揺れる眼差しがそっと閉ざされ、それはすぐに舞い戻って来た。
まだ水を讃えたままの瞳の中、翡翠がひどく煌めいて少年を見つめている。
先程までの滑稽な泣き笑う顔でも、知らないものに戸惑い困惑する顔でもない。純然とした、喜色の笑みがその瞳を彩っていた。
「…………アレン?」
囁く声の質は、よく見知ったものだ。それを見つめて、少年は困ったように眉を垂らして笑む。
「やっぱり、僕が原因だったみたいですね、ラビ?」
「……………この場合、何をどう俺は釈明すればいいんか、訳解らないさ」
零すように告げた少年の言葉に、大きな溜め息を添えて青年が返す。今回の騒動の意味が、漸く自身の中で繋がった。
そしてきっと、これで終わりなのだ。
いつもであれば『ディック』から戻ると、意識しなければその期間の記憶が蘇らないというのに、今は全てが繋がってしまっている。別個の記憶として成り立たず、ひとつの連なった記憶として存在するのは、この騒動以前の状態と同じだ。
だから、多分。………ディックは溶けた。この身の中に、もう一度。
『ラビ』が選ばれた訳でも『ディック』が拒まれた訳でもなくて、その全てがあるからこそ意味があると、囁かれたから。
そうして、それによって解決したというならば、この事態の因は、なんと幼稚な我が侭から成り立っているのだろうか。
……………全てを受け入れて、と。我が侭に叫んだが故の事態だなんて。この年下の少年に押し付けるにはあまりにも情けなさ過ぎる事実だ。
しかも、その全てを、おそらくは自分よりも先に、彼はきちんと把握していたのだ。本当に侮れない少年だ。
「釈明する事もないでしょう。とりあえず、起きたいんですが……」
「あ、悪いっ」
慌てたように青年が少し身体を起こせば、クスリと小さく笑って、少年は上体を起こそうと肘をついた。
それを見下ろしながら、はたと気づく。………考えてみるとずっと彼にくっつき続けていたのだ、自分は。否、ディック、か。こんなにも間近でずっと触れ合っているなど、少なくともラビの記憶には無かった。
「………もうちょっと、駄目さ?」
ふと擡げた対抗心のようなものも、本当はもう持つ意味もない。それは解ってはいるけれど、やはりこの腕でそうしたいと思うのが我が侭だろうか。
じっと見下ろしたまま動かなくなった青年に、少年は目を瞬かせ、困ったように俯いた。首を振られるだろうかと思って溜め息を吐きそうになった頃、小さく少年の肩が上下する。
多分、深呼吸したのだ。微かに洩れるように落ちた吐息がそれを教えた。
「あー……………………じゃあ、僕だけ起きます」
膝はどうぞご自由に、と。少年は視線を泳がせたまま、口早に答えた。
たったそれだけを言うのにも覚悟を決めるような仕草に苦笑する。………それはほんの僅かな寂寞を灯していたけれど。
少年はいつも、こんな風に近づく事に躊躇いをもって傍にいるのだ。だからこそ、彼が捧げてくれた言葉には、どれ程の価値があるか解らないけれど。
「ん、サンキュ。………で、結局アレン、いつから気付いていたんさ?」
ぎゅっと、ディックがしていたように彼の足に上体を預け、抱き締めるようにその腹に顔を埋める。体重がかかり過ぎないように配慮しながら、けれど決して遠く離れられないように、しっかりと両腕を少年の腰に回した。
そんな仕草には気付いているのだろう、青年を見下ろす少年の瞳は子供を見るように細められている。
「数日目くらい………ですかね。だってディック、僕の前でしかラビに戻らないじゃないですか」
「それだけで?」
首を傾げて伝えられたその言葉に、青年がビックリしたように返せば、微かに身じろぐ気配とともに、沈黙が落ちた。どうしたのかと、青年は腹に押し付けていた顔を少しだけ離して、少年を見上げた。
「…………それ以上を言うと、ラビの台詞も全部奪う気がしますよ」
………小さく溜め息を落としてそう呟く少年の頬が、微かに赤い。
それにつられるように赤くなっただろう自分の頬を隠すように、また青年は少年の腹に顔を押し付けた。
どうしようもないくらい、照れ臭い。当然だ。こんな馬鹿げた騒ぎを起こしてしまうくらい、傾斜しているなんて。教団中に叫び回ったようなものだ。
