老人を見かけて、無意識に声をかけてしまった。
それはここ数日の癖のようなもので、今彼の後継者がどうしているか、どうなったか、それを確認したいがための、我が侭だ。
解っているけれど、老人はそれに嫌な顔を見せはしない。関係がないと切り捨てる事もない。
それがもしかしたら、自身が気付いた事実に基づいた意思なのではないかと、少年は少しずつ理解し始めた。
「あの、ブックマン。時間って、貰えますか?」
話が、したかった。自分が気付いた事が、この老人が想定している事と同じか、確かめたかった。
それはあるいは老人にもあった事だったのか、微かに眇めた眼差しで少年を顧みると、頷いて彼を自室へと招いてくれた。
部屋は相変わらず本に埋まっていた。けれど当然、そこに居る青年はいない。聞いてみればまた『ディック』の状態らしく、今覚えた事は『ラビ』も記憶している事は実証済みなので、必要な知識を記録させている所らしい。
それならば暫くは書庫に埋まっているだろう。本の山の中、微動たりともせずに字を追う青年の姿を思い浮かべ、少年は苦笑した。
「で、小僧。何かあったか」
小さく笑う少年に茶を差し出しながら、老人が問い掛ける。問いかけの言葉を使いながら、その響きは互いに共有したものを確認し合うものだったけれど。
それにクシャリと泣きたそうな顔をしたあと、少年はまた笑んだ。それはポーカーフェイスとはまた違う、何かを押し殺し笑む仕草。
「ブックマンは……初めから知っていたんですよね?」
声は小さく、囁く程微かだ。ここにそれを聞かれては困る人物はいないけれど、つい声を顰めてしまう。
その思いが解るのだろう。老人はそれを受け流すように聞き取り、少年の隣に腰掛けた。彼の手に持つカップの中身は、小さく波紋を起こしているのが見える。…………見えぬよう、声も震わせぬよう、気を張って。それでもやはり、揺れてしまうのだろう、その心が。
思い、追い詰める事になりはしないか、一瞬だけ逡巡した老人は、それでも既に少年に知れている事をはぐらかす事など出来ぬと腹を括った。
「何をだ」
「僕が………二人にとっての、キーだって事を」
老人の声には、すぐに返る言葉。躊躇いを孕みながらも、響く事を願う芯の通う声。
残酷な事実ならいらないと嘆ける人間なら、もっと楽に生きれただろうに。それでも運命から逃げないこの少年は、背負うものから目も逸らさない。
それが、己の願いに添わなかろうと、彼は見つけ抱えてしまうのだろう。優しいとも愚かとも言える、その性情のまま。
老人は少年を見つめる。彼の言葉の真意を知っているからこそ、その意味を問いはしなかった。
ただ彼がその言葉の意味を正しく知り得ているかを見定めるように、告げる言葉が続く事を促した。
こくりと、彼の細い喉が上下する。茶の波紋が深くなった。
それでもその唇は震えもせずに、開かれた。綴られる声は、静かに老人の肌に響く。
「僕が『ディック』に怯えたり逃げたりすると、いつも『ラビ』が還ってくる。まるで………嫌われるのを回避する、みたいに」
それは多分、初めから。…………初めて、あの方舟で、心を殺され正気を失い、そうして刃を交えたあの時から、彼は自分が怯え、心が悲しみに溢れて、過去に喪ったように今度はラビを失うのかと心が遠くへと逃避する時、還ってきた。
信じていいというように。
傍に居てというように。
…………拒まないでと、祈るように。
「…………知った所でどうしようもない事だろうに。言う気もなかったが、やはりおぬしが先に気付いたか」
軽やかな嘆息を落とす事で告げ老人の声の軽さに、少年は泣きそうになる。それを堪えた唇が、初めて震えていた。
弟子を窘める振りをして、この老人はいつも自分を慰めてくれていた。直接それを差し出せないのは、きっと彼の立場がそれを許さないからだ。それでも、この老人がくれたものは数多くて、少年はそれが嬉しくて、悲しい。
………彼のたった一つの宝物を、自分がもしかしたら壊すかもしれない、なんて。そんな悲しい事、あってはいけないのに。
「ディックは無理です。情報が足りな過ぎる。ラビは………もっと無理かなぁ。だって、僕が彼から逃げようとしているって思っているから、気付こうともしないんですから」
