柴田亜美作品

逆転裁判

NARUTO

突発。
(1作品限り)

オリジナル
(シスターシリーズ)

オリジナル



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失う事が前提で
得る事は幸運によるものだ

そう告げれば君は、きっと困った顔をして
望めばいいのだと、笑うだろう。

失う事すら恐れずに
傷つく事すら恐れずに
理解されぬ事すら恐れずに

ただ、望み願い腕を伸ばせと
そうしたなら、きっと得られると
痛みも傷も恐れも何もかもを乗り越えて
その手に多くの存在を抱き締めながら

きっと君は、微笑むのだろう





03.差し伸べたこの手を



 たとえば、と。そんな話をしたのは自分だ。
 戯れ言だと解っている。解っていて、告げたのだから。
 それを眺める相手の視線は、ぽかんとした表情と相俟って間が抜けている。なにを言い出すのだろうと瞬いた瞳が、叡智を秘めて煌めいた。
 それに薄らと笑む。彼は、ずぼらでお人好しで行き当たりばったりなロジックばかりだけれど、決して能力がないわけではない。
 むしろ、その洞察力や観察力は自分の上をいくかもしれない。特に、人の心理という目に見えない分野において言うならば、抜きん出た能力者だ。
 その彼の返答を楽しみにしている自分がいる。否定と肯定、どちらが与えられるか。微かな間のあいだ、ジャッジを、求めた。
 それが伝わったのか、彼は首を傾げて少し困ったように特徴的な眉を垂らした。
 「えっと、つまり?」
 「いったままだ。人間関係というものは動的平衡を元に成り立ているのではないか、と」
 問う声音はぴしゃりと斬りつけた。これ以上の情報は与えない。与えたなら、自分の不様さがより克明に暴露されるだけだ。
 それを包み隠して、欲しい回答だけを手繰り寄せる。過去における法廷戦術は伊達ではなかった。
 情報は最小限で十分だ。理解出来る相手であればあるほど。あるいは、脳の回転の早い相手であればあるほど。
 それでこそ相手を自分のロジックに導ける。おそらく、彼と自分の手腕の差は、ここだろう。最低限の情報による誘導と、全ての情報を晒し尚かつ相手の反応を理解した上での誘導。
 だから、彼のロジックに捕われると抜け出せないのだ。覆すための情報すら、既に提示されたあとだ。そしてそれらを積み重ねた上で、誰もが納得するようにバラバラのピースを当て嵌めていく。
 おそらく今、彼はこの少ない情報を何故に自分が言い出し、なにを考え、どう結論を出しているのか。そんな事を、考えているはずだ。
 いまはまだ自分の手の上の問答。もう暫くして、理解した彼が口を開けば、それは様変わりする事だろう。
 彼は顎に指を添え、ゆっくりと息を吸い、吐いた。微かに落とした睫毛が、開かれる。
 心地いい眼差し。真っ直ぐに、自分だけを見る目。その底なしの澄み切った視線に笑んで、そっと手のひらを彼に差し出し、発言を促した。
 「動的平衡……ってさ、確か、分子が身体の中で常に入れ替わっていても、生命としての同一性が保たれているって言う事、だよな?」
 「うム、よく覚えていたな」
 からかうように褒めてみれば、彼はむっと唇を尖らせる。専門分野以外の事は不得手な彼には珍しく正しい情報だった。
 「それが人間関係にも当て嵌る?」
 「そう思わないかね?」
 怪訝そうな彼の声にゆったりと応える。
 笑んでいる唇をより深め、その反応を見つめる。真っ直ぐに、ただ自分を見つめる視線。感情を浮かべていないそれは、知ろうとする時に彼が見せる強い意志のみを表した表情。
 その心地よさに微かに酔いながら、善良なその眼差しがどう応えるか、見つめた。
 「一定の人数しか関わらないわけじゃないと思うよ?」
 困ったような声音はこちらの出方を窺っているからだろうか。あるいは、未だ探っている最中か。面白そうに目を細めてそれを眺め、例え話を取り出した。
 「だが、例えば、だ」
 「うん?」
 「小学生の頃、私は君と出会ったな」
 情報が引き出せると目を輝かせて頷く彼の、幼い頃から変わらない仕草に苦笑が浮かぶ。そんな些細な部分にすら心が揺れるのが、不思議でならない。
