遠く遠く消えていく
ゆらゆら揺れて
消えていく
手を伸ばしてみても
目を向けていても
歪んで揺れて
掻き消える
顔を顰めたところで詮無きことと
解っていても顰めてしまう眉
消えるわけがないと解っていても
解けることのない、眉
02.この距離は変わらず
「なんだそりゃ」
唐突な言葉に本から目を上げた青年は首を傾げた。
視線の先には世界中を旅して回る冒険家兼覇王がクッションに寄りかかって同じように本を読んでいた。
まるでいま自分が呟いた言葉など意に介していないかのようだ。けれど視線こそこちらに向いていなくとも、彼の耳はしっかり自分に傾けられている。
仕草でも視線でもなんでもなく、こうしたときの彼の癖。解るまでは駄々を捏ねるように顔を向けるようにせっついたのは懐かしい記憶だ。彼の何十倍も生きていながら子供じみた真似をしたと脳裏でふと思う。
それを解ったわけではないだろうが、言葉が続かないことに彼が顔を上げた。
相変わらず、まっすぐ人を見ることに恐れない眼差しだ。相手の中の不純物すら読みとって、それでも平然と受け入れる彼独特の硝子玉。
「言ったままの意味だ」
不意に返された解答が、先ほどの自分の返答への言葉だと一瞬結びつかなかった。内容がチグハグだったわけではない。いたって自然な流れだった。が、彼がああした応対をしていた事柄にきちんと答えを返すとは思わなかった。
それ故に青年は目を瞬かせることも忘れて彼を凝視する。その視線の鬱陶しさは想像するだけで自分にも解ったが、ほとんどが無意識の所作であり、不躾さを忘れていた。
僅かに彼の眉が顰められ、それを好ましく感じていないことに気付く。それにようやく自分の非礼に気付き、青年は苦笑を唇にのせて軽く手を挙げ謝罪を示した。
彼はあっさりと目を逸らし、また本に顔を向ける。不快に思ったというよりは青年を現実に返すための仕草だったのだろう。それ以上何をいうでもなく青年の態度を許した。
小さく息を吐き、青年は改めて言われた言葉を脳裏に響かせた。
………まるで蜃気楼のようだ、と。
突然彼は自分を見遣って呟いた。彼がいま読んでいる本は考古学の総論だ。まさかそこに蜃気楼についての見解が載っているとは思えない。そんな記述があればいくら膨大な量の本を読破した自分でも、嫌でも記憶に残ったはずだ。が、彼が読んでいる本の内容はいたって平坦な常識範囲の記述のみの基本書だ。
入門書ともいえるそれに、混乱を招くような記述はないだろう。だとすれば、あの言葉はそのまま彼が思っていたことの発露だ。
蜃気楼、と。いわれるほど綺麗なつもりもない。
軽く眉を顰めて彼の言わんとしたことを考える。彼以上の知識を持っているはずの自分でも、彼の思考回路は解き明かせない。彼は時折、知識も何も無関係に、本能のみで真実を解き明かすから。
理詰めで組み立てたものではない、心が感じ取り受け入れた真理を知っている人間だ。希有な、子供だろう。ただ生きているそれだけで、世の理を見渡せるのだ。
…………否、それに至るまでの苦悩も苦痛も味わった上での、彼の才能なのだろう。
生まれたその時から全てを知り尽くしているわけがない。………ただ彼はものを見ることが出来た。
それは視覚の問題ではないだろう。ただひたすらに、ものを考えることを厭わない子供だっただけだ。何故に為されるのか、曖昧にすることなく己で考え分析し、答えを模索することを繰り返し続けた結果の、早熟すぎる魂。
それはきっと世界の望まれたのだ。
そんな身勝手さで考えるのは、大人である自分の卑怯な面だろう。全ての責任を、………過去の、この世界の歴史の清算を、もっとも歳若い世代に押し付けた無責任な自分たち。
それでも知っているのだ。もしもこの時代、彼が生まれていなければこの世界は壊れただろうことを。
国ごとに閉鎖されていた世界。危険の度合いが違うが故の確執や意識の相違。埋めるには深すぎる溝だ。容易く成せるはずのないそれを、破天荒な型破りのGCはあり得ない形で全ての国と繋がった。
そうして、世界は一つの意志を持って未来を掴むために歩んだのだ。それは、少なくとも自分が生まれ落ち今まで無為に生き続けた悠久のときの中で、この時代だけにあった輝きだ。
彼がいたからこその、輝きだ。
その彼が自分を蜃気楼だと例える。物語の中であれば求めて止まないものが掻き消える様に使われるだろう。現実の中でも、似た表現だ。ただの光屈折作用ではあるが、それはひどく人の心をくすぐる現象だ。夢という形を、目に見える事象で作り上げるなら、それが一番相応しいほどに。
考え、やはり自分には似合わないものだと、小さく息を吐いた。
自分は挫折し続けた生き物だ。全てを投げ出して拗ねていただけの、力を有していただけのガキだ。
達観していたわけではない。そうありたいと思い続けてその真似事をしていただけだ。自分だけでは何一つけりを付けられず、引きずり続けて未練がましく嘆いていただけ。
到底、綺麗な生き物ではない。
一体彼の目に自分はどう映っているのかと眉を顰める。そんな大層な生き物と夢見られても、自分の底はたかが知れていて、容易くそれを凌駕する彼に、それこそ愛想尽かされてしまうだろう。
それは出来れば避けたい現実だと、情けないことを考えて青年は彼を見遣った。
相変わらず本に魅入っている彼は視線を受けていても顔を向けない。気付いているくせに、目は文字を追うだけだ。