青年が向けている感情は、多分、自分が抱えているものとは少し違う。
少年が求め願っているのは、ひどく淡く優しい感情だ。そこにスキンシップが含まれても、それは友情の範疇でも許される、あるいは、多少度を超していても笑って済ませられる、その程度のものだ。
それ以上は求めるわけにはいかないと、いつだってそう自身に戒めてきた少年にとって、それを願っているのかどうかすら、自分では判断が出来ない。
それでも………きっと、青年が求めているのは、そうした行為も含めての、愛情だ。
中途半端では、彼をより苦しめるだろう事くらい、少年にだって解っている。そうしてきっと、いつかは彼を追い詰めてしまうのだろう事だって、解っているのだ。
結果が、ある種今回の騒動だろうか。たまたまこうした形をとっただけで、もしかしたらそう遠くない未来で、似たように彼は自分の行動ひとつで何かのスイッチを切り替えてしまう事くらい、あっただろうと思う。
「きっと……僕が追いかけなきゃ、駄目なんですよね」
ぎゅっと祈るように手を握り締め、少年は懺悔するもののように項垂れて呟く。
…………カップが揺れる。茶の波紋だけではなく、今は少年の指先が震えていた。
「逃げる方が、ずっと身に染み付いちゃって、今更追いかけるって、難しいんですよ」
求める事も、願う事も、随分昔に諦めてしまって、貪欲な感情というものも、どんどんそれに伴って薄れていって。
今はもう、過去に携えたその感情以外、新たに発露する事が無くなってしまった。
激する全ては、過去から起因して、現在に落とされるだけだ。新たに生まれるものはなく、それ故に新しく落とされたその感情を、少年は上手く処理出来ず、また、取り扱う事も難しかった。
自覚がない訳ではない。………それがどうしたものなのか、少年自身とリンクしない。
だから………いっそもっと強引に、奪うように腕を伸ばされれば、痛みとともに解る事も出来たかも知れない、のに。
優しい青年は、ひとつとてこれ以上の傷も痛みも与えたくないのだと、いつも一歩退いて自分が受け取れる温かさだけ与えてくれるのだ。
…………そんな価値、自分にある筈がないのに。
「僕は…寄生型が短命であるって聞いて、本当は、ホッとしたんです」
ぎゅっと、両目を瞑って少年が囁く。………小さいその声は揺れなかった。
それを見つめ、老人は胸中で息を落とす。この言葉は、予想出来ていた。この少年の性格と追い求めたものを思えば、過去の日、それを一度も思わなかったなど言える筈もない。
「だって、それなら……早くマナに会えるじゃないですか」
思った通りの理由に、老人はそれを否定も肯定もしない傍観者の眼差しで頷いた。
これは、懺悔だ。掬い取って欲しいなど願ってもいない、それは告げる事だけを願っている音。………無機質にも響く旋律は、その殻を破ってしまえば悲しみにまみれているのだろうけれど。
暴く意味など、どこにもない。
暴く事は、裁きを与える覚悟があるならば行なうべき事だ。全てを白日のもと晒す事に、意味などないのだ。
それを知る老人は、ただ静かに耳を傾け、傍聴する事だけを少年に教えた。
老人を見ない少年は、それでもその眼差しの質に気付いたのか、微かに震える指先を手繰り、カップの中身を小さく飲み下した。おそらくは、唇を湿らす程度の、ささやかな潤い。
「…………死んだら終わりだって思っていたのに、AKUMAが存在する事が、魂は永遠だって、教えてくれた。マナの魂は、また冥界に戻っただけだって」
それでも声は朗々と響く。隣り合って座る二人の間、隙間すらない程に、その音は豊かに響き老人を包む。
哀惜か、思慕か、それとも希望というべきか。解りかねる程に複雑に交錯した、意識と感情の音色。
「僕は……マナを殺したから、自分から死ねない、けど。寄生型だから、戦争に身を置いているから。そう長い時間はかからないって。………そう、思ったんです」
苦笑する口元はいつもと変わらなかった。閉ざしたままの銀灰は、きっと濡れてはいないだろう。
彼は懺悔をしながらも、それを悔いてはいないのだ。
過去の全てを糧とする少年は、それ故に、己の浅はかさも愚かさも自覚し、その上でそれを受け止め咀嚼し、己が身に貯えてきた。
