叫びかけた呼気が掠れた悲鳴を零している途中、それは再び変化を見せた。
青年の腕の中、しなだれた少年の肢体は動かない。が、変色したように見えたその肌がざわめく風のような音とともに色を変えていく。
少年の肌は、再び白を取り戻していった。
ウイルスが未だ残っていたのか、レベル2のウイルスはより強力になるのか。寄生型がどれ程の量のウイルスを浄化出来るのかは未だ解明されていない。もしかしたら許容量ギリギリだったのだろうか。
推測しか出来ない状況の中、それでも平素と変わらぬ少年の肌の色に、ホッと息を吐く。後は手当さえすれば、危険は何も無かった。
思い、老人は未だ縋るままに少年を抱き締めている愚かな弟子の頭を叩き、その腕を緩ませた。
………ひどい顔をしている。そう思い、もう一度溜め息を吐いた。
途方に暮れたような、寄る辺ない顔。こんな顔を見るのは稀だ。あの旅の最中の船上で、ブックマンとして諌めた時の顔を思い出す。
それより尚、情けない。思い、荒療治だったかと頭痛がした。この程度でこれほど取り乱すのでは、共に任務などつけるのかどうか、定かではなかった。
そんな先の事を憂えるよりも、まずは少年の手当だと、老人は青年の腕に拘束された少年の右腕を掴み、出血状態をもう一度確認した。
……特にペンタクルが浮かんだ前と差はない。微かに表面が乾き始めているのだから、血は止まり始めているのかもしれない。
相変わらず桁外れの回復力だ。そう安堵しながら、老人は背後に感じた気配に声を掛ける。
「監査官殿、止血用の布を携帯されていれば、戴きたいのだが」
「応急措置なら私がやります。あなた方は周囲の警戒の方をお願いしたいのですが」
少年の左目は、例え少年が眠っていてもAKUMAに反応する。それを知っている老人は、けれど監査官の言葉に反論はせず、青年から少年を引き離す口実にその言い分を使った。
…………少年を抱き締めたまま、青年は未だ動かない。間近に立つ監査官の気配には目を上げたが、睨む眼差しには忌避が強かった。
奪う事を厭う以上に、触れられる事を拒んでいる。そんな、眼差し。
不可解な青年の反応に微かに眉を上げながら、けれど監査官は己の言葉に従うように少年に腕を伸ばそうとした。
………が、それは叶わなかった。
青年が何をしたわけでもない。少年が目を覚ましたわけでもない。
「…………っが…っく、これ、は…………っ」
頭を抑え、監査官が少年に差し出した腕を退けさせ、距離をとった。肩で息をする監査官は、驚きに目を見開いていた。
頭を切り裂くような激痛とともに感じた、精神を劈くような不快感。歌う音色のようでいて、それは神経を直に摩擦されるような激痛だった。
……………イノセンスの気に当てられたものが味わったという供述書を思い出し、監査官は呆然と目を瞬かせた。
目を向けた先、少年の肌の一部……監査官が手を伸ばした場所が、何かに覆われている。それはすぐに消えていったが、老人はそれを記録した。
そうして、検索した記録と照合し、結論を引き出す。
「………これは…リナ嬢の時と同じ、イノセンスによる結晶……?」
あの時も不要となると消えてしまった硬質な水晶のようなその物質は、正確な分析は成されていない。己の意志で出来るものではない上、エクソシスト以外は触れる事も出来ないのだ。分析などこの先も不可能だろう事は予測出来ていた。
それ故に今老人が出した結論は、あくまでも物質の持つ質感や形状、状態を比較分析した視覚情報による分類結果だ。前世紀の遺物とも言える分類方法だが、それ以外の手立てもない。
確かに少女のイノセンスの反応は異例だった。しかしただひとつの異例ではなく、この少年もまた、イノセンスによってその命を助けられ生きながらえていた。
