予感なんてなかった。
身体から抜ける力も、曇っていく視界も。
聞こえなくなっていく耳も全部覚えている。
一度は味わった感覚。
それでももう……自分は戻れない事を知っていた。
『まあ仕方ないかな』
その程度の感覚だった。
涙に濡れたみんなの顔を眺めながら、小さくごめんと囁いてみる。
そんな音が届かない事を知っている。
何の力もない霊魂の身で、人にはっきり見えるようにする事も、言葉を綴る事も出来なかった。
誰にも聞き取られる事のない言葉で、何度も囁く。
『ごめんな』
涙を拭ってみても透き通る。
頭を撫でてみても届かない。
微笑んでみせたって……見向きもされない。
切ないから困ったように笑んでも気づかれない。
小さく掠れた音を幾度も繰り返す。
……………誰のためにもならない、寂しい祈り声。
眠りの声音の神話
空はひどく透き通っていた。
………愛しいあの島のように美しく澄んだ青に満足げに男は空を仰ぐ。
人を傷つける組織が人を守る組織に変わり、勇ましかった全ての面々がいたわりを思い出した。
世界は優しく変化する。誰もそれに気づかない、微々たる変化。
それで構わなかった。ゆっくりでよかった。
ゆったりと笑んだ口元をそのままに男は足元に駆け寄った小さな子供を抱き上げる。
「シーちゃー? どーたの?」
舌ったらずな声が必死に男の名を紡ぐ。男の父の呼ぶ声を絶えず聞くためか、叔父とは呼ばずに名を呼ぶ幼子に苦笑すれば伸ばされた小さな指先。
緩やかに頬を撫でて鼻先を掠め、言葉を紡ぐ唇を楽しげに触れる悪戯な指先を甘受すれば零された極上の笑み。………自分に与えられるにはあまりにも美しいそれに少し切なさが込み上げる。
いまだ見つからない、かつて命を捧げるまでに愛した島。
たったひとり魂さえも分け合ったかのような子供は、いまはどれほどに成長しただろうか…………?
別れの言葉も許さずに消えた小さな背中。
………去っていくそれを覚えている癖に、言葉をかける事が出来なかった。わかってもいいはずだった。あの場の誰よりも強い子供が、決して自分たちを残して去る筈がなかったのに。
彼にしか出来ない事だから、いなくなった。
そこに自分さえ連れ立たなかったのはもう二度と会えなくなるからだと……気づけばもっとなにかを残せたかもしれないのに。
約束も祈りも笑顔さえも。………何一つ与える事の出来なかった自分に与えられた、数々の彼の宝物。
どこか遠くを見つめる男の視線を追って、子供は彼の腕のなか、空を見上げる。
気づかなかった自分に、今更ながらの贖罪だろうか…………?
幾人もの孤児を引き取り育て……見守っている自分の滑稽さは身に染みている。
子供達に彼を見い出そうとする気はないけれど、寂しい日はどこか求めてしまう。無条件に自分を受け入れてくれるその小さき御手を。
空を見上げた子供の小さな頤を見つめ、かつてこの腕で抱き上げては子供扱いをするなと叱りつける不遜な子供を思い出す。
見つけたなら……会いにいける。
あの別れの日から何年が経ったか。……もうかつての自分ほどにはなっただろう小さな子供。
自分にできる事はもうやり尽くした。あとはこの子供たちを慈しみ育てる事と……彼に会いにいく事だけが自分のやりたい事。
「シーちゃー、パーの!」
長い黒髪を招き寄せ、幼子がねだるように物語を欲しがる。幾度も幾度も眠る時に話してくれた楽園の話。
どんな絵本にも紙芝居にもない、夢物語。
瞳を輝かせる幼い大きな目のなかに映る青空を、眇めた視線の中に溶かして男が笑う。
…………どこまでも透き通った優しい笑みで。
「パプワの話か? じゃあ今日は特別に幽霊の話つきだぞ」
「ゆーれー?」
「そ。死んじまった奴らもな、パプワ島じゃ年に一回だけ会いに来るんだよ」
やわらかな笑みを満足げに撫でながら幼子はきょとんと瞳を瞬かせる。
次いで紡がれた音は、微かな期待と願いが折り込まれていた。
「チャーもー?」
…………昨年死んだ飼い犬のことを呟く幼い瞳の中の痛みに男は少し困ったように眉を寄せる。世界のどこにいったって、もうあの奇蹟は見られない。あの誰よりも眩い子供がいなければ具現する事のない幻。
聖域は、人に踏み込まれればその効力を失う。
あれだけの人を受け入れた島は、それでも神聖だった。それはひとえに島を加護する子供自身の力によるのだけれど…………………
「…………………」
言葉をどう紡げばいいかわからずに開かれた唇が音もなく閉じられる。
それを見つめて、幼子は泣きそうに顔を歪めた。
…………傷つけた事がわかった。誰よりも強くて優しい、自分を守ってくれるこの腕の持ち主が泣きそうなほど悲しんでいる。
なんでなんてしらない。ただわかるだけ。
悲しんでいる…傷ついたその思いだけが心に流れてくる。
「ごめーしゃ………っ、いーの、シーちゃいるから。チャーいなくて………」
恐れるように祈るように小さな指先が男の顔を抱き締める。あまりに小さな指先は頬さえ満足に覆えずにぼろぼろと落ちる大粒の涙が男の顔を彩っていく。
子供は……優しい。
大人の痛みに敏感で、理由もわからずにそれでも必死で癒そうとしてくれる。
「大丈夫だよ。泣くなって」
その涙を拭って優しく笑んでみれば確かめるような一途な視線が注がれる。
あまりにも真直ぐで、泣き腫れた目元さえも恥じずに晒す清さに寂寞が募る。………優しく抱き締めればホッと吐かれる吐息。しっかりと掴んでくる小さな掌。
かつてそれと同じものを自分は手に入れた。
なによりも尊く優しく……強い魂の傍で確かに生きていた。
ただ慈しむ事だけを許され、心のままに動く事を祝されながら、笑みと安穏の中で。
まだ彼は覚えているのか。………自分のことを。
あの年頃の子供ではこれほど長い年月会う事もなければ記憶していなくても不思議ではない。それとも島の住人たちが語ってくれているだろうか……………?
