらそちらを見遣る。ちょうど彼は訝しそうな顔で自分の首元をこすっているところだった。
「………なにやってんだ」
汚れていたのかと思い問いかけてみれば、首を振られた。そうしてシンタローはまた、覗き見るように窓に自分の顔を映している。半透明になった彼の像は不安定な色のまま、それでも写したい部分を象っていた。
その首筋にはまだ赤味の残る痣があった。窓ガラスに写る程度では判別がつきづらいそれは、明らかに先ほど、アラシの手によって与えられた傷跡だ。
それに気付き、アラシは口の中の甘いマドレーヌを噛み締めることを忘れた。一度は呼吸を止めてしまうほどの強さの力だったのだ。当然、痣くらいは残る。そんなことさえ気づかないなど、失態もいいところだ。
何といって誤魔化そうかと考えたのは、けれど一瞬にも満たなかった。痣の真相を知らないシンタローはただ首をひねって指先でその痕を辿るばかりで、その顔に不審な様子はまるで浮かんではいなかった。
下手に何かいうよりはと口を噤んでシンタローの様子を窺っていると、彼は振り返り、首を傾げて問いかけるようにいった。
「ほら…海でぶつけたかな?」
痣みたいだと、幼い指先が自身の首をなぞる。頸動脈の上、細長く鬱血した痕がある。……明らかに自分がその首に手をかけた証だ。
それを知っているアラシは少しだけ顔を顰め、けれど都合のいい勘違いを肯定するように頷いた。本当に微かな顎の動きは、微妙に口を動かしているだけにも見えた。ついでのようにアラシはそのまま放置されていた口の中のマドレーヌを咀嚼して飲み込んだ。甘いはずのそれは、けれど味などないような気がした。
なにも覚えていないらしい子供は不思議そうに彼を見遣った。が、意識を失った間にどこかぶつけたのかもしれないと一人で勝手に納得し、また首元をこすった。
それを見ながらアラシは手にしていたマドレーヌをまた皿に戻し、仕方なさそうに歩を進めた。シンタローの立つ位置とは逆の方向に。
………彼は容易く偶然だろうと信じているが、さすがに大人たちは誤魔化せないだろう。彼らは自分の危険性を知っているし、それを矯正するための意味も込められた修行だ。当然、彼以上に自分への監視は強いし、彼への自分の態度は逐一見張られていると考えた方が懸命だ。
彼らが許す以上の何かがあればなにかしらの形で束縛が増えたり、それによって彼と引き離される可能性も少なくない。そもそも、本来であれば同世代を集めて行うはずのこの修行の場に、いくらレベルが高いからといっても二人きりなどあり得ないのだ。慣例を無視してまでもそれを敢行したのは、ひとえに、自分という危険因子に対抗出来る子供のみを招いたからに過ぎない。
そんなことは露知らず、大人の説明を鵜呑みしている彼は、それ故にたった一人同じ立場の自分を少しでも理解しようと歩み寄ってくるのだろうけれど。
軽く息を吐き出し、肚の内に湧いた面白味のない感情を唾棄する。そうしてアラシは顔も向けずに手を振り、シンタローを招き寄せた。わざわざ見る必要もない。他者の視線が自分の背中に寄せられたことは、気配だけで十分わかる。
招きに応じてシンタローが歩む。………小さな足音さえも消して歩み寄る気配。それを背中で感じながら、アラシは室内に備え付けられている救急箱を取り出した。
少し顰められた顔のままシンタローが近付く。それは常に乗せられている表情。辺りを見回し、最善を選び取ろうとする、子供らしからぬ深慮故の、感情の重みを落とした表情。
相変わらず彼は不安とか戸惑いとかを表すことが少ない。それは子供同士、たとえ二人きりであったとしても変わらない。
………他者が揺らめかしたなら、ようやく揺れる球体であったことを思い出したように揺らめく子供。己のみではそれに気付けない、子供。
あまり見ていて気分の良くないその顔を無意識に視界から排除し、アラシは手元の救急箱を開けた。それに倣うようにしてシンタローもまた、救急箱を覗き込む。簡単な処置なら己で行うようにと、大衆の集まる場所には必ず一つ救急箱が設置されていた。中身はどれも同じで、修行初日にそれらの説明を二人で受けた。