貯え昇華し、そうして己の力と変えてきたのだろう。過酷を増す状況の中、笑む事を忘れず希望を携える事の出来る、その性根を支える、それは彼の武器だ。
「人はね、ブックマン。不幸だと、愛されていた記憶も忘れちゃうんだと思うんです。ちょっぴりの幸せより、沢山の不幸の方が勝っちゃう」
唐突な囁きは、透き通った音楽のように歌われた。
そっと開かれた月明かりが、懐かしむように眇められる。この室内、どこを見ても薄暗く本が散乱しているだけだというのに、その瞳に写る光景はひどく甘やかなものだというように綻んでいる。
「でも、僕は愛された。その記憶は、掠れた事なんてないんですよ」
幾多の傷も裏切りも、この身に背負う全ての因果も。どれ程苦しめようと、決してそれだけは色褪せない。褪せる筈がない、少年の中の初めの光。
「…………それは、幸せ、か?」
「僕にとっては」
にっこりと笑む姿は、どこか儚い。彼自身解っているのかも知れない。過去の愛情に捕われている事が、周囲の人間を悲しませている一因になる事を。
それでも……それを手放せないのだろう。それは生まれて初めて手に入れた、原風景の記憶だ。
「だから僕は、愛されるより愛したいって思ったんです。与えられるより、与えたい。もうそう長い時間がないなら、与えて貰った分を返す事もきっと、出来ないから」
だから求める事を諦めた。多分、生き残ってしまったその時に、真っ先に。
そうして、自分が与えられた優しい記憶を頼りに、与える術を模索した。注ぐ事、慈しむ事、祈る事、与える事。自分が貰った過去の記憶は鮮やかにそれらを思い出させ、模倣させた。
自分は幸せだった。…………だった、のだ。
だからそれ以上はもう、いらない。強過ぎる感情はきっとまた自分を絡めとって、悲しい結末を与えるだろう。今度は、自分が嘆く身ではなく、嘆かせる身となって。
それは嫌だった。自分が受けたあの絶望を、誰かに与えるなんて、そんな恐ろしい事、出来る筈がない。
愛したかった。与えたかった。降り注ぐ陽光のように。抱き締める月明かりのように。ただ無償で捧げ尽くし、いつか消えられたなら………きっと、自分は自分を誇って消えられた。
「それなのに、ね。………ごめんなさい、ブックマン。僕、いつの間にか凄い我が侭で欲張りになっちゃったんです」
そうやって消えゆこうと、決意していたのに。エクソシストとしてこの身を捧げ、AKUMAの救済に尽力尽くそうと決めたあの時から、ずっと。それなのに。
「みんなと、いたいなって。みんなが笑顔でいれば、自分はどうでもいいって思っていたのに。その中に加わりたいなって」
月明かりが嘆くように歪んだ。真っ白な肌が青白く輝いて、色素の抜け落ちた眉すら、悲しげに歪む。
泣ければきっと、楽だろうに。この少年は自身の身を嘆く為に泣く涙を、疾うに失ってしまっている。それだけは、憐れむべき事だと老人は眼差しに痛みを滲ませた。
「いなくなるの、解っているのに。だって、僕は寄生型で。そうでなくても、もし、この戦いが終わってイノセンスが無くなったり……ううん、無くならなくても、適合者が解放されちゃったら」
そっとカップから離れた左手が、己の心臓を抱くように胸に添えられる。
手のひらに感じられる鼓動は、規則正しかった。嘆いている癖に、それでも正常な己の心臓がどこかチグハグで、少年は滑稽な思いに唇を歪ませる。
それは泣き笑う、道化の笑み。
「僕の心臓は、もう、動く事が出来ないのに」
ぎゅっと、握り締められた左腕。その左腕が存在するから、この少年は生きている。その傷を負ってもなお、その左腕の意志が彼を生かした。
「………ラビから、聞いていますよね?」
少年の、一応の確認の言葉に、老人は頷いた。知らない筈がないと解っていた少年は、泣き笑いを消して唇だけで笑んだ。
それでも、その瞳だけは揺らいで、月明かりがひどく弱々しい。
「室長殿から事の詳細の報告も頂いておる。…………この先がどうあれ、おぬしが生きている事は、喜ばしい」
「ありがとう、ブックマン」
優しい老人のいたわりに、少年は心からの感謝を示すように微笑んだ。