唯一の救いは、この事態を知っているのがほんの一部の人間だけだという事だろうか。………どちらにしろ、結局バレているのでは意味はないけれど。
………少年が離れるのが嫌で。嫌われるのも嫌で。失うなど、もってのほかで。
けれど少年の中には自分が刻んだ傷があり、それはきっと彼を怯えさせたと解っていて。だから、どうしようもなくその時の自分を受け入れて欲しいと、願ってしまった。多分、無意識に。
変わった自分だけでなく、その変わらずにいた自分も、全て。変化するからこそ人間だけれど、その始まりのひと欠片すら、受け入れて欲しいなど。………師の盛大な溜め息が聞こえそうで、自分自身でも呆れ果ててしまう、強欲さだ。
「…………………………、つまり、駄々漏れだった、訳さ?」
「むしろブックマンに尋ねた方が、その辺は正確に教えてくれると思います」
返された少年の解答に、想像の中の師の真似をするように、盛大な溜め息が青年の口から漏れた。
調度それが触れる腹部が熱かった。くすぐったさに少年が少しだけ身を捩ると、それに気付いた青年の腕の力が緩まり、再び空間が出来る。
その拳ひとつにも満たない隙間を眺めながら、少年も小さく溜め息を落とした。
「御陰でブックマンにも、随分相談に乗ってもらってましたよ」
情けない姿も泣き言も、随分晒した気がする。そんな事で呆れないでくれる人だけれど、出来る事ならもっと、逞しくしなやかな自分をこそ、知ってもらいたい。
あの飄々とした老人は、きっとどちらの自分にも同じ顔を向けて、同じいたわりを、それと教えずに与えてくれるのだろうけれど。
それでも彼が、自分を頼りとしてくれる、そんな姿を捧げたかった。今回は特に、それを痛感した。………老人に宝をこの腕に抱き締めてしまった咎故に。
「…………ジジイに?」
ぼそりと、低くなった青年の声が、少し引き攣って響いた。
弟子には厳しい老人だ。さぞその脳裏では嬉しくもない説教を受けている姿が想像されているだろう。老人の説教など、精々正座が関の山で、それ以上の厳しさなど、少年は与えられた事もないというのに。
それを教えるように、いつだって少年は、老人の事を話す時は笑顔だ。嬉しいと、その思いが如実に伝わる、心からの笑み。
「はい。いつもちゃんと話を聞いてくれるし」
「アレン無謀な真似するさ……。切り捨てられたらどうするさ」
げんなりとした声は、けれど存外真剣さを帯びていた。ブックマンという存在がどんなものなのか少年には解りはしないけれど、それはきっと、とても厳しく孤独で寂しい、存在なのだろう。
その静寂にも似た存在だけは、知っている。いつだってあの老人が纏っている、透き通った気配だ。
「その時はその時で、すっぱり諦めます」
だから、もしもあの老人に言われたなら、自分は手を差し出しはしなかっただろう。
自分の事もこの青年の事も考えて、そうしてあの老人は答えてくれるだろうから。決して、己の立場故の判断ではなく、未来を思ってくれるだろうから。
その祈りのままに差し出した言葉の全てを、あの老人はひとつとして拒まず、いつだって自由に選べと教えてくれた。多分、それに甘えている面も大きかった筈だというのに、それでも老人はそれを諌めはしなかった。
きっと……あの老人が一番、自由であれと願ってくれたのだ。それを知っているから、少年は老人が否と言えば、きっと何も言えなかっただろうと静かに笑んだ。
「…………………そこは駄々捏ねて欲しいさ」
それらを知っている訳ではない青年は、それでも拗ねたように小さくごねる。腰に回っていた腕の力が強くなって、また青年の顔が少年の腹部に押し付けられた。
子供のように甘える青年の揺れる髪を見下ろしながら、そっと撫でるように梳いて、少年は苦笑で彩られた声音をその頭に落とす。
「何を言っているんですか。それはラビの役目でしょう。僕がブックマンに駄々を捏ねたら、ブックマンだって困るじゃないですか」
あの老人は、あれで存外甘いのだ。決してそれを見せようとしないし、きちんと距離を保って人々に接するけれど。
それでも言葉の端々、青年を諌める仕草の欠片の中、他を思う心を知らなければ見える筈のない、いたわりがある。それは多分、まだ『ディック』が獲得し得なかった、慈しみの情だ。