少女に起きた事が、少年に起きないというわけではない。ましてや、彼は既にその身をイノセンスに救われた存在なのだから。
………だとすれば、今現在少年はイノセンスによって守られる状態にある、という事だろうか。
身体を覆ったペンタクル。けれど塵と化す事なく全てのペンタクルは消え、けれど少年は目覚めない。呼気はある。青年の腕の中、おそらく温度もあるのだろう。青年は不可解そうに少年を見つめてはいても、その瞳に喪ったが故の恐慌はない。
少年のその状況に、老人は見覚えがあった。過去に一度だけ記録した。それを思い出し、気付かれぬ程度に顔を顰めた。
「監査官殿、今のアレンには近づかないでいた方がいい。応急処置は我らで行なおう。代わりに、列車の手配と教団への報告を願いたい」
静かな声で告げたブックマンの言葉に、少年と距離をとった監査官は渋るように顔を顰めたが、現実問題として少年い近づけないのは事実だ。
仕方なしに小さく吐いた息の中に全てを捨て去り、監査官は常の職務全うの心を浮上させた顔のまま頷いてその場を去った。
その途中、木陰に隠れていた少女も拾い、おそらくその子の家であろう、視認出来る位置にある民家に向かっていった。
それを確認しながら、老人は混乱しているのか困惑しているのか解らない青年の頭を軽やかに殴った。少年をこのまま放置するような真似、するわけにはいかない。放心している暇があるのであれば、早くに回復してもらわなければ、ただの足手まといだ。
………既に実際、足手まといになった結果がここに横たわってはいるのだけれど。
室長の懸念を的中させてしまった今の状況に溜め息を吐きながら、老人はぼんやりと自分を見上げた弟子を睨んだ。
「小僧の手当をする。貴様は邪魔だ、離れておれ」
「……………っ」
老人の言葉に青年の身体が震える。その瞳に微かな水の膜が見て取れて、呆れて溜め息も落とせない。
青年の腕から少年を奪うように老人の細い指が伸びる。それは骨張った皺だらけの指先だ。屈強さをいえば青年の方が上な筈だというのに、あっさりとその指先は目的物をその手の中に得た。
…………手当を、しなくてはいけないと、解ってはいるのだろう。
ただその心が現実についていっていない。まるで迷い子のように心許ない不安定さだ。
「…アレ、ン…………?」
微かな声が少年の名を呼んでいる。赤く彩られた真っ白な髪が、常の清楚な白を隠し始めてしまっている。
出血が多いせいもあるが、青年が掻き抱いていたせいもあるのだろう。今はもう、その髪は赤に程近い。
それを見つめ、不意に青年の唇が別の名を呼んだ。
その形を読み取った老人が、訝しむように青年を視野に入れながら少年の応急処置を開始した。
青年の唇は、綴った。それは少年の名でも老人の名でもなく、教団内の誰の名でもない。…………今はもういない、少年の養父の名。
そんな名を今綴る意味などない。それが何を意味するのか、まだ老人にすら解らない。
そうして、呆然と老人の指先を見つめ、恐れるように少年の指先を握る青年には、己の綴った名がなんであるかすら、知り得ていないだろう。
思い、なかなか根が深いのかも知れないと、老人は胸中で息を吐き出した。
教団に帰り着いたのは夜中を過ぎていた。むしろ、そんな時間でも辿り着けたのは方舟が存在していたおかげなのだから、とても運がいい筈だ。
列車はほぼ無理矢理席を奪ったようだが、そうした手腕に優れている監査官には感謝するしかないだろう。そうでなければ、意識を失ったままの少年を連れて、翌日になっても出発出来たかどうか、怪しかった。
真夜中というべき時間でも教団内は眠ってはいない。その証拠のように、帰り着いた老人が向かった先の室長室は、その手前の科学班と同じく煌々と電気に照らされ、今の時間などお構い無しに書類が乱雑に舞っていた。
