その日、朝から老人は室長室に向かっていた。
ノアによる本部襲撃の際の被害状況と、得る事の出来た情報の分析結果を報告してもらうためだ。それらはこの先の歴史において、おそらく重要な意味を持つだろう。
特に初めて記録に記載される事となったレベル4の存在と、その能力は重要な情報だ。元帥という特殊と言える程の力を有したエクソシスト達の情報も、もう少し引き出せれば尚いい。
そう思いながら、その実、今現在もっともそこに赴く理由が別である事を老人自身、きちんと自覚していた。
任務を、回してもらうつもりだった。
今は危険が増し、エクソシストは出来るだけまとまって任務に赴く。今までであれば二人組程度の奇怪ですら、その倍の人数を投ずる程だ。それくらい、危険は増しており、状況は思わしくない。
だからこそ、今は出来る限り任務から外れ、本業に身を入れていたけれど、それが故の弟子の思索は、呆れ果てる程に悪い方に転がっている。
このままでは悪化する一方だろう。…………最悪の事態を想定するならば、心が壊れる。
それがあの馬鹿弟子一人にかかる事であれば、まだ時間を掛けても安全な教団内で導きもするが、そうもいかない。
弟子が壊れるとすれば、それは己自身に起因せず、少年の身に起きる何か故だ。
そして少年はそんな思慮の外で、しなやかに戦い続けるだろう。その腕で救済する事を決めた意志のまま、あらゆる不条理を背負い、それでも前を見つめる事を諦めないで進み続ける。
………進み続けるのだ。自分達のように、危険を避けて足を留める事はない。むしろ危険にこそ、立ち向かってしまう命だ。
離れる事は何一つ得策ではない。それをあの弟子は理解し得ない。傷付く姿を見る事すら、怯えている。
考え、嘆息する。傷を、肉体的なその痛みにしか考え及ばないからこそ、こんな結果になるのだろう。弟子の示した解答は、どう贔屓目に見ても少年を傷つけ痛めている。
傷付く姿を恐れている癖に、その実、己が最も傷つけ続けるのだから、空回りもいいところだ。
だからこそ、任務に出る事を選んだ。愚かな弟子は、何よりもまず、傷の意味を思い知らなくてはいけない。
己の痛みではなく、少年の痛みにこそ、気付かなくてはいけない。竦んで怯えて逃げるなど、それが許されると思うなら、そもそも望む事自体、願うべきではないのだ。
そうした特殊な生き様を、あの青年は己で選んだのだから、それによって負うべきリスクもまた、覚悟の上で歩む必要がある。
…………この賽が吉と出るか凶と出るか、それは老人にも解らない。
嘆息を飲み込み、老人は室長室の扉を開けた。
「……………正直なところ、僕は今のラビより、神田くんと組ませたいんですよ」
「同感ではあるが、そこを曲げてもらいたい」
一通りの報告が済み、早速本題とも言うべき話を向けると、案の定室長はその優美な眉を顰めて憂える眼差しでそう言った。
その言葉の中に孕む意味は、おそらく老人と同質だろう。だからこそ老人はその言を肯定した上で、願った。
今の弟子では、少年のパートナーは到底役不足だ。連係プレーなど望む事も出来ないだろう。それ以前に、AKUMAと遭遇した際、まともな戦闘を展開出来るかも疑わしい。
能力が落ちたわけではない。その心がそぞろになっただけだ。そして、その隙は確実に命を左右するものになる。
それは当人だけではなく、同行する全ての人間の命も左右する。………特に、寄生型であるが故にAKUMAの銃弾に対して己の身体を盾に差し出す少年ならば、尚の事、危険が高まる。
その点を鑑みれば、口は悪く誤解されがちでも、全体の戦闘を把握して戦い、必要な部分の手助けは決して怠らない、黒髪の青年の方がずっと適任だ。
理解した上で言うならば、老人もまた、背負う負担を覚悟しているという事だ。存外弟子に甘い面があるこの老人の苦労を思い、室長は溜め息を吐き出す。
親の苦労を子は知らぬものだが、師の苦労も弟子は知り得ない。もっとも、普段であればきちんとそれも感じ取れるだけの才知はあるのだが、今は盲目的で愚鈍な印象が強い。
………悪い結果を招きかねない、それは澱みにも似ている。
