そっとそっと、皺の多い細く固い指が、背中を撫でた。
 労るのではなく、慰めるのでもなく、かといって後押しする訳でもなく。
 ただ、それを望む者に与えてくれている、そんな仕草。他のどんな感情も交えず、希望も含まず、ただ欲しいと願うままに差し出される。
 ………それをきっとこの老人は、冷静に分析するからこそ解るだけの、無機質な腕だと言うだろう。
 それでも、少年には解ってしまう。
 それは……優しさなのだ。気付かれぬままでいいと隠され、解らぬように全てを冷たく覆って。それでもやはり零れ落ちるぬくもりが、この心に触れるのだから。
 その顔を見たかった。きっといつもと変わらない無表情な顔で、けれど隈取りに縁取られた瞳だけは鋭くこちらを窺い、微かな変化も見逃さぬようにしているだろう。老人はそれを観察者だと断言し、少年はいたわりなのだと捧げるままに。
 けれど、今は見れなかった。大好きなその瞳は、だからこそ、見れない。
 何もかも解っていて、それでも自分を糾弾しない人なのだ。それを傍観者だという一言で、済ませられる筈が無い。
 「……………すみません、ブックマン」
 彼が愛しむ存在を、自分はきちんと知っている。その存在が、何故か自分に傾いている事も、解っている。
 それがきっとこの先、この身が抱える全て故に、傷付く確率の高さも、理解しているのだ。
 その全てを見渡し、本当なら選ぶべきは、別の道なのに。この腕が欲しがっているのは、その手をとって笑む事だ、なんて。
 ……………謝罪の言葉の無意味さに、泣きたくなる。
 「謝る理由も無かろう」
 それでもこの老人は、やはり何も責めず、色を灯さぬ声音でただそう呟いて、またそっと背中を撫で、頭を優しく叩く。
 泣けない瞳は相変わらず乾いているけれど。
 いつか……この老人の為に、何かをしたい。命賭けてと、そう言ったなら、きっとこの老人は溜め息を吐いて、そこまで老いぼれていないとか、軽やかに躱すだろうけれど。
 それでも、いつか、きっと。彼の為に、この身を使おう。彼が愛する後継者を傷つける事すら許してくれる人だから。
 彼らの為に、彼らが笑んでこの先を進めるように。
 この身を、いつか、彼らを生かす為に………捧げてみよう。

 まるでそんな事を見透かしたかのように、老人は小さく窘める声を落としたけれど。
 少年は泣き笑う顔のまま瞳を細めて微笑み、何も無いのだと、いとけなく囁いた。



 じっと自分を見る視線には気付いていたけれど、敢えて何も言わずに本に視線を落としていた。
 難しい専門書でも、絵本でもない、適度に知識を加えられる、ちょっとしたエッセイ。自分ならばまず知らない著者のそれは、当然選んだのも自分ではなかった。
 ブックマンが選んでくれた本は、いつも読み易く飽きない。多分、少年の嗜好と知識量に見合ったものをちゃんと選んでくれているのだ。そういう所はとても上手な人だからと、つい笑みが零れてしまう。
 それを見ていた視線が少し眇められて、ムッとした気配と一緒に声が寄越された。
 「アレンー。ツマラナイ」
 声が拗ねている。初めて会った時から比べると、この一週間程度の間で随分柔和になったその声は、瞳にも同じ色を馳せて少年を見ている。
 その青年の体勢に少年は仕方なさそうな笑みを浮かべてしまう。少年の部屋だというのに、この青年は欠片程も遠慮をしていない。
 その証拠のように、ベッド柵に凭れて本を読んでいる少年の横に、我が物顔で寝転がって少年の手元を覗き込んでいる。多分、わざと本を覗いて読めないように、角度まで計算して。
 彼の中で、きっと自分は何がバレても問題の無い相手と認識されているのだろう。そのせいか、こんな風に些細な我が侭を口にする回数も増えてきた。
 「………それならディックも本を読めばいいじゃないですか。いつも本に埋もれている癖に」
 「ジジイと一緒か一人ならするさ。でも、他に人がいんならヤダ」
 敢えて少年がいるのに、と特定しなかったのは、一応距離感をまだ測っているせいだろうか。内心で苦笑しながら、少年は仕方なさそうな溜め息を落とすと、栞を挟んで本を閉じた。
 …………本当はもう少し読んで、読み終わったら老人にお礼を言いにいくつもりだったのだが。