そんな中、向かい合った老人と室長は互いに憂いの濃い顔で低く声を響かせていた。
「………過去に同じ症例を見た事がある、と?」
列車の中で書いたらしい報告書に纏められた記述に眉を顰め、室長が告げる。その点については報告書に記載はなく、たった今室長が読み終えたのを確認した老人から告げられた言葉だ。が、どちらにせよ、それは希有な現象だろう。
未だAKUMAの構造は解明されていない。そもそも科学班はその立場上、魂の存在は信じていない。もちろん、教団は宗教に基づいている為、魂という概念に異論はないが、それとこれとは別だ。
が、AKUMAはまさにその魂に依って成る兵器だ。その解明が後手に回るのは、異質な分野である以上に、手のつけどころがない現実にもある。
その点の遅れを気にしている室長は、まさにそれが関与しているであろう今回の現象をどう処理すべきか、何が出来るか、その頭脳を惜しみなく働かせている。
が、いい案などある筈もないだろう。思い、老人はその懊悩を留めるように口を開いた。
「AKUMAの能力によるものだろうと思われる。ただ、それが及ぼす作用は正確には判明しておらん」
「と、いいますと?」
歯切れが悪いというよりは、現実の情報の不足故だろう物言いに、室長の眼差しが揺れる。
それを眺め、老人は常と変わらぬ淡々とした音色を響かせた。
「精神世界に引き込まれるらしい事は、解っておる。そこで何らかの死を迎える事で現実の死も迎える。そこで与えられる苦痛がAKUMAの餌になる事も、予測の範疇だが、考えられる」
しかしそれ以上は情報はなく、推論するにも限界がある。ましてや、これは神の領域に至るものを核とした現象だ。一介の人間に解明を求めるのは不可能に近い。
それを瞬時に理解してしまう頭脳を有している室長は、深く長く息を吐き出し、報告書を睨むように見つめている。
その指先が戦慄くように震えているのは、精一杯の冷静さを己に強いているが故だろう。
情が深いが故にこの闇に舞い込んだ室長は、その情故に守るべき立場を目指し、得た。そうして、それが故に、その情を壊しかねない現実を、幾度こうして目前に突きつけられては飲み込み乗り越えてきたのか。
どんな時であろうと冷静さを失わずに判断を下し、時に非情を垣間見せる胆力はエクソシストであろうと到底敵わない精神力の強さだ。
「精神攻撃を得意とするAKUMAの存在は確認されていますし、有り得ない話ではないですが………それにしても随分と突飛な話ですね」
「わしもこの目で記録していなければ、そう易々と信じる事は出来ん現象だ。が、実際に何もなくとも傷付き衣服が汚れ破れる。それを目の当たりにすれば、認識せざるをえん」
過去における現象は、現在の少年に当て嵌っていく。
それならばその前例を元に、少年の事例を解明していく事が必要だ。過去では事なきを得た事でも、現在で同じになるという保証はないのだ。
有り得ないと否定するよりは、あらゆる可能性を視野に、柔軟に対応する必要がある。それは不可解なものに対面した時程、求められる心理だ。
それを知っている室長は重々しく頷いた。
「アレンくんも、もう少し医療処置が出来ればよりいいんですけどね。今はブックマンの鍼治療と、栄養点滴が出来るだけ、でしたか」
溜め息とともに呟く室長に、老人も同じ色の息を落とし、頷いた。
「今のアレンに近づけるのは、エクソシストのみ。科学班も近づけぬ故、解析は不可能であろうが、おそらくリナ嬢が纏った結晶と同じものが、局部的にアレンを包み、あれ以上の医療器具を拒みよる。今は…アレンの精神力に頼る他ない」
不思議な事に、寄生型の少年では決して足りないだろうカロリー量の栄養点滴しかしていないにもかかわらず、以前のクロウリーのように眠っている間に腹が鳴るなどという事もない。むしろ肌の状態も悪化せず、顔色も血の気こそ失っているが、悪くはない。