とん、と、指先で床を叩く。自分の方に目を向けろという催促の合図に一度彼は目を瞑り、軽く息を吐き出して仕方なさそうに本に栞を挟むと閉じて横に置いた。
なんだと言いたそうな無遠慮な眼差しを受けながら、少し拗ねたくなる。彼の言葉を考えて、その答えが分からず、想像してしまった現実味のある未来に身震いしそうになったのに、その原因の彼はなんてことはないように平然としているのだから。
たいした意味などもしかしたらなかったのかもしれない。彼はたまに他愛無い言葉を零すし、それが彼の年齢から言ったなら普通だ。全ての言葉に深い意味がある人間など、話していても肩が凝るだけだ。
そう思いつつも、きっとそれは違うと、どこかで否定してしまう。少なくとも先ほど自分に向けられた眼差しは、理解したような………納得したような、そんな煌めきがあった。
深さの度合いは知らないが、意味のある発言だったはずだ。
そしてそうであり、自分に向けられた言葉だというなら、自分はそれを知りたい。彼が獲得する全てを自分もまた共有したい。いずれは自分を超し、遠いどこかにいく彼の、それでも支えでありたいから。
「………蜃気楼って結局なんだったんだよ」
「………………………………まだ考えていたのか?」
驚いたように軽く目が丸くなる。もともと大きな目は、そうすると鋭さをなくして随分幼く映った。
密かに気に入っているその表情を眺めながら、ばつの悪い顔で青年は頷いた。遠回しに聞くよりは確信を突いた方が話は早い。彼は明確さを好む面があり、自分は暗喩することを好む癖がある。が、こうした場合は彼の好みに則した方が懸命だ。
そう思いつつ彼の顔を観察していると、ちらりと彼は目線を逸らした。それは窓の外に向けられて、まだ日暮れにはならないが昼も過ぎ去った微妙な時間帯の明るい空を映した。
その先に何があっただろうかと同じように青年も窓を見遣る。
「蜃気楼が不服なら真っ昼間の間抜けな月でもいいぞ」
「……………スミマセンが、俺、もしかして貶されてますか?」
平然と言ってのけられた言葉に顔を引くつかせて無駄に丁寧な言葉で問いかける。それをあっさりと聞き流した子供はちらりと青年を見遣るだけで軽く肩を竦めた。
「いっただろう、言葉のままの意味だと」
「やっぱりバカにされてるってことか?」
「たったいま貴様をバカだと思いたくなった」
すっぱりと返された言葉に密かに凹みそうになる。容赦のない正直さは彼らしさでもあり、長所にも数えていいかもしれないが、実際に自分に向けられるとやはり遠慮したいと考えてしまう。
二の句が継げなくなった青年は窓を見つめ、白い月を探そうとした。が、窓というフレーム内にそれは見当たらなかった。所在なく彷徨った視線は、やはり最後には子供に帰る。それを知っているのか、彼は真っ直ぐに自分を見たまま、目が合うのを待っていた。
そうしてかち合った視線を合図にしたかのように、また彼が口を開く。
「目の前にいるくせに貴様はのらくら躱すからな」
「……………?」
「誰が追いかけようと貴様は別の場所にいるだろう。自分が居ようと思った場所に頑固に居座る」
「………爆?」
「あるいは、似た者の中に隠れて消える。だから蜃気楼のようだし、月のようだといったんだ」
雲に溶けて消えたがるようだ、と。子供は苦笑いした。口早に言葉を挟ませないその声の流れに青年は目を瞬かせる。
まるでそれは……と、身勝手な見解が湧きそうになる。少なくとも、自分が求めていいものではないとずっと知っていたはずの、感情。
隠そうとするように青年は息を飲む。
「………な? 自分が決めた場所以外から、出てこないだろう?」
だから貴様には全てが蜃気楼にしか見えない、と。彼は呆れたように呟いた。
蜃気楼から見た現実は………それもまた、蜃気楼でしかないだろう。実像同士が結びあっていない、虚像と現実の別世界。
そこに佇んでいるから解らないのだと、彼はいう。………解らないまま逃げようとしている自分を知っているかのように。
ぎくりと飲み込みかけた息が喉で固まる。逃げるのはいつものことで、けれどそれが逃げに見えないようにいつだって虚勢を張って振舞っていた。それは大人の、なけなしのプライド。
あっさりと看破していたらしい彼は、まるでそれさえ気にしていないかのように平然としている。
じっと彼を見遣れば、返されるのは真っ直ぐな眼差し。綺麗な綺麗な澄んだ硝子玉。
「……………爆?」
言葉が見当たらず、間抜けにも彼の名を問いかける。それに小さく彼は笑い、仕方なさそうに頷いた。
解答ばかりを求めて、そのくせ彼がどこか遠くにいくことだけを覚悟して、一人残されることを当たり前だからと納得するように必死だった、のに。
瞬く青年の眼差しに彼は呆れたように笑って、また窓の外を見遣った。
「仕方がないからな。だから会いに来てやったんだ」
どこまでも尊大に偉そうに、彼がいった。それは結局は青年の願いを叶えているだけなのに、彼自身の願いのように呟いて。
少しは自分も歩き出せ、と。
破顔する青年の、間の抜けたその顔を見て、子供は小さく不貞腐れるように顔を顰めて、呟いた。
少しは明るい激爆を、と思って書いたのですが。
それでもやっぱりネガティブな激だなぁ。いや、今回の子は可愛い逃げ腰ですけど。
この程度ならカイでも十分だ。むしろカイだよな、相応しくないと落ち込んで凹んで最終的に爆に救われる(笑)
………師弟そろって情けない人たちだよ。
06.11.15