柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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目を見張った。
気付かなければ良かったと、思いながら。

それでも焼き付いて離れるわけがない。

だから甘受した。その拳を。
それがどれほどの破壊力を持つものか知ってはいたけれど
それを甘んじても余りあるほどの罪を、自分は犯した。

………それを知っていたから、甘受した。





揺れることのない湖面(後)



 最悪のタイミングだと、思った。
 自分には目的があり、それに対して手段を選べない。そう思っていて、それ故に傷付ける人間も現れることを理解していたし、その咎を受けるくらいの覚悟は持っていた。
 それなのにその瞬間湧いたのは、後悔。
 マイペースな自分をどれほど恨んだか解らない。戦闘中に携帯電話に出ないくらいの常識を持っていれば、少なくともこんなことは起きなかった。
 それでも原因は自分であり、この結果を招いたのもまた、自分だった。
 目の前には血に塗れた男が二人。片方はもう立ち上がることすら出来ず血の中に浸っていた。それでも急所を避けて攻撃できたのだけは、不幸中の幸いと思うべきだろうか。
 ぼんやりとそんなことを思いながら、自分が作ったこの惨劇を見つめる。
 屋上に通じる階段を駆け上がる足音が響いた。空しいくらいそれがよく耳に届き、こんなときばかりは恨めしく思ってしまう。
 誰が近付いているのか、知っている。自分が教えたのだから、彼は必ずここに現れるはずだ。
 自分が傷つけた相手は彼が大事に思う仲間の一人で、掠れたような声で必死に叫んだ電話の声だけでその存在の重要さは十分知れていた。彼はどこか甘く、憎しみを自分にぶつけてはこなかったのに、そんな彼が脅すような物言いで必死になって訴えたのだ。
 解っていて、それでも自分は引けなかった。自分のために、それはどうしても引くことの出来ない理由があった。
 それを切々と訴えることは出来たかもしれない。彼は激情型ではあるけれど、それでも柔軟性もあり懐も広かったから。そんなことをどこかで思っていたような気がするのに、ここに通じる唯一の扉が開かれた瞬間、そんな考えは霧散してしまった。
 響き渡る扉の開く音にゆっくりと首を巡らせる。………きっと彼は泣いているだろう。喜怒哀楽のはっきりしている彼にこのシーンは酷過ぎるだろうから。
 泣いて喚いて、そうして………自分を糾弾するだろう。一通り叫んだら、少しだけ気持ちが落ち着いたら、自分の言葉も聞いてもらえるかもしれない。
 そんな身勝手な考えが、消えてしまう。もっと正確に言うのであれば思考回路自体が既に起動していなかった。
 目に映ったのは、虚空だった。
 自分の中にずっと存在する穴のような、そんな虚無。
 日に照り返される金の髪がまるで色を失ったかのように凍り付いている。その目に涙は浮かばず、その視線は固定されたまま動かなかった。
 叫ぶと、思っていた。その大きな目を涙で染めて、憤りとともに罵るかと。
 それなのに彼は泣かなかった。何も映さない真っ白な瞳でこの空間を見つめていた。
 彼とともに屋上に入り込んできた男が、血溜まりに横たわる男の傍に駆け付け何事か叫んでいた。それはとても大きな声で、聞きたくなくとも聞こえるはずなのに、耳に入りはしなかった。
 彼の顔は、虚無で。仲間の叫びに触発されたように生きていたことを思い出し動き始める。困惑、恐怖、怯え。憤りや憤怒ではなく、彼の顔に浮かんだのは痛ましいほどの悲しみだった。
 苦しそうに辛そうに歪んだ眉。駆け出すためのその一歩を踏み込んだ瞬間、噛み締められた唇。痛々しいくらい赤く見えたのは、その顔が蒼白になっていたからだろうか。
 繰り出された拳は自分にはスローモーションで見えた。避けようと思えば避けることは容易かっただろう。けれど、それを避けるだけの勇気が自分にはなかった。
 ………悲しかったことが、自分にも昔あった。
 父親の棺桶を前に一人泣いた。渦巻く胸の内の寂しさも恐ろしさも涙とともに薄れてくれればいいと思いながら。
 泣くことは、防衛手段の一つだ。なにかしらの形で発散しなければ人はあまりに多くのものを溜め込み過ぎて壊れてしまう。
 自分でさえ、そうだったのだ。彼が泣かないわけはないと、どこか傲岸とした思い込みで決めつけていた。
 「…………………」
 その事実が、ただひたすらに痛かった。
 彼は泣かない。………泣けない。
 辛くて悲しくて苦しくて。怯えて恐怖に竦んでいても、その目は乾いている。
 戦慄く唇も小刻みに震える身体も涙を誘導しはしない。それは、どれほどの負荷なのだろうか……………?
 想像することも出来ないその痛みを、浄化することも出来ず積み重ね…蓄積されるだけの負の色彩を、自分は許しを乞う気でさえいながら、与えてしまった。
 それは肉体を砕くよりも手酷い裏切りだ。………信頼を、彼が与えてくれていた好意を踏みにじるだけでなく、彼というたった一つの魂さえも痛め、傷つけた。
