解っている事は少ないと、老人は言った。
言うつもりは無かったとその口調と重い声が告げている。
それに揺れていた眼差しがゆっくりと力を取り戻し始めた。……なかなか強かで強靭らしいその精神に、青年は胸中で拍手を贈る。
老人が自分に語った今までの2年間の事を総合して、この真っ白な少年はどうやらとりわけ自分と仲が良かったらしい。だからバレたのか。………そんな程度の理由で見破られるとも思えないと首を傾げつつ、真剣に自分の事を聞いている少年を魅入った。
本当に白く細い少年だ。これが時の破壊者を生むなど、予言も外れる事がありそうだと思ってしまう。
それでもあの老人が、自分より余程しっかりとしていて強いなどと嘯いたのだから、きっと実力はあるのだろう。偏屈な老人が目にかけるのは、輝きを持つ原石ばかりだ。
「……つまり、原因は解らない…ですか?」
微かに鋭い少年の声が、それを言外に嘘だと告げた。眼差しも強い。銀灰色が暗い室内の照明の中、濃く彩られて輝く。
それを目にして、老人の眼差しも眇められる。それはそれ以上の質問を制する為の威嚇かと思いきや、秘められている色がひどく柔らかい。
目を瞬かせて眺めた先、老人がこちらに告げているかのような声が響いた。
「思い当たる節はあるがな。………それである場合、戻ってもまた同じ事が繰り返されかねん」
「って、それ大問題じゃないですか!」
目を丸めた少年の声は悲壮だ。そんなに『ラビ』が気に入ったのだろうか。どうせ自分もいずれはそれになるのだから、たいした問題はないだろうにと首を傾げた。
「なんさ、ジジイ、解ってんなら治し方も見当つかねぇの?」
「つくが、それはどうこう出来る問題ではない。上手く転がる事を祈るようなもんだっつーに、この愚か者」
誰のせいでそんな事になっていると言いたげな響きに苦笑する。敢えて誰と確定させるなら、それは『ラビ』だろう。少なくとも今の自分のせいではない。
頭の後ろで腕を組んだまま、取り合えず現状はそう変わらない上、期間も限定出来そうにない事だけは解った。そしてその解った事実が、ひどく少年を傷つけている事も容易く見て取れた。
それがなんとなく面白くなくて、青年は唇を尖らせたままムッと顔を顰めて、未だに距離を取ったままの少年に顔を向けた。
「アレン、そんなに俺じゃ嫌なわけ?別に俺、『ラビ』になるんだし、問題ねぇよ?」
少なくともそう簡単に見破られないと告げてみれば、なおの事悲しげにその銀灰が沈むように濡れた。
別に、たかが2年だ。記録する量は容易くないが、フォロー出来ない年月でもない。ならばこのまま、また自分が『ラビ』になってもなんの問題もない。
それなのに、この少年は悲しむのか。傷付くのか。………意味が解らないと、顔を顰めてしまう。
それが解ったのか、ひどく寂しそうに少年が微笑んだ。それは多分、儚いと称されるに値する、微笑みだ。
「今のあなたは、知らない人と変わらないんです。ラビは、………少なくとも僕が一緒にいた人は、あなたじゃないんでしょう?」
いつかなる『ラビ』でも、たった今目の前にいる青年でもない、昨日までの人がいない事が悲しいのだと、少年は理解されないだろう遣る瀬無さを滲ませて呟いた。
…………それは、初めから理解されない事を認めた諦観で、響いた音だった。
その事実に目を瞬かせる。こんなにもあっさり、何故この少年は諦めたのだろう。自分ではその言葉が理解出来ないのは確かだ。けれど、自分が解らないなら、きっと彼の知る『ラビ』だって解らない筈だ。
それなのに、そんな同じ条件の二人を比べて、彼はそれでも『昨日までのラビ』を探している。
まるでその痛みの音を理解する心でもあるような、そんな音色で音を綴る。
「なんさ、それ」
ムッとして、また顔が顰められる。昨日の自分も2年前の自分も変わらない。変わる筈がない。それこそ、自分はこの老人と旅してきた間、ずっと同じだった。
それなのにまるで違うというように、この少年はあっさり見破った。