その上、不可解な点のひとつに、出血にしろ排泄にしろ、全てが停止しているのだ。
おそらくそれらもまた、イノセンスの結晶の働きなのだろう。少女が結晶を纏った時も、傷が治りこそしなかったが、もっと手酷い出血を起こした筈の傷達は、全てが薄い膜に覆われ治り始めていた。
装備型の少女ですらそうなのだ。一体化している寄生型の少年ならば、より顕著な反応が出てもおかしくはない。それ故、昏睡している間に少年の身体に限界が来るという事はなさそうだという事は、唯一の僥倖だ。
「……………あの子らしい結果過ぎて、何も言えないですね」
苦笑し、室長は力なく笑んだ。
何もかもを自身で背負って、誰にも縋らず己一人で乗り越えようとする。まるでそんな少年の生き様に共鳴するように、イノセンスは少年に人の手が触れる事を拒んでいるようだ。
………あるいは、イノセンスこそが少年を独占しようと、しているのか。
思い、非科学的な幻想だと室長は自嘲げに唇を歪めた。
「面目ない。室長殿の懸念を悪い意味で当ててしまった」
「それを言うなら、その可能性の高さを知って尚、あの子に全て託した僕の責任ですよ。あなたが気に病む事はありません」
けれど、決して状況は楽観視出来ない。イノセンスが守っているというのであれば、目が覚めれば危険はないという事だろう。それは少女という前例がある。
…………けれど、昏睡状態の少年に青年が触れると、熱を持つらしい。イノセンスによる防護の結晶ではなく、純粋にその肌が熱を持つ。否、熱を感じるという方が正しいかも知れない。
それは高温という程ではなく、精々がカイロ程度のもので、触れる事が出来ない程ではないらしい。が、人間の体温には限界がある。高温になればタンパク質が凝固し、死に至るのだ。
もしもそれが現実の熱であれば、少年の状態は極めて危険と言える。が、それは、何故か青年が触れると起こる現象らしい。
報告書によれば、老人が触れても何も起こらない。ただ青年は触れたその熱さに驚き老人に詰め寄ったらしい。それが故に発覚した事実だが、今の状況を鑑みれば、青年がその事実にショックを受けない筈はない。
彼が少年の傍に居られない事を宣言した事は、老人から聞いた。
その少年との任務中に、AKUMAと交戦中にも関わらず身勝手な動きをとり、結果、少年が傷を負い今は原因不明の昏睡状態だ。
………そうして、少年の身体は青年を拒むように触れれば熱を教え、拒む。
それが今の青年にとってどれだけ自身を責める要因かを憂い、室長の眉間に深い皺が寄った。
「………ラビは…」
「今はアレンの傍についておる。まるで子供だな」
溜め息とともに即座に言った言葉に、室長は苦笑した。………老人の言葉が、この室内を満たした重く陰湿な空気を払拭させる為に軽やかである事が解るからだ。
老人の憂いは、きっと自分以上に深いだろう。それでもこの老人は、決して人に気付かせぬよう、人を慈しむ。
それが愛おしいと、笑んでいた少年を思い出し、その言葉にむくれたような目をしていた青年を一緒に想起する。
それは室長が見る事を好む、戦場の中の一時の穏やかさだ。
「甲斐甲斐しいと言ってあげて下さい、ブックマン。少し前までの無理をした笑顔よりは、ずっといいですよ」
昔を思い出させる仮面の笑みは、綻び始めた今の青年を知るものには痛ましい。………そんな周囲にすら気付かないからこそ、今の青年に任務を与える事に躊躇っていたのは事実だけれど。
それらを理解している老人は、呆れたような眼差しで今はここにいない弟子を鑑み、緩く短く息を落とした。
「この状況になってやっと、頭が働き始めおった。まったく、鈍臭いにも程がある」
