初めの日から一週間。相変わらず、不定期に現れるかと思えば消える毎日を『デッィク』と『ラビ』は送っていた。
 毎朝起きればディックに逆戻りしながらも、大抵はラビが返ってくる。丸一日をディックで過ごす事は無かった。それは老人の次に間近で見ていた少年もよく知る所で、それ故に、段々とそのタイミングがなんであるか、解ってきた気がした。
 「アレン?どうかしたであるか?」
 ぼんやりとしながら目の前のハーブを眺めていると、如雨露を片手に戻って来た青年が首を傾げていた。心配そうな瞳が少年の様子を窺うように見つめている。その柔らかな気配に少年は目を細めた。
 彼はブックマンJrの身に起こっている事を知らないのだから、相談する訳にもいかない。それでもこうして一緒に旅をした仲間が、いたわりの眼差しを向けてくれる事に感謝した。
 気の弱そうな、優しい眼差しが随分高い位置から落ちてくる。それを見上げながら、少年は微笑んだ。
 「いいえ、クロウリーに初めて会った頃の事、思い出していたんです」
 間違ってはいないが正しくもない解答を口にすると、少年は懐かしそうに目を細めて目の前の青年を見上げる。彼が発動中の、なかなか過激な姿の時が初めての出会いだ。その後の通常時の彼を見た時は、初めは本当に同一人物かと疑ってしまったものだ。
 あまりにも彼は優しく脆く、幼い子供のように感情にとても素直で、泣く事にも愛する事にも躊躇いのない真っ直ぐな人だった。
 あるいは、だからこそ、あれ程までに真っ直ぐに攻撃性を発揮出来るのかもしれない。
 「あの頃を、であるか。ラビと二人、城に来た時は驚いたである」
 「僕も吸血鬼なんて言われてビックリしましたよ。攫われるみたいに連れて行かれましたから。しかも、あの頃ってまだ、ラビとも会ったばっかりで、正直緊張しっぱなしでした」
 左目も使えず、ノアの一族に初めて出会って。………考えてみると随分と濃厚な時間の合間、彼らとは出会ったようだ。
 初めから人懐っこそうな笑顔で近づいて来た青年は、その目だけはどうしても隠しようも無く鋭かった。否、そんな解りやすくなど晒されてはいなかった。ただ、動かない瞳の揺れに、それが仮面である事を教えただけだ。
 ショックを、受けた訳でもなかった。嫌われた訳ではなく、全てにそうしていた青年だったから、仕方がないのだと諦めていた。何かを望んだり求めたり、そうするだけの権利を自分は持ち得ていない。
 だから、きっとずっと、あのままの筈だった。神様の悪戯か、悪魔の手管か、解りはしないけれど、あの古城での出来事によって、自分達は少しずつ変わっていった。
 「そうであったかぁ。私には仲のいい友達に見えていたであるがなぁ」
 懐かしいと、もう涙を流さずに柔らかく美しい記憶を思い出せる青年は、如雨露を抱えたまま少年を見下ろして、羨ましそうな響きを滲ませた声で言った。
 そんな素直な音に苦笑しながら、少年は青年を見上げる。柔らかく綻んだ気配が、どこか慈しみを教えた。
 「………うーん、そう、ですね。でも多分、あの城での事が無かったら、僕とラビは今程仲良くなかったと思いますよ」
 「想像が出来ないである。私には、初めから二人は今と同じである」
 心底不思議そうな声で言い切った青年に苦笑する。それでも、あの城でもしも彼の愛した人がAKUMAでなく、この左目が回復しなかったなら。
 きっと、あの冷めた眼差しで明るく笑んでいた青年は今も少年に心を向ける事なく、何かを記録する為にひたむきに研究対象を観察していた事だろう。………少年を、人と認識する以前に、記録対象物と認識した瞳で。
 それはそれで有り得た事だと、思う。今は想像するだけで痛いけれど、痛みを感じる事自体、烏滸がましい。
 どうしても自分は、こんな風に卑屈に思ってしまう。幾度か青年にそれを投げかけては、優しく窘められ、自分をもっと大事に思えと言われるけれど。
 大事なのは、自分ではなくて。この腕で触れる事の出来る存在達なのだから、自分にはどうしてもこの物思いの癖を無くしきれない。無くすべきだと、そう思えないせいでもあるのだろうけれど。
 …………それが、あの青年を少しだけ悲しませている事を、知らない訳ではないのだ。
 思い、少年は小さく笑みを唇に乗せ、そっと間近のハーブに指を伸ばした。老人が好んでいると教えてくれた、難しい名前のハーブ。もう少し成長すれば、株分けをして増やした後、根を乾燥させてハーブティーにするのだ。