 きっとこの青年は、それまでは待ってくれないだろう。拗ねてしまうと厄介だと、まるで年下の子供を思うような気持ちで考えてしまう。
 少年が閉じた本のタイトルを見つめて、青年は首を傾げている。多分、彼が考えていたような内容ではなかったせいだろうな、と思っていると、案の定見上げた瞳が瞬いていた。
 「それ、『ラビ』が選んだんさ?」
 少年が選んだという選択肢は、初めからないらしい。そんな口ぶりに気を悪くする事も無く、少年は首を振った。
 「違いますよ」
 「でも、アレンそんなの知らないさ?建築家のエッセイなんて、内容砕けてっけど、興味なきゃ見ないさ?」
 そもそもエッセイ自体、この少年が読むかどうかは疑わしい。そんな疑問を孕んだ声に、少年は見上げてくる瞳を覗き込むように首を傾げて小さく笑った。
 この青年は解らないとすぐに言葉に換えて聞きたがる。どこかそれは、幼い子供の仕草だ。知りたがり、と過去に青年が自身を評した事を思うと、出会う前はこんな風だったのだろう事が窺えて、なんとなく楽しい。
 「ブックマンが選んでくれたんですよ。お願いしたら、すぐいいの見つけてくれますよ、いつも」
 「………ジジイ、やっぱアレンに甘いさ?」
 嬉しそうに答えた少年の声に、拗ねた顔と声で青年が言う。そんなやりとりを過去にもしたと、それより更に過去の記憶しか持たないこの青年は知らないだろうけれど、やはり彼らは同じ一人の人間なのだと思えて、少年は笑みを深めた。
 それが面白くなかったのか、青年はまた顔を顰めてしまう。今度は振りではなく、本当に拗ねたのか、少年の膝に乗せられていた本を取り上げると、そこに己の頭と腕を乗せて上体を預けてしまった。
 眼下に見下ろせる赤い髪に苦笑が深まる。子供のよう、ではなく、本当に子供だ。今の青年の記憶の長さは自分と大差ない筈だけれど、それにしても随分と甘えたがりだと、その髪を慰めるように梳いた。
 「いえ…多分これは、以前ラビにお願いした時の経緯を知っているせいじゃないかと思いますよ?」
 髪を撫でる指先が心地よいのか、幾分気配が軟化した青年に、少年が告げてみれば、ぴくりと顕著な反応が返される。
 どうもこの青年は、もう一人の自身の情報にひどく顕著な反応を示す。それは仕方ない事なのだろうけれど、彼らをそれぞれに認識している少年には、そこまで情報を求める事もないのにと、困った顔しか返せなかった。
 ……………『ラビ』も『ディック』も、違うけれど同じで、どちらがよりどうだと、少年には言えないのだから仕方のない感傷かもしれないけれど。
 「………『ラビ』のヤツ、何したんさ?」
 訝しそうな声には、少しだけの棘。少年ではなく、もう一人の自身への棘である事が、少し悲しかった。
 「したというか………出来なかったというか」
 「??なんさ、それ?」
 言葉を濁すようにして言う少年の言葉の意味がよく解らず、青年は少年の足の上、ごろりと体勢を変えて、天井を見上げるようにして少年を見遣った。
 瞬く視線の先、少年は苦笑して青年の追いやった本を取り上げて、それを眺めながら事の経緯を教えた。
 「読み易い本がいいって言ったら、絵本渡されたんですよ……。で、流石にそれよりは難しくて、何か勉強になるヤツがいいって言ったら、今度は専門書渡されて。………しかも僕が読めない国の字でした、それ」
 「……………………………………何やってんさ、『ラビ』は」
 「後で本を選んでくれたブックマンが教えてくれましたけど、それは専門書というか、論文で、最新の情報だから喜ばれると思ったんだろうって。僕は学が無いって知っている筈なんですけどね、ラビは。きっとラビは読んでいて凄く楽しくて、それを教えたかったんだと思いますよ」
 その後暫く青年が凹んでいたのは敢えて言わず、少年はその話を終えた。懐かしいというのもおかしい程度の過去の記憶だ。それでもそれは、ひどく微笑ましくてくすぐったいエピソードだ。
 きっと青年は、同じものを共有したくて、心から楽しい本を薦めたのだろう。それを理解出来るかどうかとか、そんな事すら考えずに。