怯えながら、惑いながら、それでもやっと、あの愚かな弟子の瞳に生気が戻った。失うかも知れない危機的状況の中、それでも帰還する事を教えるように存在する呼気が、盲いた隻眼を開かせた。
それは遅かったかも知れないし、無意味に終わるかも知れない。未来は決して望んだ通り穏やかに展開するとは限らない。
………だからこそ、一度たりとも選択のその時に目を逸らしてはいけないのだ。
歪み軋む己の内なるものをこそ従え、そうして乗り越えぬ限り、失う以外の道など開拓されないのだから。
今もまだ状況整理に追いつかない青年は、それでももう、縋る腕を解き放ち眠る少年の傍らでその眼差しが蘇る為に出来る事を模索し始めている。
「しかし…ラビにだけ、反応するというのも、不可解ですね」
「とはいえ、アレンに害はない。熱が出るわけではなく、ラビが熱を感じる、それだけのようだ。おかげでアレンを運ぶ間に、背中のあちらこちらに低温火傷を負いおった。手段を選ばずそのまま背負うなんぞするからだ」
混乱してばかりで冷静さに欠ける対処しか出来なかった弟子への老人の評価に、室長は苦笑する。
………それでも響く音は、立ち直り始め進む道を見据え始めた弟子を支えるものだ。
青年にしか起こらない現象があるならば、そこに打開策も眠るかも知れない。何が原因となっているのか、それを解明出来るのは、少年ともっとも関わり深い青年以外にいない筈だ。
記録者の瞳を持つ青年の貯蔵庫の中、ほんのひと欠片、砂粒程の記録かもしれないそれを選り分け選定する。共有するものが多い分、時間はかかるが、それ以外に取っ掛かりがない。
「……まだ、惑う年頃ですよ。より良き方向に歩めるように導くのが、僕らの役目でもある筈でしょう?」
信じるという言葉は、儚く力ない。けれど、今捧げられるものはそれしかなく、その事実が何とも歯痒いけれど。
それでも、混迷し闇の中を惑う幼い命達の歩みに光を差し出せる、そんな背中を与えていなくてはいけない。それが、せめて彼らより長く生きた自分達の役目だろう。
「やれやれ、老体にはキツいのう」
「そんな矍鑠としていて老体だなんて!僕よりよっぽど若々しいですよ♪」
戯ける声には、戯けて返し、室長は憂いを飲み込み、いつもの笑みで老人を見遣った。
今は教団の機能も著しく低下している。方舟のおかげで機動力は増したが、その他の問題は相変わらず山積みだ。
AKUMAとの戦いよりも人間同士の軋轢の方が余程堪えるなど、人の背負う業を突きつけられるようで苦笑も出来ないけれど。
「仕方ないのう、厄介な弟子の面倒でも見てくるか」
「………はい、よろしくお願いします。アレンくんの事も、出来る限り詳細な経過報告をお願いします」
「解っておる、これはわしらにとっても貴重な記録だ。欠片も見逃さず記載しよう」
記録者の眼差しを翳し、老人の声が朗々と響いた。いついかなる時でも中立に、傍観者である、その声。
それでもその音色が優しいと笑う少年の笑みを思い、室長は腹に力を込めて、まずは目の前の山積みの書類を片付け、少年の様子を見に行く時間を確保しようと、徹夜の記録更新へと挑んだ。
閉ざされた扉が優しく音を響かせ、すぐにでも自身の妹とともに顔を覗かせる少年を思い描き、室長は遣る瀬無く軋みかけた胸を、飲み込む呼気とともに沈めた。
……………どうぞ幸いを。
祈る事の無意味さも知り得ていながら、そう呟かずにはいられない唇が、小さく小さく囁いた。
心臓の激痛に閉ざした目蓋を、唐突に痛みから解放された呆気無さに驚きながら開けた。
そこに広がるのは、もう既に暮れた空と木々の影。………の筈だった。
けれど実際少年が見たものは、洞窟のような高い天井と、見渡した周囲の端、AKUMAらしき影。そして、それから逃げるように走り、自分に近づく赤毛の子供だ。
