任務地についたのはもう夕方だった。朝からの移動というだけではない理由で、既に疲れきってしまっていたが、一行はファインダーの元に詳しい情報を貰いに向かった。
 奇怪はそう複雑なものではなく、この町の外れにある石碑が、時折朧に光ったり音を発するらしい。ただそれだけで、何か危険があるわけではないけれど、原因は不明のままで調査は難航しているとの事だった。
 おそらくイノセンスは関係ないのだろうが、ここ最近AKUMAらしい被害は多発しているのでエクソシストを要請したらしく、イノセンスはなくともAKUMAはいる確率が高い事も教えられた。
 地図を渡された一行は、石碑の由来を更に調査しに行くというファインダーと別れ、そのまま石碑があるという町外れに向かった。
 「石が光る…か。そういう石、あるんですか?」
 ファインダーのいう石碑の奇怪は単純なようで、いまいち少年には飲み込めない。もっとも、そんな事を言ったら、初の任務で人形が人間と同じように話し動き感情を持っていたのだから、石が光ったり鳴いたりする程度、当たり前にあるのかもしれないけれど。
 少年の言葉に、老人は少しだけ思案するような眼差しを暗くなり始めた道に向けていたが、すぐに口を開いて言葉を紡ぐ。
 「多くはないが、存在はする。おそらくそうした成分が多く含まれた石である事と、地脈か水脈の関係で鳴動したり音を反響させたりしているのだろう。あるいは、石碑自体が空洞で、風によって音を発するように計算されている可能性もある」
 老人の言葉に、少年は目を丸める。計算されているという、それがもしも事実であったとするならば、それはもう既に奇怪ではない。
 「つまり、わざと、ですか?」
 「………石碑の由来によっては、な。どんな意識であれ、その石碑の意味を忘れず心に刻ませるならば、怪異がある事が手っ取り早い」
 「じゃあ、ファインダーの方も、その辺りを怪しんでいるって言う事ですかね?」
 「そうだろうな。なかなか聡い奴のようだ」
 二人がそんな話をしていると、木々の合間、遠くに石碑らしいものが見えた。
 大きくはない、むしろこじんまりとした石碑で、周囲は木に覆われているせいか、より一層小さく目立たない印象がある。
 それでも町外れとはいえ、石碑から離れてはいても民家はまだあるし、街灯も途絶えてはない。そんなに古いものではないのかも知れないと思いつつ、少年は辺りを見回した。
 老人も思うところがあるのか、同じように周囲を見渡していたが、何か意見を口にするわけでもなかった。その後ろを歩く、頭の後ろで腕を組む青年もまた、民家を見遣り、今辿ってきた町までの道を振り返り、辟易としたように唇を歪めた。
 もしかしたらこの師弟は、何かこの町に関して記録を持っているのかも知れない。そう勘づきはしたが、少年はそれを尋ねはしなかった。
 この町にきたのは奇怪の事もあるが、何よりも師弟の本職である『ブックマン』としての記録が必要であったからだ。口に出さない言葉は、きっとそれに関与しているのだろうと少年は判断し、不要な問答は避けた。
 それは自分の背後に控える監査官も同じらしく、訝しんだ顔をしはしても、意見を挟む事なく黙々と付いてきている。………本当は、監査官はAKUMAの危険性を告げられた時点で宿に残って欲しかったのだが、まったく取り合わずに今現在も少年の傍に居た。
 それが自身の隣を歩く青年の機嫌を悪化させている事を知っているだろうに、監査官の顔は平素と変わらぬ涼しいものだった。
 そんな二人の様子に胸中で溜め息を吐きながらも、少年は老人の辿る視線の先を真似て辿り、せめて何かヒントはないかと探った。……が、当然まったく解らない。
 仕方なしに眺めた周囲の中、結局その視線が留まった先は、石碑だった。周囲にその石碑について書かれた説明もなく、ただ石があるだけだ。これでは石碑として記憶される事は難しそうだと、少年でも思った。