 それは馬鹿にしたとか、そんな事ですらなく。ただひたすらに純然とした、好意の塊だ。……否、分かち合いたいという意志の、塊だ。
 臆病な程それらを隠している癖に、青年はふとした時にそんな風に無防備に晒して、そうして老人にその荒過ぎる呈示の仕方を窘められるのだ。
 少年にとって、それはとても嬉しくて大好きな、二人のやりとりのひとつだ。
 思い出し、浮かんだ笑みはひどく柔らかく澄んでいて、青年は見上げた先の少年の笑みを、遠い空を見上げるようにして見つめた。
 「なあ、アレンは、俺の事、嫌?」
 ふと、零れるようにしてそんな問いが口から落ちた。
 声は特に咎める訳でもない、かといって無機質な玲瓏さもない、ただ問うただけというだけの音。
 「…………ディック?何かあったんですか?」
 唐突なその言葉に、少年は眼下の青年を見下ろした。自身の足に乗せられた眼差しと、さした距離もない。真っ直ぐないたわりの眼差しだ。
 逸らす事もせず、遮るものもないその視線の間、それでも微かに何かが遮断するように横たわっている気がして、青年は微かに眉を寄せる。
 「質問に答えてさ」
 「答えるも何も、以前答えましたよ?まさか忘れたんですか?」
 困惑した声で問う内容は、おそらくは不安だ。もしも『ディック』にまで記憶が曖昧な症状が出たとしたら、今まで以上に状況が悪くなる。『ディック』以前の記憶まで互い違いに現れては収集などつかないのだから。
 そして、多分。………きっと、この少年は、『ラビ』と『それ以外』を見分けられても、それ以上を見分ける事は出来ないのだ。
 どうしようもない程、それは絶対的な事実。
 「覚えてるさ。でも、答えて」
 解っているから、青年は焦れたようにもう一度言った。聞きたいのはたった一言なのだ。それ以外はどうでもいいから、答えて欲しい。
 ………あの時とは違う答えが欲しいと、思う事自体がおかしいかもしれないけれど。
 「?やっぱり、何かあったんでしょう?力になれる事があるなら、相談に乗りますよ?」
 戸惑う声は、けれど揺れない。感情を灯しているけれど、それは自分が以前見たものとは違う。
 最近はまったく見なくなった。多分、タイミングを解り始めたのだ。自分と『ラビ』とが現れる、そのタイミングを。
 それは同時に……ひとつの仮定を肯定するようで、ほんの少し………辛いと感じる事が、不可解だった。
 「……………じゃあさ、教えて。『ラビ』は、好き?」
 「ディック?なんなんですか、一体???」
 困惑も戸惑いも全部通り越して、訝しんでいる。青年の発言がからかいからきているのか、何らかの疑いからきているのか、見極めようとした少年の眼差しは鋭い。
 鮮やかな銀灰色の眼差しが自分を存分に映す事を確認して、歓喜が湧く事も……本来なら、有り得ない。
 そもそものところ、初めて見つけた時から二度三度と重ねる度に変わる印象と、揺れる感情自体……訳が解らないのに。
 それでもひとつずつ紐解いていく度に、自分でも信じ難い事由が頭を擡げ、頭痛を誘う。
 「アレンはさー、俺といても随分笑うようになったけど、やっぱり違うさ。初めの頃、『ラビ』と間違えて笑った顔と、違うんさ」
 苦笑するようにディックが言った。自分が現れた二日目の朝、少年は笑った。親しい人を心から歓迎する、甘く溶けた瞳で。無条件で受け入れてくれると、そう信じられる程いとけなく笑った。
 それはすぐに消えてしまい、それ以後ずっと、青年には差し出されなかった。けれど、きっと、自分が消えた後は晒されている筈だ。それは見ていないけれど、確定出来る事実だ。
 「それは……なんというか、共有したものの違い、というヤツですよ?ディックが嫌だからとか、そういう理由じゃありません」
 出会ってから流れた時間があまりに濃密過ぎて、それ故に築かれた信頼関係は、どうしたって同じ長さの時間を過ごしても同じ絆を作り得ない。
 同一人物であっても、それはどうしようもない事だ。まして、青年はそれらの事象を通して変化していったのだから、尚更に。
 幾度か違う場面で似た事を繰り返し言い合っているのに、それでもこの青年は思い出したようにそれを繰り返すのだ。忘れる筈のない脳を所有している彼なのだから、それはきっと、納得出来ないという素直な感情故のものだろう。