だから大体中身はお互い把握していた。シンタローは手を伸ばして軟膏の置かれている辺りに指先を向ける。その瞬間の、僅かな隙を縫うように、唐突にアラシの指が伸びてシンタローの顎に手をかけた。
知らず筋肉が硬直して警戒をしくシンタローに、呆れたようにアラシが鼻先で笑った。そうなることは予想していたにもかかわらず、それでも湧く感情をあしらうように。
怯えたような自身の反応に恥じたのか、シンタローの目元が少しだけ紅潮する。が、すぐに平常心を取り戻し、出来得る限り体から力を抜いた。状況から考えて、アラシが首の痣の様子を見ようとしていることくらい、シンタローにも理解できたから。ただどうしても予期せぬ接触には体が勝手に反応してしまう。善くも悪くもそういった部分は幼いが故に鋭敏だった。
力を抜いた相手に面白くなさそうに半眼のまま、アラシは指先に力を込めて軽く横を向かせた。よく見えるようになった首筋には、くっきりと自分の指跡が残っていた。左右どちらもを確認したが、聞き手で押さえた左側の鬱血の方がよりひどかった。
ある種、濃さこそ違えどシンメトリーとなっているその傷は、誰が見ても原因は明白だった。
鏡で見たなら彼でさえ疑うだろう、その痕。硝子になど写さずに鏡を覗いていればさぞ面白いことになっただろうと心の内でほくそ笑んだ。
この子供は自分が触れるということさえ、受け入れないのだから。そんな生き物がもしも鼓動を盗みたいと望んでいると知れば、近付くことすら拒むだろう。潔癖ともいえる彼の性情は、純然たる善だ。………自分とは逆だと、アラシはくつくつと喉奥だけで笑った。
「…………なんだよ」
自分の反応を面白がっていると勘違いしたのか、少しだけ幼い声でシンタローが咎めるように声をかける。より赤く熟れた目元が羞恥を示していた。
都合のいい彼の思い違いに乗り、アラシはにやりと口元を歪め、顎先に添えていた指をずらすと、そのままシンタローの首に手をかけた。ぴったりと、片方の痣と指が重なった。鏡どころか硝子さえ傍にないため、シンタローには確認出来るはずのない合致。
それに薄く笑う。滲み出そうな悦楽をからかう声音で覆い隠し、軽く指先を蠢かした。とくとくと肌に触れる脈が、ひどく甘い菓子のようだ。
「本当、シンちゃんってチキンだな」
「怖かったわけじゃない。……いきなり触られると、誰にだってなる」
それは言い訳のような事実。否定もしないであっさりと認めている己の悪癖を、多少なりともシンタローは恥じてもいた。決して信頼していないとか、そんな理由ではなく、父ですら触れることが少ないため、触れることにも触れられることにもあまり慣れていない。だからこその過敏な反応だと、シンタローはそう自身に言い聞かせていた。
そんな物思いが手に取るように見えて、アラシは辟易とした。鋭いのか鈍いのか、よく分からない子供だ。ずっと、他者に見られ続け比べられ続けたせいか、彼は人の視線や触れる体温にひどく敏感だ。まるで針先で突かれているのかと疑いたくなるほど身体を強張らせる。それは不馴れなどという理由ではない。他者が植え付けた、ある種の恐怖故、だ。
そしてそれは正しくもある。自分のような種の生き物がいると、きっと彼は本能で知っている。それを凌駕してしまう理性と自制心など、自分達ぐらいの奔放さを許されるべき年齢にはそぐわない。
顔を伏せるように逸らし、申し訳なさそうに顔を顰めているシンタローの頬を見ながら、アラシは笑う。
いまもまだその首には自分の手がかけられていながら、その幼い肢体は委ねるかのように筋肉を弛緩させている。体内では多少なりとも警鐘が鳴り響いているであろうに、だ。
………愚かしい、それは信頼だろうか。
それとも申し訳なさからくる、謝罪の証か。
どちらにせよ、その反応はあまりに幼い。言い訳すら思い付かず、自分を否定するだけの材料を持ち合わせていながらもそれを選べない、希望と願望故の綯い交ぜになった献身。
今はまだそれに牙を剥き出す意味はないとアラシは意地の悪い笑みを浮かべたまま、ぺちりとその首を叩いた。