 石碑に近づいて、せめて銘が何か書かれているか調べようとした少年の足が、止まった。
 …………左目が、変化する。少年が周囲を見渡したと同時に、師弟は臨戦態勢に入り、監査官は一歩退いた。
 「AKUMAです。周囲300m以内に、4体います」
 大体の位置は把握出来ても、AKUMAは明らかに少年達の存在に気付いていて動きが速く、位置を入れ替えながら移動している。
 口で場所の指示を出すのでは遅過ぎると、大まかな距離と総数を口にした少年は、その左腕を発動させてイノセンスを爪に換えた。
 「ふむ、今回のファインダーは優秀なようだな」
 「………こういう時は肩透かしな方が嬉しいさ」
 どこかのんびりとした師弟の会話に少年は小さく笑い、次の瞬間にはその眼差しを鋭いものに変えて、力強い声が呟いた。
 「来ます。……右斜め前方から2体、左及び後方から1体ずつです。そちらの2体は二人にお任せします」
 言うと同時に、少年は後方に飛び退った。………その場所を把握していたかのように木の影から弾丸が飛び込んできて、少年がいた場所に土煙を上げさせた。
 後方に退き綺麗に着地した少年は、同時に左に飛び、枝の間から姿を現したレベル2を迎撃する。AKUMA達は自分の相手が白い少年である事を見取ったのか、楽しげに囲んで挟撃を開始した。
 まるで輪踊のように少年は舞い、イノセンスの爪を巧みに翻し、AKUMAの攻撃を防ぎ、その間合いに踏み込んでは斬り裂いていた。とはいえ、レベル1に比べ強度の増したレベル2はなかなか破壊にはいたらない。
 けれど、臨界点を突破した少年だ。苦戦を強いられる相手ではない。ただ、どうしても力を奮うには躊躇いがあった。
 「リンクっ!物陰に……出来るだけ、気配を消していて下さい!」
 …………ここにはエクソシスト以外の者がいる事が、少年の足枷になってしまう。
 ましてや木が密集しているのだ。破壊した後の爆発を考えると、監査官が安全な場所にいなくては危なくてヘタに破壊も出来ない。
 少年一人であれば己のイノセンスを纏えばいい事だが、そんな都合のいい防護服を持ち得ない監査官は、爆風ひとつでも重傷を負う可能性がある。
 叫ぶ少年の声に、監査官は何か返したようだが、それも上手くは聞き取れなかった。代わりに、離れた場所で同じようにレベル2と対峙している青年が怒鳴ってきた。
 「余所見してんなっ」
 その奥には、外見は全て等しいレベル3が中空に飛ぶ姿が見えた。となると、4体中3体がレベル2、一体がそれを纏めていたレベル3というところだろうか。
 どうやらレベル3は老人が相手をしているらしい。それならば尚の事、早くこのレベル2を破壊して、老人の加勢に向かわなくてはいけない。レベル3はレベル2に比べ、格段に手強いのだ。
 それは青年も解っているだろうに、未だその意識は少年に向けられていて、舌打ちしたくなってしまう。
 今は、戦闘中なのだ。他のエクソシストにかまけている暇はない。まずは目の前のAKUMAの破壊を。そうして救済した魂の数だけ、守れる人間の数に比例していくのだ。
 「ラビは黙っていて!集中していて下さい!」
 青年はただでさえ右目に眼帯をしている分、視野が半分の状態で戦うのだ。死角が多い分、リスクは他のエクソシストよりも高い。普段はそれを弁えている癖に、今の青年はそんな事も忘れている。
 槌を振り回し、イノセンスを第二解放するには不向きな木の多い箇所での戦闘に、舌打ちしているように表情が険しい。きっと、焦っている。
 その焦りが伝わって来て、少年も心が落ち着かない。戦闘の最中に集中出来ないなど、何一つ得策ではないというのに。
 思ったと同時に、少年の頬をAKUMAの拳が掠め、血が微かに飛んだ。裂傷という程ひどくはなくとも、傷を負ったらしい。頬の痛みが冷静さを呼び戻し、少年は眉を顰める。
