失敗した。…………部屋のドアを閉めて、へたり込みそうになりながら、青年は舌打ちをする。
 うっかりいつも通りに、少年の隣に座ってしまった。傍にいられないと、そう宣言したのは自分で、それを受け入れたのは少年だというのに。
 …………驚いたように自分を見上げた瞳に、傷付いたなんて。
 我ながら、馬鹿げている。手を離そうと決めたのは、自分だ。これ以上少年が傷付くのを見るなんて耐えられないと、解っている癖に、それでも心は当たり前のように寄り添う事を望んでいると突きつけられる。
 列車の振動を背中に感じながら、テラスに向かうでもなく青年はそのままその場に座り込んで、背中をドアに預けた。
 気配は消して、中にいる監査官にバレないように気を配る。………おそらく師には既にバレているだろうが、それは今更だ。
 方舟で近づけるギリギリまでを移動して、そこからは半日ずっと列車の旅だ。たった一時間で根を上げるなんて、我ながらこの先が思い遣られる。
 それでも、隣にいながら安らいでいない気配に、身体が軋む思いだった。ただ本を読むだけでは気もそぞろになると、集中しなくてはいけないようにわざと逆さにした本は、けれどたいした意味は為さなかった。
 …………自分の意識が少年に向かうのが、自分でも止められなかった。あんなバレバレな態度、してはいけないのに。
 聡い少年はきっと気付いた。告げた言葉に嘘はなくとも、そこに寄り添う心は嘘である事など、きっとその場で既に見破られていた。
 それでも、何も言わないのだ、彼は。責めたり糾弾したり、すればいいのに。彼はもうきっと、それすらしないままだろう。
 彼は疾うにそれを諦めて、目に映るものだけを抱き締め、己が壊れるその日まで戦うと決めた命だ。
 それを諌め、仲間を頼れと叱ったのは、自分だ。………仲間ですらない癖に、彼を一番傷つけた癖に、幾度もそう告げたのは、紛れもなく自分だった。
 方舟の中、傷つけた身体の傷は癒えた。もうきっと、彼はそれを傷みはしないだろう。
 けれどこの先、幾度自分はそれを繰り返すか、知れたものではないのだ。彼が傷付けばその分自分も傷付く。その痛みに竦んで、原因を取り除こうとしないわけがないと、思える自分に辟易とする。
 背中を預けたドアの先、微かに音が響く。老人の声、監査官の声。………揺るぎなく響く、自分が愛しんだ少年の声。
 …………その音が自分に向けられる事が幸せだった。そんな事を思う事自体、異常なのに。
 真っ直ぐに向けられる少年の瞳が好きだった。
 少し遠慮がちだった笑みが綻び沁みるように咲く笑顔が、嬉しかった。
 躊躇いがちだった言葉を甘えるように響かせてくれるその瞬間の至福など、今まで味わった事も無かった。
 仕草ひとつひとつ、辿る事もなく全て思い出せる。睫毛の揺れも、唇の動きも。全て間近で見ていた。触れる事だけは抑制して、それでもずっと、すぐ隣でそれを見て、愛しんだ。
 やっと縮まった距離に、強張っていた身体は柔らかく存在するようになったのに。
 ……………今はもう、その気配すら緊張を強いられてピンと張ってしまっている。しなだれるように柔らかく、受け入れてくれる事を如実に教える透明さが消えてしまった。
 それを選んだのは自分で。それを許したのは、少年で。
 解っているのに、心が落ち着かない。自分に笑いかけない癖に、師には嬉しそうに綻ばせる笑顔が腹立たしい。自分には声を掛けない癖に、監査官には問い掛け話す事が疎ましい。
 すぐ隣にいるのに、手も届かない遠い距離が、悋気を誘う、なんて。
 …………己を嘲笑する気も起きなくて、青年はドアの先の少年の気配を追った。
 今はこれほどに、遠い。伸ばした腕などきっと気付かれもしない。………伸ばす腕など、許される筈もない。
 たおやかに美しい言葉を奏でる少年の声に耳を澄ませ、固く目を閉ざす。

 どうかどうか、君は生きて。傷付かず美しく、咲き誇って。


 歴史の荒波の中、飲み込まれる事などなく。
 喪われる事なく、咲き誇り続けて。




 ……………君が消えるなんて、耐えられないのだから。







   



 ブログの方にアップしていた小話をこちらに。あ、拍手に書いていた分はストーリーには直接関係ないので削除しています。ご覧下さった方はありがとうございました♪
 もしかしたらまた、閑話扱いでこの程度の長さのを書くかもです。
 ………いや、入りきらなくて、ラビの心境が(遠い目)
 他にも色々拾っていない部分はあるのですが、大抵がラビ視点以外からのものなので書けないという方が正しく。
 まあ書いたところでこんな感じの、さっさとシャキッとしてちゃんと目を開かんかい!的なラビになりますけれど。
 うちのラビは基本臆病で、自分のせいで相手が傷付くのが駄目ですよ。相手以上に自分が傷付くからね。
 独り善がりに見えても、それもやっぱり情と優しさの内に組み込まれるパーツなのです。早く成長するといいね、そういう部分が。

10.10.27