 それは『ディック』だけでなく、全てを覚えている筈の『ラビ』にも共通している。それだけは、少年にも不可解だったけれど。
 「………でも、俺より『ラビ』が好きっしょ?」
 「人を比べる事に意味は無いと思うので、答えられないです。それに、ラビについて、ディック、あなたには答えられないですよ?」
 「なんでさ!」
 ギョッとしたように目を丸めて、青年は起き上がるように上体を持ち上げた。その状態では頭をぶつけ合うと、そっと少年が手のひらを翳して青年の眼差しを隠すように目を覆う。
 ………そうした事で何も見えない青年は、はぐらかす気だと判断したのか、不愉快そうに唇を引き結んでいる。
 それを宥めるように、少年は緩やかに指先を滑らせ、青年の髪を撫でた。さらさらと零れる赤を見つめながら、子供を窘めるような優しい音が紡がれる。
 「だって、ディックに言った事は、全部ラビにバレちゃうんですから。………あ、しまった。さっきの本の事、隠せばよかったかな?」
 「別にどっちでもいいさ、そんなん。………じゃあさ、『ラビ』には俺の事、言ってんさ?」
 どうせ自身が原因の事など、いくらでも言ってしまえばいいのだ。きっと他にももっとドジを踏んでいるに決っている『ラビ』が、ディックにはもどかしい。
 自分ならもっとスマートに何事も進められるだろうに、少年の口から語られる自分の姿は、どこか間抜けで空回りばかりで、滑稽だ。
 ………それでも、そんな姿をこそ、この少年は愛おしそうにさえずるのだけれど。
 だからきっと、この少年は『ラビ』にはいくらでも何でも、話すのだろう。『ディック』をどう思っているのかも、どうなって欲しいのかも。……………消えて欲しいと、願われていたら流石に凹みそうだと、顔が顰められてしまう。
 「言いませんよ?」
 告げた青年の言葉に、少年は不思議そうに目を瞬かせてあっさりと言った。
 傾げられたその首は細く、少し浮かされた青年の頭の間近で、さらりと真っ白な髪がその首を撫でていた。
 「なんで?」
 その様に魅入られながら、それでも唇はすぐに彼への疑問を綴る。
 知りたいと、どんな些細な事も聞いて暴いて、全てを記録したいと、そう思うのはこの少年が記録対象だから、など。………もうそれが言い訳にならない事は、疾うに知っていたけれど。
 「ディックにはラビの事言わないのに、ラビにはディックの事言ったら、ずるいでしょう?」
 そこは覚えているとか無関係に平等に、と。少年は楽しげに目を細めて笑った。
 それは多分、信用してくれている、眼差しだ。仲間として、突然現れてしまった自分すら、この少年は受け入れているのだろう。
 きっと幾度も傷付けて悲しませただろうに。そんな顔しか暴けなかった筈だというのに、この一週間以上を、彼は当たり前のように一緒に過ごしてくれたのだから。
 その優しさが、自分ではなくてもう一人の自分に与えられていたが故の、延長線上の感情なのが、どうしても腹立たしく感じてしまう。
 「………なぁ、アレン。俺さ、やっぱ『ラビ』にはなれないさー」
 思い、呟く。重い感情は、けれど軽やかな音で綴られた。
 「ならなくていいですよ、別に」
 目を瞬かせてキョトンとした顔。以前は同じ事を言って、傷付けた。泣きそうな顔で彼が囁いた声を思い出し、顔を顰めそうになる。
 笑って欲しい、なんて。………おかしな感情だ。それをなんと定義するかを知っている脳が、同じ冷静な声で馬鹿げていると笑っている。
 きっと、同じ声を『ラビ』も聞いた筈だ。聞いて、そうして選んだものがなんであるのか、まだ解らないから、きっと自分は『ラビ』にはなれない。
 …………奇しくも少年が言った通り、なれないのだと自覚してしまう。
 「だからさ、アレン。俺にも笑って?『ラビ』ばっかずるいさ」
 きっと自分とは違うものを見つめて選んだ、たった2年長く生きただけの『ラビ』はひどく遠い。
 同じだと、そうせせら笑ったこの心の愚鈍さに、今なら同じ思いで嘲笑える。
 「笑顔の種類が違うとか文句言われても、僕にはどうしようもなんですけどね………」