 彼の一挙手一投足。それが、目を奪う。心を掻き乱す。…………彼だけが、だ。
 この不可思議さを追求し、解明したなら、仮説が成り立った。それが、動的平衡。
 そっと目蓋を落とし、幼い頃の事を思う。思い出したくもない悪夢の日々の、直前。長くもないこの人生の中で自分がもっとも輝き自信に満ち、未来を信じていた頃の事を。
 その隣には、彼がいた。そしてもう一人の友人も。
 「それまでクラスでも浮いていた私だ。君と…それにつられて矢張もだな、二人と関わるようになってクラスに馴染んだ」
 そうして、世界が開かれ始めた。狭く凝り固まっていた、父親の背中しか興味のなかった自分の前に子供として当たり前の幼い世界が広がったのだ。
 けれど、それは突然閉ざされた。たった一発の銃弾によって、奪われたもの故に。
 閉ざした目蓋が痛みを写して歪まぬように平静を面に塗る。それでも目を開けて告げる事が出来るほどの技量の無さ故に、彼の反応も見えぬ閉ざした眼差しの中で口を開く。
 「そうして、手に入れたあの子供としての世界の代わりに、私は父を失った。君も知っているだろう」
 告げた声が平淡だったためか、思ったよりも彼に衝撃は与えないで済んだのかも知れない。
 微かに息を詰めるような音。薄く開いた視界の中で、引き結んだ唇のまま頷く彼が見えた。その表情は先程のように強く真っ直ぐに見つめるだけで、悲嘆は浮かばない。
 その事にホッと心中で息を吐き出す。
 彼を傷めたいわけではない。それでもどうしたって、父の死という事実は自分だけでなく彼をも傷める。
 無用な傷を抉らずに済んだ事にほっとして、続く言葉は流暢に綴られた。
 「その後、失った代わりに私は検事としての生き方、それを導く狩魔検事、それに共に同じ道を進む冥とも出会った」
 そのまま失う事も得る事もないまま、あの暗闇の世界で蠢き続けると思っていた。光などいらなかった。恐ろしかったからだ。
 もしもあの闇を照らす光があったなら、真っ先に自分の醜さがさらされる。
 罪を憎み、そのくせ罪に怯えた。被告を断罪するくせに、自分の罪からは目を逸らした。己の命を絶つ真似も出来ず、ただ生きて、憎しみを糧に濁ったこの世界を眺める事だけが、全てで。
 「そこで、君と再会した。………狩魔検事の罪が暴かれ、彼は法曹界から去った」
 その過程で検事としての意義と在り方を自分は考えるようになった。彼のように真実を求める意志に焦がれた。厭って疎んじて、その癖……その腕が伸ばされないなど、思いもしなかった。
 それが、自分が得るべきものだと、どこかで驕っていた。
 どれほど傷つけても過去の日、失った代償に得たものが消えるなんて、思わなかった。なんて幼稚で尊大で傲慢な、意識。
 それに苦笑が浮かぶ。否、自嘲、か。
 彼がいなければ自分は歯止めが利かなくなっていただろう。それは狩魔検事が育てた意識だけではなく、自分自身の本質だ。
 もしもそれだけに身を委ねていたなら、あるいは、自分が被告として立たされたあの事件自体、発生しなかったのかも知れない。
 狩魔は、恐れていた。過去の事件に真実の光が当たる事を。成歩堂と関わる事で変わり始めた自分に危惧を抱いたのだろう。過去に向き合うような勇気、それまでの自分には持ち合わせていなかったのだから。
 もしも彼と再会しなければ………いずれは、行き過ぎた正義感故に犯罪すら厭わなくなったのだろうか。あの、局長のよう、に。
 象徴的なあの存在は自分に衝撃を与え、より一層この世に生きる価値を問いただすようになったのは否めない。
 「得れば、失うのだ。まるで流動するように。けれど、それでも生きる世界は変わらない。似ているだろう、動的平衡という概念に」
 流れ失い、取り代わる。そうして人は人と関わっていく。成歩堂と再会するまでずっと、それは当たり前だった。
 職場というこの空間の中では、人事異動とともに関わる人間が様変わりする。が、関わり方に変わりはない。ただ消えたものの代わりが現れ、同様の働きが行われるのみだ。
 特別など、どこにもなかった。
 平均的なものが得られるならばそれ以上など無意味だ。それが、ずっと思っていた感覚。
