きっと怖かっただろう
悲しかっただろう
恐ろしかっただろう

声が響いていた

ずっとずっと

君の声が、響いていた


悲しむ人がいるのだと
泣く人がいるのだと
だから戻って来て欲しいと

その声こそが哀惜に濡れて


早く戻らないとと、倒れた水の中、足掻いた



01 幸せと不運


 目を開けた瞬間、違和感を覚えた。
 見回した室内はいつもの通りの自分と師の相部屋で、きっちりいつもと同じように自分が下のベッドで眠っていた。
 どこも違和感を覚える筈のない中で、けれどその微かな差異を脳が訴える。
 それは、本当に微かでささやかで、けれど自分達の一族は気付いてしまうもの。
 「……………………なんで新聞の日付、未来なんさ?」
 ………思わず洩れた呟きは、間の抜けた内容になった。


 「………もう一度いってみろ」
 「なんさ、ついに耄碌したんか、ジジイ」
 厳めしいと言って差し支えのない顔付きで重々しく呟いた老人の言葉を、茶化すように赤毛の青年は軽口を叩いた。
 それにはいつもの通りに重い拳を頭に喰らい、痛みに文句を言いつつ頭を擦って、もう一度同じ言葉を返した。
 「だからー、なんか俺、記憶ごっそり抜けてるみたいさ」
 あっけらかんと、けれどその瞳だけは真面目に、青年が告げた。
 言葉の意味をどう受け取るべきかを悩む意味も無い程、それはあっさりとした告知だ。苦々しそうに歪みかけた唇を、老人はかろうじて押し止めて、溜め息にだけ変えた。
 朝、起きたら唐突に、既に記録を終えた新聞を取り上げた時から、妙だとは思ったのだ。
 そして物珍しげに周囲を見渡し、窓の外も確認し、老人を見上げた青年は、困った事になったと、常と変わらない口調で告げた。
 曰く、約2年間の記憶が無い、と。
 「ごっそりというが、結局教団に来てどれ程までは覚えておるんだ」
 「ん〜、五日間ってとこさ。挨拶回りして、教団の歴史全部記録して、そんで起きたらこんな状態さ」
 「……………つまり、エクソシストとしての経験はゼロか」
 問いには、明確に返る言葉。決して脳へのダメージでは無いらしい。更に言うならば、AKUMAの特殊能力でもないだろう。ようやっと方舟から帰還したこの弟子は、けれど問題となるような後遺症はまったく見られていなかった。
 現状は、怪我の療養。それのみだ。にも拘らず、この発言。
 他にも同じ症状が出ているようならばノアの一族に疑いもかけられるが、そうでなければこの青年一人に関わる事だろう。
 思い、老人はまた嘆息する。結果はきっと、後者である事に間違いはない。
 あの方舟でどんな戦いがあったか、それは記録の為にも語らせた。言い淀む事無く全てを語ったこの弟子は、それでも唯一己のみが経験したノアの長子、ロードとの戦いだけは言葉が鈍りがちだった。
 当然だろう。己の未熟さを曝け出すような話だ。ましてそれが師である自分にどう映るか、この青年は知らない程愚かではない。
 そこまで考えて、老人は目の前で胡座を掻いて座ったまま、詰まらなそうに唇をへの字に引き結んでいる弟子の処遇に意識を切り替えた。
 もしもそれが原因での、この状況だというならば。
 ……………幸か不幸か、その原因の意味を理解出来てしまう己の脳を少しだけ恨みながら、老人は天を仰ぐように天井を眺め、青年を連れ立って科学班へと赴く事を決めた。


 方舟が手に入った科学班は活気に満ちていた。………その横で担架で運ばれている人間もいるが、誰もが随分満足そうだ。
 人は不可解なもので、己の好奇心を満足させる為に生きてしまう、そんな性質を携えている。科学班にいる人間はそれが顕著だ。それこそエクソシストがAKUMAを破壊する事に命をかけるように、彼らは解析し全てを明らかにする事に命を注ぐ。
 それはどこか歴史を刻みその為にのみ生きる自分達ブックマン一族に連なる意識で、決して厭うようなものではなかった。
 「さて、室長殿は手が空くかのう」
 「どっかでサッボてんじゃねぇの?」
 老人の呟きに、周囲を見回しながら新しい情報を書き込んでいるらしい弟子は、あっけらかんと言ってのけた。……流石にこの状況でサボるような責任感のなさを、あの室長も持ち合わせてはいない。
 むしろ責任感が人一倍強いからこそ、一人で全てを抱え、下のものにその痛みも傷も見せないように戯けてみせるだけの胆力もある。おそらく、精神的な強さであればエクソシストと同格かそれ以上だろうと、老人は読んでいる。
 その辺りは認めていそうだった青年は、やはり2年の記憶を失っているせいか、初期の認識しかないらしい。
 ………早めにその辺りの情報も更新しなくては、他のものにも勘づかれてしまう。
 今の教団はあまりにも忙しなさ過ぎて手薄だ。人はいても意識に余裕が無い。この状況では、こちらの事情の為に割ける人員もいないだろう。
 唯一の救いはこの青年のイノセンスが壊れてしまい、修理が必要な事だろう。エクソシストとして彼が戦う事が出来ないなら、そう事は大きくならずに収束させる事が可能な筈だ。
 今の戦況では、新人エクソシストなど正直、足手まといだ。しかも戦力激減の最中に、仮にも通常エクソシストの中の戦闘タイプでそれなりの地位にいたこの青年が、まったくの素人になっていては戦闘による負担もかなり変わる。
 総合的に見て、戦えない状態であるという現状は有り難かった。
 「室長室に籠っていそうだな。取り合えず、状況を告げて暫く任務からは離れるぞ」
 「てかさ、俺イノセンス見かけねぇんだけど、どこやったんさ?」
 「修理中だ。神田も一緒にな。おかげで科学班は更に忙殺中だろうが」
 ああそれでか、と。この青年はひどく呑気に周囲を見ている。明らかな、観察者の目。
 それは当然の目の色で、それに違和感を覚える事の方がおかしいと解っているが、今までであれば、この状況に彼は苛立っただろう。
 イノセンスがなければ戦えない。戦えなければ、戦えるものにその分の負担が回る。
 元帥達は要警護の対象で、通常任務は相変わらずエクソシスト達が行なうのだ。その中、戦力の二人がイノセンスを修理中となれば、その負担増は計り知れない。
 そして負担が増えれば増えるほど、危険は増す。怪我で済めばいいが、それ以上になる可能性は、いつだって否定出来ないのだ。
 それをこの青年は憂えただろう。
 翡翠を揺らさぬように、老人の前では仮面を被る努力をしながら、それでもどうしても零れてしまう、それは慈しみに感化された情だ。
 「おぬしは余計な事を話すなよ。しゃべりが口を挟んで、いい結果などないからな」
 情報不足の青年がヘタに突つくと厄介だと、室長室を前にすると老人が先に釘を刺した。それに唇を尖らせて不満そうな顔を見せながらも、諾を示すように頷いた。