 自分に与えられた拳は震えていた。衝撃に奥歯が軋み、血が溢れることさえ気にならないほどその震えは痛ましかった。
 口腔内に溢れる鉄の味は苦く、自分の感じる感情のままに彩られているかのようだ。
 「なんで………?!」
 息を継ぐことさえ苦しそうなその状態で、それでも彼が言い募る。答える言葉など持ち合わせるわけもない。形通りの言い訳なんて、一体どんな意味があるのだろうか。………こんなにも醜い自分の発する言霊が、こんなにも清らかな彼の肌に触れることさえ許されがたい。ましてその鼓膜を振るわせ意識に触れるなど、許されるはずがない。
 いつだって笑っている顔が思い出せた。………人のよさそうな幼い笑顔。
 クルクルと子犬のように表情を変えてみせ、伸びやかに育ったのだろうと彼の生い立ちを決めつけていた。
 こんなにも深い傷、自分は知らない。
 自浄作用さえも放棄して痛みを蓄積してしまう。刻まれた痛みを昇華できず抱え込むことすら難しく、ただそこにあることだけを知って触れることも出来ずにいる。………そんな自虐的な行為を放棄できないほどの痛みを、自分は知りはしないのだ。
 代わりに嗚咽を漏らすことが出来ればどれほどいいだろう。
 自分よりも小さな彼の拳がこの胸を叩く。………まるでこの胸にある虚ろな穴を打ち付けるかのように。
 必死に、自分の裏切りを信じられないように声が響く。もっと詰って殴りつけることだって出来るはずなのにそうはしない。その事実の方が、殴られるよりも幾万倍も、痛い。
 震える小さな身体を支える腕など自分にはなく、悲しむ声を励ます言葉も携えていない。
 彼の隣、彼と同じものを見つめることすら許されてはいないのだ。
 それが、どうしようもないほど、胸を軋ませた。
 痛くて悲しくて、傷つけたはずの自分が泣くことは許されないというのに、泣き出したいほどに苦しかった。
 許されたくて。………泣くことの出来ない彼に与えた痛みを打ち消したくて。
 なにか捧げたいはずだったのに、この拙い唇は綴る音すら知りはしない。
 思いを形にすることの、なんと難しいことだろうか。その必要性すら感じていなかった浅はかな自分を罵りたいほどに、今は言葉が欲しかった。
 「…………ごめん…………」
 それでもどれほど考えても言葉は浮かばず、ついて出た音は、あまりにも幼稚だ。
 どうして自分はこんなにも彼にとってマイナスの存在なのだろう。自分が彼に執着していれば、確実に組織の人間は彼を抹殺したがるだろう。どこまでいっても自分は彼にとって危険で邪魔な、そんな存在でしかなかった。
 それでも許されたいと願うこの愚かしいほどの貪欲さが、いっそ妬ましかった。そんなもの持たずにいられれば、今ここで彼に殴り殺されることだって出来たかもしれないのに。
 振り上げられたはずの彼の拳が行き場を失って下ろされる。………彼が後悔している自分を殴れるわけがないのに、それでもこんなときばかり普段は動かない自分の表情は動いてしまう。
 何もいわず無表情のままいつもの通りにいれば、彼の気が済むまで殴られるくらい、出来たというのに。
 それすらも許さない自分は一体何様のつもりだというのか。
 彼の痛ましい表情が背後に向けられ、自分には背中が見せつけられる。決して駆け寄ることの出来ない距離を見せつけるように隔たる彼と自分の間。
 涙という一つの回路を失った彼は、戦慄きを止めることも出来ないまま血の溢れる地面に膝をついた。
 震える声が空気に染まる。寄る辺ない子供のそれよりも、ずっと力なく儚い音。
 何かを訴えたくて開こうとした自分の唇を閉ざす。語る音はどこまでも空しい虚偽にしかならない。………たとえこの心にとって真実であったとしても、それを貫けないのであればそれは誠とはならないのだ。
 守るものがあって、自分はそのために生きている。そしてそれを見つけだすまで、どんな人間にも邪魔はさせない。そう、思っていたのに。
 今このときだけはその思いを忘れてしまいたい。
 そして許されるなら彼の傍に寄り添いたかった。彼の仲間がそうするように彼を慰め支えたかった。
 あり得るはずのない夢想を思い、目を閉ざす。現実はあまりにもそれと懸け離れてい過ぎるから。悔しくて、拳を握りしめる。
 ざわめきが生まれ、彼らが撤退することが解った。視線を頬に感じ、目を開けて彼を見つめたい衝動に駆られる。
 それでもそれを押さえつける。…………そんな我が侭を叶えられるほど、何も思わないわけではないのだ。
 彼が傷付き苦しんだ何十分の一でも、自分もまた傷付くべきだ。愚鈍な思考回路をゆっくりと動かしながら、閉ざしたままの視界を顔ごと彼から背けた。
 もしも彼の姿を見たなら、溢れてしまう。
 この浅ましいほどの願いが口をついて、許しを乞うてしまう。
 だから、今は暗闇の中に揺れる彼の髪を思い出そう。日差しに透けて輝く、あの髪を。
 …………そんな幻想を見つめる程度のことしか許されない立場なのだと、思い知りながら。