 …………危険だった。今の青年では、傷を負うだけでは済まない可能性が高い。
 「人の事はいいから、ラビ、自分の身を守って下さい!」
 「そのまま返すっての!ああもう、危なっかしいさ…………!」
 焦った少年の声に怒鳴り返す声の余裕のなさが、先程までの老人と飄々と話していた姿とは掛け離れている。
 だからこそ、きっと老人がレベル3を己の方に誘導したのだろう。それを気付いているかどうか、それすら怪しかった。
 どうにか青年を老人の方に向けようと、少年が視線を逸らした時、物陰から蠢く姿が視野に入った。
 それはもう最近では見知ってしまった気配だ。先程隠れるように指示した筈の監査官が、何故かこんなにも近くまで距離を詰めていた事に少年は驚いた。
 少年達から一番近い街灯の裏、木に隠れるというよりも、そこから立ち退くところというその姿は、奇異だった。
 驚きのまま、少年がその名を叫んだ。
 「リンク……………?!」
 同時に、AKUMAが監査官に向かった。それはきっと、ただの気まぐれだった筈だ。あるいは自我の発達したレベル2であるが故に、少年の反応に興味をそそられたのかも知れない。
 戦闘中に他者をかまけているのは危険だ。つい今さっき、自分自身でそう思った。…………それでも少年はそれを見てしまった。
 調度、監査官は逃げ遅れた少女の手を引いているところだった。何故そんなところに少女が隠れていたのか、それは少年にも、おそらく監査官にも解らない。
 …………ただ、その付近は、先程ブックマン師弟が視線を向けて少し考え込んでいる場所であった事だけは、少年も覚えていた。
 けれど今はそんな事を言及する暇は無かった。
 エクソシスト以外はAKUMA相手にはなんの手立てもない。そして、エクソシストであっても、寄生型以外は、そのウイルスに抵抗し得る術がない。
 咄嗟に、少年は地面を蹴った。クラウンベルトを伸ばし、監査官の更に奥、ひしゃげた街灯に巻き付け、彼らの元に到達する時間を短縮する。
 地面に足がつく頃、AKUMAの腕から銃弾がまき散らされた。………まるで火花だ。厄介だと思いながら、少年はイノセンスを最大限まで広げ、自身とともに監査官と少女を包むように翻した。
 既に過去にそれだけの幅はあると、確認済みだ。躊躇う事なくその銃弾の最中で舞い踊った少年の白いイノセンスは、場違いな程美しくその閃光を写し取るキャンパスのように靡いた。
 銃弾が途絶えた、その一瞬の隙に、少年は爪から退魔の剣に変えたイノセンスを煌めかせ、至近距離まで詰め寄っていたAKUMAのボディーを一刀両断した。シンクロ率を高めた少年の爪であれば、レベル2相手にこれくらいは造作もない。
 爆発から監査官と少女を守る為、再び少年はクラウンクラウンを広げ、二人を包むようにして纏った。瞬間、衝撃が走る。
 …………間一髪で間に合ったらしい事にホッと息を吐いて、少年は監査官に少女とともに木の中を縫って逃げ、一番近かった民家の中にでも隠れているように声をかけた。
 本当は、こんな会話すら、時間が惜しい。レベル2だけならばまだしも、レベル3もいるのだ。一人一体ならばまだしも、4体を相手取るとなれば互いの連携が成り立たなければ難しい。
 そして、残念ながら今現在、少年と青年はそんな機微を感じ取れる程、円滑な状態ではないのだ。間に老人がいてくれればまだしも、二人では難しい。かといって、少年が老人と組めば、青年はきっと意識を拡散させてしまう事は予想に難くなかった。今現在、個々で動いてすら、あの状態なのだから。
 ならばと、師弟を組ませて単独で戦っていた少年は、結果的に言ってしまえば、戦闘能力のない一般人を庇う位置に属しており、二人に比べて負担が大きかった。
 解っていて、その位置に自分がいくようにAKUMAを誘導したのは少年自身だ。きっとそれに気付いている老人に後で諌められるだろうと苦笑しながら、少年は再び残るAKUMAに立ち向かう為、イノセンスを纏った。
