ドアを前に、少しだけ逡巡する。
 今までならそのドアをノックして、返ってくる返事にそのまま開ければそれで終わりの仕草だが、流石にそうもいかない筈だ。
 別段、老人に話があって来たのだから、昨日の青年の事を気にする必要はない。解っていても、やはりそこを無視する事も出来ない。
 「入らないのでしたら、部屋に戻ったらどうですか?」
 「……リンク…もうちょっとこう、慮るって言葉知っていますか?」
 かれこれ数分、確かにここで悩んでいる自分に付き合わされている彼には申し訳ないけれど、好き好んで監視してもらっているわけでもない。
 唇を尖らせて拗ねてみせれば、呆れたような溜め息が聞こえる。
 本当は、入る事を躊躇っている理由の半分は、この監査官の存在だ。自分が老人に聞きたい事も、話したい事も、多分この青年に知られ、そのまま中央に報告されるのは歓迎出来ない事柄だろう事は、予想出来る。
 出来る事なら彼にはここで待っていてもらって、そうして自分だけ室内に招き入れてもらいたい。
 そんな事を考えているせいで躊躇い続けている指先は、それでもいい加減覚悟を決めなくてはいけないと思いつつも、立ち尽くしている。
 仕方なく、少年は一度軽い深呼吸をすると、いつもと同じようにそのドアをノックした。
 ………同時に、ドアが開かれる。
 ギョッとして思わずノックをしたままの体勢で凍り付いた少年の目の前、少し視線を下げれば老人が立っていた。煙草らしいものを銜えたまま、少しだけ戯けた顔だ。
 どうやら自分がここに立っていた事は、すっかりお見通しだったらしい。待ちくたびれたような吐息を吐く仕草に、思わず顔が赤くなる。
 解っていたのなら、開けてくれればいいのに。………そんな甘えを脳裏で思いながら、それでも老人は自分の意志を尊重するように、同じように佇んで待っていてくれた事に感謝した。
 忙しい老人にとって、数分は貴重な筈だ。それだけあれば新聞を読み終えられる。それなのにその時間を無為にすると解っていて、待っていてくれたのだ。感謝しないわけがない。
 「あの、リンク…」
 そうして、老人への感謝を思うと同時に、自分の背後に控える青年にも伝えなければいけない事があると、少年は振り返り、申し訳ない顔のまま口を開こうとした。
 が、それは叶わなかった。少年の言葉が綴られるより早く、監査官は己の腕時計を確認しながら、背を向けるところだったからだ。
 「私はこれから一時間程、報告書をまとめる為に時間を戴きます。一時間で部屋に戻って来て下さい。………戻らない場合は押し入りますので、ご理解ください」
 キョトンとして目を瞬かせている少年に、実に簡潔に監査官は告げ、最後の一言を老人に向けて釘を刺して、あっさりと背中を晒した。答えを待たないというよりは、掛けられる言葉から逃げるようだ。
 いつもであればそんな真似、しない。そう思い、ますます少年の顔が赤くなる。
 …………きっと、彼も心配してくれたのだ。昨日の青年との対話を、彼は一部始終全て聞いている。その後の自分の状態も、全部見ている。
 厳しい事を言うし融通も利かない頑固者だけれど、それでもあの監査官は最近少しだけ、自分を見る目から鋭さが消えて来た。
 それは少し、過去の日の青年を思い出させる、変化だ。
 思い、足早に去っていく背中を眺め、少年は気付かれない事を解った上で、彼に頭を下げた。
 「………随分と聞き分けのいい。昨日、馬鹿弟子が何かしでかしたな、あれは」
 口から煙を吐きながら、老人が苦笑する声で言った。
 その言葉に同じ笑みを浮かべて少年は振り返り、首を傾げて問い掛ける。
 「えーっと、今お一人ですか?」
 「一時間なら十分一人のままだ。入るといい」
 話なら自分にも心当たりがある、と。既に十分現状を把握しているらしい老人の言葉に、少年は安堵の笑みを浮かべながら、小さな背中を追うように室内に入り込んだ。


 相変わらず室内は雑多な本と書類と新聞とに埋もれていて、紙がない空間がない。それにも慣れた少年は、そのまま足を進め、ふと歩みを止めてしまう。