だから、彼は『ラビ』よりもブックマンに近い位置にいながら、決してブックマンと同じではなかった。そうして、『ラビ』はブックマンから遠ざかっているようで、その実ゆっくりとその傍らに近づいている。
解っているから、老人はその歩みを途切れさせるような選択肢は提示しなかった。弟子がこの先を進む為に、どうしても必要な糧を得る、これはある意味絶好の機会でもあったのだろう。
「それに、ブックマンは一度も反対しませんでしたよ。いつだって……優しかった」
どう転ぶか解りもしない賭けのような状態で、それでもあの老人は当たり前のように好転する事を知っていた。それがどれ程の信頼かと、あの老人に言った所で、飄々と躱される事だけは目に見えているけれど。
「…………なんか、俺、一番油断ならねぇのジジイな気がしてきたさ」
「仮にも後押ししてくれた人になんて言い草ですか、まったく!」
青年のむくれた声に破顔して、少年は撫でていた赤い髪を軽く引っ張るようにしてからかい、彼の背中をあやすように軽やかに叩いた。
その心地よさに目を細め、青年は唇を綻ばせる。きっとこの少年の言う事に偽りはなく、事実己の師は少年を支えてもくれたのだろう。…………『ディック』の記憶の中、幾度も老人が少年を庇う姿が映されているのだから。
こんなにも手を焼かせる弟子を、それでもあの師は辛抱強く見守り育ててくれている。苦笑が泣き笑いになりそうで、青年は慌てて首を振って少年を見上げた。
まだ何もかもが解決した訳でもない。いくつも問題はあるし、その内のひとつは、青年には決定権のないものだ。
そして多分、それが一番の問題で、それが解決しない限りは、現状は打破出来ない事も、青年は知っている。
きっと、それが残り続ける限り、幾度だって似たような事が繰り返されるのだ。そうした己の脆弱さは、呆れる程厭わしいけれど、それでもそれが事実であるなら認めなくてはいけない。
そうして、惑いながらでも、一歩を。進める勇気が無くては、与えてくれた少年にだって顔向けが出来ない。
「なあアレン。………いいんさ、本当に?」
それでもどうしたって不安に揺れる声は、どうか許してもらいたい。この心が………与えられてしまった心というカテゴリーが、ただ一人の人間にだけこれ程までに過敏に反応するのは何故か、なんて。問う事すら愚かかもしれないけれど。
「?何がですか?」
「俺の事、選んで。だってお前、ちょっとばかり違うんさ?」
苦笑に彩られた声は、せめてもの強がりで笑みによって差し出された。
少年の思いが、自分のそれよりもずっと淡いものである事くらい、知っている。もしも同質のものであれば、こんな騒動起きる筈も無い。
それでも少年は、その腕を自分に差し出した。選ぶわけにはいかず、巻き込む事も出来ず、それでも欲しいと嘆くこの声を、その腕で抱き締めてくれた。
選べば、きっともう後戻りが出来ない。それを知っているから、少年も今まで踏み出す事が無かった筈なのに、これは強制的に選ばせたと言えるのではないか、と。………どこまでもこの少年に対しては自信を持ち得ない性根が、不安に揺れて彼を見つめた。
「………違う、というのも、よく解らないんですよ。傍に居たいっていうのと感情の意味が違うって、分類出来ませんよ」
困ったように眉を寄せて、少年は青年の髪を撫でる。どう伝えたならそれが正しく響くのか、少年には解らない。
選んだ事が自分の意思だと、そう言葉を連ねてもきっと青年は納得はしないだろう。臆病な自分の心が、特別な存在を得る事から逃げ惑っていた事を、きっと自分以上に知っている人だから。
「だって、それだけなら仲間さ」
拗ねた声が寂しそうだ。少しだけ、それはディックに似ている。彼の中、欠片すら取り零さずに、きちんとその意志は存在していると教えてくれるようで、少年の胸があたたかく綻んだ。
その思いのまま笑んだ唇は、ひどく柔らかい。
それを惚けるように見上げた青年の瞳の中、綻ぶ花よりも可憐に、その笑みは降り注ぐ。
「仲間なら、手を離せますよ。幸せになってくれるなら、僕の事なんて顧みなくていいです」
「コラ、アレン、その言い方駄目って言っているさ」
ムッと顔を顰めて、青年が慌てたように言葉を遮る勢いで言い募る。それはいつもの事で、少年もその言葉が終わるより先に頷き、彼の言を理解している事を示した。