 願う事も求める事もなかった。それが自分に傷を与えると知っていたから。殻の中、これ以上増やされる傷に怯えて、逃げていた。鉄壁の鎧は誰も寄せ付けず、ただ安穏と泥沼の中で生きていたのに。
 彼が現れ、世界が動き始めた。
 だから時折思う。関わる事が動的平衡と同じであれば、彼を得たあと自分はなにを失うのだろうか。あるいは、彼を失ったあと、彼と同等のものを得るのだろうか。
 想像する。同時に、忌避するように打ち消した。
 彼が、いい。彼だけでいい。だから、他のどんな関係性を失う事があっても、彼だけは奪われたくない。失いたくない。
 だから、もしも動的平衡がこの先も続くのであれば、彼だけをそこに取り置き全てを流してしまいたい。流動しなくていい、変わらなくていい。
 この祈りは、多分、彼にとっては痛みだ。それを解っていても、止まらない。
 溜め息のように息を吐き出せば、細まった視野の先で、彼は俯いた。どうかしたのだろうかと首を傾げた時、小さな彼の声が耳に響く。
 「ごめん、な」
 「……………………………は?」
 痛ましい声音の意味が解らず、間の抜けた音が吐息のように漏れた。
 見開いた瞳に写ったのは、苦しげに寄せられた彼の眉。逸らされた視線が、覚悟を決めるように閉ざされたあと、自分に注がれる。
 相も変わらぬ、至純の眼差し。息を、飲む。乾いた喉には奇妙な音が響いた気がした。
 「僕が君に関わると、君は悲しい事ばっかりだ。………そんなつもり、ないのにさ」
 ただ悲しそうな姿をどうにかしたかったと、その声が響く。それなのに同じものを与えるだけだと。
 違う、のに。どうして彼は普段はこちらが動揺するほど聡く人の心理を言い当てるくせに、こんな時ばかりは自戒するのだろうか。………まるで、己に価値を当て嵌める事を恐れるように。
 「違う、成歩堂。そうではない」
 「…………?」
 首を傾げて彼は自分を見る。緩やかに揺れた自分の頤を見つめる瞳は、痛みを隠すように優しく細められている。
 「君を、失いたくないのだ。それだけだ。他意などない。………君が煩うような事は………」
 何一つない。もしも、この祈りが彼を悲しませる要因となるとしても、それすら彼が痛みに思う事はない。
 自分が選び、自分が決めた。どれほどそれが歪んでいても、狭く凝り固まっていたとしても、それは自分が願った事だ。
 「たとえ、動的平衡が成り立っていても、君が入れ替わる事は嫌だ。そう思っただけだ」
 彼は時折自分でも驚くほど自虐的だ。まるで自身を顧みず、痛みの全てを背負ってしまう。その悪癖は、自分に対して特に顕著である事は解っている。
 だから、自分は彼に腕を伸ばす。彼だけに、伸ばしてしまう。
 彼がそんな物思いに捕われる事なく、疑いも嫌疑もなく、自分に思われていると知ってほしい。………こんな些細な事にすら自身を責めてしまう優しささえ、愛しいけれど。
 「…………なあ、御剣」
 じっと、自分を見つめていた瞳が一度瞬き、困ったように眇められる。
 その輝きの中には痛みは潜んでいなかった。それにほっと息を吐き、彼の言葉に頷いた。
 「僕も、例え話、いいかな。……例えば」
 そっと息を吐き出すように、彼が綴る音に耳を澄ませる。一言一句、聞き漏らさないために。
 「例えば、僕はクラスメート全員を失った時に御剣と矢張を得て。でも、その後みんなも変わらず優しくしてくれたし、謝ってもくれたよ。………君がいなくなって泣きわめいた時は慰めてくれた」
 ほんの微かな躊躇いで付け足された言葉に、微かに胸が躍る。不謹慎だと解っていても、彼が自分を求めてくれたのだと解るときは、それがどんな理由でも喜びを感じてしまう。
 逸らされない視線が、心地いい。普段は照れてなかなか口にしてくれない彼の想いの断片は、いつだって自分を包んでくれる。
 「ちいちゃんと出会って、彼女を失って。でも、千尋さんが支えてくれた。頑張れって、背中を押してくれたよ」
 懐かしそうに告げる言葉に少しだけ眉を顰める。彼の中での侵し難い女性たち。その立ち位置にだけは、自分は侵入出来ない。解っているから、我が侭を言いそうになる唇を引き締めて沈黙した。
 「弁護士になって、……………………、千尋、さんを…亡くして……………。でも、真宵ちゃんと君が、いてくれた。君がいなくなったときは、春美ちゃんも居てくれたよ。茜ちゃんも手紙、くれたしね」