それは出来る事なら改善してもらいたい部分だ。この先を思えば、エクソシスト一人一人が背負う重責は今までの比ではない。
どちらにせよ、荒療治にならざるを得ないのかもしれないと、室長は自嘲する。
まだ惑い易く歳若い彼らが、ゆっくりと成長出来るだけの時間を、この世界は待ってはくれない。傷も痛みも背負ったまま、生き急ぐように咲き誇れと、闇色の戦場ばかり差し出すのだ。
思い、室長は慌てて首を振る。………そんな事、誰が考えようと、自分が考えてはいけない事だ。
勝利だけを信じ、その為に打てる全ての手を打つ。そうして、この悲しい運命を背負い人生の大部分を犠牲とされたエクソシスト達の幸福を、守るのだ。
その為にだけ、自分はここにいる。それを忘れてはいけないと、ここ最近の凄惨さに参り始めていた自身を叱咤した。
「……解りました。出来るだけ、こちらからのサポートもします。が、現場においてはもう、個々の判断に任せるしかありません。どうか、あの子が無茶をしないよう、お願いします」
小さく息を吐き出しながら室長は告げる。まだその瞳には憂いが残るものの、平素のしたたかさが舞い戻って来た。
その脳裏ではフルスピードで現状の科学班の機能や動く事の出来るファインダーの情報が忙しなく蠢いている事だろう。微かに眉間に刻まれた皺が、あまり期待する事の出来ない状況を老人にも教えたけれど。
「…………かたじけない。うちの馬鹿弟子の為に、気苦労を増やしてしまった」
「いいえ。僕の気苦労より、ブックマンの方が余程重いでしょう?」
お互いの言葉に苦笑をのぼらせながら、小さく小さく、二人は息を吐き出した。
なかなか上手くこの世は転がらず、出来る事なら幸せになって欲しい命程、苛烈なものを背負わされる。
その不条理さは、解ってはいたけれど。
……………せめて今残るエクソシスト達は、誰一人欠ける事なく未来を歩んで欲しいと、願わずにはいられなかった。
汽車の揺れが身体に響く。それを感じながら、何とも気まずい思いで少年は座っていた。
狭くはない一室の中、向かい合った四人がけの椅子。遠方への任務の時の、いつも通りと言えばいつも通りの光景だ。
今は方舟を使って任務地に行く事も多いけれど、残念ながら少年が赴いた事のない場所には繋がらない。今回はその残念な方の土地が任務地だった。帰りは方舟で帰れるだろうけれど、行きの汽車は仕方がなかった。
解っているけれど、気まずい。
……………よりにもよって、隣に座るのが青年である事が、何よりも気まずい。
読書に励んでいるらしい青年は、顔もあげず話にも加わらない。監査官は元より無駄な話には加わらず、今は報告書の添削をしている。結果、少年と老人の声だけが室内に響く。
方舟から帰還後、少年はよく遠方の任務に赴く。主にそれは方舟の扉を作る為だ。それ故に、今回のような扉を作るメリットのない僻地への任務は無かった。
そして最近は任務よりも本職に力を入れていた筈の師弟が一緒だという事も、驚いた。老人の話では、そちらの地方で記録すべき事柄があるから、そのついでだと言っていたけれど、どうもそれも怪しい。
それは青年も同じ思いなのだろう。明らかに本を読んでいる振りでしかない事が解る。………意識の全てが、自分に向かっているのを感じて、身体が竦みそうだ。
せめて隣が老人なら良かった。けれどもう、それも変えられない。………どうせこの馬鹿な青年は、いつもの癖で隣に座ってしまったのだ。
隣に腰掛けた彼を見上げて驚いた自分に、呆気にとられた顔をしたのはほんの1時間程度前の事だ。
それでも既に他の二人も座ってしまった後だ。今更立ち上がるわけにもいかなくて、結局そのまま座っているけれど、それもそろそろ限界だ。
気分転換とでも言ってテラスに出てこよう。そう思って老人に目を向けると、パタンと隣で本を閉じる音がした。
三人分の視線を受けながら、青年はヘラリと笑んだ。
「ジジイ、ちっとテラス行ってくるさー」
既に読み終えたらしいその本は座席に残し、青年が立ち上がる。返事は特に期待していないらしく、それが彼が今この室内の状況をきちんと理解している事を教える。