 きっと老人は喜んでくれるだろう。そうしてそれを振る舞う時は、この心優しい青年も呼んで、みんなでまたアフタヌーンティーをしたい。……いつまでこんなのんびりとした時間を過ごせるのか解らないけれど、せめて与えられた休息の時間くらい、みんなの笑顔を少しでも多く見たかった。
 あとどれくらいか。…………自分が、自由にいられるのもまた、どれくらいか。
 色々な事が自分の身に起こっていて、訳が解らない。けれどそれは誰かに吐露すべき事ではないと、少年はそっと目蓋を落とした後、唇の笑みに力を込めてから、ゆっくりと瞳を持ち上げた。
 銀灰色が温室の照明の下、ゆったりとした輝きをもって青年を映した。 
 「そうだと嬉しいですね。ねえクロウリー。僕ね、あの頃、約束したんです、ラビと」
 クスクスと、どこか面白そうな顔でそう告げた少年は、ひどく嬉しそうな顔で笑っている。大きなその瞳を細めて、柔和に綻ばせた頬が淡く色づいている。最近あまり顔色の良くなかった少年の白い肌は、いっそ青みが増していたけれど、今その顔を見てると、朝露に輝く薔薇のように鮮やかで綺麗だ。
 それを見る事が出来て嬉しい青年は、少年に負けない程の朗らかな笑みを浮かべて彼の言葉に乗った。
 「どんな事であるか?」
 声にすら響くその喜色に、少年もつられて、弾んだ声で歌うように答えた。………けれどその顔は、少しだけ窘めを含むように困ったような眉をしていて、青年が首を傾げると、響いた言葉に納得してしまった。
 「僕が、ラビに…みんなにもっと一杯慣れたら、そうしたら、一杯甘やかしてやるぞって。物凄い子供扱いでしょう?」
 「そうであるなぁ」
 青年もまた、困ったような顔で笑いながら、けれどひどく優しい眼差しで頷いた。
 この幼い少年は、とても危ういのだ。初めて出会ったあの古城で、失った人を嘆いて死にたがる自分に向けた言葉の、悲痛なまでの切迫した音。
 あの声を聞いたのは、自分だけではない。彼を甘やかしたいと、そう願ったあの青年もまた、間近で聞いている。自分はそれを叫ばれた当事者だったけれど、それを見ているだけだったあの青年は客観的に……どれ程の感情をその声の中に見出したのだろう。
 まだたった15歳の、自分達の中で一番細く小さなこの少年の中にある、深く暗く手の届かない、澱みにすら成り得ていない、虚。
 それを喜びと笑みで埋め尽くしたいと、願う事はおかしくはない筈だ。あの波乱に満ちた旅の中、幾度も傷を負い失ったとさえ思った少年だからこそ、尚の事、あの同行者達はみんな、この少年に幸いが降る事を祈っている。
 だから、告げる。余計な事かもしれないと思いながら、祈りを込めて。
 「でも、アレンはそれが、嬉しいのであるな」
 「え………」
 きょとんとした少年の大きな瞳が、数度瞬きをする。
 無防備なその様子に、きっと自分もまた、彼の中ではそれなりに大切な仲間として位置を占めているのだと思う。それはひどく誇らしかった。
 「とても、アレンは嬉しそうな顔で笑っているから、私でも解るである」
 にっこりと、彼らと出会ってから覚えた喜びに満ちた笑みでそう告げれば、少年の顔に朱が走った。
 鮮やかな赤が真っ白な肌と髪に映えて可愛らしい。この場に少女や青年がいたら、さぞ喜んでその顔を眺めた事だろう。そう思い、青年もまた、同じ思いで喜びを胸に満ちさせた。
 「そ、んな事、は……ないですよ?」
 躊躇いがちに声を綴るその目が泳いでいる。ポーカーではあれ程鮮やかに笑顔を晒し続けた少年は、決してそれを日常生活には持ち込まない。………彼自身、嘘の笑顔は嫌なのだと、そんな事をぼやいていたのはいつだっただろうか。
 ひどく遠い昔に思えるのは、それ以降の時間の経過があまりにも過酷だったせいだ。
 「嘘はいけないである、アレン。嬉しい事は嬉しいと、伝えた方がいいである」
 「………………」
 「それが、相手にも嬉しいものである。掛け替えがない存在なら尚の事。私はアレンやラビが喜んでくれれば、とても嬉しいである。アレンは、違うであるか?」
 首を傾げて、決して肯定などされない疑問を口にする。意地悪ではなく、少年が認め易くする為に。
 どうしても躊躇いや遠慮で怖じ気づいてしまう少年は、それを口に出して誰かに伝える事が苦手だ。どこか……浮世離れしたような、そんな願いばかりが口に出る。