 苦しげに告げられた過去の事実。失った存在の大きさを知っているから、眼差しが痛ましく歪む。悼みと嫉妬と及ぶ事のない歯痒さ。一体どれがもっとも幅を占めているのか、自分ですら解らなかった。
 自分が居なくなった間さえ、彼に伸ばされた腕は減る事はなかった。与えられ、与え返していたのだろう。それは想像に難くない。
 「失えば得られるって言うのは……間違ってないかも知れない。だけどさ」
 失う事で空いた穴を埋めるように人は手を伸ばす。助けてほしいのだと、全身で叫ぶ。それは仕方のない行為だ。どんなものであれ、補完しなくては人は心のバランスを失ってしまう。
 所詮、補完したものがプラスかマイナスかによって、その後の評価が変わるにすぎない。結局は同じ行為を繰り返しているのだ。
 解っている。解っているくせに、自分は彼に何か尊いものを願っている。思っている。ひどくそれは、浅ましい祈りだ。
 「失わなきゃ得られないわけじゃ、ないよ?」
 そっと伸ばされた指先。テーブル越しに伸ばされた腕は、真っ直ぐに自分の前髪を梳いて頭を撫でた。瞬いた睫毛に合わせるように指先は流れ、頬を撫で、眉間を突つく。おそらく、険しい顔をしているのだろう。そんなつもりはなかったけれど。
 「だって、僕はまたちゃんと手に入れたよ。そりゃ………もう亡くなった人は、どうする事も出来ないけどさ。生きていれば、なんとかなるよ」
 傷を増やし痛みを覚え涙も流す。けれど、それらを乗り越えれば、手に入るものがある。
 そう成歩堂はいって、笑った。見惚れるように鮮やかに。……胸を軋ませるほどに、愛しい人。
 「一定量だけの関わりなんて、自分が決めつけなければすぐに超えるよ?ほんの少し、傷つく覚悟を持てばいいだけなんだからさ」
 それを持てるものが少ないのだ、と。きっと彼は知らない。自分の強さを知り得ず、他者の痛みにばかり敏感な人だから。相手の痛みさえも自身で背負っている事すら、気づかない。呆れ返るほど、彼は変わらない。痛みも傷もどんな要素も彼の本質を変えられない。
 戯れ言から始まった問答。自分の手の上だったはずのロジック。
 やはり彼に見せれば全ては覆され、鮮やかに様変わりする。
 それを細めた視野で眺めて、不器用に笑んだ。彼は微笑み、そっと持ち上げた腰で近づいた。カタンとテーブルに膝を乗せる音が響き、ついで眦に与えられたぬくもり。
 頬に添えられたままの手のひらを包むように掴む。怯える事なく彼の指先は大人しく鎮座した。
 「大丈夫、一緒に居るよ。君が嫌だって言わないでくれればね」
 いったとしてもきっと追いかけてしまうだろうけれどと、困ったように彼は笑いながらいった。
 傷を恐れず、彼は追いかけてくれるだろう。それは過去において既に実証された事実だ。
 自分は恐れて逃げてばかりだ。………それでも、もう二度と彼だけは手放さない。彼が厭うまで、この腕を伸ばし続けるだろう。
 「君が居れば、もう十分だ、というのは……ダメなのだろうな」
 心からの思いは、けれど彼にとっては寂しいだけの真実だ。だから軽口に似せて告げて、彼に苦笑を向ける。
 戯れ言ばかりを綴る唇を叱るように、彼は自由な指先で叩き、笑った。
 「君が気づいていない事もあると思うけどね」
 君は愛しまれ大事にされている、と。彼は嬉しそうに笑った。その笑みに惹かれて、そっと腕を伸ばす。間近になった体温と呼気。
 逃れるだけの間を与えて、じっと彼を見遣る。


 躊躇うように伏せられた睫毛と、染まりゆく頬。

 許された事に機嫌よく笑んで、何よりも愛しく掛け替えのない人の呼気を、盗んだ。





  



 この間購入した分子生物学のカジュアル版、みたいな本を読んだのです。『動的平衡』という概念が面白いな〜と思いまして。

 そして二人でちょっと議論してもらいました。価値観の違いが現れるので面白いのですね、この二人は。同じ事を知ってもまったく理解の仕方が違う(笑)
 擦れ違う事ばっかりでなかなか重ならなくとも、やっぱりこれでも相思相愛なのです。なかなか重ならない事を解っているけど、それでも相手を理解したいと思って互いに寄り添うんですから。

08.4.8