ドアへ向かう途中で荷物から新しい本を取り出し、そうしてあっさりと部屋を出て行ってしまった。
その後ろ姿をずっと見続けていた少年が、ドアが閉まると同時にその身体を弛緩させて、椅子からずり落ちるギリギリまで脱力した。流石に青年もこの室内の空気に参ったのだろうか。そんな顔はおくびにも出さなかったのは互い様だが、意識が相手に集中していたのもお互い様だ。
思い出し、長い溜め息のように息を吐き出す姿は、少し滑稽だ。
老人は目だけでそれをからかうように笑んでいたが、すぐに気付いた少年が不貞腐れるように睨んできた為、すぐにそれを引っ込めた。
「………しかし、変わった読み方をする人ですね」
不意に、青年同様に報告書を読んでいた監査官が突然呟く。それは感嘆というよりは訝しさを滲ませていて、少年は首を傾げる。
今はいない青年の事を言うのは解る。が、隣でずっと本を読んでいた彼は、ずっと普通に本を読んでいた。そもそも、顔を半ば隠すように持ち上げた本で表情を消していたのだ。その状態は身体は凝り易くとも変な読み方ではない筈だ。
思い、目を瞬かせて少年がそちらを見遣れば、老人は苦笑する事もなくあっさりと頷いた。
「あれも一応、技術の一種だ。正しい位置から全てを記録出来るわけではないからな」
時には無茶な位置にあるものを記録しに行く事もある。命綱一本で逆さから事物を捉える事とて、珍しくはなかった。それ故に読み取る為の技術は発展したのだと、暗に滲ませた声音に監査官は納得したように頷いた。
「?なんの話ですか?」
二人の間で言葉にならずとも伝わり合っているらしい話題が解らず、眉を顰めて少年が問い掛ける。ずっと気まずいながらも隣にいた相手だ。それなのに自分だけそれが解らないなんて、ずるいと思う自分の思考が、少しだけおかしかった。
感情を押し隠そうとして、逆に滑稽な顔をしている少年に小さく息を吐き出し、監査官はそれに答えた。
「彼が読んでいた本ですよ。ずっと、逆さまにして読んでいましたよ」
「え?!よく解りましたね、リンク」
流石に視線を向けないように気を配っていただけに、そんな事まで見えはしなかった。目を見開いて驚いた少年が素っ頓狂な声をあげると、微かに監査官の唇に笑みがのった。
ここ数日、共に過ごしていれば明らかに今までと違うものが見える。それが少しだけ解れたように見えて、安堵した。………あくまでも監視対象が健やかである事に対しての情だと、自身に言い聞かせながら。
「視線の動きが妙でしたから観察していたら、ページを捲る指も逆なら、視線の止まる位置も上、明らかに読み方がおかしかったんですよ」
ついでに睨まれもしたが、そこは何も言わなかった。おそらく、隣に座る老人はそれに気付いていただろうが、素知らぬ顔をしている。
ならば言わない方がいい事なのだろうと、監査官は一瞬だけ老人に目を向ける。それには瞬く程の僅かな間で、口出し無用の意志を投げかけられた。
記録者であり戦場に群がるハイエナと看做される彼は、けれどその飄々としたスタイルの裏側、この少年を気に掛けているのが見て取れる。否、見る事は監査官にも叶わない。が、それを如実に語るのは、この少年の老人への敬愛だろう。
それこそがあの本部襲撃の際の、目を見張る程の巧みな連携であるならば、今この時は彼の意志に納得せざるを得ない。
「へ〜、そんな風に読めるものなんですね。技術…なんですか?」
そんな監査官と老人の一瞬の意志のやりとりなど知らぬ少年は、感嘆ともいえる声をあげて素直に驚いている。
擦れたような顔をする事もある割に、この少年は意外に無知で好奇心が強い。自身の知らぬものを知るものに、あっさりと敬意を差し出すのだから、科学班の面々の受けがいいのも頷ける。
おかげで少年の監視役をやって初めの数日、随分と敵意を持った眼差しを向けられたものだ。………今は彼が朗らかな顔を零すようになったからこそ、控えられているけれど。
嘆息しそうな監査官の心境は他所に、老人は少年の言葉に軽く頷き、素っ気ないともいえる程簡素な解答を差し出した。
「訓練とも言えるがな。慣れればおぬしとて出来る」
響く音としては冷たくなりがちなそれを、少年はニコニコと嬉しげに受け取る。