 老人はいつも通りに奥に進み、カップに茶を注いで戻ってくるところだが、それを受け取るべき相手は困ったような顔で立ち尽くして、前にも後ろにも進めずにいる。
 それに気付き、老人は足元を見遣ると、目線だけで場所を指示して、その一角の本をどかすように声をかけた。
 ………普段であれば、この少年は座るスペースなどないこの室内で、なんとか腰をかけられる二段ベッドの下の柵に落ち着く筈だ。そこを避けようとしたのは、彼の意志というよりは、相手の意志を尊重する為だろうか。
 いっそそんな事は無視をして普段通りに振る舞ってしまえば、あの馬鹿な弟子も目を覚ますのではないかと思わなくもないが、それをこの少年に強制するのはおかしな話だと胸中で嘆息した。
 差し出したカップを礼を言いながら両手で受け取り、少年はそれに口をつけて喉を湿らせるように少しだけ飲み込んだ。
 同じ仕草で少年の横…ベッド柵に寄りかかり、老人は少し中身の減ったカップを手にしたまま、眼下の真っ白な髪に問い掛けた。
 「何を聞きたくて来たか、聞くべきかのう」
 本来ならばいっそ、もうあの馬鹿な青年の事など忘れてしまえと、言うべきかも知れない状況だけれど、こうしてわざわざ赴くという事は、その情はやはり途絶えようもないらしい。
 …………あの馬鹿な弟子は、それを理解しない。自分が切り捨てればそれで終わってくれると、思い込んでいる。
 妙にこの少年に対しては自信のない青年は、ちょっとした事で悋気を擡げるくせに、己が告げない限り彼から返される情はないと思い込んでいる。
 …………だから、離れれば安全など、思うのだ。
 この少年が、離れただけで庇う事なく戦うわけがない。心砕かぬわけもない。純然と、この命は人を思う。………思う事しか知らない、それは少しだけ歪な命でもあった。
 己の為には何も望めない、命だ。だからこそ、誰かの為に戦い、その身を盾としてでも守る事を厭わない。その上、漸くその悪癖が薄れ始めたと思った途端の、14番目の騒動であり、あの弟子の愚かな選択だ。
 躊躇うように少年は視線を揺らし、薄暗い室内に山を成す本達を目で追った。
 老人がもう一度カップに口を付け中身を嚥下するその間、沈黙は続く。そうして飲み込んだのを確認したようなタイミングで、少年は口を開いた。
 「聞いても、いい事なんですか?それとも、このまま知らない方が、いいですか?」
 躊躇いがちな口調とは裏腹に、その声は凛と響く。
 告げるその内容に、老人は苦笑を唇に乗せた。……我が侭を、知らない子供だ。自分の願いよりも相手の立場を重んじてしまう。それは幼い頃からの生育暦故の、彼の身に付いてしまった癖だ。
 「監査官もいない。おぬしに言うだけであれば、問題はないな」
 「なら、教えて下さい。何があったんですか?」
 老人の答えに被さる勢いで少年が口を開いた。それは決して切羽詰まったような響きではないけれど、憂いの深い、哀惜の音だ。
 微かに眉を顰めるように寄せて、それでも自身を律していようと決めているのだろう、少年の瞳は乾いていて揺らめく事はない
 けれどきっと、その肌はいつもより尚、白い事だろう。薄暗い照明の下では判断しづらいが、先程ドアの前にいた時一瞬見えた平素の肌は、青白かった。すぐに羞恥に赤く染まったが、その程度で老人の記憶は薄れる筈がない。
 きっと、昨夜はよく眠れなかっただろう。人の事を気に掛けてばかりの少年だ。弟子の突然の宣言に怒りを思うより先に、彼は相手の内に潜む影と怯えを見つけてしまう。
 そうして、出来る事ならそれを掬い取って安堵を与えたいなどと、願ってしまうのだ。己を傷つける言葉しか吐かなかった相手にすら、きっと。
 いっそ切り捨ててしまった方がこの少年にとっては安穏とした日々を過ごせるだろうに、それすらしない。
 ………そこに、欠片程も情がないなど、有り得る筈もない。
 「たいした事はわしにも解らん。ただ、あやつは子供の頃に一度AKUMAに出会(でくわ)していて、その際に傷を負うた」