そして悲しむのだ。いないと、嘆くのだ。
………自分とは違うのだと、そのとられた距離が如実に伝える事実。
「お前の勘違いさ、アレン。俺は昨日も今日も変わってねぇさ」
にっこりと笑って、いつもの通り人懐っこく笑って、少年の腕を取った。止めるかと思った老人はそれを静観していて、何かを探るように自分を見ている。
老人に咎められなかった事に気を良くして、青年は掴んだ手に力を込めて、その顔を覗きこんだ。
………瞬間の衝撃を、なんと評すればいいのだろうか。
真っ白だと思ったその肌が、なお青く染まった。銀灰色は老人に向けられていた柔らかさから、一瞬で凍りつき色を無くす。捉えた腕が…………強張って緊張しか伝えなかった。
友人な筈だ。同じ顔で同じ声で、きっと、出会った当初からずっと、自分はこんな風にからかって茶化して、そうして懐に入り込んでいた筈だ。今までと同じように。
それなのに、なんだろうか。この入り込む隙間もない程の、頑な壁は。
驚きに見開いた瞳には、泣き出しそうに歪む事もなく凍ったままの表情が映る。笑む事を知らない、人形の顔。
そうして、知らぬ間に意識がブラックアウトした。
数瞬の間のあと、目を瞬かせた青年が、目の前の光景にギョッとしたように肩を跳ねさせた。
そうして、慌てて掴んでいた腕を引き寄せて、そのままその腕を少年の頬を包むようにあてがう。
「アレン?どうしたんさ、すっごい顔してんぞ、お前?なんかジジイに嫌な事言われたさ?!」
真っ青な顔で放心したように中空を見たまま凍り付いている少年は、まるで人形のように動かない。
掴んでいた腕がぬくもりを教えなければ、正直生きているようにすら見えなかった。それくらい顔色が悪い。
戸惑って引き寄せた身体はその勢いで揺れるだけで、まだ自発的に動かず、それになお不安に染まった青年の声に、呆れたように老人が返した。
「阿呆。言うとしたらわしではなく、おぬしの方だろうが」
「ジジイは黙るさ!オーイ、アレン?戻って来いって、オイ!」
痛くない程度の力で少年の頬を叩いてみると、ようやく目の焦点があって、弱々しい仕草で青年を見上げた。
ホッとした青年が心配そうに覗き込んだ先、食い入るように自分を見つめる少年が、ひどく真剣な眼差しで自分を読み取ろうとしていた。
不可解な反応だと思い、首を傾げる。青かった肌はまだ血色を良くせず、肌は微かに冷たい。
「どうした、アレン?あ、もしかして飯足りなかったんか?」
貧血でも起こしたのかと思った青年は、それなら食堂でも行こうかと、首を傾げて問い掛けた。少年を見る、優しく眇められた隻眼は、いたわりと慈しみを思わせるように綻んでいた。
それを確認して、ホッと身体から力を抜いた少年は、そのまま弛緩した身体を青年の方に倒れ込ませるようにして、その肩に縋った。
ぎゅっと、その肩を震える指先が強く掴み、少年の吐く息が熱く胸に当たる。多分、深呼吸をしているのだろう。背中が上下する様がよく見て取れた。
「あ、アレン?!どうしたさ?え?本当に何事さ?!」
冷静にそんな事を考えながら、それでも気持ちが落ち着く筈もなく、青年は上擦った声で叫びながらも、不安に揺れる少年を落ち着かせるように、優しくその身を抱き締めて頭を撫でた。
その仕草は紛れもなくいつもの青年のそれで、声の響きも瞳の色も全部が先程とまるで違う。
「ラビ、ですね。……ブックマン、どういう事ですか?」
そのぬくもりに涙すら浮かべながら、それでもそれを見られたくなくて、少年は青年の肩に顔を押し付けたまま、この光景を余す所なく見ているだろう老人に声をかけた。
それに青年も顔を向け、顔を顰めたような複雑な表情で自分達を見ている老人に問う視線を向けた。………この際、自分達の現状は無視してしまおうと決めて。
「覚えとらんのか、ラビ」
片目を眇めさせ、問うというよりは詰問口調で告げる師に、青年は顔を顰めた。師の問う言葉は少なくて、それが何を指すかを判断するためにいつも解答までに間が出来る事を窘められるのだ。