「解っていますって。でもね、ラビ。僕はあなたを諦めたくはなかったんですよ?」
「………さっき、あっさり諦めるって言った癖に」
楽しげな笑みで伝えられる言葉に、子供じみていると思いつつも、先程のやりとりを引き合いに出してしまう。
少年はいつだって己の事より周囲の事を最優先で、もしも本当に老人が近づくなと諌めたなら、微笑んで頷いてしまいそうな気がして、青年は気が気ではない。
老人に逆らう事など自分にも出来ないけれど、それでも手放せない事も確かなのだ。その両方を抱えて、茨にも似た道を歩む以外、法もない。
そしてその道は、ただ独りでなど歩める筈もない、道なのだ。傍らにぬくもりがなければ、この足は一歩だって進めない。
少しだけ眇められた青年の眼差しの中の、そんな怯えを見て取って、少年は仕方なしに吐息を落とす。
………言うか言うまいか、本当なら言わない方を選びたかったけれど、やはりこの青年は伝えなければ気づかない。勘がいい筈なのに、何故か自分の事に関しては、面白い程愚鈍だ。
「そうしたら………あなたが奪ってくれるでしょう、きっと」
きっとそれは、彼にとっては痛みを残す結果にしかならないだろうけれど。それでも、本気で逃げて離れたなら、あの方舟の中での戦いのように、容赦などない腕で掴み引き寄せ、奪っていくだろう。
今回のような騒動を起こすか、現実の暴力か、それは解らないけれど。それでも、傷を与えても振り向かせようと、その腕が伸ばされる。それは多分、まだ育ち切らない心が持ち得る、無邪気な残虐性だ。
「いっそ、それくらいの方が、思い知る事も出来るかも知れないな、と」
微かに震えている青年の肩を撫でながら、戯けるように少年が肩を竦めてそんな事を言う。
こんな風に辛そうな顔でその言葉を聞く癖に、青年は決して、それを有り得ないとは言わないのだ。
己の中の闇も澱みも、互いに熟知している。綺麗なだけの生き物ではないと、それだからこそ愛おしさも募るのだと。
決して美しさだけを愛でて求めたわけではない命だから、震えながらも有り得ただろう未来を二人は飲み込んだ。
「………それ、俺が後から後悔の嵐さ」
「うん。だから、結果としては上々、ですかね?」
ぽん、と、青年の背中を叩きながら、この痛い言葉は終わりにしようと少年が告げる。傷つけあう為に傍にいるわけではなく、嘆く為に未来を想起するわけでもない。それならば、現在の幸運を祝した方が、建設的だ。
真っ直ぐに幸いを見つける事の出来るしなやかな少年の瞳を見上げ、青年はふと思い出す。………この満月の瞳が見つめるものが欲しくて、その目に牙を立てたい衝動を。
本当にこの一週間程度の間で、自分は幾度この少年を怯えさせ、傷つけたのかと呆れてしまう程だ。
それでもその全ては、決して憎しみからではなく、盲いた者が見つけた原石の研磨のような、危ういながらも愛おしさからくるモノではあったけれど。
思い出し、苦笑とともに青年は呟いた。
「本当はさ、アレン。俺……つうか、ディックか。生まれたかったんさ」
「?別の人として?」
「違うさ。ここ」
そっと、腰に回っていた腕を解いて少年の腹部に添える。丸みなどある筈のない、しなやかな少年の肢体の中、当然そこも程よい弾力の筋肉の存在は解っても、細くて女性的な柔らかさはない。
その内部にも、当然、命を宿す器官などある筈はなく、少年は顔を顰めてしまう。
それを解っているだろうに、青年は添えた手のひらを見つめるばかりで、ともすればそのまま口吻けでも落としそうな雰囲気に、少年はそっと相手の額に手を添えて、その顔を覗き込むように上向かせた。
その仕草で漸く顔を持ち上げ、少年を見遣った青年は、唇に笑みを讃えたまま、どこか憧憬を秘めて囁く。
「アレンの中から、命を貰いたかった」
「………僕は女性じゃないですけど?」
性別はれっきとした男だ。それを承知の上で、思いを伝えているし、捧げられたつもりだと、少しだけ険のある眼差しで青年を見下ろす。
女性の代わりなど出来ないし、するつもりもない。まして、女性になりたいなどとは思っていない。それを求められても、拒む以外出来る筈もない。
「そういう意味じゃないから、睨むなって」