 ひゅ……っと、喉の鳴る音がした。それが足元に座る少年の喉から零れた、悲鳴に近い呼気である事を知っている老人は、痛む必要がない事を教えるようにその声を和らげる。
 「ウイルスの弾丸ではなく、おそらくは特殊能力によるものだ。そうでなければ、装備型でしかないあやつが生きている筈もない」
 不安げに、けれど少年は老人の言葉に頷いた。その様だけを見ていれば、項垂れる少年を折檻しているように見える事だろう。それくらい、少年は消沈している。
 過去の、傷だ。そんなものはもう残ってもいない。それでもこの少年はその時の痛みを思い、悲しむのだろう。そうして、今生きてそこに居る事に感謝を捧げる事の出来る、類い稀な命だ。
 告げれば痛みを覚える事だろう。それでも刻むように告げる己も十分身勝手だと、老人は唇を歪めかけて、その感傷を押し殺した。
 「傷はたいした事はなかったが、昏睡しおってな。そこから目覚めたら、喪う事を極端に恐れるようになっておった」
 「………………極端、に?」
 顔を上げ、少年は老人を見遣った。薄暗い照明の中、老人の皺が刻まれた手に包まれたカップが間近に見える。
 ………喪う事は、誰もが恐れる事だ。それならば別に、異常な事ではない。けれど老人はそれこそが今回の因だというかのように、少年に告げた。
 ならばそこには、何かがある筈だ。問う声は相変わらず震えもしない。己に出来る事があるならば模索する、前を進む事を知るものの声。
 「近づかないし、近づかせん。心まで鎧おった。………おぬしは見知っておろう?」
 溜め息にもなりきらない吐息を落とし、老人は言った。それに少年は眉を垂らして尚いっそう俯いてしまう。
 痛い程に、その記憶はあるのだろう。初めの頃、青年はその目を硬質に凍らせたまま、笑んでいた。
 同じように笑みを武器として扱う事を知るこの少年は、その生い立ちの特異さも手伝い、人の表情を見分ける事に長けている。とりわけ、言葉として表現出来ない部分の深層までをも感じ取る感受性が、この少年の性格を形成する一因となった事だろう。
 ……………一瞬で、感じ取ってしまうのだ。その顔に声に仕草に滲む、感情を。
 そうしてその中の愛おしいものを拾い上げ、微笑む。そう導いた養い手が、今は彼を傷つけ悲しませる因を作っても、それすらものの一時で乗り越えて、己の内の情を打ち破らせる事を許さなかった。
 知ってしまっているのだ。感じ取ってしまうのだ。理由もなく、意味も解らず、それでも、この少年は与えられたものの真偽を、その魂でもって全て選り分けられる。
 だから、当初は少年から青年に距離をとっていた。
 少し離れて、それでもじゃれつく青年に困ったような顔をして、自身が一人で立つ事を、この青年に頼らぬ事を願うように。
 そうして、それが故に少年から示された微かな距離に不満を持ち始めた青年が、どうにか打破したいと不器用に詰め寄る距離は、見ていても愉快な程、滑稽で空回りしていたものだ。
 大人組が苦笑をもって眺めていた事など、この二人は知る由もない。
 近づこうとしては躊躇って、躊躇っては他者に向ける情に苛立って詰め寄り、そんな己に戸惑って足を竦ませる。…………その歳相応の、逡巡と懊悩だ。
 そんなものは知りはしない少年は、それでも差し出される不器用なその腕を、眺めて、首を傾げて、…………愛おしもうと決めたように笑んでいた。
 気付かない青年に何を言うでもなく、その左腕を脆く崩れさせながら、ずっと、ひたむきにこの少年はそれを注いでいた。
 少女や新人エクソシストや老人が注ぐのと同じように、躊躇いがちに向けられる情を時に不思議そうに眺めながら、それでもそのぬくもりを返すように、ずっと。
 とんだ喜劇だ。どちらもがそれを知り得ず、けれど注いでいる。周囲だけが如実にそれを知り得て、少しずつ縮まる距離を見守っていた。
 …………あの、日本へと向かう船上での突然の喪失さえなければ、きっと、喪う事を恐れる傷すらも優しく溶かしていけただろうに。
 世界は残酷なものだ。優しく包むように慈しんではくれない。過酷な運命を切り開き前に進めと、強要してくる。