 彼らが消え去るその瞬間まで目を閉ざし、気配さえ感じなくなるまで拳は解かれなかった。

 それでも胸中を駆けるその願いだけは、どうしても消えない。

 ………………消えはしなかったのだ。
 何も知らぬがままに知っていた、自分の中の真実。








 泣かないことはさして苦しくないと。
 そう思っているときが一番辛いかな、と思います。
 泣かないでいられれば笑っていられると、そう自分に思い込ませているのはやはり正常の範囲から逸脱した行為でしょうから。
 まあそれでも泣かないでいられるならその方がいいと、今も私は思ってしまうときがあるので注意していますけど(苦笑)

 泣かない一樹の話を書きたかったのですよ。そのためだけに前後編になったんです。
 相変わらず会話文の少ない文章ですね……。むしろハイジがしゃべらなくてもいいキャラなので楽だとかも思っている自分がいます。
 気をつけないと本当に「」を打つことなく小説書き終えてしまうかもしれないですね。
 まあそんなときも普通にあり得そうですけど(笑)
 今回の話はGF10月号の話ですが、単行本派の方ネタバレで申し訳ありません(汗)ただあのシーン、向けられた背中はきつかっただろうな、と。
 友達になりたいと互いに思っていて、それでも互いの事情でそうはなれなくて。結果与えられる背中は、好意が内在しているからこそただの拒否よりも痛くて悲しい。

05.10.30