けれどそれでは自分と共有した思いはもう創れない気もする。あの……瞬き程の微かな時間の中での記憶があって初めて、自分たちの絆は生まれるものだから。
会いたい。………ずっと、そう囁いて生きてきた。
けれどそれを戒めもしてきた。
…………自分の成す事を知っている。この地上をあの島のように美しくしたかった。優しさを……思い出させたかった。だから必死で生きたのだ。自分にできる全てを行なった自信も、ある。
だからやっと探す事が出来た。探すことを、自分に許せた。
まだ見つかりはしない、この世に残された最後の聖地。不思議な生き物と、たった一人の子供と………世界を生んだ創造者を抱いた島。
あの島の中、絶えず抱き締めていた小さな影を知っている。自分以外に同じ種を知らない寂しい魂。それでも全てを愛しみ慈しむ事を知った希有なる子供。
無表情な面差しの中、笑いかければ微かに喜ぶ影が見える。手を差し伸べれば決して離される事のない小さなぬくもり。
ぬくもりにも優しさにも飢えていた自分を、誰よりも理解してそれを分け与えてくれた。自分にも誰にもわからないほど自然に………癒してくれた。
腕の中にいる子供はあの子供ではない。泣く事も笑う事も惜しみなく行える幸福を思い出した幼子。喪失と恐怖から解放されて光の中を歩めるしなやかな魂。
それがあまりに切ない。この腕は確かに傷を携えた誰かを抱き締める事ができるのに……あの子供を抱き締める事はない。
……………自分の与えた傷を自分が癒す事はない。
それを思い…小さく男は笑う。
自分の存在が痛みであったかどうかなど確定は出来ない。………だから、あるいは忘れてくれていればいいとも思うのだ。
そうでなくてはあまりにも辛い記憶になるから。もう二度と会えない事を、あの幼い子供に選ばせたのは確かに自分の思いだった。自分の願いを叶えるために…子供は我が侭を飲み込んだ。傍にいたいという、誰もが願っていい筈のその当たり前を手放した。
だから吐き出せない言葉がある。
決して、誰にもいってはいけない。
………ただあの子供だけに捧げられる切ない音を飲み込んで、男は涙を亡くした幼子を愛しく抱き締めゆっくりと歩く。
そろそろ……家に帰った方がいいだろう。
中点を過ぎた太陽が同じく退役した仲間たちの来訪を告げる前に。
幾人もの子供を連れての散策から帰ってきたならきっと当たり前のようにそのまま食事をともにするだろうし、あるいは図々しく泊まっていくものもいるかもしれない。
少しだけ騒がしくなる夜を楽しみにしながら自分を見上げる大きな瞳に微笑みかける。
「………帰ってみんなの飯、作らねぇとな。手伝ってくれるか?」
「はーい!!!」
パッと楽しげに灯される笑顔。泣いて恐れて微笑んで。子供の表情は留まる事を知らない。
それに少し救われながら男は家路についた。
そんなわけで「至空ノ墓石」の中の物語です。
見てわかるようにどう考えても長くなっちゃうので続き物にしました(遠い目)
この物語の大筋は御承知の通りです。
わかっているとは思いますがこの先に待つのは別離ですし哀しみですし………全てが悲劇です。
ですから先に忠告しておきます。悲しい話を読みたくないという人はもうこのシリーズに手を出さない事をお勧めします。
まだどこにもそうした要素はないですけど、それでも確実に破滅に進むので。
この話を読むにあたってはお願いですからPAPUWAのことを忘れて下さい。
完璧にPAPUWAの世界はないものとして書いている話です。
なにせこの設定作ったのはPAPUWAの話が出るよりも大分前の話ですからね(遠い目)
ではではもうしばらくは続く物語、見守れる方は見守ってやって下さい。
哀しみが、少しでも少なくなる事を祈って。