 同じように笑っているつもりだと、少年は苦笑する。それでもやはり違うのだと、そう反発する自分に、何かが重なって首を傾げた。
 数瞬の逡巡。………検索された結果は馬鹿らし過ぎて、思わず天井を仰ぎ見てしまう。その視界の中、真っ白な髪が揺れて自分を覗き込んだ。
 それに唇を歪めて滑稽に笑んで、青年は少年の足の上にまた身体を戻した。
 同じだ、なんて。………自分と『ラビ』を違える事なく見破った少年と、同じだなんて。
 …………………その意味を探る事を放棄して、青年は見下ろす銀灰に眉を垂らして囁きかけた。
 「笑って、アレン。そうしてくれんならさ、俺、地球全部歩いた分と同じくらい、色んな事教えてあげるさ」
 本なんて読まなくてもどんな知識だってあげられる。きっと自分も『ラビ』と同じように、少年が求める本を上手に選ぶ事は出来ないだろう。独り善がりになってしまうに決っている。けれど、求める知識を求めるまま、教える事は出来るのだ。
 だから、笑って、と。子供のようにディックが強請る。
 それを見つめる少年の瞳は柔和に細まり、まるで子守唄でも歌うように柔らかく、その唇を歌わせた。
 「ああ、そうか。空の果て、地の終わり、海の先。地図の全てを、全部、『ブックマン』は知っているんですね」
 見果てぬものを愛おしむように感嘆とした声音で呟く声は、青年のどちらに対しても言っているようで、その実きっと、あの老獪な老人に向けられているのだろう。
 …………妙に仲がいい少年と師の間には、なかなか割り込みづらくて面白くない。
 「まあ、俺はまだ行ってねぇとこもあっけど。きっとジジイはないさ」
 そしていつか、自分もその名を継げば、同じ事が言えるだろう。この星の上、陸地に一歩として足を刻まぬ場所はないと、誇らしく。
 その姿を思い描いたのか、少年は楽しげに目を綻ばせて、相変わらず人の足の上で図々しく横たわる青年を見つめた。それはひどく優しい眼差しで、けれど欲しいものとは違う輝きが、青年の眉間の皺を解きはしなかった
 そっとその寂しい眉間を少年の指先が撫で、そのまま髪を梳いた。ほんの少し解かれた眉間の皺に、少年は満足そうに唇に弧を描く。
 「いいですね、それ。僕も昔から旅暮らしでしたから、色んな土地を渡り歩くの、好きですよ」
 遠い過去を思ってか、一瞬、少年の瞳が青年を見下ろしながらも、それ以外の風景を見つめるように霞んだ。
 彼自身から語られた事はないけれど、この少年の生育歴は全て見知っている。歴史に関わるものとしてマークされているのだから当然だ。
 その当然の行為によって得た知識が、何故か苦いのが、音として転がせない口に痛かった。
 「じゃあ、アレン、一緒にどっか行くさ?」
 それを隠したくて、戯けた顔で見上げた少年に声を掛けた。そうしたなら、きっと過去の風景から自分へと、その意識が戻ってくれる筈だと祈りをこめて。
 「どこかって?ピクニックですか?」
 「どこでも。空の果てでも、地の終わりでも、海の先のもっと遠くでも!そうしたら、『ラビ』だけでなく、俺との共有っての、増えるさ?」
 そうしたら笑ってくれる筈、と。きっと感情を計算だけで導く事に慣れてしまっているのだろう声が綴った。…………ただその瞳の寂しさだけが、計算で割り出せた解答が、正しく履行されないだろう予感を知っている。
 それに少年は苦笑し、寝転がるその頭を撫でた。気持ち良さそうに目を細める仕草が、猫のようで少しおかしい。
 どこか、この青年は少年から差し出されるものに焦がれている節が見て取れて、やはりもう一人の青年と同じなのだと、思ってしまう。きっと、そう思ってしまう少年の心理すら、この青年には痛みがあるのだろうけれど。
 「………楽しそうですね。そんな旅も」
 いつかきっと彼らはこの教団から去ってしまうけれど。その時が、もしも戦いが終わった後で、そして自分がまだ生きているなら。
 そんな風に、また世界を巡って旅をするのも、いいのかもしれない。きっと危険だらけなのだろうけれど、今までの戦闘経験が、足手まといにさせずに彼らについていかせてくれるだろう。
 …………それはひどく甘く、そして不可能である蓋然性の高い、夢物語だ。
