室長室を出ると、老人はそのまま自分達の部屋に向かった。途中、食堂の前を通り、なんとなく見回した視界の中に、異様な量の食事が盛られているのを目の当たりにして、思わず目を見張ってしまう。
 明らかに、大人でも一人で食べ切れない量だ。大食い選手権でも難しい程のその量が、それでもきちんと減っていっているらしい。空になった皿もまた、綺麗に積み重ねられている事でそれが解る。
 あれだけ食べるということは、寄生型が増えたのか。それにしても今までの寄生型の中でも、類を抜いてよく食べるエクソシストのようだ。
 もしかしたら歳が近いのかも知れない。成長期は大人よりも食事量が増えるものだ。
 そんな事を思いながら、青年は老人の後ろをのんびり歩きながら、ほんの少し変わっている全てを記録しながら部屋へと向かった。
 変わっていないようで、意外に変わっているのだ。
 それは勿論、目に見えてというものでもなく、ちょっとした配置が違ったり、無かった筈の傷やシミがあったり。些細ではあるが、確かに流れた時間を感じさせるものだ。
 その中で、一番顕著なのは人の変化だろうか。
 見知った者達が、ちょっとずつ違う表情で見える。それは多分、ここで過ごした2年という歳月で自分自身が培った関係性故に変わったものだ。
 意外と上手く順応していたらしい自分に少しだけ意外性を感じながら、青年は老人に促されるまま自室へと入っていった。


 一瞬視線を感じて、少年はパスタを食べたままキョロキョロと辺りを見回してしまう。
 その視界の中で、赤い色が過り、誰の視線なのかが解って、少年は口に頬張っていたパスタを必死になって飲み込んだ。
 声を掛けるか手でも振ろうか。ここに食事にきたのなら、調度座るスペースが空いているのだから、一緒に食べてもいい筈だ。そう思った少年が、フォークを皿の上に置いて視線をそちらに向けると、………去っていく背中が食堂の入口から窺えた。
 持ち上げかけた手のひらをまたフォークに戻し、少年は首を傾げた。
 もう既に朝食を食べ終えたのだろうか。………けれど朝に弱いあの青年が、自分より早くに朝食を食べているとも思えない。
 老人も一緒だったし、もしかしたら叩き起こされて朝から何か本職の方の作業でもしていたのだろうか。もしもそうなら、今日は暇ではあったけれど、遊びには行かない方がいいかもしれない。老人も青年も赴く事を拒みはしないけれど、そうした点で迷惑をかけたくはなかった。
 それならば今日は神田でも誘って鍛錬に集中しようか。婦長に怒られない程度のレベルに抑えるのは難しいかもしれないけれど、それがいいかもしれない。思い、少年は休めていた手を再び動かし始めた。
 その背中に、いつも明るく優しく大量の注文を嫌な顔ひとつせずに聞いてこなしてくれる料理長の声が響いた。
 「アレンちゃ〜ん、おまちど〜ん♪」
 その言葉に少年は目を瞬かせて慌てて振り返る。食堂は基本、セルフサービスだ。注文したものは自分でちゃんと席まで運んで、食べ終わった食器も片付ける。まして大量に注文して厨房内に迷惑をかけている少年は、出来る限りその負担を減らすべく、暇があれば皿洗いくらいは手伝っていた。
 それなのに何か忘れた注文があったのかと、申し訳なさで振り返った先には、大きな皿を片手に持って物腰柔らかく立つ、男らしい筈の肉体を女性的な優しさで包む料理長がいた。
 「へ、あれ、何か僕持ってき忘れましたか?」
 大量の注文も、それでも自分で忘れはしない。食べたくて仕方ないものを、それこそ遠慮なく頼んでいいのだから、こんな幸せな事もない。だから忘れるなんてないと思っていたのにと、少年の垂れた眉毛が、ひどく申し訳なさそうな顔を彩っている。
 それを見て、料理長は誤解を解くべくにっこりと微笑み、首を振った。
 「違うわよ、アレンちゃんはぜ〜んぶちゃんと自分で持っていってくれたわ。重いから手伝うって言ってるのに、いつもね」
 「だってこれは自分が食べる分ですし、ただでさえ大食いで迷惑かけているんですから、当然です」
 困った子供を見つめるように優しく言われると、少年は萎縮したように肩を小さくして相手以上の困り顔で小さく呟く。
