空には満月
今年最後の満月
うっすら雲に遮られ
星明かりは瞬きもしない
何者にも捕われず
何者にも縋らず
何者をも求めない
ただ闇夜の中で
太陽だけを探している
まるでそれは、と
………苛立たしさに奥歯を噛み締めた
01.月光の降る夜
うとうとと半ば閉じかけた瞼をもう一度なんとか持ち上げた。それに気付いたのか、酒を手酌で飲んでいる男が喉奥で笑う気配が隣からした。
むっと面白くない気持ちが持ち上がりかけるが、押し寄せる眠気に適わずに霧散する。
船を漕ぎはじめる自身の頭の揺れ動きが手に取るように解っても、それを押し止めるのは難しい。いっそそのまま快い眠りにでも誘われたいが、いかんせん今現在一緒にいる人物を思い出すだけで眠ることは憚られた。
時折何の意味もなく唐突に人の家に押し掛けては、よく解らない理屈を言ってのけて自分を連れ出す幼馴染み。
幼馴染みという言葉でくくるには少々自分達の関係は複雑だし、諍いがないわけでも禍根が消えたわけでもない。それは自分にあるというより相手にあるのだから、どうしようもないことではあったが。
眠りに陥りそうな眼差しのまま、隣の男を見遣った。ちょうど酒を呷っている瞬間で、のけぞった喉は容易く掻き切れそうなほど無防備にさらされている。………もっともそんな真似を許すほど間抜けな人間ではないけれど。
もしも彼に牙を剥けば、彼はどんな相手であっても簡単に伐って捨てるだろう。それは自分でさえ例外ではない。それは正しいことなのかどうか、いつも判断に困ることだった。
少なくとも自分が同じ立場になった時、戦うべき相手であり倒さなければならない相手として彼と対峙したあの時。それでも幼い頃の一時の友好が自分の勘を鈍らせ、結果、全てを失った。
それは全てが自分の甘さ故の結果だ。彼を恨むのは筋違いだろう。それを理解しているからこそ、その事実に関しては彼への憤りはない。………己への腑甲斐無さはあるけれど。
あのままいっそ彼が殺してくれれば、こんな物思いもなかったのかもしれない。
ふとそんなことを思う。あの頃はそれこそ毎夜思い続けた。自ら命を絶って楽になどなれないからこそ、彼に殺されることは甘美な誘惑だった。
そのくせそんな時には決して彼は自分の前には現れないのだ。まるで差し出される命には興味がないとでもいうように、彼はあの頃姿を隠していた。殺そうと思えば容易く殺せた戦場でさえ、彼は自分を生かし、奈落に落とすように壊滅した部隊を見せつけた。
自分を殺すか部隊を壊滅させるか、どちらかの選択の中で選んだのは、より多くの命だと笑った彼を覚えている。それは聞きようによっては悔恨と怨嗟を求めてるように思えた。事実、その頃の自分にはそうとしか感じられなかった。
けれど、と。………今は違うことを思う。
うつらうつらと霞がかる思考の中で、今年最後の満月の光が染める地面が見えた。仄かな光はほんのりと草を染めるだけのささやかさだ。見上げてみなくとも満月が薄雲に隠されていることが解った。
それは濃密になったなら、いま隣にいる男を彩る色と同じ色彩。もっとも、彼は月というにはあまりにも図々しく尊大ではあるけれど。
そんな彼は自分を責め、自分を嬲り、ただ苛め邪魔をし続けることだけを生き甲斐としている。そのくせ、彼はどこかで自分の鼓動を求めてもいるのだ。
奇妙な矛盾だ。自分を殺すことにきっと彼は躊躇いも覚えない。事実、一度は彼に殺され自分は灰となった。
それなのに、その現実の前に彼はまるで迷い子のような目をしていた。
取り残された寄る辺ない子供のような、目。それが今も脳裏に焼き付いて離れない。もうこの体はあのときのものとは違うというのに、そんな記憶は鮮やかに残っているのだ。
遣る瀬無い思いで顔をしかめ、金の髪を見た。視線に気付いたのだろう、彼は唇を歪めるように笑ってこちらを見遣り、空になった器を振って水気を切ると地面に置いた。無骨な指先は、それでも意外に傷のない肌を持っている。それを知っている者は、一体どれくらいいるのだろうか。
ぼんやりとその指先が伸びるのを見ていた。振り払おうとか、そんなことを考えることも忘れていた。
その指先は寄り添うように髪に触れ、頬を包み、驚くほど繊細に撫でる。普段からは想像も出来ない仕草だ。決して痛めるための力を感じさせない、優しいとさえいえる気配。
自分の抵抗がないことを知って、頬を包む指先はそっと滑り落ち顎に触れるとそれを持ち上げた。瞬くように眠気を帯びた眼差しを向ければ、降り注ぐ月明かりが暗んだ。同時に、微かに酒気を匂わす吐息が唇に触れる。
あまり好きではない酒の味が吐息に混じって感じられた。それをなぞるようにして彼の舌先が唇を辿る。この行為がもう幾度目だったかと思い返すのも億劫だ。それくらいには、回数は重ねられている。
