暗く空が輝いた。
真っ暗闇ならいざ知らず
月の浮かぶその空は
それでも暗く輝いた。
呼気すら飲み込む夜の静寂
目を落とすことさえ忘れ
見入る瞳
そっとその瞼を覆って下さい
月に、溶けてしまいそうなのです
01.月光の降る夜
ぼんやりと見上げた満月は鮮やかな月光を落としている。その光彩に負けたのか、周囲に星明かりはなかった。
それでも情緒あるたたずまいは月の朧な明るさ故か。それともそうと知らず感化される人の身に秘められた潮故か。どちらにせよ、心地よい感覚だった。
瞬くことも惜しんで見上げた月は、雲にすら覆われることはない。そういえば今日は晴天だったと、今更ながらに思い出す。
「…………一人で月見酒か?」
不意の声に首を巡らせる。驚きはしなかった。少し前から、彼の気配は察していたし、彼もまた、わざわざ気配を殺してはいなかったから。
巡らせた視界の端、木陰から顔がのぞく。枝を傷つけないように手を添えながら、まだ子供というべき顔が月光に照らされた。
陽光の下で見たなら鋭いその眼差しに平伏したくなる子供の目は、けれど月明かりの下では存外柔らかく輝く。それが夜という帳故なのか、単に眠りに導かれる中とのあやふやさ故かは判断がつきかねたけれど。
それでもその眼差しはぬくもりを秘めていて、夜の玲瓏な空気の中、すり寄りたくなる。
…………もっともそんな愚挙、犯しはしないけれど。
思い、男は口端だけで笑った。
それを見咎めるように子供は眉を顰め、少し尖らせた唇を開いた。
「返答もなしか」
「………残念ながら酒は持ってねぇぞ?」
月見酒は外れだと喉奥で笑いながら返せば軽く息を吐き出された。鼻で笑うのではなく、少し呆れたような仕草。彼は自分といるとそんな態度をよく取った。それはひとえに、彼に隠し事が出来ていないことを男に知らしめたけれど。
今も、そうだ。………子供は自分が笑んだ理由をはぐらかしたことに気付いている。けれどそれを言及しない。夜の闇の下、月に照らされた彼の顔は、日差しの中のそれよりもずっと柔和だ。
性情すらそうなるのか、月に包まれたときの彼は鋭さが摩滅する。あるいは、それこそが彼の本質なのかもしれないけれど。
彼は優しい、綺麗な生き物だ。
少なくとも自分が生きてきた気の遠くなるような年月の中、彼ほど純乎な命はなかった。
それ故に彼はひどく潔癖だ。己自身に妥協がなく、それを他者にも求める。過ちを知りながら犯すことを嫌い、断罪する。その痛みすら、一人耐えてしまうまだ幼い子供。
………まだ幼いのだ、彼は。時の止まった自分には全ての生き物が幼く見えはするけれど、そんな自分でなくとも彼が幼いということを否定するものはいないだろう。
けれど、彼はそれを忌避する。
幼さ故に許されることを良しとせず、責を己で背負うことを諾とする。
それを潔癖といわず、何と言えばいいのか。男は隣に歩み寄った影を見遣りながら、軽く笑った。
「…………今日は満月だな」
他に何も見えないと、子供が呼気だけで囁く。
名月と言うに相応しい月は、けれどそれ故に空を支配していた。鮮やかなものはその他のものを覆い隠し、消してしまう。分かってはいる摂理を、子供は眺めながら呟いた。
いつもどんなときであっても、子供は他者をまず思う。誰かが痛みを抱えていないか、それをまず思う。自身が茨の中苦痛に耐えていても、それでも真っ先に思うのは周囲の命のことだ。
そんな子供だから、輝いている。暗闇の中の、一筋の光。子供たちが守るこの世界の中、彼はそんな責を負う子供たちを守る盾だ。
……………けれど、と、思う。
盾は自身を守る盾を求めない。攻撃の全てをその身一つで請け負い、壊されることすら厭わない。壊れてもなお、守ろうとするだろう。
それは、彼に相応しいのか。………剣であるより盾であろう子供の性情は、やはり陽光の下よりも月光の下にあるときの方が、より克明だ。
もっともそれは壊されることを願うような愚かさはないのだけれど。
「なにを、考えている?」
不意に小さな音が耳に響く。
視線は自分に向いていない。変わらず子供は空にたたずむ満月を見上げていた。全身にその月明かりを浴びて、漆黒の髪を淡く輝かせながら、子供は隣に立っている。
「………なにも?」
覆い隠すように質問に問うような声で返す。なにを見たのだと揶揄するように。
それへの返答は、吐息。
小さく零された呼気は月明かりに似た瞬きに見えた。空気に色はないのだから、冬空でもない今、その呼気が見えるはずはない。けれど確かに男の目にはそれが色付いてみた。
寂しい、たった独りの月明かりと、同じ色。
「酒も持たずに月を見るだけか」
「…………なんだそりゃ」
「貴様は」