彼に言わせれば、その音はどこも冷たくないらしい。何故そんなことを言うのかと、不思議そうに首を傾げるのだ。………それを盲目と、言い切れないのはきっと、彼がそうした裏を感じ取る事に長けた人種だからだろう。
「うーん…僕はちょっとパスかなぁ。普通に読むのだって大変ですし」
「君はもっと専門書も読むべきです。理解出来ないわけではないでしょう」
決して少年の知能指数が低いわけではない事を見抜いている監査官は、もう少し知識を蓄えるべきだと示唆する。その方が報告書を書く際の誤字も減って、より少年の負担も減るのだ。
それは再三指摘されているのだろう、少年は頬を膨らませるように唇を尖らせ、そっぽを向いて拗ねたような声を出した。
「向き不向きって言葉、知ってますか。僕はラビやブックマンと違うんですから、そんなに頭良くないんですよ!」
理解するのに凄く時間がかかるし、それを読む為の労力も並ではないのだ。鍛錬と違って脳を使う事はあまり慣れていないだけに、避けたいのが本音だ。
「ふむ、だが小僧、わしらもまた、特別賢いわけではないぞ」
少年の言に、唐突に老人が割って入る。どこかそれは楽しげな響きを内包していて、監査官は興味深げに老人に視線を向けた。
「へ?……だってブックマン、一杯色んな事知っているし、コムイさんやリーバーさんだって、そういう情報頼りにしているって………」
突然の老人の言葉についていけなかったのか、間の抜けた声をあげた後、少年は困惑げに言葉を連ねる。
彼から見れば、老人もその弟子も雲の上の存在に近い事だろう。自身の持つ知識は全て相手が持ち得ていると言えるのだから、それもまた仕方がないのかもしれない。
「情報は蓄積している。が、それだけだ。わしらは科学者ではないからな、それを活用するわけでもない」
「?どういう事ですか?」
知識を持っているという事は、それだけ物の見方を知っているという事だ。ならばそれはイコール知の活用に繋がる筈だ。
けれど老人の言葉はそれを否定するかのようで、少年には意味が解らない。
それが監査官にも伝わったのだろう、答えが解らず首を傾げる少年に代わり、彼が老人に答えた。
「記憶術と科学の探究は別物、ですね」
過去の文献を探り当てるような声で呟く監査官の言葉に、老人は愉快そうに目を細めて唇を弧にした。
「話が早いのう」
「……………なんですか一体」
まるで話の見えない、置いてけぼりにされたままの少年が拗ねた声で問い掛ける。
じっと老人を見遣ってみれば、その目は柔和な柔らかさで、きっと子供扱いされているのだと、それだけで解った少年が頬を膨らませた。
そんな少年に、監査官は溜め息をひとつ落とすと、たった今自分が引き合いに出した言葉を説明すべく、唇を開いた。………果たしてどのレベルにすれば彼が理解しえるか、そこだけがいまいちまだ理解し得ていない部分だったけれど。
「16世紀に発行された書物に『イデアの影』というものがあります。そこには大小5つの同心円上に、円周を細かく分割して、それぞれ語句を記入し分類した図像が掲載されていました。個々の円を回転さえて組み合わせる事で、全ての知識を体系的に表現出来るといわれるものです」
胸元から手帳を取り出し、監査官はそこに大きな円を描き、その中心を同じくする5つの円を重ねて書いた。細かく分断しては見づらいだろうと、ケーキを連想させるように円を8等分させる。
イメージするならば、5段重ねのケーキを真上から見た図、だろうか。そうしてケーキには1段ずつ、柑橘系やベリー系といった、それぞれのカテゴリーで分けられた別種の果物を飾るのだ。その別種のカテゴリーの果物は、けれど一切れの中に綺麗に分配され、そこに意味と知見が見出される。
そんな事を脳裏で思いつつも、この喩えでは少年の中には5段ケーキしか残らないと判断し、監査官は、極普通の図像を記入していった。
1つ目の円の分断箇所それぞれに事象にまつわる語句を記入し、分類分けしたまた別のカテゴリーの言葉を次の円に、また別のカテゴリーのものを次の……と繰り返し、そうしてこの図は出来上がる。
