水の底に棲まうもの 4
課題はそんなたいしたものではなかった。監視者がいないのだから基礎トレーニングなどは自己鍛錬だったし、あと与えられたのは純粋な知能勝負。お子様向きではないかと思える漢字の書き取りや算数のドリルに顔を引き攣らせそうになる。
ようやく帰ってきた宿舎で早速課題に取り組んでいる生真面目な子供を横目に辟易を息を吐き出す。こんなもの、わざわざやらなくてもとうにお互い理解し終えている。復習もいいところだ。
「………ガキの夏休みの宿題かよ」
それでも確実性に磨きをかけるかのように与えられたそれは、まるで長期休暇中に忘れないようにと与えられる宿題のようだ。………明日になれば数段上のレベルの問題を特にも関わらず、一体何がしたいのだろうか。
修行中だからといって勉学が免除されるわけではない。実際、毎日学習時間は設けられている。が、それにしてもこんなものを真面目に取り組む気にもならない。
「アラシ? おやつまでには終わる量だから、さっさと済ませろよ」
いつまでたっても本を開こうともしない自分をたしなめるように子供が声をかける。ページを手繰る音を聞く限り、彼の課題は後2ページで終了だろう。
それを計算しながら机に突っ伏し、軽く手を振った。
「シンちゃんが終わったら写すから、それまで休憩」
「…………堂々と悪いことをいうなよ」
「別にこんな問題お互いまちがわねぇだろ」
それならわざわざ二人で取り組む意味がないと相手の言葉を退ければ、呆れたような溜め息が聞こえた。
「だからみんな、これを選んだんだろ」
馬鹿にしたような課題を感謝するように子供はいった。どう考えても自分達のレベルには合わないそれを、一体どうして快く受け入れるのか。自分には理解できない相手の性情に眉を顰め、何をいっているのかと疑問をのせて子供を見上げた。
さらさらと鉛筆が何かを書き込む音が肌に触れる。ひどく優しい音だ。微かなそれは、どこかさざ波にも似ていた。
瞼をくすぐるような音に耳を澄ませれば、彼の幼い声が降り注ぐ。
「たまには遊べるようにって。でも、課題は出さないと、駄目だから」
だからこんな容易いものを与えられた。自分達がここに来てから自由というものはほとんどなく、いつだって大人たちに監視されていた。そのストレスは通常の子供には堪え難いものだ。
もっと幼い子供であれば間近に人がいることを喜び、そうでなければ生きられないかもしれないが、自分達はもう大人の手を離れ駆けることが出来るから。
もっとも、と。目を細めて課題に勤しむ子供を見ながら唇が歪むのを押さえられない。運良く机に突っ伏した状態のため、それは腕に隠され子供に気付かれることはなかったが。
もう大人を必要としない自分達。分かっていながら、この子供はあえて大人の良しとする姿であろうと努めている。その理由もまた、単純極まりない。
さらさらと彼の描く文字が醸す音が室内に響く。柔らかい音。目を瞑り、それに耳を澄ませ、苦味が込み上げることを阻止した。
煌めく水面の中、笑う彼を思い出す。真珠を見つけてあどけなく、愛しそうに笑う。その価値を知りもせず、ただ美しいと、それだけで彼は笑う。それは純然たる讃美だ。
それと同じ瞳で彼は時折自分を見るのだ。大人たちに疎まれ、子供には恐れられる、自分を。世の中への反発心すらなく、怠惰でもなく、ただ己が欲求のためだけに生きると決めた、自分を。
さらさら響く鉛筆の音。微かな彼の呼気。途切れることなく紡がれた、彼の鼓動。
甘くあたたかな体温を思い、ざわめく肌を打ち消すように、息を飲み込む。
いつかその煌めきを奪うのは自分だけれど、それまでの間、彼は自分のものだ。自分が生かしたのだから、それはもう、自分の所有物。
そう、言い聞かせて。そう、思い込んで。……………そう、決めつけて。
澄んだ子供の声が歪み、絶望と悲嘆に染まって自分の名を呼ぶそのときを、思う。
…………それは苦味や痛み以上の、高揚。甘く逃れがたい、悦楽。
いつかは、と、そう呟いて、耳に響く音を求め、室内の空気を探れる。そうしたなら不意に動いたのは、気配。
「ほら、終わったぞ」
呆れたような、仕方なさそうな声でそういって、子供は手にしたノートで自分の頭を軽く叩いた。
目を丸め、顔を机から引き剥がす。差し出されたままのノートの先には、少しだけ仏頂面の、子供。悪いことだと分かっていながら甘やかすことに、おそらく罪悪感があるのだろう。自分にではなく、きっと彼の父に。
与えられたノートと彼の顔を見比べて、人の悪い笑みで、笑う。それに気付いて彼は少し顔を顰めて、視線を逸らした。