「お前、走れ!!!」
起き上がった少年に気付き、子供は叫んだ。
少年には状況がまったく解らず、目を瞬かせた。が、それでも取り合えずAKUMAを破壊しなくてはと、左腕のイノセンスを発動しようとした。
けれど、イノセンスは応えなかった。僅かな違和感を教え、イノセンスが蠢こうとしたのは解る。けれど、それは形作る前に霧散した。
まるで以前イノセンスを破壊され、霧と化したイノセンスを発動しようとした時のような、そんな不可解な手応えだ。
まさかイノセンスが再び壊されたのかと、目を丸めて見下ろした先には、大人用の手袋に包まれた左手が見える。同時に、子供の小さな手のひらがそれを掴み、そのまま駆け出した。
「バカっ!惚けてる場合じゃねぇっての!こっち、走れ!全力で!!」
そうして、訳の解らないまま、少年は子供の背中をただ追いかける事を強要された。背後ではAKUMAの蠢く気配がする。が、そこで漸く気付いた。
…………左目が、AKUMAに反応しない。
先程AKUMAを見た筈なのに、そこに内蔵された魂が見えなかった事を思い出す。
ここはどこなのか、この子供は誰なのか。そうして、イノセンスが応えず、左目は機能せず、……何故、自分はこの子供の背を、目の前に見れるのか。
それらを目が回るような感覚の中、ひどく遅く縺れそうな足を必死に動かしながら、組み立てていく。
気付きたくな事実に気付くのは、そう長くはかからなかった。
…………………身体が、小さいのだ。
天井は高いのではなく、自分が小さい。子供が大きいのではなく、同じ程の背丈なのだ。
思い、曲がりくねった道を器用に走り抜ける子供に手を引かれながら、少年は悲鳴じみた叫びをなんとか飲み込んだ。
…………ここがどこか、とか。
自分がどうなったか、とか。
そんな事よりも、何よりも、今目の前を駆ける子供を、少年は知っている。
けれどそれが事実ならば、尚の事この現実が混乱したように思われ、少年は子供が安全と判断したらしい横穴の奥の、更に入り組んだ道の分岐点にしゃがむと、同じように身体を崩すようにしてへたり込んでしまった。
「悪ぃ、全速力だったから、キツかったん?暫くは平気だから、ちょっと休もーな」
顔を覗き込んで心配してくれているらしい子供を、少年は力なく見返す。
赤い髪、右目を覆う黒い眼帯。垂れた左目は鮮やかな緑色で、ぷっくりとした頬は、以前見た科学班の妙な薬の作用を思い出させる曲線だ。
その名を呼びそうになりながら、少年は呼気を飲む。
………もしも彼が少年の知る青年であれば、名を呼ぶ筈だ。こんな風に、声を掛けない。
そうだとすれば、彼はまた違う存在か、あるいは自分を知らないのか。そもそも、ここは一体どこなのか。老人や監査官がいない事も気にかかる。
困惑し、惑う眼差しを周囲に向けた後、隣に座って興味津々に自分を見る子供に顔を向ける。
「君、は………誰?」
問う声に、子供が爆笑してくれれば、いっそいいと思った。そうすれば、自分と同じように青年も何か変な薬をまた被って、そうして小さくなったと、そう思える。
けれど、キョトンとした子供の顔は、ただ納得したように頷いただけだった。
ここはどこか。君は誰か。………自分は、どうなったのか。
…………何一つ解らないまま、けれど暗い洞窟の中である事を感謝してしまう程、少年は自身の表情が情けない事が解って、俯いた。
前 次
ようやく……ようやく話が中核まできましたよー!(涙)
なんでここまで来るのに6話もかかったんだとか、自分でも思いますよ。ああもう、全部ラビのせい!(笑)←なすり付けた!
このあと暫くは最後に出てきた子供とのお話しになります。
はてさて、あとどれくらいで書き終われるかなぁ(笑)
10.11.7