柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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急がなくては。
少しでも早く、これをなくさなくてはいけない。
祈りだけではどうしようもないのだ。
願うだけではなにも変わらないのだ。
それならば、それを実現するための努力を。

急がなくては。
早く。一刻も、早く。

なにも見えなければいい。
なにも聞こえなければいい。
そうすれば、こんな事もなかったのに。

ああ、早く。
一刻も、早く。

………急がな、ければ……………





もしももだろうにも永久に交わる事はない



 ……………パンっ!

 耳に響くのは見事に命中した矢の音。見てもいないし、道具の名前を覚える気もないので弓道に詳しくはないが、それでも彼がどれだけの手練かは、解る。
 あの初めて一緒にいる事となった百物語の怪奇のとき、まっすぐに射抜いた見えない矢は、確かに自分をギリギリ避けていた事を感じたから。あの距離であったとしてもそれがいかに困難な事か、解らないほど物を知らないわけではない。
 それを誇示するでも恩着せがましく言うでもなく、彼は極当たり前にやってのけ、また日常に戻っていた。
 見ていて解ってしまう。彼は自分とは違う、と。
 自分のように常にそれらにされされ狙われる類いではない。自分が傍にいなければ彼はそんな世界を知らぬまま、異端を知らず生きられる人だ。
 だから………余計に反発した。沸き起こる、アヤカシが介入しているという苛立ちとは別に、己に言い聞かせている。関わるな、と。
 自分が傍にいなければ、彼は決してアヤカシの起こす事件に関わらずにいられる。その身が大抵のアヤカシを祓い、近づけないから。だから、自分には居心地がいい。空気が澄んでいて、腐臭も汚濁も見えなくなる。感じなくなる。
 ……………パンっ!
 同じ一番小さな丸に刺さった矢を見ながら、ぼんやりと思う。
 本当はこうして自分が傍にいる事は、彼にとって負担以外のなにものでもないはずだ。それなのに彼は弁当という免罪符を出しては、自分の傍にいてもいいのだと言うように我が侭を言う。いつだって偉そうに、自分がそれに負い目や申し訳なさを感じないようにと。
 それはあるいは自惚れかもしれない。そんな事何も彼は考えず、ただ利用しているだけかもしれない。それでも、彼のその態度には誠意を感じるから。
 第一彼が自分を利用したところでせいぜい弁当を作らせる程度だ。自分が彼を利用する以上の事など、はっきり言って不可能なのだ。だからやっぱり、と、考えるのはあるいは彼を侮辱しているのかもしれないけれど。
 胴着の袖からうっすらと覗けて見える包帯。女子たちが悲鳴を上げていた事を思い出す。あんな怪我一体どうしてという言葉が、胸を抉った。
 自分と一緒でなければ彼は怪我などしなかった。それはあまりに明らかだ。
 それなのに彼は、自分の身体を気づかってくれる。
 ………知って、いるのだ。
 彼用の弁当に使っている重箱を返してもらうために暗くなる頃合いまで残っている自分を、こうして自分の練習が終わるまでいるようにいってくるのも、結局は夜道でアヤカシに襲われないよう自分を送ろうという意味だ。
 自分は男だから、男に送られるという事実に屈辱を感じないわけではない。けれど、それが善意である事くらいは解る。
 そしてそれは自分にだけ、都合のいい事、なのだ。
 もしかしたら彼はまた怪我をするかもしれない。あるいは、命すら落とすかも、しれない。
 自分はまだそういった血の宿命があるのだから戦いの余儀はないけれど、彼はただ自分に巻き込まれているだけだ。自分が離れれば彼は自分の憧れる極普通の生活に舞い戻る事が出来る。
 携えていた矢を全て打ち終え、彼が弓の弦をほどく。見慣れたそれをぼんやりと見ていたら、その背中がひどく優しく見えた。
 …………甘えてはいけない。近づいてはいけない。彼を、巻き込んではいけない。
 心地よく思ってしまうわけにはいかないと、眉間に皺を刻む。噛み締めるような唇で沸き起こりそうな情を塞ぎ、押さえ込む。
 もしもを考え、同時にそれを諦める事は、もうとうに慣れていた。求める事で相手を危険にさらす事だけは嫌だったから。
 今までだって一人だった。ほんの少しの壁越しに、優しい人たちはいてくれればいいのだ。そうすれば自分の身に何かあってもみんな無事でいられる。そして自分が打ち拉がれているときは壁越しにそのぬくもりを分けてくれれば、それで構わない。それ以上なんて、望まない。
 振り返った彼はいつものような眠そうな半眼。なにを考えているか読みづらい、能面だ。
 変わらない抑揚で、いまこうしている間も自分を守っているなど欠片も思ってはいない声が呟く。
 「着替えてくるから待ってろ」
 「偉そーに言うなっ!」
 噛み付くように返せば軽い溜め息。………解ってはいるのだ、感謝こそすれ、こんな風に反発する自分を持て余すだろう事くらい。さっさと見限って去ってくれればいい。そうすれば、こうして育ちそうになる期待を打ち消す努力などしなくていいのだから。