 誰だったか、彼がまだ過去に捕われていると、呟いていた気がする。それでも、再会したこの少年は、今を生きているように思えた。
 そうして、願えるなら、このまま過去から現在へと舞い戻ったその心を、未来へと向かわして欲しい。自分を救ってくれた、この少年には、より多くの幸に包まれ笑んでいてもらいたいのだ。
 「いいえ!みんなが喜んでくれたら、嬉しいです。あの、でも………僕、は」
 赤いままの顔を、必死に叫ぶ唇で彩って、それでも……段々と力なくしりつぼみになる声は、己の意思が誰かの重荷になる事を恐れているからだろうか。
 自分の事より誰かの為。………今を生きていてもそれだけは消えない、彼の根源意志だ。尊いと言われるべきそれは、時折、身近な人の憂いを誘う。
 「アレンが笑ってくれる事が、私達も嬉しいである」
 だから萎縮するように蕾を閉じずに、花開いて微笑んでくれるといい。………彼に届く言葉は、いつだって純粋な好意と笑みで彩られた、あまりに当たり前の事実だけだ。
 大切な約束は、きっとそんな他愛無い言葉で綴られる、いとけない祈りの言葉だ。稚拙な祈りだからこそ、何よりも心の求めるものを包む。
 もっと沢山、多くの人に囲まれて愛しまれて。そうして愛される事にこそ、慣れて欲しい。
 …………摩滅するように己を差し出すのではなく、自身すらも大切に、守って。
 愛されているのだと、自覚してくれるといい。それは決して傲慢ではないのだ。愛された事を誇って、そうして前に進むといい。その愛は決して歪んで他者に注がれはしないのだから。
 慈しまれる事に臆病な、一人生きて消える事ばかりを願う、パーティー会場で壁の花を自ら選んでしまうような、子。
 それは、その子に手を差し出したと、そう願うパートナーだっていると、知らないまま壁に咲く花だ。
 「だから、きっとラビは一番、喜ぶである」
 誰よりもそんな少年を心配して、その傍にいるから。
 「だから、教えてあげるといいである。アレンはもっと我が侭でいい筈である」
 そうすればきっと。誰もがもっと笑顔になるから。
 …………寂しくて死にそうだった頃、真っ先に躊躇いもせずに腕を伸ばしてくれた真っ白な子供。
 ボロボロに薄汚れていた癖に、それはひどく美しい透明の世界に立っていた。
 そうして、清冽な声で叫ぶように、生きて欲しいと願う音が降り注いだ。嘆きよりも何よりも、その悲痛な声が一心に生きてと叫ぶ祈りが、心に響いた。
 今ここで、人に囲まれ生きる自分は、確かにこの少年の腕が救い上げた命だ。
 だから、幸せに。どうか、幸せに。………自分もまた、彼らの為に祈りたい。
 「そう……かなぁ………。そうだと…………嬉しいのになぁ………」
 ぽつりと。小さく小さく囁いた声は、今もまだどこか遠慮が深く怯えがちだ。己の背負う多くのものが、決して傍にいる人間達にとってプラスではないと知っているからこその、それは躊躇いだろう。
 優しい少年が背負う全ては、あまりに過酷だ。
 だからこそ、一人背負うのではなく、一緒に支えさせて欲しいのに。
 それを知るにはまだ少し、彼の中にある過去が強く大きく彼を支配しているのかもしれない。
 早く解放されるといいのに。自分のように、生きる糧から支えと変えて、変わらぬ愛と慈しみに空を仰ぎ微笑む思いに、変わればいいのに。
 ……………未だ彼の中のその傷は、生々しい傷跡で、それが少しだけ寂しい。
 青年との約束が、早く果たされればいいのに。そう、思って。

 如雨露を持つ手をそっと傾け、虹を作れないささやかな雨を、降らせた。







   

 やっと出せたよ、クロウリー!
 いや、もういっそ本当に、出せないようなら科学班の薬で子供になっちゃったクロウリーとアレンの話でも書いてやろうか……と悶々としていたのです。
 同じ寄生型で、同じように幼少期を孤独に過ごして、同じように愛した人をその手で壊した二人は、どこかで深く繋がっていると思うのですよ。
 でもずっとお城の中で独りだったクロウリーは世間知らずで幼くて、サーカスの中で他人に揉まれて独りだったアレンは世間を知り過ぎて諦観も強い感じ。
 お互いに相手と同じ部分と違う部分を知っていて、その上で笑って一緒にいられる、そういう歳の離れた友達。

10.10.8