 彼が優しくされると戸惑うような顔を見せるのはよくある事で、少年の生育歴を考えるとそれもまた仕方がないと、笑顔を見たいが故の優しさを与える大人達は、気長に彼のペースに合わせて微笑んでいた。
 料理長もその一人で、また口癖のように彼が謝罪の言葉をのぼらせる前にと、少年の目の前に自分が持っていた皿を差し出した。
 「そんないい子のアレンちゃんに、特別サービスよ!来週からメニューに加えようと思っている新作ケーキなの。ぜひ食べていって頂戴な。感想も貰えるとすっごく嬉しいわ♪」
 そこに乗っているのは季節のフルーツをふんだんに乗せた、彩り鮮やかなショートケーキだ。目にも美味しそうなそのケーキに、思わず少年の目が輝く。
 どうもこの食いしん坊の少年は、美味しい食べ物を見る時が一番幸せそうな顔で笑ってくれる。それを知っているからこそ、料理長はつい彼の為にと日夜料理研究に余念がなく、結果、食堂は今まで以上のペースで新作が披露される事になった。
 いつも必ず初めにそれは少年に振る舞われ、誰よりも初めにその幸せそうな笑顔を、料理長は間近で堪能する。それが実は密かな楽しみになっている事を、厨房のスタッフはしっかりと熟知していた。
 そのせいか、今も厨房はオーダーを取るスタッフさえ嬉しそうに笑んで、少年と料理長を見遣っていた。それにつられて、周囲の人々もついその微笑ましさに目がいってしまう。
 「おいしそうです!あの、でも、いいんですか?なんか僕、いつも沢山頂いちゃっているのに……」
 「いいのよぅ!アレンちゃんが食べて美味しいなら、ここの人達みんな納得するもの♪」
 特別にグルメでなくても、美味しいものをしっかりと味わえる少年は、その表情ひとつで出来の良さが解る。それは下手な講釈を聴くよりも素朴で解りやすく、人にも伝わり易いバロメーターだ。
 ニコニコと嬉しそうにそう告げる料理長に、はにかむような照れた笑みを浮かべ、少年はそれならと幸せそうに差し出されたケーキを受け取った。
 「あ、そういえば……さっき、ブックマンとラビを見たんですけど、二人とももうご飯食べ終わったんですか?」
 満足そうにケーキを手にする少年を眺めていた料理長に、ふと思い出した少年が先程食堂を素通りしていった老人達の事を問い掛けた。
 もしあの時声を掛けていれば、あの二人にもこの美味しそうなケーキを分けられたのにと、少しだけ残念に思えて問い掛けた言葉に、料理長はコテンと首を傾げてしまう。
 「ラビ?あのお寝坊坊やがアレンちゃんより早くなんて来ないわよ?徹夜明けならもっと早い時間だし、あたしは見かけてないわね〜」
 「え、って事は、二人ともまだ朝ご飯も食べていないんですか?」
 「う〜ん、そうじゃないかしら。あの子達ってば、何か集中しちゃうとす〜ぐ食事を忘れるのよね」
 困ったものだと、頬に手を当てて教団内の人間の栄養管理をしている料理長は溜め息を吐く。
 老人は老人で年齢的にも無理をしてほしくないし、青年は青年で成長期に食事を抜くなんてもってのほかだ。幾度もそう注意をしているのに、なかなか改善されないのだ。
 最近は随分そうした事もなくなったが、それもこの目の前の少年が幸せそうに食事をする中に加わるようになったせいで、彼が任務中などはここぞとばかりに食事そっちのけで読書に励むなど、毎度の事だ。
 いっそもう少し入院期間を延ばしてもらえれば、もう少し規則正しい生活を叩き込めたかも知れない。そんな事を考えていた料理長は、眼下の少年がひどく心配そうに顔を歪めているのに気付いて、慌ててしまう。
 考えてみると、この少年はいつも一緒に食事をしている二人の事しか知らないわけで、自身が食事を抜かしたりしたら死活問題である事もあり、他の人間よりもかなりこうした事に敏感だ。
 「あ、そうそう、それならアレンちゃんにお願いしてもいいかしら?」
 パンと両手を合わせて名案を思い付いたように弾んだ声で料理長が首を傾げてみせると、不思議そうに瞬く瞳が向けられる。まだ少し眉は不安そうに歪んでいて、彼が未だ心配を胸にしまったままな事が解った。
 「このケーキと、それにサンドイッチ。あとお茶もね。用意するから、あの二人と一緒に食べてくれないかしら。誰かが見張らないと、きっと平気で食事抜いちゃうもの」