決して彼を貶めるような、そんなつもりの言葉ではない。それは誓ってもいいと、自分の動きを規制している額に添えられた細い指を手に取り、口吻けた。
女になって欲しいとか、そんな事は考えた事もない。ただ、彼の、この身に宿ってみたいと、そんな不可能な事を願った。
「だから、なんつーか………アレンに産み落とされれば、色んなものが解る気がしたんさ。本の中じゃなくて、人の中の、刻んで生きなきゃいけない、当たり前のモノ」
この細く小さな身体は、青年の知らないモノで満たされている。知識だけなら誰よりも、それこそ師である老人以外に引けを取るつもりもない。
それにも関わらず、青年は少年の中に未知を感じてばかりだ。
この身の中には、きっと自分だけでは満たされないものを携えている。
初めからなかったのか、疾うに捨ててしまったのか、それすら解らない朧な何か。『ディック』はその存在が、少年の中に眠っている事には気づき、己の中には皆無であると、判断した。
………それなら、この存在を喰らえば手に入るか、とか。まじないにも似た物思いに怯えさせた記憶も新しいけれど。
青年の苦笑の滲んだ声に、少年は首を傾げてその顔を覗く。口吻けられたまま解放されない右手が熱くて、頬が火照っている事が解った。
「…………僕が生まなくたって、持っていますよ、誰だって」
頬の熱に青年を揶揄する事も出来なくて、ただ純然と自身が当たり前に信じる事実を口にして、少年は右手を取り戻すように蠢かせた。
「俺は、アレンに教えられたさ。ディックも。だから…アレンが産み落とした命さぁ?」
逃げる腕を許さず、もう一度口吻けて、青年は指を絡ませてその手を握り込んでしまう。それだけでもう、抵抗を忘れて途方に暮れたように己の腕を見下ろす少年の顔は、真っ赤だ。
今暫くはこんな風な、柔らかなスキンシップに慣れさせるしかなさそうだと、今もまだ人に触れる事に慣れない、いとけない子供を愛おしそうに目を細めて青年は見上げる。
この子供のような少年が、自分を産み落とした。それは多分、間違えようもない事実だ。だからきっと、ディックもまた、すぐに彼に懐いてしまった。どうせバレているという安心感は、きっとそこから派生している。
子が親に全てを投げ出して庇護を求めるような、横暴で稚拙な、強烈なまでの独占欲。与えられない子供とているにも関わらず、自分は、それを知らずに生まれた少年に求めてしまった。
それでも、少年は与えてくれた。決して拒まれない、安穏と眠る事を許される場所を。
「………アレンが居なきゃ、俺は俺にならなかったんさ」
それがどれ程、心を穏やかに溶かすかなど、知る筈もないまま。ただ己が養父に与えられて心地よかった全てを、少年は惜しみなく注いでくれた。
その尊ささえ知らない瞳は、それは当たり前の事と、きっと取り合わないけれど。
愛おしさに感謝と敬意を込めて見上げた眼差しは、また微かに霞んで少年を映す。どうにもここ数日で己の涙腺は壊れてしまったらしい。こんな少しの感情の揺れで目を濡らすなんて、今までならありはしなかったのに。
それでも今は、それがそう疎ましいものではないと思える。多分、この少年にしかそれは晒されない、限定的な柔らかさだけれど。
「僕も、あなたでなければ、また誰かを求めるなんて、思いませんでしたよ?」
だからきっとお互い様なのだ、と。少年は白い肌を薔薇色に染めて、躊躇いながら微笑んだ。
…………こんな風に自分を愛おしむ声と眼差しが捧げられるなら、厭う理由もない。だから、告げる事を諦めてはいけないと思うけれど、それでももの馴れない鼓動の早さにどうしても上手く笑みが浮かべられない。
………それでも知らず捧げられるのは、あどけないまでに幼い、甘やかな笑み。
その歓びに青年の細めた瞳が柔和な光を讃えれば、少年は嬉しそうに微笑んで、自身を見上げる翡翠を、そっと掬い取るように口吻けた。
「だから、幾度だって願えば、産み落としてあげます」
こんな歪な魂で、それでも生まれたいなんて願ってくれるなら。いくらだって幾度だって、叶えてみせよう。
微笑む少年の儚い笑みは、吸い取られた涙のおかげでくっきりと、青年の瞳に映える。