 一通りの説明を聞いた室長の顔付きは憂いが濃い。
 …………かなり割愛させ、原因すら不明であると伏せているのだから当然だろう。ましてや青年はブックマン一族のものだ。その記憶能力は人と比較などする事も出来ない。
 にもかかわらず、数年の記憶を奪われるとなれば、通常のものならば記憶自体を失う危険もある。それは憂慮すべき事柄だ。
 それを見つめながら、老人は軽い溜め息を落とす振りをして、馬鹿な弟子を見上げた。
 「とりあえず、こやつにはこの2年の情報は伝えようと思う。他のものには混乱を招かぬ為にも黙っている方が良いからのう」
 「そうですね…ラビならすぐに覚えられるし、その方が今はいいかもしれません。でも…」
 真剣に頷きながら、ふとした懸案事項が頭を掠めた室長は、少し思案するように唇に手を当ててから、お茶目な眼差しを煌めかした。
 「きっと、バレると思いますよ、一人には、確実に」
 「へ?」
 にっこりと確信を持って言い切った室長の言葉に、黙秘を言い渡されていた青年は間の抜けた声を上げてしまう。
 それを睨みつける老人と、バツの悪そうな顔でそっぽを向く青年を、室長は微笑ましく見つめながら、まだ決裁を待っている書類や報告書を仕分けしながら告げた。
 「今のラビは覚えてないし、知らないけど。でも、絶対にバレるよ。上手な仮面は、上手な程、すぐに気付かれちゃうからね」
 今度の発言は老人ではなく青年に向けた音だ。その声の質でそれを知り、青年は眉を顰める。
 そんな風に言われる程、自分の演技は雑ではない筈だ。現に今まで48箇所での記録対象に、見抜かれた事はない。  それこそ年端もいかぬ、物心ついたばかりの頃から繰り返した仕草だ。今更それを見抜けるものがいるなど、信じられない。
 この心は色がない。色に染まらぬように生きたのだから当然だ。自分のカラーを持ってしまえば、そこから綻びが出来てしまう。
 どんな役も演じられる、そんな心でいるには、無色が一番楽だ。
 だから、感情すらその時その時上手く色分けをして晒すのに、それをどう見分けるというのか。
 「…………ありえないさ」
 小さく呟いた声は、老人にしか聞こえない。けれどきっと、室長はその音がなんと響いたか解っているのだろう。楽しそうな唇は弧を描いたままだった。
 「ではブックマン。何かありましたら、また報告をお願いします。出来る限りこちらも協力はしたいのですが…何分現状が現状なので」
 「お気遣いなく。こやつの事で手を煩わせるつもりは、こちらもありませんからな。ただ……あやつを借りる事は、あるかもれませんが」
 「どうぞ、ご自由に。きっと僕が何か言わなくても、勝手に突っ込んでいくと思いますから♪」
 忙しいのは本当なのだろう、あまり割けない時間の中、必要なだけのやりとりを終わらせた二人は、軽い会釈で話を終え、老人は青年を伴って部屋を出た。
 最後の最後、扉を踏み越える瞬間に視線だけを向けた青年は、探る眼差しで室長室の全てを見渡し、今も気付かない振りをしている室長を睨むように眺めたあと、出て行った。
 ………あれでは本当にすぐに気付かれるだろう。
 そう胸中で漏らしながら、老人の苦労を思い、小さく笑みを落とす。
 それでもきっと、気付かれる事があの青年に何かを齎す筈だ。出会ってからの時間で彼が変化していったように、あの何も変わらない眼差しも、きっと変革を余儀なくされるだろう。
 出来る事ならそれが優しく穏やかに齎されるといい。
 そう、願いながら。室長は未だ山となった書類が、捌いても捌いても減らない事に苦笑して、部下達の疲労の度合いを越えた仕事ぶりに、誇らしさと若干の憂いをもって、微笑んだ。









 ディックがラビの中で共存中☆
 二重人格とか分裂症ではなく。別人でもなく。
 純粋に『過去のラビ』です。だから初期のラビと似通った感じ。
 これを表す為に、この前の光のお題の『01.この手に灯るのは』を書いたのです。そちら見ていただいた方が『ディック』=『ラビ』に違和感が薄いかも。
 ちょっと長い話なので、一度にアップは止めました。まあ出来るだけ早くに完結させますよー。
10.10.1