 そしてその監視役なら、この少年が一番適任だ。なんだかんだ言って、あの老人もこの少年には甘いし、青年に至っては目に余る程可愛がっている。きっとこの子が言えば少しの時間は融通して、食事を摂るくらいはしてくれるだろう。
 そう告げた言葉に、パッと少年の顔が明るく輝く。ひどく解りやすい、喜色の笑み。
 「はい、喜んで!」
 「じゃあちょっと待ってて。あ、あとケーキ、カットしてくるわね。すぐ終わるから、それ食べ終わったら寄ってね♪」
 思わず頭を撫でてしまいたくなる程の素直な返事に、料理長は幸せ一杯の笑顔を向けると、渡したケーキを再び受け取り、少年が目の前の皿全てを空にするまでの時間の間で、美味しいサンドイッチとお茶の準備に取りかかった。


 じっと扉の前に立ち止まって、少年は思案した。
 どう声を掛ければいいものか。…………まだご飯を食べていないようなので、と、そう告げて差し出すべきバスケットは、思いの外量が多い。もしもこれで勘違いだったりしたら、きっと老人は苦笑するだろう。
 その程度はいいけれど、それでもしも大事な仕事の邪魔をしたらと思うと、つい悩んでしまう。
 いっそこのドアが突然開いて、出てきた青年がビックリしながらどうしたとか尋ねてくれる、そんな奇跡を祈りたくなってしまった。
 けれど、杞憂ならそれはそれで自分が笑われて終わればいいが、もしも本当に食事を抜いているなら問題だ。自分達エクソシストはいつ任務に向かうか解らないのだから、常に体調管理は怠ってはいけない。
 それは当然、いつ食べられない状況になるか解らないという事も含まれるのだから、食事だって手を抜いてはいけないのだ。
 だから心配しても迷惑はかけない筈、と。数度の深呼吸のあと、意を決して少年はドアを叩いた。
 「すみません、ブックマン、いますか?」
 返事と少しの間のあと、ドアが開かれる。視線を下ろせば、いつも通りの老人が立っていて、相変わらずの無表情の中、問いかけを持つ眼差しが秘められている。
 「どうかしたか、小僧」
 「あ、いえ…食堂で、あの、これ………」
 老人を前にして、何をどう告げればいいのかが一瞬で解らなくなってしまった少年は、手にしてたバスケットをずいっと勢い良く老人に差し出した。
 そのバスケットからはいい匂いが漂っていて、それだけで中身が美味しい食事である事が解る。
 怪訝そうな顔でそれを見た老人が、言葉に詰まった少年に声を掛けようとすると、その背後から先に声が上がった。
 「あ、飯?!マジで?!俺、腹ペコペコさ。ジジイ、そろそろ休憩!」
 「…………やっぱり二人とも食事抜きで仕事していたんですか?」
 嬉しそうな声を上げて本の積まれたベッドの中から顔を出した青年の言葉に、じとっと恨めしそうな顔をして少年が眼下の老人を見遣った。
 その視線に不安と心配の色濃さを見て取って、老人は軽く息を吐くと背を向け、少年に入室を許可した。
 その仕草に青年は歓声を上げてベッドから立ち上がり、少年の持つバスケットを受け取る為に乱雑な床の上の本を避けて歩み寄った。
 その器用な足取りに苦笑しながら、少年は待ち遠しそうな青年にバスケットを差し出す。
 「サンキュー、アレン♪」
 嬉しそうな笑顔でそれを受け取った青年。いつもと同じようにニコニコとした笑顔で、無邪気にやっと食べられる食事に喜んでいた。
 それを見つめ、けれど少年は浮かんでいた笑みが消えてしまう。それを見取った老人は、微かに顔を顰めた。
 「えっと……ラビ?」
 「ん?どうかしたさ?あ、アレンも食べんの?そっちの箱、アレン用?」
 振り返り、本を避けた床にバスケットを置きながら問う青年に、戸惑うように少年が目を向け、その視線を老人に、何かを求めるように移した。
 なんと言えばいいのか解らない。解らないけれど、これは変だ。
 少年の視線の問い掛けに、けれど無言で返した老人の反応に、困ったように眉を寄せて、少年は青年を見下ろす。彼が場所を作ってくれたスペースに料理長の新作ケーキの入った箱を置き、躊躇いがちに腰を下ろす。
 そうして、もう一度青年に顔を向けた。首を傾げ、目を瞬かせる青年はどうかしたのかと問うようだ。
 それを目にして、やはり少年の眉間に深い皺が刻まれた。
 「……ラビ、具合悪いですか?」