 そうして、開いた傷に青年は揺れた。揺れて、揺れ続けて、方舟の中、その恐怖との対話に耐えられなくもなり、それでもどうにか舞い戻れた頃には、きっと決めてしまった。
 ………………欲しがらず手に入れず人の輪に組み込まれない、その事を。
 「ブックマン………でも、そうだとしても、それじゃ…なんの意味もないですよ…」
 喪いたくないと祈ってくれた。それが事実なら、喜ぶべきだろう。
 けれど、笑えない、そんな事。青年に、仮面が戻ってきていたその意味を、少年は正確に理解してしまった。
 それが解り、聡い事は不幸な事だと、老人は嘆息した。
 「僕が邪魔なら、切り捨てていいんです。でも、自分を不幸にする為に、切り捨てるなんて、おかしいじゃないですか」
 独りになろうと、もう誰も心に触れさせまいと、再び鎧を纏った青年の笑み。
 いっそ泣きたいと、少年の顔が歪む。自分の存在はあらゆる意味でマイナスだ。どこにいても、誰に対してもプラスに働かない。
 ……………ただ幸せに生きて欲しいだけなのに。この目に映る愛しい人達が、笑んで未来を歩めるように、その基盤となって朽ち果てたいと祈っただけなのに。
 手から零れ落ちる大切な人達の多さに目眩がしそうだ。もうこれ以上、死に別れるような真似したくはないと、祈れば祈る程、自分は不幸を招くらしい。
 噛み締めた唇の痛みすら忘れて、震える指先はカップを握り締めた。その手でカップを割る前に、老人はそっと少年の髪に触れる。
 撫でるような仕草で触れたそれは、優しく頭を叩いて呼吸を思い出せと教えるように額を弾いた。
 その微かな衝撃に驚いたように少年が目を瞬かせた先には、苦笑を浮かべた老人の顔。それを見つめ、少年は漸く自分が呼気すら惜しんで物思いに陥っていた事に気付く。
 今もまだ、自分は己を削りたがってしまう。摩滅していく事を望むように、砕かれ消える事を祈るように。………その度に顔を顰めて悲しそうに窘めた青年は、今は傍に居ない。
 それが悲しい、なんて。思う資格、ありはしないというのに。
 「………すみません、ブックマン」
 「おぬしが気にするような事はない。これはあの未熟者が乗り越えるべき事柄だ」
 まるで見当違いのような解答を示す老人の優しさに、少年は笑った。まだ力ない寂しいものだけれど、自然に浮かんだ笑み。
 告げた謝罪の意味くらい、解っている筈だ。それでも、この老人は弟子が不具合を再び身に纏わせた元凶である筈の少年を、何一つ裁きはしない。
 …………全ては己で選び進む事だと、教えるように。
 そのいたわりに返すべきものも持ち合わせてはいないけれど、少年はそっと頤を落として俯き、せめて情けない顔を見せないで済むようにした。
 仕方がないというような小さな溜め息の後、老人の手が再び少年の頭に触れる。
 そうして、そっと、羽のように柔らかく引き寄せられ、老人の細い膝に、その額を埋めさせられる。
 驚いて目を見開いても、見えるのは老人の服の色だけだ。感じるのは、老人のいたわりの指先とぬくもりだけだ。
 ………それはどこか、自分を窘める時に見せる青年の仕草に似ていて、目の奥が熱くなる。
 まだ何も答えは見えない。原因すら垣間見えただけで解明されていない。そうして、未来の事など何一つ解りはしないままの、途方もなく不確定要素だらけの現状だ。
 その中で唯一確定的なのは、幸せに未来を歩んで欲しい人の、辿るであろう虚偽と孤独の道だけだ。
 どうしたなら、それを回避出来るのだろう。
 その為なら、この身などいくらでも捧げるのに。
 そう、思い。

 …………この思いこそが彼の恐れるものを引き寄せる遠因なのだと、揺れる月は嘆くように歪んだ。







   



 実質的にまったく話が進んでいませんごめんなさい…………!
 今回の長編はラビの初っ端からの奇行(オイ)のせいで、それ説明する為のかなりのページ数割いています(汗)
 もうちょっとそれにお付き合いくださいませ。
 …………うーん、多分6くらいから中核部分に突入するんじゃないかなぁ、とか、思っていますよ(吐血)

10.10.24