それが自分を育てる一環である事は解るけれど、こう訳の解らない状況では止めて貰いたいというのが本音だ。
「覚えてって、何を?」
「朝から今までの事に決っとる」
即座に返される解答に、青年は腕の中の少年が少しだけ怯えたのが解り、頭を撫でる腕で優しくその背を叩いてあやす。
「朝から………………………………あー………忘れていいさ?」
「覚えているんですか?!」
暫くの沈黙のあとに響いた青年の答えに、少年は青年の腕の中である事も忘れ、顔を持ち上げる。
そうして視界に入った間近な隻眼が、戸惑ったように揺れたあと、その目元を緩めるように笑んだ。それは困ったような嬉しいような、柔らかな笑み。
目を瞬かせて優しいその眼差しを見つめながら、質問の解答を求めるように肩に置いたままの手のひらに力を込めた。
「ん…まあ、言われて思い出した、みたいな感じだけど」
「でも、さっきのラビ………ん?ディック、でしたっけ?あの人は覚えてないって言ってましたよ」
それなのに何故と少年が首を傾げれば、老人がそれに答えた。
「仮説に過ぎんが…『ディック』は『ラビ』の前身だからな。『ラビ』の事は知らん。が、『ラビ』は『ディック』を知っている。その関係性に由来しておるのかもしれんな」
「…………………………。面倒臭いです!!!」
「アレン。面倒はないさ~」
「だって、訳解らないですよ!朝からビックリしっぱなしで、何がなんだか訳解らないですし!」
ぎっと睨むように見上げてくる眼差しは、ひどく柔らかく色づいていて、先程まで向けられていた色との落差に苦笑してしまう。
何をきっかけに少年が自分の差異を見取ったかは解らないけれど、こうして見ていると、先程と今の少年の態度の違いのように、自分も違ったのかもしれない。
あんな風に傷ついた顔をさせるのは本意ではないし、過去の日に同じ真似をして悲嘆の音を聞いた頃から、自分は随分この少年の笑顔を守る努力をした気がする。
………手探りもいいところで、同じ真似を繰り返してはおそらくは幾度も少年を傷つけたと思うけれど、彼はそれでも見限らずに気長にこうして傍にいてくれた。そうして見つけた彼の表情は、随分増えたと思う。
それなのに。……………久しぶりに見た、拒絶の仕草。
凍り付き、触れる事すら恐れて何も映さない瞳。それは多分、傷付く事に慣れてしまったが故の、仕草だ。そうする事で痛みに鈍化し、やり過ごそうとしてしまう。
泣く事も叫ぶ事も出来ない彼が、それでも叫ぶ事を思い出したのに。………まさかこんな形で忌むべき悪癖を晒させる事になるとは思わなかった。
「うん、ごめんな、アレン。そんな顔させるつもりなかったんさ。……ごめん」
もう二度と、そんな悲しい仕草を繰り返させまいと。そう思った筈なのに。
どうにも優しくしたい筈の彼には不器用さばかりが目立ってしまう自分は、こうしてまた彼を傷つけてしまった。
言葉での謝罪に重さなどなくて、彼の代わりに痛みたいなんて言っても、彼はそれを許す筈もなくて。
泣きそうな思いで告げた謝罪に、目を瞬かせた少年は、困ったように笑んだ顔で、先程の青年と同じ仕草で相手の頬を包んだ。
「いいですよ。知っていますから。あなたが傷つけようと思って何かする事はないって。ちゃんと解ってます。だから謝らないでいいですよ」
そうして、傷付いた数と同じだけ、彼は許しの言葉を告げてくれるのだ。
それすら切なくて、歪めた顔の先、溜め息を吐く老人の姿が映る。呆れているのか…否、それはまだこの先に何かがあると見遣っているような、そんな思慮深さを秘めた眼差しだった。
それを問い詰めるのはあとにして、今はまず、困ったような少年にもう一度謝って終わりにして、彼の笑みを本当の笑顔に変える為に、持ってきてくれたバスケットの中身を、三人で食べよう。
まだ上手に彼を守れないけれど、それくらいの事は解るのだと教えるように。
傷つけた分、優しさを注げるように、自分の頬を包んでくれる少年の細い手のひらを上から包んで、青年は溶けるような瞳で微笑んだ。