 「?いんや?腹は減ったけど、元気さ?」
 「でも、なんか調子悪いですよね?なんかあったんですか?」
 「?????なんもないさ?どうかしたん?」
 必死になって言い募る少年に、青年の方が戸惑って逆に問い掛けた。身体には不調はなく、空腹に耐えかねている腹以外、どこも不満は訴えていない。
 少年の勘違いと笑って躱す青年に、少年の肩がびくりと跳ねた。
 「………………ラ、ビ……ですよ、ね?」
 戸惑う声音は、青年ではなく、老人へ。
 途端に隣の青年が硬質化した。それは目に見える変化でもなく、気配で察せるものでもない。
 ただ、それは示された。感じ取るものだけが感じ取る、そんな不可視の変化。
 そうして気付く。青年に何故違和感を感じたのか。…………もうずっと、感じなかったその気配を感じたからだ。
 もっと以前、出会った当初に向けられていた、観察者の眼差し。分析し記録する、研究対象を見つめるような無機質な色。
 最近はもっと柔らかく綻び揺れ、優しく包むぬくもりを携えていた筈の翡翠が、玲瓏な透明さを増している。
 それは見た事がある。何も映さない無色の瞳。
 あの、方舟の中、たった一度この青年と対峙した記憶が揺れた。
 無意識にとった距離を、老人が少し離れた場所で嘆息しながら眺め、青年は苦々しそうに不満げに顔を逸らす。
 「だから注意が必要と言っただろう、未熟者」
 「………こんなあっさり解るなんて誰も思わねぇさ」
 むくれるような声は拗ねた音色。それは少し、少年の知る青年の音に似ていた。
 戸惑う眼差しで老人を見遣った少年に、青年は不可解そうな眼差しを向けて、顔を覗き込む。
 「ユウだって騙せる自信、あったんさ。なんで解った?」
 「ら、び?」
 「ん〜まあ、ラビ、だけど?」
 屈託なく笑う顔の中、笑っていない瞳。覚えている、これは、まだ初めの頃向けられていた、仮面の中の硬質の翡翠。
 覗き込まれた顔を少しでも離したくて、少年が立ち上がる。その腕を、青年がとった。途端に跳ねた身体に、青年がキョトンとした。そんな仕草も昔のままだ。
 訳の解らない恐怖に、少年の瞳が揺れた。それを見て、老人が仕方なさそうに息を吐き、未だ腕を放さない弟子の頭を殴ると、そっと少年を自分の方に招き寄せた。
 「この阿呆は、入団当初から今までの記憶がごっそりなくしおってな、おぬしの事も知らん」
 すぐに老人の横に歩を進め、青年から距離を取った少年を面白そうに青年は見遣る。正直、自分と老人なら、大抵の人間は自分の方が傍に居易いと思うものだ。
 だというのに、この少年は一瞬で見切った。今現在、この老人と青年と、どちらがよりこの少年の状態を慮っているか。そして躊躇いもなく、老人を選んだ。
 面白いな、と。興味を疼かせて青年はにっこりと笑った。楽しい観察対象が増えたと、そういうように。
 「ディック、かな、気分的に俺はまだ」
 多分知らないだろうけど、と。加えられた青年の言葉に、また容赦ない老人の拳が落とされる。

 ぎゅっと怯えたように老人の服を握った右手が、ひどく冷たかった。
 それが誰かは知らないけれど、その瞳の揺れない冷たさは、知っている。
 ………仲間じゃないと、そうあっさりと告げた、氷のような気配の人。
 あれはただ一時の悪夢で、ロードの一時の悪戯で。もう戻ってきた筈の青年が、どこにもいない事が怖い。
 「ブックマン………ラビ、どこですか?」
 知らず呟いた言葉に、深い溜め息のような長い吐息と、ニコニコと自分を眺める青年の視線が、答えを教えたようで目眩がした。







   

 意外とね、解るんですよ。
 いえ、ちょっと分裂症煩った既往歴のある子が以前職場にいたのですが。
 …………突然その子の声がいつもと違って聞こえてゾワッとなりました。何が違うっていうのも解らないし、その時点ではそうした症状がある事も知らなかったし、とにかくこの状態で患者様に関わらせちゃ駄目!と。
 解る事はあるのですよ。なんでって解らなくても、説明出来なくても。
 それがきっと親しい人だと、なお恐ろしいのだろうなぁと思います。
 …………まあ考えてみれば私、身内で見ていたんだよな、それ(遠い目)その頃の記憶ないからよく解らないけど(苦笑)