折角いまはまだ奪わずに生かしておこうと決めたのだ。そう容易く採取するわけにはいかない。もっと……もっと彼は鮮やかに華開く。こんな環境ではなく、彼が彼の言葉を紡げるようになったなら。
そうしたら、その息を奪いにいこう。そう、決めたから。
いまは呼気を飲み込む合間にその衝動を飲み込み、顔を顰めた彼に、変わらない顔のまま薬を放り投げた。
「とりあえず、軟膏塗って、なんかでガードしとけ。見つかるとうるせぇからな」
溺れたこともばれたくはないだろうと暗に仄めかしアラシが言えば、一瞬だけシンタローは思案するように唇を噛んだ。それを横目に見ながらアラシは軽く息を吐き出す。………相変わらずいい子ちゃんだと、吐き捨てるように。
「う…ん……。じゃあ、ガーゼでも当てておく」
アラシの反応に小さく苦笑を落とし、シンタローは救急箱からガーゼとテープも取り出した。
返答に躊躇いを少し残したのは、おそらく仰々しくすることで傷をアピールしてしまうからだろう。それでも少しでも早く治すことを優先するのは、足手まといになりたくないからだ。
それが自分に対しての感情か、大人たちに対しての感情かまでは分からないが、彼はあまりにも人の荷になることを厭い過ぎる。それ故に、彼は孤独でもあった。アラシとは質の異なる、単独種。
たとえシンタローが消え失せたとしてもきっとここの大人たちはしばらくの間気付かない。いい子だということは、そういうことだ。意識されず、視界に残されない影のような個体。大丈夫だというフィルターが見落としてしまう。
それは、悲鳴や嘆きなども含め、全てを手放し一人あることを奨励するような残酷さ。
だから大人は浅ましいとアラシは眇めた視界で窓の外を見遣った。自分が弱者を踏み付けることは禁じるくせに、自身が踏み付けていることには気付かない。取り繕い弁明し、責任を逃れようとする軽薄さは、生きるに値などしない。
いまはまだ大人の社会に従事しなくては生きられない、そんな脆弱さが恨めしい。早く、彼らに従わずともいられるようになりたかった。
「なあアラシ」
窓の外を睨んでいたなら、不意に耳に割り込んできたシンタローの声は、俄に明るいものになっていた。
いぶかしんで顔を向けてみれば、見当違いな場所にガーゼを当てているシンタローが目に写った。気付いていないのか、シンタローはそのままテープを貼付け固定してしまう。
「お菓子もって、外に行かないか」
「はぁ?」
なんでわざわざと痣を隠すことなく貼付けられたガーゼに手を伸ばし、それを剥がす。今度は予想していたせいか、シンタローの体は強張ることなく、ただ不思議そうに見上げるだけだった。
もう一枚ガーゼを取り出しながら、続きを促すように視線だけでシンタローを見遣る。と、意図に気付いて首を差し出しながらシンタローが答えた。
「この間いった西の森に、木いちごがなっていたから」
一緒に食べないかと、子供は笑う。まるで断られることを考えていないような顔で。
それに一瞬だけ目を丸め、アラシは不要なまでに強い力でガーゼを首に押し当てると、テープで固定した。顰めたような顔は、けれど不快は浮かべておらず、拗ねた子供のようだ。
それを承諾と受け取り、シンタローが立ち上がった。まだ右側の痣にはガーゼを当ててはいなかったが、左に比べればさして目立ちもしないかとあえてアラシもなにもいわない。
「飲み物も持っていくか。………なんだかピクニックみたいだな」
くすくすと楽しそうにシンタローが呟く。どこかそれは遠い記憶を探るような、そんな懐かしさと寂寞を孕みながら。
立ち上がり救急箱をしまっているシンタローを横目に、アラシは先ほどの齧りかけのマドレーヌをもう一度取り出して口に含もうとする。それを見咎めて、シンタローの眉が寄った。たったいま持っていこうといったのにと文句を言おうと口を開いた瞬間、盛大なお腹の音が響いた。
それが明らかに自分の腹から鳴ったことを自覚しているシンタローの顔が真っ赤に染まる。自覚はないものの今日一日で数度の生死を彷徨う経験をしたのだ。自然、体力も消耗しているし、エネルギーも枯渇している。