簡易の図像を眺めながら、目をパチクリと瞬かせ、少年は監査官を見上げ首を傾げた。
「そんな凄い図があるんですか?でもそれ、全部読むのも大変そうですけど」
例え今ここに書かれている円が小さく、そして8等分しかされていなくとも、それが元の図ではより微細な区分けをされているだろう事は流石に解る。
8等分が5個というだけでも、その全ての語句を覚えるのは時間がかかる。それを更に増やして……となると、もはや暗記の領域から逸脱しそうだ。
「そもそも、1つの円全てを覚えたとしても、それらが5種類あるんですから、更にそれぞれを別個に組み合わせれば、それこそ無限ですね」
「………意味ないじゃないですか!!」
解りやすいのかと思いきや、それではむしろ逆効果だ。特に少年のように、全てを見渡す程の知見を求めていない者にとって、それはむしろ膨大過ぎる情報量に溺れかねない。
それらを処理し切れるだけの頭脳は持ち合わせていないし、持とうと努力する気もないのだ。少年は決して学問を究める為に生きているわけではないし、探究心故に人生を捧げる学徒でもない。
戦う事しか知らない、救う事を祈る、破壊者だ。
それを知る老人は小さく笑み、頷きながら監査官の描いた図像を眺め、愛おしむように目を細める。
「しかし、それこそがわしらの本質だ。科学者の使う実践的記憶術ではなく、世界の全てを理解し記載する為の原理とも言うべき部分」
それは、記録というものへの愛情、だろうか。学徒が己の心を注ぐ学問を愛おしむように、老人は己の人生を捧げて綴る記録の全てを慈しみでもって抱き締めている。
そう、思い。少年は無性に嬉しくなって、顔を綻ばせた。
そんな少年の反応を不思議そうに眺めながら、老人はちらりと隣の監査官を見遣り、悪戯をするような声音で言葉を付け加えた。
「………もっとも、監査官の言う本の著者は、異端裁判によって焚刑に処せられておるがな」
「活用出来るものは活用します。が、活用しきれぬものにまで与えられる高度な技術は危険を伴うだけです」
責めるわけでもない淡々としたその音に、監査官もまた、飄々と躱す。現実問題として、それが全ての人間に行き渡り理解されるとは到底思えない。教会の威信を穢しかねない知識は、それをきちんと理解し活用出来るものに限られなくてはいけない。
………それは占有ではなく、秩序を保つ為の選別だ。
そう真実監査官は信じ、それを実行しているのだろう。現実がどうであれ、それもまた信仰のうちに含まれる純乎な部分だ。傍観者は敢えてそれ以上の言葉は継がず、口を閉ざした。
「なんだか、話が難しくてよく解らないですけど………えっと、つまり」
漸く二人の話の意味を飲み込めてきたのか、相変わらず首を傾げながら少年は悩ましげに眉を顰めさせ、頭を抱えるような格好のまま、確認するように言葉を選んでいる。
「ブックマン達は記録を残す書庫で、科学班のみんなはその記録を借りて研磨する技術者ってこと、ですか??」
「大まかに言ってしまえば、そんなところだ。それ故、わしらは記録する事には長けているが、決して彼ら以上に賢いわけではない。適材適所、それぞれに得意分野が異なるだけの事だ」
「でもブックマン、それはどちらにしろ、どっちも凄いっていう事ですよ?」
並大抵のものではそれを出来るわけではないと、それくらいは解る。事実、自分にはそのどちらの役も替りに果たす事は出来ない。
決して己を過大評価しない老人の、それは謙虚というよりは世界の情報を誰よりも蓄積しているからこその、事実の音だ。
そうして、情報量を誇示するのではなく、その本質の意味を噛み締め他者を尊べるその心を、少年は愛でるように微笑んだ。
「ああ、でも、だからか」
ふうわりと、綻ぶように少年が笑む。先程の老人の言葉を聞いて笑んだのと同じ、喜びに染まった笑み。
久方ぶりに見る気がするその笑みに、監査官は目を瞬かせてしまう。今の会話のどこに、そんな笑みを零す要素があったというのだろうか。
「どうかしましたか?」
「………前に、ラビが言っていたんです。『ブックマン』が必要な理由はなんなのかって。解るようで解らないって首を傾げていましたけど、なんか、うん、……解った気がします」
