突然のことに驚いた青年がどこか切羽詰まった声音で少年の名を叫んだ。
 「なっ………爆!?」
 崩れ落ちた肢体は……けれど健やかな吐息を漏らしており、訝しむように自身の師を見やってみればにやりと人の悪い笑みが浮かべられた。
 ……なんとなく嫌な予感を覚えながらもその言葉を待ってみれば、やはり溜め息が漏れたのだけれど…………
 「結構こいつ強いな。もう3杯は飲んだはずだぜ?」
 楽しげに呟く男の示す先に残ったコップの中の液体を見つめてみれば…どこかそれは見覚えのある色をしている。
 随分昔…まだ彼が呪われた姿をしていた頃に造っていた薬としての作用のある、それは薬酒。
 幼い頃に体調を崩した時のきつけ代わりにと勧められたが確か………
 「…………それ…確か度数高いですよね……………」
 ヒクリと顔が引き攣るのが自分でも判る。
 自身が味わった事があるのだから、勘違いとはいえない。なにより…幼かったとはいえ自分は半分も飲む事は出来なかった記憶があるのだから…………
 それをよく3杯も飲めたものだとある意味感心しながらも、やっと語りはじめてくれた唇を途絶えさせた男の悪戯を少し憮然と睨んでみる。
 それに苦笑を零し、男は手の中のコップをくるりと回転させる。
 …………もう小さくなった氷は音を晒さず、体温で温くなった液体は口に含んでも旨味は感じられない。
 初めはこれと同じかと…思ったのだ。
 少年もまた凍てつく環境に置かれてこそ輝き冴える生き物かと。
 けれど違った。………それは確かに意図しなかった変化。
 少年自身が願ったのではなく、誰もが気づかない内に変わっていった。それこそを成長というのだけれど。
 …………それでも怖れて立ち止まるものがいる事を男は知っている。
 成長ほど恐ろしいものもないと自覚したなら、竦んだ足を動かす事は容易ではないのだから。
 それを知っていて一度は逃げようとした小さな背中。
 傍にいたなら頼ってしまう。……それ故に判断を鈍らせ、仲間を傷つける事を怖れて。
 ひとり立ち向かい、全ての責を小さな肩にのせて生きようとしていた。
 それでも誰もが彼のために集った。
 ………世界が変わる瞬間を、きっと幼かった子供は感じたのだろう。
 それでも答えを出せなかったのはきっと……………
 「これくらいでちょうどいいんだよ。こいつは自制し過ぎ」
 どこか人を喰ったような笑みでからかうような声音が綴られる。
 あんまりにも清過ぎて…子供は少年と変化してなお与えられる事に慣れる事が出来ないでいる。
 拒否しているのではなくて。
 …………得る方法を知らない、寂しい決意がいまもまだ蔓延っている。
 素面で口を割るわけがないとわかっていたけれど、思いのほか耐性があるのか外見上にも変化さえ見せなかった子供に内心焦っていたのは事実で。
 それでも…ギリギリまで粘った甲斐はあった。
 頑強さこそ愛しいと思わせるほど、少年は美しく空を駆ける事ができる。
 頑強さこそを憂えさせるほど、少年はあまりに意固地にひとり背負い過ぎる。
 なまぬるくなった液体を嚥下し、男は自身の弟子に目を向ける。
 ………返されない視線はまっすぐに眠る少年へ。
 もうずっと昔、この少年が未だ子供だった頃からの光景。
 きちんと…与えるものは傍にいる。まして与えようと心砕くものの傍に甘受するものだけが集う事などあり得ない。
 恐れないでその瞼を開き、いつものように弛まない瞳で回りを見回せばいい。
 そうしたなら……気づくはず。
 ……………自分がどれほどの思いたちに囲まれているのか。
 全てに愛される人間なんて、いるわけがない。少年は子供の頃にそれをもう、知ってしまった。
 そして同じように………自身が誰もを愛す事ができるわけもないという事実さえも。