それでも抵抗らしい抵抗を返した記憶もない。男を相手に何をと思うし、そうした面に自分が潔癖な方だということもわかっている。それでも、戸惑うことはあっても嫌悪は浮かばなかった。
思い、困惑する。もしも彼を好んでいるかと問われれば、即答で否定するだろう。それは確かだ。彼の人柄は自分が好む類いから懸け離れている。かといって憎んでいるかと問われれば、返す言葉が見つからないのだ。
ぼんやりと自分を見下ろす男を見遣る。こうなるのが嫌で起きていようと頑張っていたはずだが、触れられてしまえば抵抗する気力も湧かない。唇を舐めとった舌先が頬を辿る感触に肌が粟立つ。が、自分の腕は自身の膝の上で震えるだけで動きはしなかった。
嫌だと、彼を撥ね除けるのは簡単だろう。普段の彼であればそれさえ楽しみそうだが、こうしたときの彼はひどく自分を優しく扱う。………優しい、というのは、多少の語弊があるのは否めないが。
怯えている、と、そういった方が正しいか。あるいは戸惑っている、か。
触れるのはまるでそこにいるのを確認するための手段のようだ。セクシャル的な意味を持たないからこそ、自分に嫌悪がわかず、抵抗の糸口が探れない。
もしも普段の彼が同じ真似をしたなら、自分は容易く振りほどき殴りつけることさえ出来るだろう。罵りもするだろうし、嫌悪を向けることも出来るかもしれない。
けれど今の彼にそれはあまりに酷だと、そう思ってしまう。それが自分が甘いからとか、情が深いからとか、そんな生易しいものではない。
こうしたときの彼の眼差しは、あの時のよう、なのだ。
自分を屠ったあの日、初めて見た幼気な子供のような眼差し。失われ逝くものを見つめ、後悔ではなくただひたすらに戸惑っていた瞳。
それはきっと、彼が初めて感じた迷い、だったのだろう。いつだって明解に選びとり、その結果に後悔しない彼が、失われる鼓動と燃え尽き消え逝く身体に選択を迷った。この結果が正しかったのかと、迷ってしまった。
傷つける方が得意で、包むような真似は出来ない、そんな男。
戸惑いなど似合わない彼が、こんなときばかりはそれを瞳に乗せて精一杯の努力で繊細な細工に触れるように自分の肌を辿る。鼓動が確かに響いていることを確認し、口吻け、熱を探る。
…………矛盾もいいところだろう。それは自分達の性別だけではなく、互いの関係にも、過去の決別にも、彼という人格に対しても。
それでも繰り返される。ぬくもりを求める幼子を拒めないように、自分にこの腕を拒む術はない。ただ触れることだけを願い、その術がこれ以外解らない拙さ故の行為。
何を探しているのか解らないけれど、少なくとも甘やかなものを求めているわけではないだろう。
これを甘やかだというには、あまりにも切ない。
草の感触を背に感じ、自分の髪が宙を舞う様を見上げた。朧な月明かりの中、漆黒の髪が揺れる。それは一瞬で、すぐに重力に従って地面に落ちて草の合間に散らばった。
それさえ惜しむように無骨な指は辿り、冷たい髪に口吻けて熱を送る。仄かな月光の中、眩い金が眼前で煌めいた。
揺れるその金は、平常であればくつりと喉奥で笑い多い被さったままにこの首を絞めるだろう。死なない、ぎりぎりのラインまで。
けれどこの月に染まる人はその指で肌を辿り鼓動を探し熱を求める。
………いつまで続く児戯か、自分にも彼にも解らない。ただこうして、時折月に紛れて現れる彼は、自分の鼓動を探すだろう。飽きるまで、探し続けるだろう。
そうして飽きないまま月が消え、太陽にすりかわる頃、消えるのだ。
弾む息を噛み殺し、僅かに馨る酒の匂いに酔った振りをする。互いのための言い訳めいた酒は、味などありはしない水に等しい。
それでもその馨りが酔いを思わせ、月夜の児戯を幻想的に綾なす。これは現実ではない、夢の出来事のような、あやふやさ。
いつまで続くか。………いつ、終わるのか。
あるいは………終わらぬままに、答えが舞い落ちるか。
そのどれもがまだ解らない。ただ、鼓動と吐息と熱だけが、確かな証。
瞬く金が彼の色彩か、月明かりか、それすらもう解らない。瞼を落とし、今年最後の月を、見送った。
新年の満月を、また自分は酒の馨りとともに迎えるのか、と。
埒の明かない、答えさえ求めてもいない、そんなことを思い。
霞む視界に映っていた月明かりと金の髪を瞼の裏で、思い返した。
久しぶりに会話のない小説を書きましたよ。基本的に私、あまり会話文書かないけど、全くないというのも珍しい……よね?(多分)
今回は自覚までいかない部分で。子供が母親を求めるような幼気のなさで、でも方法が少々困った感じに。
どっちも無自覚のまま、でも離れられないことだけは解っている。
依存ではないけど、失えない。難しいライン。
06.12.13