何が出来る訳でもないけれど、自分が見つめてきた優しさなら、きっとこの青年に与える事が出来るだろう。それがこの命を鮮やかに咲かせる事が出来る要因になるというなら、そんな嬉しい事もない。
それが欲しいと嘆くなら、いくらだって与えられる。………たった一つの事を、約束してくれるなら、惜しむ事などないのだ。
小さく、唇を開く。微かな痛みが心臓を刺した気がするけれど、少年はそれを飲み込んで、惚けたように自分を見上げる青年に囁きかけた。
「その代わり、生きて下さい、必ず」
真っ直ぐに、逸らす事を許さない強い眼差しが青年を射抜いた。
「この先、何があっても、ブックマンと一緒に、生き延びて下さい」
「アレンも一緒に、さ」
「そう、願っていますよ?その努力だってします。でも、まず、あなた達が生きて下さい」
思いの外真剣な声音で返す青年に、自分の本気が伝わってしまったかと苦笑する。
未来は、出来る事なら美しく花開き、祝福の花で彩られて欲しい。それでも、この身体の制約は確かに存在し、それ故の訪れる影の確率の高さを知っている。
だからこそ、ずっと逃げていた。それでも、失うくらいなら手に入れて傷付いた方がいい、なんて。傷つける方がより多いと、解っていた筈なのに、願ってしまった。
けれど、青年は自分によって生まれるなんて、夢物語を綴るから。そこに、希望を見出してしまう。
「そうしたら、僕はそれを目指して生き延びます。だから、僕を生かしたいなら、真っ先に、生き延びて下さい」
「…………それ、凄い矛盾さ」
生き延びろという事は、少年を危険に晒していてもこの身を逃せという事だ。そうして逃げ延びた先を少年が追うという、不可能極まりない話だ。
そんな事、出来る筈もない。結末の解り切った悲劇を敢行するなど、割り切れる筈がない。
起き上がり、青年は自分の背を撫でている少年の頬に指を滑らせる。涙など流れる筈もない白い肌は、微かにひんやりとしていて寂しい。
………きっと彼の言葉はいつだって真剣で、本気なのだ。その心は、何よりも一途に、愛しい者を生かす事しか考えられないのだから。
「解っていますよ。でも、ラビ、魂は消えません。何があっても、必ずあなたをまた、抱き締めます」
この身体は時限爆弾付きのようなもので、何があっても…なくても、限られた時間しか紡げない。
それでも、魂だけは不滅だ。この世界に居座る事は難しいだろうけれど、悲しみに暮れる青年を抱き締めにいくくらいは、きっと出来る。
………やってみせる。この身体も心も、その為に捧げられるなら、きっと自分の最期は微笑みでもって迎えられるだろう。
「ディックもラビも、抱き締めて。……もしまた、出会った頃みたいな目をしていたら、ちゃんと世界を見られるように、産み直してあげます」
悲しみに染まる翡翠は凍ってしまうから、また溶かしてぬくもりで満たし、鮮やかに芽吹く新緑を産み落とす。それはひどく甘い幻想だ。
「未来の確約なんて、誰も出来ないですけど。それだけは、僕でも約束出来ます」
「………殺し文句なんだか、脅し文句なんだか、微妙さ」
その命だけとなっても傍らに、なんて。自分の独占欲は満たされるけれど、それはどこまでも独りで生きる少年の心を残してしまうだけだ。
そうでは、なくて。きっと自分の師も、願うものは違う。
この少年はいたわりと優しさを愛おしみ、その微かなぬくもりを大切に食んで生きるけれど、糧としたそれらの為に命を捧げる事は、必ずしも正しい行為ではないのだ。
多分、それをまだ彼は知らない。愛しいものの為に命をかける以上の恩返しを、知り得ない。
「でも、それならアレン。魂だけじゃなく、この身体ごと、全部ちゃんと帰ってくるさ。俺もジジイも、そっちの方が幸せ」
「……………………」
「アレンが教えた幸せさ。だから、一緒に生きるんさ」
それがどれだけ難しい未来か、なんて。悲しい程回転の早い頭脳があっさりと算出してしまう確率の低さに、苦笑も出来ない程だけれど。
それでもそれが、一番望むべき、祝される世界だ。
そうでなければ、生きられない。この世界を愛おしいなんて、祈れない。
………だから、諦める前に、腕を伸ばす勇気を。
与えるのでもなく、奪われるのでもなく。
願い求めその腕を伸ばす、勇気を。
「………なあアレン。それが、いいさ?」