 「だろ♪だからさ、俺の事も好きになって?」
 けれどそれを少年以上に理解している筈の青年が、ひどく真面目にそう言った。
 口調だけは呆れる程軽く、ただの社交辞令に聞こえるように装っている癖に。その音の響きが、肌に痛い程真摯だ。
 眉を顰め、少年は青年を見下ろす。見上げる隻眼が微かに煌めいていて、目を見張った。
 「ディック?」
 「だって、そうしないと、俺、『ラビ』に戻れないさ?」
 「…………ディック?」
 いつだってどこか飄々としていて、彼は『ラビ』に比べて、ブックマンに近かった。年齢の割に冷めているというよりも、輪の中に混じりながら、その実それを眺めているだけの部外者の眼差し。
 それは出会った当初、真っ先に少年が読み取って、そうして彼が近づく事を諦めた眼差しだ。
 重ねた時がそれを柔らかく溶かしたけれど、再び携えていた時期に舞い戻った筈の目の前の彼は、その眼差しを苦しげに歪め、滴りの中で溺れかけているようだ。
 それに戸惑い、名を呼ぶ少年に、けれど青年は答えず、ただ願うように乞うように、言葉を綴る。
 「俺には無理でもさ、『ラビ』に溶けた俺には、笑うさ?だから、早く好きになって。そうしたら、アレンが欲しいもの、全部あげるさ」
 何を言っているのか、と。誤摩化せばいいのだろうか。そんな事はないと、慰めればいいのだろうか。
 ………どちらも無駄な事だと、瞬時に悟ってしまう。
 自分が青年を見分けてしまうように、この青年もまた、自分が差し出す笑みの質の違いを読み取ってしまう。
 だというのに、口先だけで誤摩化すなど、不可能だ。それは誰より自分が一番、知っている。その痛みも、知っているのだ。
 躊躇い、答えられない少年は眉を垂らし、泣きそうに見えた。
 それを見上げ、青年はそっと少年の頬に指先を滑らせる。濡れてはいない頬は、けれどしっとりと冷たくて、少年が呼気すら抑えて自分に集中している事が解る。
 喜ぶべきか悲しむべきか、微妙だ。もっと別の形で、それが柔らかく晒されているなら、きっと歓喜の中で笑えただろうに。
 「平気さ?だって、俺は消えても、消えない。空高く星になる訳でもないさ。今まで通り、記憶のひとつとして『ラビ』の中に戻るだけ」
 それでもきっと、自分にそれは与えられない。………きっとまだ、自分の中には知らないままのものが多過ぎる。
 心を殺す事こそが正しい道筋の先、それでも必要なものがなんであるか、何とはなしに見えるというのに、その解答だけは持ち得ない自分が歯痒かった。
 「だから、……………怖がらないで」
 必死になって笑ったような、そんな不格好な笑顔で、ディックは言った。
 泣きそうな眼差しに与えられた色は、寂寞。それでも己のスタイルを貫こうと、戯けるように笑んで。それでもどうしようもない事に青年は気付いて、唇を戦慄かせた。
 その姿があまりにも憐憫を誘って、少年はどうしようもなく答えられない事を知っていながら、その手を伸ばした。
 優しく労るようにそっと、頭を撫でて頬を擦る。母親が赤子にする、あやすように愛おしむように、守る事を教えるように捧げるぬくもりと、同質の優しさで。
 知らない答えは、知っている筈だけれど、見えなかった。
 それはひとえに、自分ではないもう一人が見つけた解答だからだ。………それを知っていたなら、あるいは自分は、この少年に見破られる事も無かった筈だ。
 ………見破られる、など、そう考えている時点でそれを手にする資格もないのかもしれないけれど。
 そう、思い。

 その隻眼に讃えられた湖水が、瞬きとともに、落ちた。







   

 ディックには見えてきて、でもその答えは見つけられない。
 ………違うな、数式を見出して答えを導けるけど、その答えを証明出来ない、かな。
 それが答えと解っていても、それがどんなものであるかを持ち得ていないないから解らない。欲しいと思っても、どうやって手に入れるのかが解らない。
 この話のディックは、ずっとそんな役割。冷めているのはポーズではないけれど、本質でもなくて。
 ただ知らないから、解らないから、心が揺れない。
 多分、だから、余計に寂しくて甘えん坊なのです、この子。

10.10.11