 当たり前で、簡単な事。
 誰もそんな事で悩まない。

 それでも……子供は感じたのだろう。
 自分だって傷つく事を、それでも誰かに与える事があるのだろうその可能性を。
 だから慈しむ事を選んだ。
 自分の指先が傷を抉る事のないように与える事のできる者へと変貌を遂げた幼く幼気な魂。
 甘受する事を知っていたあどけなさはいつの間にか霧散する。甘え方を忘れ……頼り方を忘れて。
 そうして努力……し続けたのは意識か無意識か。
 ………そんな事少年だって知りはしないだろう。
 ただ選んだ事実だけを少年は知っている。
 自分が…なにを掴もうとしたかだけを………………
 それこそが子供に痛みを思い出させ、与えられる事への怯えを形成するのだとしても…忘れる事などできるはずのない、子供の一部。
 きっとこの先も少年は変わらない。……変われない。
 どこか憂える視線を込めて二人を眺めれば……不意に返された純乎なる赤。
 あまりに深い色に一瞬息を飲み込んでしまえば、笑んだ口元がそれをすくいあげるようにやわらぎを残す。
 「……それでも、大丈夫…ですよ。きっと……………」
 向き合う事を、許してくれた。
 少年は逃げない事を課せながらも、本当に深く踏み込んだなら姿を隠す、不思議な神聖さと近寄り難さを携えていた。
 その殻を、少年は破って……震えながらも生まれた。
 生まれたばかりのひな鳥は、けれど空を恐れる事はないから。
 大丈夫。………知らなければ、知ればいいだけのこと。
 忘れてしまったなら、思い出せばいいだけのこと。
 独りでは出来ない事だって、彼にはちゃんと伸ばされる腕が幾重にも待っている。
 望んでくれたなら、誰もが馳せ参じるだろう。
 それをきっとこの少年だって知っている。だからこそ、彼は決して自分達に無茶な我が侭を言わないから。
 自身の願いのままの我が侭なんて…言ってはくれないから。
 ふと灯ったのは少しだけ切ない笑み。
 ………我が侭で傲慢で。ふてぶてしくて不遜で。
 彼を知っている人たちはどこか苦笑して楽しげにそんな事を呟くはずなのに。
 それでもいま伝わる気配のなんて微弱で幼く…儚い事か。
 傷つく事を恐れないが故の無頓着さが形成してしまった、いっそ哀れなほどの価値の霧散。
 己の命の尊さを知らない。………理解する事を怖れている。
 …己を尊(とう) とび慈しむという人としての根源的な癒しと自信を手放している。
 それを手放してなお、彼は笑んでいられるからこそ、誰ひとりとして隠された幼き本質に気づかなかったのかも知れないけれど……………
 肩にもたれた自分よりも幾分小さな肢体。
 守るなんて思わせる事もない、戦う背を晒す事を望む人。
 脅えていたのは信じていなからじゃない。わかって…しまう、寂しい不信。
 どれほど願っても叶えられない願いがある。
 ………望んでも、奪われる腕はある。
 それを枯渇していたなら枯渇していただけ深い傷となって願いは戒めに変わる。
 だから、願う事をやめた。
 それはきっと無意識に。
 自分の傷がどれほど深いかを知っているが故に、彼は痛みを飲み込むために与えられる事を願わない強さを得た。
 弱さと言い換える事のできる、儚い強さを……………
 さらりと少年の髪を梳いてみれば硬質な髪は弾力を持って青年の指に触れる。
 それはまるでたったいま応える事を選んでくれたその姿勢を模しているようで…青年の口元が綻ぶ。
 「爆殿は逃げ続ける事の出来る人じゃ…ありませんから」
 脅えて怖れて。
 そうして誰も知らない地で朽ちる事のできる類いの人種ではない。
 それは確かに願われたなら駆ける事を留まれない切ない性質さえも内包するけれど。
 ………それでも、それこそが彼の本質。
 見限る事も見捨てる事も…まして見ぬ振りさえ出来ない。
 人を気にかけそのために疾走する事をこそ願う魂が、たったひとり生きられるわけがない。
 誰かのために生きる事は……結局は誰かの傍にいなければ成り立たないのだから。
 噛み締めるように小さくそう囁いたなら、男はどこか満足そうに、けれど戒めるように笑んだ。深過ぎる感情に一瞬判断がつかなかった青年は僅かに顔を顰めて男を見つめてみれば、その笑みはやわらかさを内包して静かにたたえられた。
 「それでも…歪みが消えるかはわからねぇし、お前らがいなくならねぇとも言い切れねぇだろ?」
 だからあるいはまた…………
 そう囁こうとした唇は鋭く射る視線が途絶えさせる。
 はっきりとした意志をのせた無辜の視線。…………限り無く無に近くありながらもなにかを讃えたそれ。
 思った以上の反応にコクリと男の喉が鳴る。
 決定的なまでに力の差のある師弟の身で、それでも言葉を途絶えさせるほどの気魄を込めた瞳。
 ゆっくりと…空気が流れる。健やかな少年の寝息だけが空間を占めたなら、青年の唇が静かに開かれる。
 紡がれる音は癒しの囁き。
 …………人を包む事を知っている魂はどこまでも深く受け入れる、受容の性根を正しく開花させたその音色はやわらかく空気に溶けた。
 「この人が人を見捨てられないと言い切れるのに、何故私達は言い切れないんですか………?」
 与え続ける人なんかいない。必ず、与えられて人は生きている。
 こうしてぬくもりを共有する事だって、互いに与えあう事。
 ただそれを願う事が不器用なら願えるだけのぬくもりを。
 ………それはあるいはこの少年は望みはしないかもしれないけれど。
 痛みの中、ただ毅然と生きる事をあるいは願っているのかもしれないけれど…………
 それでも自分達は彼にそんな生き方はして欲しくないから。
 やわらげた視線を瞼の底に一度沈め、微かに翳める赤をゆうるりと青年は少年へと注いだ。
 傲慢で、いい。…………もういっそ傲慢であった方がいい。
 噛み締めた唇が赤く熟れる姿なんか見つめたくはないから。
 …………鋭い視線が苦しげに歪められる様など知りたくはないから。
 だから与えさせて。………祈る以上の深き思いなんて、この世に存在するかも判らない。
 それでもこの胸の奥、確かに灯るから。
 与えられたなら与え返したい。………そう願う事が相手を追い詰める事のないよう祈りながら。
 耳さえも垂らし、青年は歯痒いほど力ない己の指先を凝視した。
 どこか切ない視線に眉を顰め、けれど微笑ましいと囁くように男の声が青年の長い耳に触れる。
 いたわりさえのせた音は、きっと少年には向けられない。
 …………そう願われている事を知っているが故に…………………………
 「それなら…心配はねぇな。せいぜい精進するんだな」
 本当は自分だって与えられるなら与えたい。
 ……けれど、知っているから。
 もしも誰も彼もがそれを願い、少年に願う事を教えようと手を差し伸べたなら、少年はどうする事も出来ない中でただ戸惑うだけだ。
 だから、自分は変わらない。
 ただ差し伸べる腕を育て導くだけ。