愛しげに微笑む瞳は、煌めく月のように室内灯に輝いた。ここ数日、消沈する事の方が多かったというのに、またその輝きは喪われずに綻び零れる。
まるで朔から時を経て満ちる月そのままだ。
少年の言に興味を引かれたのか、老人の目が好奇に輝く。隈取りの奥、いつもは冷淡とも言える程静かな色を灯す瞳が、楽しげに細められた。
「ほう……どんな風に?」
突然言葉の先を求められ、少年はギョッとしたように姿勢を正して仰け反り、背もたれに背中を当ててしまう。少しだけ痛かったが、今はそれに気を割く余裕がない。
本当にただ、少しだけなんとなく思った事はあった。それだけの事で、誰かに伝えるような事ではないし、何よりそんなにきちんと少年は言葉をまとめていない。
感じただけだ。それだけの事を伝えるのは、少年にとってひどく難しい事だ。
「えっ?!あ、いえ、あの、別にそんなたいした事じゃ、ないですよ?」
「言っただろう、人それぞれと。おぬしの答えがただひとつの解ではない。好きに答えるといい」
必死で逃げようとしてみても、そうした事が不得手と知っている筈の老人はいつも逃がしてくれない。
何がそんなに老人の興味を引いたのか解らないけれど、どうせ老人は自分が考えたような事は、既に過去に考えている筈なのだ。
真新しい学説が言えるわけでもない自分の言葉は、決して楽しいものではないだろうに、何故か老人はよく少年にそうした事柄を告げるよう仕向けるのだ。
そうして、それを解っていても、少年は老人の要望を断れない。………自分もまた、老人に対して色々な言葉を願って綴ってもらうのだから、断れる筈もない。
「うーん…あの、ですから、ブックマン達は裏歴史を記録するんでしょう?」
何から言えばいいのか悩む声は、少しだけ惑いながら、それでも伝えるべき言葉を手探りで掴み、引き寄せる。それに頷き、老人は少年の様子をつぶさに観察した。
随分その作業にも慣れてきたものだ。初めの頃は凍り付いたように緊張して、まともに接続詞も使えていなかったというのに。思い、老人は胸中で笑んだ。
少年は思う事が多い。が、それを口に出す事は少ない。遠慮とともに、それは伝える術を忘れてしまったせいもあるだろう。
伝えたい相手を破壊した自身に、再び何かを伝えたい相手を得る資格などないと、無意識に言葉を飲み込んでしまう悪癖だ。
のんびりと、気付かれぬようにこうして幾度も繰り返した問答は、ゆっくりではあるが、少年の中の痼りを解し始めたらしい。言葉が、彼自身の音として響き始めている。
「裏歴史は、いつも血腥いって言ってました。なんとなく、それは僕も解ります。でも、だからこそ、本とかゴーレムとか、そういうもので残すんじゃなくて、人が語り継いでいくんっだって、思ったんです」
きっとこの老人がその身に宿す知識の多くは、少年が見たなら涙するような、そんな歴史ばかりだろう。
多くの人間が、それを知ったなら世界に絶望しそうな、そんな凄惨さ。それでもそれら全てを背負い長い時間を生きたこの老人は、慈しむ手でもって己の弟子を導き、時には少年を支えてくれる事もある。
必要な事だからだと、そう告げる無色の瞳の奥、確かにある優しさを少年は知っている。何からも距離を置き、ただ独り輪の中から超越しながら、老人はいつだって全てを見渡して必要な場所にその手を向けた。
そうしてそれを祝せば必ず、素っ気ない程冷たい声でそれが義務だと言うのだ。その音色の奥底に沈むぬくもりを、少年はいつだって愛しんでいるけれど。
「人はいつだって間違えるし、自分の傍のものしか考えられなくて、戦ったり争ったりします。けど、そうしたものを留める事が出来るのも終結させる事が出来るのも、やっぱり人なんです」
決して人の美しさだけを知っているわけではない少年は、だからこそ掴みとれるささやかな美しさを、この上もなく愛し慈しんでいる。
それが伝わり、老人も監査官も微かに眉を顰めた。………その情は、きっとこの先この少年を傷つけ痛めるばかりだろう。
それでも、語る少年の顔はひどく安らかだ。