全てをきっと知っているこの老人の、少年が選んだ事、青年が抱えている事、全てを見渡していながらも、その全てに傍観者であるこの老人の、歪まずブレず芯の通う姿は、どこか少年の理想に近い。
そんな事を言ったなら、きっとまた老人は趣味が悪いと嘆息するのだろうけれど。
それでも少年はこの老人が好きだった。この老人が弟子として選び、慈しむ青年が好きだった。二人が一緒にいる姿を見るのも、その中に加えてもらえるのも、本当に幸せだった。
何一つそこに嘘などなくて、それを壊したい筈もなくて。
それでも、この心に灯るものを、告げなくてはいけないのだ。懺悔にすらならない。それは宣戦布告と言っても差し支えがないのかもしれない。
「でも……だけど、ごめんなさい、なんです、やっぱり」
言葉の意味など解らないのだ、少年にも。心など疾うに捧げ尽くして自分の為になど動かないと思っていたのに。
「僕はこんなで、いつ消えるかも解らないのに」
自分の嘆きを声に出す事だって、もうないと思っていたのに。戦えるなら、エクソシストとしてこの身を捧げ尽くす事が出来るなら、他に何もいらないと思っていたのに。
「それでも…‥ブックマン、僕は、一緒にいたいんです」
我が侭に、なった。貪欲になった。求めずに消える筈だったこの身に、もう一度心が灯った。
「ラビと、一緒にいたいんです。方舟でラビの手をとれなかった時………僕は、初めて叫んだ」
心のままの声なんて、忘れた筈だったのに。嘆きを音とする事がどれ程の悲痛となってこの身蝕むか解っていた筈なのに。
「マナを失ってからずっと、失わないように何も抱えず、与えるだけにしようと思ったのに。ラビが一杯、与えてくれるから。…………ううん、僕が欲しがっているの、ラビは気付いちゃったから」
我が侭で傲慢で欲しがってばかりの幼い自分。与えてと強請って腕を伸ばし、それを当然のように与えられていた過去の自分。
全部捨てて、忘れて、与えてくれた人と同じになろうと決めていた筈なのに、甘えてと願う人を見つけた途端、揺れてしまった。求め始めてしまった。
繰り返してはいけないというのに。自分の身体は時間制限付きで、それを喜んだ筈だというのに。
…………その事実が今は、悲しい程にもどかしい。
「僕の中に、ラビが居着いちゃったんです。もう、無くせないんです」
ごめんなさい、と。少年は消え入るような声でもう一度呟いた。
懺悔するようなその声が囁くのは、いとけなく尊い思いな筈なのに。
己の肉体の限界と、相手のもつ運命故に。この少年は全ての罪を己が背負っていると告げるように、差し出すのだ。
あまりの潔さに、老人は溜め息すらでなかった。
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昔愛されたから、もう愛すだけで生きて終わりたいって言った事がありますよ。何かを欲しがりたくない、寡欲でいたいって。
それは恋愛的な愛ではなくて、慈しめる方の愛で。
そうしたら、『愛された事があるなんて言い切れるのは、傲慢で強欲だ』って言われましたねー(笑)
まあ何故そう思ったかの経緯をしっかりきっちり答えましたけど。
私は流石に人を殺した事はないけど、自分の中の人の記憶なら、殺した事がありますよ。12年分のその人の記憶。今もまだ、顔をちゃんと思い出せないし、その人がくれたもの全部、思い出せないけど。
理由はどうあれ、結果として誰かを消してしまったのなら、それが自分を愛してくれた人なら、尚の事、罪は消えないと思うのですよ。人が言って消えるような罪じゃなく、自分自身が許せない。
なのに誰かに愛されたい、なんて、許されるとも思いたくない。
だから、失った分の、……失わせてしまった分の自分の中のプラスのものを、与えて捧げて尽くす事で、そのまま果てられればきっと救われる、とか。
………自己満足のエゴのまま、祈る事もあるのです。それは本心からの綺麗な感情とはまた別の、歪んだ献身なのですよ。決して尊いなんて勘違いしちゃいけない類いなのですよ。
まあそのせいで私の書く話は、大抵差し出す側と差し出される側の見解が愉快に違うのですが(苦笑)
結局は自己犠牲に陶酔する事でもあるので、何事も極端はいけない。その辺を書き込めるといいなぁと思うのですが、なかなか難しい。
10.10.10