腕の中、微動たりともせずに俯く少年のつむじに口吻けて、求める事に臆病な心に囁きかける。
ぎゅっと握り締められた細く白い右腕。その指先が覆っている、手袋に隠された左腕。
そのどちらもを捧げるのではなく、己の願いの為に、求めるものの為に、伸ばして、と。願う声に、けれど少年は俯いたまま答えない。
まだ多くを求め過ぎては、身動きが取れないのかもしれない。そう苦笑して、もう少し時間をかけて願っていこうかと、青年がそっと少年の手のひらに指を滑らせた。微かな震えが少年の葛藤を教えるようで、少しだけ切ない。
………悩まないでと、囁く筈の青年の唇は、けれど音を紡げなかった。
青年が少年の手のひらに指を向けた事で出来た二人の間の空間を、少年が伸び上がるようにしなやかに背を反らせ、そっと小さく、口吻けたから。
それは正確には唇には触れず、顎に近い場所にずれて落ちた口吻けだったけれど。
泣きそうな顔を赤く染めて、戦慄くように唇を震わせて。それでも少年は、泉に映る月のようなその瞳を、健気に捧げて小さくその唇を蠢かせた。
「…………僕、も………っ、それが、いいっ………」
どれ程の思いをその震える音に溶かせたのか、解る筈もない。その意志がどれ程少年の心を重く縛るか、解る筈もない。
それでもそれら全てを天秤にかけて、少年は未来を掴もうと、怯える指先を小さく差し出した。
きっとそれは、幾度だって躊躇い怯え、握り締められ引き戻される、そんな惑う指先だ。
誰かを傷つけるくらいなら、己の未来など望まない、そんな悪癖を彼は持っているから。
それでも、これは、大きな一歩だ。過去を見つめ現在だけしか思えない少年の、ささやかで、けれど何よりも尊い、歩む為の一歩。
零れそうな月明かりがひたむきに青年を見上げ、揺れる眼差しが朧に霞む。
……………自身も少年と同じ水に浸っているのだと、そんな事を考える余裕もなく、青年は力加減も忘れて少年を抱き締めた。
小さな慌てたような咎める声は、それでも非難ではなく喜色に濡れていて。少年の腕は拒む為ではなく、受け入れる為に青年の背中に添えられた。
何が正しいかなんて、多分、解らないままだ。未来は不確定で、確実な計算など有り得ない。
ただ数値が高いだけであるなら、幾度だってそれが覆された歴史を青年は多く知っている。だから、せめて後悔しないように。運命が奪う皮肉も同じ程に知っている青年の腕は、それでも鮮やかに望みを教えるように、固く強く少年を包み込む。
…………傷つけるかも知れない、傷付くかも知れない。解っているけれど、それでも悔やみたくはない。
腕の中の命は、それでもたおやかに美しく花開き、枯れる事なく凛と咲き誇る事を誓うように、鮮やかな銀灰の花弁をほころばせた。
選んだものは、きっと痛みが多いだろう。傷付き苦悩し、心乱され嘆く事も多々あるだろう。
それでも選んだそれを、まるで愛おしみ喜ぶように、少年は微笑んだ。雨に萎れる事なく、それすら糧と吸い取って花開く、美しい花弁。
惚けたような青年は、目を数度瞬かせると、幸せそうにその唇で弧を描く。
そうして。
お返しだ、と。捧げるように甘く、口吻けた。
今までと、これからと、全てを祝すように。
全ての己と相手を、愛おしむように。
……………………この先の未来すら、慈しむように。
前 エピローグ
やっと完結……にみせかけて、実はこのあとエピローグがあるんですよ。
だってブックマンが入らなかったんですもの。そして作中にあるディックの奇行も本当はお題の中で書くつもりだったのですが、入らなくて割愛したので、番外編でもって書きますよ………。
どんだけダラダラ長くするつもりだろうか、自分。もっと簡潔にキレイにまとめあげる文章力が欲しい………!
そしてこの最終話。実は一度没っているんですよー(涙)
そちらではラビが実は全部解っていました、という結末にしていたので、なんか計算高くてムカッとしてしまったから止めました。いや、解っていても身動きとれない臆病者である事に変わりはないのですけどね。
ただそうしてしまうと、ブックマンの洞察を越えた所にラビが存在するので、それは駄目だと。
すみません、どこまでもブックマンがラビより上にいないとしっくりこないんです………!
10.10.16