 師弟が先程一体破壊するのは確認した。今、少年が一体。残るはあと二体だ。レベル3が残ってはいるものの、これならば誰も怪我をせずにこの戦闘は終結出来そうだ。
 一刻も早くそれを迎えられるようにと、AKUMAの気配を左目で追った少年が振り返った先、有り得ない光景が目に入った。
 「ラビ?!」
 驚いて、目を見開く。何故そこに彼がいるのか、解らなかった。
 先程怒鳴り合った後は、老人とともに、逆サイドにいた筈だ。そうして二人がレベル2を挟撃で破壊したのは、監査官に向かう視界の端で見ていた。
 それなのに、こんな間近に。青年は切羽詰まった顔をして、けれど、その顔は少年こそがするべきものだった。
 ………青年の背後、AKUMAの腕が見える。指先が変形し、銃口に変わるのさえ、見て取れた。
 「……………………っ!!!!」
 叫びが、喉から吐き出されたとは思えなかった。そんな時間すら惜しんで、体勢を整える間もなく、少年は地面を蹴った。
 背後の監査官達を気にする余裕もないまま力の限り蹴った地面は、きっと抉れて二人に土を被らせた事だろう。そんなこと、考える猶予もない。
 伸ばされた腕を、掴んだ。ほっとしたような青年の顔。………険しいままの、少年の顔。
 それに訝しんだ青年の眉が解かれるより早く、少年の腕から伸びたクラウンベルトが青年を絡め、監査官達のいる背後に引き寄せるように巻き取っていく。
 見開かれた隻眼。微かに安堵した、少年の瞳。それを青年が記録した瞬間、目の前がスパークした。
 ………AKUMAの銃弾が、降り注ぐ雨のようにこちらに向かう。これは庇いようがないと、一度はその銃弾を受けた事のある青年は顔を顰めた。
 同時に、目の前が真っ白に染まる。銃弾を受けたが故ではない。今もまだ、耳を(つんざ)く銃撃の音はする。
 翻り泳ぐ白は、少年の白だ。彼の纏う、彼のイノセンス。寄生型である彼にとって、そのイノセンスは肉体の一部だ。イノセンスが傷付けば、それはそのまま彼の傷になる。
 さっと青年の顔が青ざめる。あの銃撃の全てを庇うなど、いくら彼のイノセンスでも不可能だ。まだ三人がまとまっていればなんとかなったかもしれないけれど、どうしたって舞い込んでしまった青年の分、あまりが出る。
 それでも、青年にも監査官達にも、銃撃は及ばない。それはペンタクルに侵されない肌が視覚的に知らせる事実だ。
 驚きに見開いた記録の瞳の中、翻る鮮やかな美しい純白。
 ………………白の最中、赤が舞う。
 空を彩り地を覆うように、赤が舞う。それを知っている気がした青年は、何かを叫びかけた己に驚いた。
 微かに呻く声が聞こえた気がして、緩んだクラウンベルトから逃れるように這い出て、青年は止まった銃撃の先、嫌悪を誘う笑みで笑うAKUMAに槌を向けた。………同時に、少年のクラウンベルトがまた、空を飛んだ。
 軋むような笑い声を上げていたレベル2は、そのクラウンベルトが通過する様すら静観して、向けられた槌に抵抗もなく、ただ青年が発火したそのままに、炎に嬲られた。…………垣間見えたその背中は、歪に見える程、針が刺さっていた。
 いつの間に老人が手助けをしたのかと、目を見開く。その視野の先、少年が伸ばしたクラウンベルトが中空を舞っていた。
 ……………その先には、退魔の剣が掲げられている。
 その切っ先は寸分の狂いもなく老人の身体を目指し、そうしてそれは確かに老人の小さな身体を引き裂いた。………ように、見えた。
 実際にはその身体を通過し、老人に襲いかかるAKUMAに突き刺さった剣は、そのままクラウンベルトに巻き取られ、再び少年の元に巻き戻される。
 剣とともに老人の身体も絡めとったクラウンベルトによって、AKUMAの最後の爆発による衝撃の全ては盾になるように寄り添った退魔の剣によって防がれた。