 顰めそうになる顔を自制する。この男は何故か人の表情や感情を読む事がうまいから。……自分自身からさえ隠しているものさえすくいとられるなど、冗談ではなかった。
 広い背中が入り口から消えるとすぐに感じる寒気。それは季節特有のものではない、場の持つものだ。
 あのまま彼を追いかけていけばこういったものからは解放される。が、代わりに己の内面と戦う事になる。それくらいなら、この場に留まりアヤカシたちと向き合った方が幾分ましだった。これ以上彼の負担にも荷物にもなりたくはない。それは、半ば意地でもあった。
 的に刺さった矢を抜き、道場の、いま彼が使っていた部分の掃除を行う。他の部分は既に帰った部員たちの手によって掃除は終了しており、彼が戻ってくるまでに自分がやるべき事は少なかった。
 こうしている間に彼は少しだけ急ぎ足で道場に戻ってくる。自分が離れている間にアヤカシが出ているかもしれないなんて、余計な考えを持って。
 そして、それは大抵当たってしまうのだから、もうどうしようもない。
 ゆったりと空気が流れた。微かな腐臭。鼻を覆うほどではないが、場にそぐわない生暖かい風が頬を撫でた。
 見えなければ、いいのに。そう思って眼鏡をかけた。コンタクトに変えない理由なんてそんなくだらないものだった。厚みのあるレンズ越し、せめて直に見えなければという希望的な眼鏡は、やはり気持ち程度の役割しか果たしていなかった。
 レンズ越しに映るのは僅かな影。それは揺れながらゆっくりと大きくなっていく。
 そうして長く伸びた髪が洗われ、白く闇を抜き取ったような面がポッカリと浮かんだ。女性らしいその影は泣いていた。慟哭といった方が正しいだろう。からっぽの腕は大切な何かを抱えるようにしていた。
 幾度か、この手合いには狙われた事がある。もっとずっと小さな頃の方が多かったけれど。
 子供を亡くした母の念は、強い。これが生霊といわれるものなのか、意志の残骸なのか、自分には見分けはつかない。ただ切望している。抱く事の叶わなかった己の嬰児を。
 同調(シンクロ)する事ほど危険な事はない。そう、知っている。同情が自分の命を掠めとる事も理解していた。
 それでも感情は流れてしまう。哀れんでしまう気持ちを覆い隠すために、必死に相手を凝視した。自分にはなにも出来ない。ただ、見えるだけ。その圧倒的なまでの悲しみを、怒りを、憎しみを、目の当たりにして、意識をくらませてしまうだけ。
 どうすることも、できない。この、腑甲斐無さ。
 戦慄きそうな唇を噛み締めて眼前のそれが早く去っていく事を願った。自分は代わりにはなれない、から。
 「………おい」
 微かな音が耳を打つ。途端、ぴんと歪んでいた空間が整った。
 垂れ落ちてきそうだった天井は高く上空に落ち着き、淀んでいた空気は清浄さを思い出す。
 それだけで誰がやってきたか解る。その声を聞かなくとも解ってしまう。それ故に彼は自分の傍にいてくれるのだから。
 悔しい。何も自分は出来ないのに、彼に借りばかりが増えてしまう。
 それでも緊張に凍っていた身体から力が抜け、安堵の息が漏れてしまう。………こんな無様な姿、気づかれたくはないのに。
 微かに息を吸い込み、喉を整える。怒鳴る事が出来るように。震えない、ように。
 「おせぇっ!」
 叫んで、ほっとする。声がきちんと出た事に。
 「……五月蝿い」
 変わらないジェスチャーで耳を押さえ、彼は呆れたような目で自分を見ている。…………それがひどく優しく感じる事だけを、覆い隠した。
 そうして何も言わずに入り口で待っている。自分が傍に来る事を。
 慣れてしまったその仕草。無言のまま、隣をあけている。
 まるで自分のためにあるかのように錯覚する。そうしてそれを打ち払うように、彼を睨みつけた。
 解っているとでも言うかのように彼は小さく息を吐き、やっぱり自分の隣に寄る。
 それを切なく見遣る。寄せた眉を夜気に溶かし、己の顔さえ隠すだろう暗い道に初めて感謝した。


 何もかもが手遅れになってしまう。
 その前に。
 急がなくては、いけない。
 早く彼から離れなくては。

 そうして、彼に自由を返さなくては。





 なんだか健気な人になったな。いや、元からそうかもしれないが。
 なんだか四月一日は別段自己犠牲精神があるわけでもないけど、人を巻き込む気はないっていう感じが。
 自分の事だからな……しかもこの手のやつは気味悪がられて遠ざかられやすいし。

 存在に安堵を抱きはしてもそれに溺れたくはない。そんな心境。
 相手には相手の都合があって、自分の事情に巻き込むつもりはないのに、相手はそんな事気にもしないでむしろ一緒にいようとするから。
 じゃあ一体自分はどうすればいいのだろう。
 そんな四月一日でした。
 ただひたすらに頼らないようにと、手放せるように、ばかりです。
 この小説は百目鬼視点とセットになっています。

 百目鬼視点→もしもとだろうの祈り

04.11.24