………人が人に関わる事で好転する事を、祈る笑み。悪化を辿る事の方が多い事を知りながら、それでも人の善性を信じ、より良き結果を手にする事を願っている。
それは愚かという事の容易い音だ。けれど、あまりに幼気な音色過ぎて、それを疾うに捨て置き目も向けなくなったものに、それを止める術は持ち得ない。
監査官はそれを見つめる事でざわめくものを拒むように僅かに視線をずらし、老人はそれをこの先の未来で与え得るものとして刻む為に、一心に少年を見つめた。
「だから、人から人に、伝達するんだと思ったんです。紙でも機械でもなく、自分以外の誰かから与えられた情報を前に、何を選ぶかをもう一度考える為に」
そっと、少年が息を飲む。微かに揺れた瞳は、きっと幾度も見て来た争いの姿故だろう。
己が疑われ糾弾される事とて、あった筈だ。つい最近だって、身に覚えもない事で疑われ監視までつけられ、教団内ですら不和を生み出した。
その全てを、それでも少年は受け入れて粛々と、傷すら見せずに笑んでみせたけれど。
……………痛みしか称えられないその笑みに、掛ける言葉も無かった記憶は、老人にも苦いものだ。
それでもこの少年は、そんな不遇を押し付けた人間達の為に、命を賭けて戦うのだ。いつだって、それが故に、この少年は人々の心を捕らえ、不和を解消してしまう。
…………それがいい事か悪い事か、未だに老人には判断が出来ない事だったけれど。
思い、小さく吐き出した吐息の先、少年の玲瓏なる声音が美しく澄んで響いた。
「争う事ではなくて、もっと別の道もあったって、示す事が出来るのもやっぱり、人なんだって思います」
本では己が調べたものしか見出せない。機械では打ち込んだキーワードにヒットするものしか抽出出来ない。
けれど、人ならば、そこに意志を寄り添わせて、より良きものを選んだ前例を提示出来る。
それはただの記録だ。選ぶのは与えられた当人だ。けれど、それを得ずに選ぶ事と、得てから再び熟慮し選ぶ事は、まるで違う結果を導くだろう。
「だから、より良きものを、尊ぶべきものを、知っている人がブックマンになるんだろうなって、思ったんです」
歌うよりも艶やかに、語る言葉は澄み渡った。純乎とした祈りとともに綴られる音は、肌を潤し心を満たす。
その音色に満たされたものならば、その祈りのままに選択を過たず未来を紡ぐだろうと、そんな埒も明かぬ事を思う程、その声は静かに人の心を浸した。
「………買い被られたものだ」
それに染まらぬように、そっと逸らした眼差しと声音に、少年は気付くわけでもなく苦笑して首を傾げた。
「僕の勝手な憶測と、あと、僕が知っているあなた達の事を加味しただけです」
きっと、それを提示したところで、悲しい結末しか記録出来なかった事は多いだろう。人はどうしたって、愚かだ。
それでも、それを諦めずに提示し続ける事が出来る精神力を、きっとこの老人は携え生きてきた。
………そうでなければ、少年の何倍も生きていながら、心凍らせる事なく慈しむ術を知っているなど、有り得ないのだから。
それすら買い被りだと、きっと老人は言うけれど。あくまでも己の勝手な自己判断だと、そう決めつけて少年は指し示す。
あなた達の選び続けたものが、愛おしいと。感謝していると。
そう、告げるように。
あまりに少年が身を置く現状に一致していない柔らかな笑みとたおやかな祈りに、老人は胸中で嘆息した。
……………愚かな弟子は、今もまだ、部屋の外だった。
前 次
小説内で出てきた『イデアの影』はジョルダーノ・ブルーノという方の著書だそうです。
………私が読んでいるのは『進化思考の世界』(三中信宏著)で、その中で引用されていたのです。なので実際そちらの著書は読んでいないのですが(汗)
つい面白くて活用させてもらいました。世界を支配する為の理法とか、凄い魅惑的………!
まあ難しくてチンプンカンプンですけどね!いいのです、解る範囲で飲み込んで、自分の血肉にするのです。なるといいなぁ………!
この本を読んでいるとこう、ブックマンにイロイロ当て嵌めたくなって、パラレルばかり想像してしまいます。それでも結局行き着くのがラビアレなのはどうしようもない(笑)
10.10.27