空を見上げる振りをして子供を見れば、その頬はまだ丸い幼いライン。本当にまだ小さい子供なのだと、改めて思い知る。
彼は言葉を選ぶ。幼く響くことのないように、尊大で独尊的な言葉。その言葉によって傷を与えられても、それを批難できるように為された音。
相手のためを思い綴られた音でも、それが棘となることを知っている子供は、それ故にその傷を緩和するために言葉を選ぶ。…………より暴虐的な、我が侭を滲ませた音。
いつか気付けばいいと、幼さからは想像も出来ない遠大さで先を見ている。いま受け入れることの出来ない言葉があると、彼は知っているのだ。
…………どれほど正しくとも、拒んでしまう事実があるように。
言葉を切った子供は一度唇を閉ざした。月明かりは変わらず燦々と降り注ぐ。そのまま彼を月にいざなうかのようだ。
細めた視界の中、溢れる光彩。
朧になる子供の姿と、響く彼の音。
「逃避してばかりだな。何がそんなに怖い」
月に染まる子供は切り裂くように言葉を告げる。いっそ傷付いた方がいいのだと、そういうかのように。
傷を忘れ目を瞑り、そうして笑う自分を、そうあるなと突き付けるかのように。
………苦笑するように唇に弧を描き、目を瞑る。
ずっと分かっていたことだ。傷などとうの昔にこさえていて、それが癒えることなどない。そんなこと、望んでもいない。
ただそれを抱え、そうして朽ちていきたい。
救われるような、そんな命ではないから。清浄な命を歪め、道を閉ざして闇に落とす、そんな真似しか出来ないのなら、笑んだまま傷を膿ませて爛
ただ
れ堕ちていたい。
それは陽光の下では浮かばない、夜の闇の中だけの暗い願い。
「怖いものねぇ。な〜んもねぇぜ?」
くつくつと笑い、子供に返す。顰められただろう子供の顔を思うが、それは事実だ。怖いものがないから、このまま朽ちても後悔しない。ただそれだけのこと。闇夜に冴え渡る月は、自分の中にはない。ただひたすら、闇だけだ。
もしもあるとすればそれは月ではなく穿たれた穴。空虚に風を運ぶ、輝きすらしないう虚
うろ
。
だから怖くないと、男は笑って空を見上げた。視界には煌煌と照る、満月。鮮やかすぎる色彩。………否、色すらないのだろうか。これは光という一色のみの、世界だ。
見上げた視野には子供の頬と風に舞う前髪が映った。月に溶けそうな、彼の髪。
「…………怖くない、か」
ぽつりと、月がそう呟いた。
子供の声と分かっていながら、そう感じた。見上げた月が語りかけたかのようだ。
目を瞬かせて月を凝視すれば、不意に額に視線を感じる。子供が振り返ったようだ。解っていながらはぐらかすように男の視線は月にだけ注がれた。
それを見遣り、立ち尽くす子供は吐息と同じ小ささで、囁いた。
「それなら、俺に怯えるな」
顔すらまともに見れないくせに、と。なじるというよりは包むように、彼がいった。
…………その言葉に、男は驚かない自分に驚いた。
どこかで解っていた。きっと子供は知っているだろうと。そしてそれ故に、自分を気にかけるだろうと。
浅ましさはどこまで己を貶めるのか。悠久といえるだけの年月を生きながら、こんな浅薄な行為しか晒せない。
苦みを噛み締めるように唇を歪め、男は月を睨むように見上げた。視線は、逸らされない。
自分は月を。子供は自分を。ただずっと見ている。
鋭利な彼の視線は、月の下では優しい。いっそ常に切り裂くものであれば、焦がれもしないというのに。彼は包むことも救うことも知っている。ただ下知し断罪を与える御使いとは違うのだ。
知っていて、飲み込む。そうすることで、彼が消えないことを願って。
そんな真似しなくてもいなくならないと、きっと優しい子供は言うだろう。願えば傍にいることくらいは叶えてくれる。
それでも、願う術を知らず、言葉にはしない雄弁な視線だけで、焦がれているのだと、月に囁いた。
決して交わらない視線。躱される言葉。
けれど、その全てで縛りたいと、ただ願う。
浅ましく、ただ縋る。
………闇夜の中の一筋の瞬きをその手にかざすために。
久しぶりの激爆です。このお題を見た時真っ先に浮かんだのが激でした。
うちの激って大抵夜出没しているんですよね。なんというか、明るい場所にいる姿があまり想像できないというか。…………余計に痛々しい姿になるというか(オイ)
激の話の時は大抵がストーリー構成よりも音の韻に重点を置いてしまいます。
彼の話を書くときは、『情景が見えるような音楽』、というのが最上のイメージですか。
なので曖昧な雰囲気になりがちなのは否めません。出来るだけ万人が共通して理解出来る文章を!と思っても、やっぱりイメージを優先したいストーリーはあるので。
この辺りが微妙な葛藤です(苦笑)
06.11.15