からかわれるかと思っていた予想に反してアラシはそのまま素直にノートを開き、答えの部分だけを見ながらすぐに書き写していく。意外そうに子供はその様を眺め、ついで時計を見上げた。
まだ大人たちが帰ってくるまで時間はある。喉の調子も戻ったし、体のだるさもなくなった。自分よりも疲れていそうな相手は、けれど平然としている。もう少しなら、自由に動いても大丈夫だ。
子供は顰めた顔を消し、機嫌良さそうにポケットに入れた真珠を取り出して、ころころと机の上で転がした。カリカリと乱暴にノートに数字を記入しながら、視界の端にそれをおさめた。
まだ起きたばかりの時にそれを確認しても気付いていなかったのか、彼は特に傷付き欠けた真珠への落胆を示しはしなかった。今もまた、転がしながら別段気にした風もなくその淡い輝きに目を細めている。
「………なあシンちゃん」
算数の課題を写し終え、ノートを閉じるのと同時に声をかける。差し出されたてにノートを渡し、瞬く瞳の疑問に答えるように、問いかけた。
「それ、捨てねぇの?」
「…………………………は?」
至極あっさりとした自分の言葉に驚いたような顔をして、不審そうに眉を顰め、彼は逆に問うように間の抜けた声を出す。
ぴたりと真珠を転がしていた指先が止まり、自分とそれを交互に見る彼の視線は不可解という言葉が映し出されていた。
暫しの沈黙を互いに落とした。相手の言葉の意味が分からないと、どちらの顔にもそれがありありと描かれている。
もう既に価値のない真珠など持っていても意味はない。一体何が楽しくてそれを大切そうに携えているのか、自分には理解ができなかった。
落胆して捨てると思っていたのに、彼は自分に感謝を示し、欠けた姿を認識してもそれに変化がない。
目論見と結果が一致しないことは、こと彼に関しては珍しいことでもないが、それでも互いの尺度の違い故か、原因から結果に移る過程がどうしても特定できなかった。
いくつかの解答を脳裏に浮かべながらも、そのどれもが反応に帰着しない。アラシは不可解なものを見るようにシンタローを見遣った。その先に映し出されたのは、躊躇いをたたえて揺れる、彼の大きな瞳。
「………アラシ、欲しいのか?」
「はぁ?」
唐突に返されたまるでチグハグの言葉に即与えられた返答は疑問を孕んだ、否定。
それにほっと息を吐き、彼はまた真珠を指先で弄ぶ。つまみ上げたそれをしげしげと眺め、なだらかな面と、傷付きざらついた面を同じようにさすった。
それはやはり大切そうで、無価値の真珠へ与えるには少々過ぎたものだ。
「欠けた真珠に価値なんてねぇぞ」
もしかして気付いていないのかと、意地悪く言葉にかえた事柄に、彼は目を瞬かせて首を傾げる。ひどく無防備な、素のままの子供の表情。
それは不思議そうに瞬いて、指先の傷付いた真珠を見つめた。まろみある表面は欠け、痛々しかった。けれどその美しい光沢も清純な風味を内包した乳白色の肌も変わりはしない。美しいものは美しいまま、変化はなかった。
それに価値がないと指摘する相手の言葉をはかりかね、子供は問いかける。
「価値なら、あるだろう?」
「ねぇよ。そんなん無一文だ」
返される声には、どこか苛立たしい響き。与える情報に愚鈍に反応するだけの子供に苛立たしそうに声が棘ついた。
それに気付いてもやはり理由が分からない子供は眉を顰め、困ったように、いうのだ。
「なんで? こんなに綺麗じゃないか」
自分が美しいと思うのなら、それには価値があるのだと、子供はいう。………傷付き壊れかけていても、その痛々しささえ美しいと思うなら、そこに価値が内包される。だから大切なのだと、いうように。
抱きしめるように、傷付いた真珠をその手のひらに包みながら。
そうして、笑った。あの、微笑みで。………まるで自分に与えられているかのような、その柔らかさ。
「おめでてぇ価値だな」
込み上げてくる何かから目を逸らすように子供から視線を逸らし、つまらなそうに呟いた。
仕方なさそうに彼が目を細める様さえ分かるようで、視線は戻せない。
「傷がないから綺麗なわけじゃ、ないだろ」
それを愛でるかのように、彼が呟いた。やんわりと触れる子供の声が、耳を震わせる。
…………それはいっそ毒にも似た、甘やかさ。
ゆらゆらゆらゆら。そんな感じのアラシ。でも結局揺れる対象はシンタローにだけ。
多分気付いてしまえばあっさりと認めてしまうんでしょうけど。
…………干渉の度合いが他者への思いの強さだというなら、屠る行為は最大の干渉だから。
だからこその禁忌が、甘美と感じる歪みはまあ……アラシだから(苦笑)
06.7.24