「なんだ、シンちゃんずいぶん威勢がいいな」
にやにやと自分を睨んでいたシンタローをからかうようにアラシがいった。お腹が空いているのはお互い様というように。
アラシの齧ったマドレーヌのせいで甘い香りが満ちていて、どうしたってお腹が刺激されてしまう。恨めしそうにアラシを睨み、けれど皿の中から一つだけ、シンタローもマドレーヌを取り出した。
一口それを齧れば甘い香りとともに口腔内で溶けるようだ。思いの外美味しく感じるのはひどくお腹が空いているせいだろうか。
もう一口とシンタローが口を開けると、突然アラシが手の中のマドレーヌを盗み、それを食べはじめてしまった。
「ってオイ! 自分の分持ってるだろ!」
いきなり横取りされてしまったマドレーヌを取りかえそうと手を伸ばすと、押し付けられたのは先ほどアラシが食べていたらしいマドレーヌ。独り占めするつもりではないらしいと文句を言うのを止めたシンタローは、けれどアラシが何をやりたいのか分からなくて首を傾げる。
同じ材料で作られたはずの、同じマドレーヌだ。どれをとろうと味が変わるはずがない。
変な奴だとアラシを見遣り、そのまま押し付けられたマドレーヌを口にする。既に半分以上自分のマドレーヌは食べられてしまっているのだから、大人しくこれを食べるしかなかった。
「先に食べるのは一つにしておけよ。あと飲み物は…っと」
持っていくものを見繕うように食堂の奥に進んでいくシンタローの背中を眺めながら、アラシは最後のひと欠片を口の中に放り込んだ。
自分が食べたマドレーヌは味なんてしないような気がした。甘くいい香りがするくせに、ざらついて感じたのに。
「…………………」
小さく舌打ちをして、アラシもまた自分の分の飲み物をとりにシンタローの後を追う。木いちごも採るというなら、彼のいうようにマドレーヌは残しておいた方がいいだろうともう一つ手にとりたい誘惑を振り切って。
…………わかっているのだ。どうせさっき食べたマドレーヌほど他のマドレーヌは甘くない。
まるで子供のような顔をして、美味しそうに口にしていた。だからきっと自分のより美味しいのだろう、なんて。
そうしてそれが本当に甘い、なんて。
馬鹿げた話だと、前方にいる子供を見遣る。
甘く甘い、蜜の味。とろける菓子の舌触り。
自覚したならもう遅い。
他の誰にも与えない。
………甘く甘い、とろける菓子をもつ君を。
せっかくなのでお菓子の時間もプラスしてみました(笑)
お菓子の時間は彼らの年齢からいって、過酷だろう修行での消費カロリーの膨大さを3食だけでまかなえるのかなーと。途中でカロリー補給しないとついていけないと思うのです。それになにより子供にとっての楽しみがまるでない場所だから、それくらいは大目に見よう、という心意気で。
でもシンタローに『おやつの時間』といわせたとき、なんて似合わないんだと、何度書き直そうと思ったか! 子供のときの方がお菓子が似合わないなんて因果な人だな、パーパ(笑)
遊びの時間を与えるのは自由な発想を持たせるという意味でも重要だと思うんですよね。マニュアル通りにしか動けない人間は生きているとは言えないですし。
大人の目が必要ではあるけど、その合間、少しでもいいから子供が自分で考えて行動できる自由を与えたいと思います。大人の反応を気にして、じゃなく。
とはいっても私は自分の理想の保育を体現出来る器じゃなくて保育の道から離れた人間ですから(苦笑)偉そうなことは言えないのですけどね。20歳程度の若造だった頃の話ですし、高望みですけどね。
何十人という子供を取りこぼすことなく寄り添える、というのは難しいです。だからこそせめて自分の書く小説の中出くらい、自分の思う通りの行動を示してくれる人を出したくなります。子供には幸せになってほしいし、たっぷり愛情を感じても欲しいので。
…………でもこの二人には微妙に見当外れな話ですね。片や愛情も幸せもあるけどそれに雁字搦めで、片やそんなもの鼻で笑うような奴だから(笑)
06.7.30