 …………全て、一瞬だった。
 知らず駆け寄ってしまった青年の足音が途絶えるまでの、一瞬だった。
 そうして目の前には、真っ白な衣装を真っ赤に染めて、肩で息を吐く少年が一人、膝を折って己のイノセンスに支えられ座っている。傍らには剣とともに引き寄せられた老人が立ち、少年の肌を観察していた。
 その肌に………ペンタクルが浮かぶ。身体中には銃弾の痕だ。致命傷はクラウンベルトによって避けたようだが、それでも相当な傷を負ったのはその出血量で解る。
 呼気が掠れた事が、自分でも解った。けれどそれを正す事など出来ず、青年は小刻みに震える足に力をいれる事で精一杯な己を嘲笑いたかった。
 ………見たくなかった、こんな少年の姿を。まるで死を招き寄せるような、その姿を。
 自分を庇い、白が赤に染まる様を。
 何一つ、繰り返したくなど無かったのに。今こうして、記録する為の隻眼には、色を変えてペンタクルに覆われる少年の肌がスローモーションで映されている。
 肩で息をした少年の背を、老人が撫でる。寄せられた眉が少年の苦痛を物語った。
 そうして、眉間の皺が一際深くなると同時に、今まで肌を覆っていたペンタクルの全てが一掃して、元の真っ白な肌が舞い戻ってきた。
 …………けれど、やはりひどい出血に変わりはなく、白い肌の多くが血に塗れていた。
 「無茶な真似をする。痛むだろうが、止血が先じゃな。ラビ、布を持ってこい」
 僅かに顔を顰め、老人は座っているのがやっとという少年の肩を抑えて傷を診た。
 深手はなく、上手く急所を逸らせている。戦闘技術は決して高くない筈の少年は、けれど生き延びる術だけはきちんと元帥によって叩き込まれているらしかった。
 それによってのみ、おそらくこの少年は生き残ってこれたのだろう。無茶な戦い方は決して己の実力を過大評価しているのではなく、それによって与えられる痛みを通じての贖罪にすら見える程だ。
 思い、感傷など感じる場合ではないと、老人は携帯しているケースから水を取り出し、右腕に走る深めの傷口を洗う。…………その手を、何かが抑えた。
 何かなどと疑問に思うまでもない。紛れもなく、老人の手首を掴んでいるのは己の弟子の手のひらだった。微かに震えた指先が、遠慮もなく掴んでいる為、骨が軋む音が体内で響いていた。
 先程布を持ってこいと言った時から、欠片程も動く気配が見えなかった。かと思えば、今は無意味に駆け寄って少年に触れるものを拒むように掴み、引き離している。
 守りたいのか、それともこのまま喪いたいのか。
 どこまでも矛盾を孕んだ行為だ。微かに息を吐き出し、老人は未だ惑い続ける震える指先を振り払った。同時にまた伸びる、その指先。
 今は、弟子にかまけてもいられない。喪えば、この弟子はきっと壊れる。己でも解っていながら、それを望むかのように、治す為の腕を引き止めるのだ。
 不意に、俯いていた少年の頤が、揺れた。
 おそらく間近な青年の気配に気付いたのだろう。揺らめく白い髪が……赤いまだらに染められたその髪が、何かを探すように少しだけ揺れた後、…………諦めたように、老人の肩に落ちた。
 瞬間、青年から発された気配は、一体何に分類すればいいのか、老人にも解らない。
 悲しみでも怒りでも慟哭でもない。殺意でも憤りでも嘲りでもない。………ただひたすらに、空虚だった。
 思い、ふと気付く。この気配を、老人は過去に一度だけ、見た。
 8年も昔、まだ子供だった弟子の、あの空虚な瞳とともに、喪失への恐怖を刻まれた心が醸した、気配だ。
 訝しみ、老人は青年を見上げた。老人の腕を掴む青年の指先は動かない。気配も、緩和しない。肩に乗る少年の重みが奪われかねないのか、判断がつきかねた。
 自分であれば牽制も出来、青年の押さえ込む事も出来るだろうが、それでは少年の手当が進まない。いくら少年が寄生型で自己治癒能力に長けていようと、放置していていい筈もない傷だ。