 ………………………本当は知っている。
 暗く澱んだ自分と共通する祈り。
 駆けるその時にこそ息絶えたい破滅の願い。

 それでもそれを叶えるにはあまりに重い存在過ぎて。
 生かす事の残酷さと痛みを見ぬ振りをして、その背を押す。
 ………いっそ恨んで構わないから、それでも生きて。

 長く生きる事を願いはしない魂は存在する。
 ……瞬くほどの一時を駆けて消える命があるように。
 それでも彼に課せられた使命は途絶えず、望む腕もまた、消えない。
 己を消す愚かさを携えない少年の潔癖さだけは自分と違ってよかったと吐く吐息を密かに溶かし、男はコップの中の液体を一気に呷った。
 嚥下したのはアルコールか………あるいは情か。
 判らないが不意に霞んだ視界を霧散させるように頭を振れば視界の先には眠る少年が浮かぶ。
 長い睫が揺れ、微睡みの世界から一時帰ってくる気配が伺える。
 受け止めようかと思案した瞬間を察したようにぼんやりと開かれた瞼は床を見つめ、そこにつかれた青年の腕を追ってゆっくりと持ち上げられる。
 青年を視界に入れ、未だ焦点の定まらない視線はのんびりとあたりを見回すと男の姿もまた、視界におさめた。
 噛み締めるように一瞬唇が引き結ばれる。
 それを訝しむより早く零れ落ちた少年の瞳の軌道。
 …………掬いとる暇もなかったたった一雫が床に抱き締められるよりも早く、噛み締められたはずの唇がやわらかく綻ぶ。
 囁かれたたった一言。
 きっと……誰もが当たり前に願い、意識すらする事の少ない事実。
 それでも音とし願う事にどれほどの勇気がいるか判らないわけがないから。
 ………抱き締めるように優しい腕たちが少年の眠りを守るように差し出された…………………

 

 

――――傍にいたい―――――

怖れ続けた一言は、けれど零れ落ちたなら呆気無いほど優しい響き。
お願いだから、与えて。
お願いだから、忘れないで。

……………そのぬくもりの中、微睡めるやわらぎを………………








前編

 というわけで後編。
 一応前編が「私」の昇華用。後編は「爆」という感じにしました。
 あんまりにもあんまりだしね☆

 そして素晴らしい事にあんな前編と発表した直後(つまり見ている筈がない)にとある手紙が到着。
 …………私に泣けってコトですかね?
 充分甘えている相手なだけに戸惑う事のが多いのですが。
 でもなにかを人に頼むなら、私はできれば顔みていいたい。
 じゃなきゃ、やっぱり頼ったりするのが苦手なまんまになっちゃいそうだから。
 何事も積み重ねが大事だと思うのです。

 いずれいつかまた私がここを覗いた時、馬鹿な事悩んでいたなーとか思える成長を遂げる事を祈りまして。