 一度監査官に少年を預けようかと老人が考えた時、肩から途切れがちな少年の声が、小さく響いた。
 「………ックマ、ン…………なに、か、おか…しぃ、しんぞっ、い、たぃ……」
 掠れて聞き取りづらい声は、けれど老人にも青年にも聞き取れた。そして、青年がそれにひどく意識を集中させている事が、青年を監視していた老人にも見て取れた。
 青年の頬を汗が滴り落ちた。呼気の乱れが悪化している。隻眼は、中空を見るようでいて、ひたすらに少年の様子を見つめていた。
 項垂れた背中。苦悶を教える表情こそ青年には見えないが、力なくしなだれたながらも硬直した四肢がそれを教えている事だろう。
 心臓、と言っていたが、その付近には、目で見る限りなにも傷はなく見える。団服も特に傷付いては見えない。
 銃弾は、主に身体の右側に集中していたし、それらも貫通よりは避け切れなかったが故の被弾が多い。
 疾患は、今までに少年には前例はない。健康監理も責務のひとつのエクソシストだ。それはきちんと把握されている筈だし、ここ最近もそうした兆候は見られない。
 目を顰めるように細め、老人は団服の下を確認しようと少年の首元に手を伸ばす。
 瞬間、それが、起きた。
 「…………………………これは…!」
 首元を楽にさせて見えた白と赤のまだらの肌に、先程も見た印が浮かぶ。
 ………………少年の肌が、染まる。再び、ペンタクルによって覆われていく。左目にあるペンタクルと同質の、AKUMAの印だ。
 しかし、先程のAKUMAのウイルスは既に浄化した筈だ。そしてそれ以降、少年に危害は加えられていない。
 当然だろう、AKUMAは既に全て破壊したのだ。少年の左目には4体のAKUMAしかスキャンしなかった。他方に居たとしても、その攻撃は未だ感知されていない。
 ペンタクルが浮かぶ理由などなく、老人は目を見開いてその様を記録した。今後、それが何に必要かなど解らないが、欠片も漏らさずにそれを記録する事は、再び少年がウイルスを浄化してのち、必要なものになるかもしれない。
 冷静にそれを判じて、指を動かす事を止めて少年を記録していると、老人を突き飛ばすようにして青年の腕が伸びた。
 ひったくるような乱暴な腕は、老人から少年を取り上げ、己の腕の中に収めてしまう。震える腕は守るようにも壊すようにも見えて、その実……………ただ縋り付いているだけだった。
 気付き、老人は嘆息する。
 …………今この時、ペンタクルに覆われた少年に縋って何が出来るというのか。それすら判断出来ない程、青年は追い詰められている。
 震えているのが視覚ですら見て取れる程だ。微かな声が少年の名を呼び続けているのは、おそらく老人にしか聞き取れなかっただろう。
 少年を侵しゆくペンタクルは止まらない。浄化される事もなく、ゆっくりと、けれど確実に白い肌を染めていく。
 先程までは意識があった筈の少年から、もうそれは窺えない。完全に力を失った肢体は人形のように青年に凭れ掛かり、力の限り縋る腕に痛みを告げる事もない。


 ……………絶望を溶かした隻眼が、枯渇した砂漠のようにただ、少年を見つめていた。







   



 戦う場に置いて、特別な感情はきっと足手まといになるんだろうなぁと、思いつつ。
 ………それでも誰かを思えない人間に戦う意味は見出せないと思うのですよ。
 だから、同じ道を歩めなくても、互いの道を進むのを願います。道は人それぞれで、同じ道を歩む事が正しい選択でもないですから。
 まあジバクくんのカイ爆で毎回書いているような感じですね☆
 なので、まあ、正直な事を言ってしまえば。
 ………今回書いているラビは殴りたくなるくらいなんですが………!
 うん、えっと、ちゃんと成長するから見守ってあげて、下さいね?(汗)

10.11.3